早春の浜松の旅その3、天竜浜名湖鉄道沿線、東海の名城掛川城

日常の見沼田んぼの自然の散策では、雲や風、林や小川、傍らに咲く草花や飛び交うさまざまに鳥たちに詩情は感じる場合はありますが、旅情は感じることはできません。
詩情と旅情は同じような感覚ですが、やはり旅情は日々繰り替えす日常を離れた旅先で詩情を感じることなのでしょう。

「旅情」といえば、昔の映画好きな人たちにとって50年代のキャサリン・ヘップパーンの「旅情」を思い出すことでしょう。私は当時中学生で3本立ての映画の中で、一緒に上映したため仕方なく観た記憶がありますが、中学生の感覚では中年に差し掛かった可愛げのない美人女優のキャサリーン・ヘップパーンのベニスでの恋愛映画を理解できるはずがなく、目の前から早く時間が流れてしまうことを願った映画でした。

しかし映画好きの中学生の私は、洋画の女優に興味が無かったわけでなく、小学生高学年の頃からフランス女優のフランソワーズ・アルヌールやハリウッド女優のキム・ノヴァックの密かなファンで、3本立の映画にかこつけて彼女たちの出演作はほぼ全作を見ていました。「旅情」が楽しくなかったのは、キャサリーン・ヘッパーンが余りにも知的過ぎて好みで無かったこともありました。しかしハンフリーボガードと共演した「アフリカの女王」は、英国冒険小説のフォレスターの愛読者だったため、大人になって夢中で見て彼女の良さが理解できました。

邦題のタイトル「旅情」の重みは強烈で、若い時は「旅情」の言葉が頭に浮かぶと直ぐに映画「旅情」のタイトルが浮かんで来て、「もろさ」や「はかなさ」が漂う日本の旅情を感じる風景はいつも邪魔されてきました。

大人になるとさすが古の映画の邦題は遠くなり、日本的な情緒あふれる旅情を楽しむことができるようになりました。

さて初めて旅する天竜浜名湖鉄道は、東北や山陰の風光明媚な旅情と比べると、風光明媚さには程遠い風景が続きますが、人の暮らしの匂いが立ち込める極めて日本的な「旅情」あふれる沿線でした。

浜松遠州鉄道の改札口

昨夜は浜松駅前の鰻屋で、鰻の肝や骨を肴に地酒花の舞をしこたま飲み、最後は鰻の重を食べ金額は張りましたが大満足しました。彼らはいくらでも飲みます。
浜松駅から遠州鉄道で西鹿島まで行き、そこで豊橋から走る天竜浜名湖鉄道に乗り換え掛川に向かいます。

通勤時間帯のため、遠州鉄道から多くの勤め人が続々と降りて来て浜松駅から降りて行きます。この遠州鉄道から続々と降りてくる大勢の通勤客や通学客を見ると、政令指定都市浜松は活気ある大都会のようです。遠州鉄道は浜松と西鹿島との短い距離を往復するだけで完全な黒字路線のようですが、軽便鉄道は1960年まで、昨日行った奥山まで運航していましたが、赤字のため廃線になりました。現在の遠州鉄道はこの路線だけで、この地域、遠州バスが網の目のように走っています。

遠州鉄道終点西鹿島駅

浜松発の西鹿島行の下り路線はガラガラで完全な片道路線ですが、夕方になるとまた帰りで満員になるのでしょう。

終点の西鹿島に着きましたが、天竜浜名湖鉄道は駅構内のホームで乗り換えれば6分後に連結しましたが、天竜浜名湖鉄道の駅は別な場所にあると思い、間違えて駅から出てしまいました。その間掛川行の列車は行ってしまい、次の掛川行は1時間40分後であると分かりました。

西鹿島駅は秋葉神社に行くターミナル駅ですか、駅前に時間つぶしのカフェや食堂でもあるかと探しましたが、イートインスペースの無いファミリーマートがあるだけで、そこで聴くと、隣の天竜二股駅に行けば店があり、時間がつぶせるためタクシーで向かうことにしました。

この乗り換えを間違えたことで、予定しなかった天竜二俣の街を訪れることができましたが、代わりに時間切れで静岡に寄ることはできませんでした。

浜松から掛川まで新幹線で行けばよいことを、遠州鉄道でわざわざ西鹿島に行き天竜浜名湖線に乗った意味は、ローカル鉄道の車窓を楽しむことでしたが、乗り換えを間違えたお陰で天竜二俣の街と出会うことができたのです。

タクシーに乗ろうとしたら直ぐにコミュニュティバスが到着し、隣駅近くまで行くとの事でそれに乗り込みました。

天竜二俣の街

この地図は学研、戦国の戦い関東東海編から転載させていただきました。
天竜二俣には確か信玄が上洛の際、信濃から天竜川沿いの秋葉街道を南下した際、家康から最初に奪った二俣城の記憶がありました。

旅すると地図で最初に眼に入るのが戦国時代の城址です。多くは山城で、時間が無いためそこを訪れることはありませんが、城の存在を見てその地の概念を把握することが多いのです。

初めて訪れた遠江の要の城は、家康の本拠浜松城、今川没落後家康の家臣となった小笠原長忠が守る難攻不落の高天神城、そして室町以来の今川氏の城で、今川没落後、家康が奪い取った二俣城、そして同じく今川氏没落後家康が攻め取った掛川城でした。

今川氏の滅亡後、真の遠江の攻防が始まりました。家康は今川亡きあと戦力空白地の遠江に侵攻し、今川氏の諸城であった高天神城、掛川城、二俣城を奪い遠江平定を済まし三河から浜松に拠点を移したのです。しかし遠江国は簡単に家康のものにはなりませんでした。

それまで小田原北条氏、上杉氏と関東争奪の攻防を繰り広げていた信玄は、同盟関係にあった今川氏が桶狭間で戦死すると、戦力の空白が生じた駿河に侵入し東駿河で小田原北条氏と血みどろの戦いを繰り広げました。ようやく小田原北条氏との東駿河の戦いを一段落させて、家康が平定した遠江に侵攻しました。そして手始めに難攻不落の要害高天神城を攻めましたが、容易に落城しなかったため城の監視を命じて一時甲府に引き揚げ、今度は再度家康の本拠の三河を突くため15、000の大軍で、伊那谷から伊奈街道を南下し、足助城、野田城を攻略し吉田城(豊橋城)へ迫り本格的な上洛作戦のための小手調べを行いました。

この間信玄は、小田原北条氏と同盟を結び駿河での今川氏の処分を行いました。この甲相同盟によって関東独立王国を狙う北条氏と関東管領の名誉を貴ぶ謙信の間で、関東の争奪戦が本格化して行きました。一方後顧の憂いが無くなった信玄は、浅井、朝倉氏を滅ぼし比叡山を焼き討ちした信長に怒り、上洛を決心し、遠江、三河を攻略しながら行動を起こしました。

信玄の上洛軍は、前回の小手調べの際の三州街道ではなく、遠江を直接突く秋葉街道を天竜川沿いに進軍し、平野への出口の要害二俣城を落とし、地図上の自衛隊浜松基地のある三方ヶ原に南下し、家康の浜松城を無視して西に進みました。この信玄の行動に対して家康が城を出て追撃するや、引き返して有名な三方ヶ原で激突しましたが、家康軍は大敗し部下を置き去りにして浜松城に逃げ帰りました。一方別動隊は飯田から三州街道を南下し岩村城、野田城を攻略しました。難攻不落で前回攻城を中断していた高天神城は駿河からの勝頼軍により落城しました。

三方ヶ原で家康を完璧に破った武田軍は、上洛行動はせず、上の地図で細江町付近で動かず10日滞在し、井伊谷一帯を焼き払った後、奥三河から飯田を経て甲府に撤退しました。この時信玄は飯田手前の阿智で病没したといわれています。

バスは西鹿島駅から直ぐに広大な天竜川を渡りました。天竜川は諏訪湖から流れる大河で、諏訪湖から飯田まで伊那谷を流れ、飯田近郊から秋葉街道沿いに険しい山間を流れ、平野に出て直ぐ二俣川と合流する場所が天竜二股です。秋葉街道は伊那谷の三州街道とは別に、甲州道茅野から杖突峠、高遠、大鹿、遠山、秋葉と甲州から1直線に下る街道で、甲州への塩の道として縄文時代から使われてきた古道です。

秋葉街道は信玄の南信統治の拠点の飯田城と高遠城の連絡ルートであり、秋葉神社信仰との街道として中世から往来が盛んでした。信玄は西進作戦では、青崩峠を越えて遠江に侵攻し、その最初にこの天竜二俣にある二俣城を攻略したのです。

室町時代、駿河、遠江守護は足利一門の今川氏がでしたが、同じ一門の斯波氏が遠江守護になったため、今川氏が遠江を実力で奪い返そうと遠江の北の拠点に二俣城を築いた以来の城で、秋葉街道の平野での出口で遠江を伺う戦略的な拠点でした。

太平洋岸と内陸の信濃国、甲斐国を結ぶ塩の道は、塩尻から伊那谷を通リ飯田から三河国岡崎で中山道と出会う三州街道と、茅野、杖突峠、高遠、大鹿、遠山から天竜川沿いに天竜二股に出て平野で東海道道と合流する秋葉街道の2大街道があります。現在では美濃から飯田経由伊那谷から諏訪に出る中央道が主流で、三州街道も古道になり秋葉街道はツーリング道になってしまいました。

天竜二俣は秋葉街道の入り口で、東海一円に名を轟かす秋葉神社参道の入り口である西鹿島に近く、天竜川を筏で流す木材の集積地で市場でした。ここから木材を軽便鉄道がしかれ遠州鉄道や浜名湖鉄道もその名残です。浜松のヤマハやカワイ、ガーランドのピアノ産業は天竜川の木材の集積地近くのため始まりました。
また木材と共に繭の集積地であり、天竜二俣は多くの商人たちが集いかっては商人宿が軒を連ねた遠江内陸の拠点でした。


天竜二俣の街は昭和の雰囲気が未だ宿している街でした。私の20~40代は東京都心を除いて、このような街並みが普通でした。日本の街並みの風景が最初に変わったのは、私が20代の時、建具がアルミサッシに変わったからでした。

昔なつかしいお医者さんです。バリヤフリーの設備はつけていますが完全な戦前の昭和の医院です。地方都市に行くとこのようなコロニアル風のお医者さんをよく見かけます。昨秋の松江にも九州の飫肥や北関東の栃木市でも見かけました。

二俣の街で本屋さんを見つけました。
旅に出て見知らぬ街に行くと必ず本屋さんを探します。街のメイン通りに本屋さんがあったら良い街で、2軒以上ある街はベストな街です。学生時代浦和の街には3軒の本屋さんがありました。上田は2軒、栃木市にも2軒見つけました。
この書店は天竜二俣のたった1軒の本屋さんで、本屋さんがあっただけでもうれしくて思わず飛び込んでしまいました。
昨年晩秋、伯備線の岡山県の高梁市の駅構内に蔦屋と市立図書館が併設した新しい書店に出会いました。こういうことは珍しいことで、街の本屋さんの数は20年間で半分になってしまいました。

本屋さんの減少に伴い、本を読まない人も大幅に増え、日本の国全体で知的劣化が進行していると言われています。
伝達形態も長い言葉は敬遠され言葉もスゴッ!、ハヤッ!とワンフレーズになっています。複雑な問題の解決は後回しにしてワンイッシュー、すなわち解決しやすいことから手を付けることが、ヤッタ感がありもてはやされます。こういう現象は深く考えたり組み立てたりすることを厭う傾向にあり、コスパなど何よりも効率が重んぜられる時代です。こういう傾向はやがては自分たちがコスパの概念によって効率優先組織から排除されるリスクも含んでいます。

店主の方に撮影の許可を得て写真を撮らせていただきました。店主の方は集英社文庫のエプロンを着けていました。数年前に亡くなった山の会同期の集英社販売トップの小島兄に話したら喜ぶだろうと思いました。子供の雑誌もきちんと品揃えされ子供たちは多分毎月楽しみに来て購入するのかなと想います。

私が子供の頃は浦和市内にも何店も書店があり、紐で開けられないように縛った10大付録の雑誌少年など月刊誌の発売日を心待ちにしていました。あの時代の少年雑誌の漫画は私の心をどれぐらい豊かにしてくれたか計り知れません。
ある時、息子の友達のお母さんが学校が終わり子供がまだ帰宅しない頃、私の息子が自転車に乗って猛スピードで窓の外を走って行き、どこに行ったのかなと家内に聴いたので、家内はコロコロコミックの発売日だったので、帰宅してランドセルを放り投げて近くの小さな書店に行ったのだと話したそうです。家内からそれを聞いて息子も私と同じようなことをやっているのだなと知りました。

書店の子供向けの雑誌を眺めていると、今でも発売日を楽しみに書店に駆け込んでくる子供たちは大勢いるのだなと、なぜかうれしくなりました。またNHKのテキストも毎月楽しみに買いに来られる方もいるのだなと思い、大都会から離れた地域に住む人たちの独書生活が垣間見られるようです。

本屋さんに寄った記念で、店頭のワゴンにあった丸山真男、加藤周一の「翻訳と日本の近代」を購入しました。本棚の背表紙が目に入る度に天竜二俣の本屋さんを思い出すでしょう。

ここはシャッター通りでなく、商店を止めたお宅が入り口をリフォームした姿です。

二俣川が合流します。

天竜浜名湖線・天竜二俣駅

天竜二俣駅に着きました。約1時間40分は消費して、間もなく掛川行の列車がやってきます。昼の間は1時間40分間隔があるという事です。この駅はシン・エバンゲリオンのアニメに登場した駅で、アニメフアンの聖地になっているそうです。聖地と言えば、以前高校のクラスメイトが大宮から鎌倉高校の傍に引っ越しましたが、直ぐ近くので海の見える踏切が、スラムダンクの聖地で行く度にたくさんの中国のカップルが群がっていました。

聖地だけあってなかなか雰囲気のある駅です。

天竜浜名湖線は一両で運行していますが豊橋から掛川まで長い距離の運航で大変だとおもいますが、この駅の雰囲気を見るとなんだか楽しそうに運行しています。

駅構内はホームが複数ありかっては大規模に運行していたのでしょう。

パンフの住所を見るとこの天竜二俣駅が本社を兼ねているようです。

向こうに見える転車台のツアーを毎日1回行っているようです。また鉄道歴史館もあるそうです。これらは帰宅してからパンフで知りました。

今回この遠州鉄道から西鹿島は、調べてみたらあの有名な秋葉神社が近くにあることが判りましたが、バス便が悪くタクシーでは12000円かかることがわかりました。
天竜川の奥には秋葉神社があり、今はロハスで名高い遠山郷があり、その奥には学生時代冬山と春山の南アルプス全山縦走のサポートで入った三伏峠や荒川岳下の高山裏、塩見岳への根拠地の大鹿村の鹿塩集落があり、そのまま秋葉街道を北上すれば、甲斐駒、仙丈の北沢峠の麓、高遠に出ます。
そんな秋葉神社に9月に訪れることに決めました。そんなことでこの天竜二俣には秋に再び訪れるかも知れません。

天竜浜名湖線の車窓の風景を楽しみにしていましたが、雨のため冴えませんでした。

天竜浜名湖線に乗り終点の掛川駅に着きました。

JR掛川駅

JRの掛川駅は新幹線、東海道線の駅のため外観は抑えていますが中は普通の新幹線の駅です。

日本100名城・掛川城

駅前の大道りを辿ると直ぐに掛川城が現れました。左側が天守で右側は二層の太鼓櫓です。


(財)日本城郭協会が100名城を定めています。日本100名山は深田久弥が大昔自身で定めた100名山ですが、昔からの山岳愛好家の間では定めたそ基準が曖昧で恣意的過ぎて多くの異論があります。それに反してこの日本100名城には異議を挟む人はほとんどいないでしょう。

掛川城はその厳選された名誉ある日本100名城の1つです。

100名城のリストを眺めると、北海道、東北地方、関東地方は2~3の特殊な城を除いてほとんど全て、西日本では沖縄を除けば九州はほとんど全て、中国地方もここ1~2年で一部を除いて大半の城は訪れています。しかし城郭の多い四国はゼロ、の近畿や東海は少なく、合計すると60城ぐらいです。

神社仏閣は数えてみると訪れた所は200近くなり圧倒的に畿内が多いですが、城郭や古戦場の訪問結果を振り返ると、意識して来なかったけれど、私の戦国の歴史の興味は九州と東日本が多く、信長、秀吉がからんだ四国や家康の近畿や東海の城郭は他地域に比べると少ないです。

その意味では今回の遠江の旅は画期的でした。

掛川城の天守は写真で見る高知城にそっくりです。それもそのはず、秀吉が天下平定し家康を関東に移封し、その後に秀吉の家臣たちを移封させました。掛川城は織田家以来の家臣で秀吉の家臣になった山内一豊が入場し、その際この天守を作りました。関ヶ原の戦い前夜の小山評定の際、連なる豊臣臣従の武将の中で真っ先に家康への臣従を発した褒章で、関ヶ原の戦い後、長曾我部氏が領有した土佐9万石を与えられ、掛川城の経験を元に高知城を建築しました。

天守におられたガイドの方にお聞きしたらこの桜は掛川桜とのことでした。まだ早春なのに堀沿いに見事な花を咲かせています。この深い堀の逆川が本城と侍屋敷を隔てており、掛川城の主要な守りとなっています。

掛川市掛川三城パンフより



掛川城は元は東に500m離れた位置にあり、戦国時代駿河国守護の今川氏が遠江国支配の拠点として、重臣朝比奈氏に命じて掛川古城を築いたことが始まりです。その後この古城では手狭になり16世紀初頭に現在の地に新たに築かれました。

永禄3年(1560)に上洛途上の今川義元が桶狭間で信長に討たれると、甲斐の武田信玄が駿河に侵入したため、義元の子、氏真は駿河から逃げて掛川城に立てこもりました。今川義元の死によって人質の暮らしから解放された家康は、三河勢を引き連れ氏真が籠る掛川城を攻めましたが、半年間落城せず和議によって開場させ重臣の石川家成を入城させ、武田氏に対する防御の拠点となりました。
掛川城はそれほど堅固ではない平城ですが、この攻城に半年も要して落城もできなかったことは、家康は戦が下手だったような気がしてきます。

掛川市の観光課では掛川城、高天神城、横須賀城の3つを掛川3城として、セットで紹介しています。
掛川の地は東海道の中間に位置し、東西の戦略上の要衝です。掛川城は今川氏の遠江統治のために重臣朝比奈氏が築城した城でどちらかといえば行政上の役所であり、実際の軍事上の拠点である砦は、堅固な山城の高天神城に築かれました。もう一つの横須賀城は武田勝頼に奪われた高天神城を奪取するための前進基地として築城されたものです。

掛川市掛川三城パンフより



信玄の上洛の際、駿河から勝頼は遠江に侵攻しましたが、掛川城では戦が起こらず、高天神城を抑えずして遠江を制したことにならないといわれ、今川氏の重臣だった小笠原長忠が2000の軍勢で守る城に、武田勝頼は20、000の軍勢で攻略しました。勝頼は掛川城は無視して本当の戦略上の拠点である高天神城のみを攻略したのです。


その後、信玄の死によって上洛作戦は中止になり、信玄を引き継いだ勝頼は、長篠の戦いで織田、徳川連合軍に敗れ、三河や美濃から撤退しものの遠江では、家康とにらみ合いを続けていました。
家康は遠江で、武田軍に取られた諏訪原城と二俣城の奪還を開始、諏訪原城は陥落しましたが、二股城は6ヶ月間持ちこたえましたが水を絶たれ落城しました。武田軍の城兵たちは高天神城に逃げて、次の戦いに備えました。ここでも家康は戦が不得意なのだなと感じます。

家康は勝頼に奪われた高天神城攻略のために、入念な準備を行い、まず前進基地の蜂須賀城を築き、そして高天神城の周囲に6個の砦まで築き、完璧な攻城体制を敷きました。
高天神城には元今川氏家臣岡部氏真以下たった1000名だけが守る城に、家康や本多、酒井、榊原、鳥居氏などほとんど家康の全軍の11、000名で包囲しました。包囲は1間に兵1人の基準でアリもはい出る空きはありません。武田軍は武田勝頼の援軍を待ちながら包囲されること3か月、糧秣が尽きて3月22日の夜半に岡部氏真以下全員が城を出て突撃し全滅しました。信玄や勝頼は敗軍の諸将にはなさけ深い行動をとりましたが、家康は生き残った城将全てを切腹させました。

高天神城を救援しなかった勝頼に対して、武田軍内に勝頼に対する不満が蔓延し、勝頼から離反する動きは始まりました。武田家重鎮穴山梅雪の家康への接近もこの頃からでした。

掛川の城下町は、浜松から天竜川を越えて東に進み、隣は磐田の街です。磐田は旧遠江国の国府が置かれた場所で、東に進むと袋井の街で、袋井の隣町が掛川です。
浜松、磐田、袋井、掛川、と東海道の53次の宿場町が続き掛川の隣は西行の小夜の中山の峠で有名な日坂、そして大井川の渡しで名高い金谷宿です。

この辺りの東海道は海岸線を辿っているわけでなく、海岸から山地を隔てた内陸の川沿いの盆地が連続する平地を走っています。多分律令時代以来の官道の大道の東海道は、海岸は葦が生茂る湿地帯のため通行できなかったのでしょう。

掛川城は掛川宿の中心に築かれ、旧東海道を渡り南面を防御する逆川を渡った畔の丘の上に聳えています。城の北側は緩やかな丘陵地が連なり、逆川を渡った南側も海岸まで緩やかな丘陵地が連なり、その丘陵地のど真ん中に高天神城が聳えています。従って城下町掛川は浜松や磐田のように広い平野に位置していないため、街としては広がりませんでしたが、逆に盆地の隘路のため高天神城のような難攻不落の山城が、防御の要として重要だったのです。

掛川城は平地の丘にそびえるのんびりとした穏やかな城ですが、戦国時代、掛川城が維持されてきた背後には、血みどろな高天神城の攻防戦があったのです。

平野の名城は、天守が近づいてその全貌が見え隠れする地点に来た時が、一番期待でワクワクします。いったいどのような構造の城なのだろうか?期待でときめきさえ覚えます。
城の天守と似ている存在は大学を象徴する講堂の姿です。安田講堂が無かったら東大ではなく、大隈講堂が無かったら早稲田ではなくなります。明治は校歌で詠われた駿河台の行動がビルになり残念です。慶応はかろうじて赤レンガの旧図書館がその役割を果たしています。



よく整備された美しい道をに向かいます。

掛川城パンフより

城跡はどこでも同じですが、当時の三の丸や侍屋敷の大半は市街地になっていて、城址として残っているのはかっての一部です。
図は正保元年(1644)に家康が諸大名に城絵図の提出を求めましたが、この図はその時幕府に提出した城閣図です。天守丸と本丸の周囲を三日月堀、十露盤堀、松尾池が囲み、堀の外側に二の丸、三の丸の郭が配置されています。これら堀の外側に家臣団の屋敷が配置され、その外側に先ほど渡って来た逆川が流れています。

一つ上の画像は上図の赤紫の地点で、そのすぐ先の左手にある門から階段を上り、本丸にでます。最初の画像の天守と並ぶ櫓は本丸櫓で、本丸に上がると直ぐ左手に聳えています。

美しい薬医門です。薬医門は小型ですが建物に格調を与えます。

本丸に築かれた二層の太鼓櫓です。遠くから望むと天守に拮抗していますが、近寄ると小さいです。工事中で拝観できませんが、この二重櫓は防御の見張りや本丸の防御のために強力な役目を果たします。山内一豊の苦心の作なのでしょう。

天正18年(1590)小田原北条氏を滅亡させ天下を平定した秀吉は、家康を関東に移封し掛川城には、織田家以来の秀吉の家臣山内一豊を配しました。一豊は掛川城を普請し初めて天守を築きました。未だ戦国の世の真っ最中で、当時の倣いにて大型の天守ではありませんが、外観三層、内部四層で東西に張り出しを設け大きな天守に見せています。

山内一豊は、関ヶ原後土佐藩主となり、長曾我部の生き残りの家臣を城下から田舎に追い出し、新田開発の郷士にさせました。土佐藩では一豊の家臣団である上士と郷士の間の密かな対立が続き、幕末、郷士の中から竜馬に代表された土佐勤王党を生み志士として活動しました。幕末の藩主山内容堂は名君で無いのに歴史に名を残し、明治維新後薩長土佐と言われた勢力を築いたのも土佐勤王党のお陰と想います。

江戸時代、掛川城は天保絵図のように東西1,400m、南北600mの堂々たる敷地で、東海の名城とうたわれ譜代大名の任地となりました。
しかし嘉永7年(1854)の安政の東海大地震により天守など大半が損傷し、再建されることなく明治維新となり廃城となりました。

しかし掛川市民たちの浄財を元に平成6年に140年ぶりに本格的な木造建築で再建されました。

破風は寺社建築の伝統である唐様でいかつい天守に優美さをもたらしています。また中心の窓も鎌倉時代以降の禅宗寺院の窓の様式を使用しています。

天守丸の入り口の冠木門です。この簡素な冠木門と小型の天守とのバランスが抜群で、一般的に大きければ立派であるという感覚に反しているがゆえに、東海の名城の誉れが高いのでしょう。通好みの城郭です。

冠木門から城下を望みます。この情景が一服の絵を見るようです。

厳選された良質の木材を使用した天守内部です。

天守から見下ろす掛川城御殿です。東の方向です。

天守から南の逆川の桜並木を見下ろします。本丸の太鼓櫓が引く気見えます。

天守から掛川駅方面を望みます。後方奥は海岸までは山地で、高天神城は彼方にあります。

天守はどこでも階段は急です。丸岡城の階段の怖さは、ボランティアのガイドの方も良く知っていました。さすがボランティアのひとは城郭マニアです。

掛川城の階段も急ですが、手すりが良くできているため、女性の方でも恐怖なく上下できます。

江戸時代は手すりは無く、袴で上下した武士たちの何人かは墜落したのでしょう。この傾斜と長さで墜落したら骨折程度では済まなかったかも知れません。

二条城御殿と共に現存する城郭御殿としては4カ所しかありません。たしか川越喜多院も城郭御殿だったような気がします。名古屋城の本丸御殿は復元でしょうか。城郭御殿は藩主の生活や政務が行われていました。

これぞ本物の御殿造りの玄関です。

掛川宿・旧東海道

掛川の街をそぞろ歩いて、途中で蕎麦屋で遅い昼食を採り、駅に向かいます。ここは多分旧東海道です。
掛川から新幹線で帰途に就きました。

今まで家康が嫌いで三河や遠江に足を踏み入れませんでしたが、やはり家康が世に出るきっかけとなった地のため、どこに行っても家康の影がちらつきました。
しかし家康が遠江で世に出るきっかけとなったのは、信玄と勝頼との戦いで、武田家自身の内部要因で武田氏が滅亡したため、遠江は家康の運を引き寄せた僥倖の地であると感じました。今考えると昨年の不評だった大河ドラマを見ておけばよかったなと思いました。

遠江紀行を記しながら、当然武田氏との抗争が主となります。家康の戦記に触れることは信玄の末期と勝頼に触れなくてはならず、結局遠江紀行は家康、井伊紀行でなく武田氏紀行に終わったような気がします。

詳しくないですが改めて家康を考えてみると、信長、秀吉に比べると家康は戦が下手で、家康が戦った相手は滅亡寸前の今川氏と武田氏以外にはありませんでした。ただ家康は自身が戦下手を良く知っており、外交とか権威ずけに異常に神経を払ってきたように想います。家康家臣で唯一名家の井伊氏を、武田滅亡後、北条氏との武田領地分割交渉に派遣し、名門武田の家臣団を井伊家に預け、その赤備えの家臣団を活用し秀吉との小牧長久手で負けず、関ヶ原で先鋒を務めさせたのも、家康の苦労して得た知恵を活用したに違いありません。

信長は武田氏が滅亡したから天下をとれたので、その最大の功労者は家康でした。秀吉は信長の家臣であり家康は信長の同盟者でした。家康は秀吉に臣従したくはありませんが、秀吉の名家など無関係で自ら名家になろうとする正直さと、戦の強さには、到底かなわず、秀吉の死をじっと待っていたのでしょう。家康は戦いの無い国を望んだと言われていますが、戦いが続いたら戦下手な家康は必ず滅ぶことを知っていました。幕府を開設して大船建造を禁止し鎖国したのは、半島遠征で名古屋城で西国大名の水軍を目の当たりにしてことが要因と想います。家康は島津や毛利のように水軍を持っていませんでした。

信濃国の小県、北信、中信、諏訪地方、塩尻、木曽地方、高遠南信地方、上野国、相模国奥を旅していると、目的以外にいつも信玄の影が登場してきます。今回も浜松では三方ヶ原、井伊谷、そして天竜二俣に行ったら信玄の上洛ルートに当たり、掛川に行ったら高天神城の壮絶な攻防戦があり、武田氏抜きにして紀行は書けません。

戦国武将の中で信玄と謙信は大好きな武将のため、少し時間ができたら触れるつもりの全く無かった地で、いきなり信玄が登場してきた旅についてピックアップしてみたいと想います。