見沼の自然、桜回廊西縁・市立病院から新都心往復

見沼桜回廊の西縁の核心部はJR武蔵野線東浦和駅から徒歩5分からと、JR京浜東北線、上野東京ラインさいたま新都心駅から徒歩15分から始まります。都心から30~40分以内のJR駅から徒歩で行ける、見沼たんぼの桜回廊のような自然豊かな場所は皆無です。

これも首都近郊の広大な緑地を確保し東京北部や埼玉県南部の洪水対策を始めとする治水や自然環境を守るための見沼三原則の開発規制の賜物です。

前日4月7日(日)、市立病院から東浦和へと桜回廊を南下し辿りましたが、翌4月8日(月)は家内が中学の友人たちと浅草で会うため出かけたので、この日は1人で市立病院からさいたま新都心へ桜回廊を北上しました。

実は、昔見沼用水の土手を西高付近まで辿ったことはありますが、桜の季節、新都心方面にまで行くのは初めてでした。なぜなら桜回廊の南下は氷川女体神社があるために目標が立てやすい反面、新都心方面は目立った目標が無かったことも、脚を遠ざけていた要因でした。

距離は市立病院から新都心駅入り口まで約4,5㎞ですが、新都心入り口から少し先にまで行ったこともあり、往復約10kmの行程でした。途中トイレが1カ所設置されています。この日はあまり面白くなかったら途中引き返そうと軽い気持ちで出かけたため、小銭入れを忘れてしまい、気温も上がったにも関わらず自動販売機を横目で見ながら歩きました。

今年は開花までが長くかかり、回廊の場所によっては開花状態が異なっていたため、前日満を持して満開の回廊を楽しもうと出かけたのに、去年に比べてなぜか満足感が不足していました。


しかし本日、この桜を見た瞬間から胸がドキドキして来たのです。この朝が満開で前日は満開で無かったのです。桜が発する満開のパワーが鼓動となって押し寄せ、昨日桜に飽きたと感じた心に強烈なパンチを食らわせられました。

一年に一度、桜が持てる全てのパワーを発する瞬間がこの時だったのです。


民俗学者和歌森太郎氏の「花と日本人」と哲学者山田宗睦氏の「花の文化史」は、花に関する日本古来の概念を知る上で一番確かな書籍です。

花の概念の歴史は、民俗学的な研究と花に関する豊富な古書や歌書の知識が必要で、しかも花の美学ですから美学上の感性が必要なため、植物が専門だからと言って自然科学の植物学者が手に負える事項ではありません。

2人の著書では、桜の語源について民俗学上の説を紹介しています。

桜は「さく・ら」「さ・くら」と読み方が分かれ、「さ」はさなえ(早苗)、さおとめ(早乙女、早苗を扱う乙女)、さつき(五月、早苗を扱う時期)と使われ稲の霊魂(穀霊)の意味を表し、「くら」はかみくら(神座)、いわくら(岩座)などの、(より集まっている)(集まりこもっている)を表します。


民俗学上「さ・くら」の花の意味は「稲の霊魂が集まりこもっている花」の意になります。古来桜の花が稲の霊魂がこもっていると想われていたため、春、桜の咲き方でその年の豊凶を占っていたとされています。

稲の霊魂というと何かおどろおどろしいスピリチュアル的な表現ですが稲の精霊とでも言い変えも可能です。

まだ卯の花の季節でありませんが、私が大好きな唱歌の一つに「夏は来ぬ」があります。
明治29年小山作之助作曲、佐々木信綱作詞で作られた唱歌「夏は来ぬ」は、歌人佐々木信綱の文語調の美しい詩の名曲ですが、歌詞の2番と5番に早苗、早乙女、五月が登場します。

1、卯の花の匂う垣根に ホトトギス早も来鳴きて 忍び音もらす夏は来ぬ

  
2、さみだれのそそぐ山田に 早乙女が裳裾濡らして 玉苗植うる夏は来ぬ


5、五月闇蛍飛び交い 水鶏泣き卯の花咲きて 早苗植え渡たす夏は来ぬ

五月(さつき)に苗代で育てた玉苗を、稲の豊作を願いながら乙女たちが水田に移植する様子を詠っています。

かっては田植えは家の若い娘が植える習慣がありました。神聖な苗を植えるには一家での一番の神聖な少女たちが巫女の役割を果たしながら植えたのでしょう。

それほど農家にとって、或いは藩にとって、或いは国家にとって田植えは一年の収入を左右する神聖な行事だったのでしょう。ですから稲苗やそれを植え込む乙女に稲の精霊を表す「さ」をつけて早苗、早乙女、五月(さつき)と呼んだのでしょう。

「さくら」の語源が、稲の精霊を表す「さ」と岩座などの集まりこもっていることを表す「くら」から成り立っているとしたら、桜は、私たち祖先が日本列島で水田耕作を始めた頃から、稲の豊作を願う特別な花だったに違いありません。

桜の花はただ美しいだけで、今でも桜の開花日がいつかを期待する国民的行事になっているのは、長い間、私たちに桜を尊ぶのDNAが刻まれているのでしょう。

民俗学者和歌森太郎氏によればお花見の起源は、山見と云って水田の近くの水源の小山の頂上に咲く桜の樹々の下に集まり、豊作を願ったことから始まったと述べています。やがてその集いが恒久化し歌垣となったと言われています。平地での歌垣は海石榴市でした。


奈良時代我が国に梅や桃が中国から導入される以前、樹が全て花で覆われる花木はそんなに多くはありませんでした。

我が国原産の椿は花が多い方の花木で、古代は椿の繁る地で市が行われていたと言われています。奈良の三輪山付近の海石榴市はその名残です。

山桜は日本の固有種で西日本を中心に各地に分布していました。吉野の桜は山桜です。東北地方では稲の豊作を占う花木は辛夷が使われてきました。

初めてその地方に旅に行った際、その地の歴史を知るために、古代からの有名な神社は必ず参拝しますが、古代からの神社の背後の山の頂上には必ず奥宮があります。三輪山のように奥宮が無く、山そのものが御神体という例もありますが。

また神社が山中から離れた平野にあっても、その近くの水源の山には必ず古い社があります。

1昨年訪れた栃木の大平山などは分かりやすいです。また昨年訪れた岡山吉備の吉備津彦神社や、奈良街道の龍田神社、葛城・鴨氏のルーツの高鴨神社など、多分水田の水源の山に祀られた神社は、多分弥生時代、山見が行われていたと想像可能な神社と想います。

これら古い社が、多分2500年前の弥生時代から山見が行われ、稲の豊作を願って歌垣などの祭りを行った古社中の古社ではと勝手に想像しています。

現代では、一般的には水田は河川の河口近くの広い平野に位置していますが、これら河口のデルタ地帯の水田は、江戸時代川が氾濫しないように工事を行い、沼沢地を新たに干拓した新田です。しかし平安時代や鎌倉時代ごろまでの水田は、山が平野と交わる扇状地が主でした。扇状地は水源の山の小さな沢水を集めて灌漑水路をつくり傾斜を利用して必要な水を供給可能で、狭くて急な斜面は棚田になります。

また平野でも、河川の屈曲を利用したり沼沢地を干拓して平野に水田をつくることは、古墳時代から行われていました。古墳時代の古墳は、現地の王が大規模に住民を動員して灌漑用のため池づくりの目的で行ったように想います。

水資源が豊富で気候が温暖な我が国では食料自給に困らず、住民を奴隷のように酷使すると住民は皆逃亡してしまうでしょう。水が乏しく食料自給が困難な大陸と異なり、王の権力と威信だけでは人は動きません。


もっと勝手な想像では古墳の円墳の頂上は、山見を行うために人為的に作った山とも言えるのではないでしょうか。

我が国は6000年前の温暖化の縄文海進期には、現在より海抜が4~6mほど高く現在の海岸線は海に覆われていました。

そして徐々に寒冷期を迎え3000年前頃から海退期を迎え、現在の海岸線が徐々に湿地帯として現れ、山地と平野が交わる河川の上流や中流に良好な扇状地が出現しました。

稲作が伝来したのは、紀元前10世紀に最初の痕跡が発見されましたが、約2500年前頃から、僅かな縄文人が狩猟採掘の生活を送っていた広大な国土に、移民時代のアメリカと同様、水田耕作を求めて中国大陸揚子江以南から直接、或いは半島経由で、大挙集団で移民が行われました。

移民の主力は大陸北部の麦栽培の農耕民でなく、海を渡って来た民族の海人族で、丸木舟などの建造も出来て、早くから鉄器を使用していた人々でした。当時中国は春秋戦国時代最中で、やがて泰が勃興し直ぐに前漢の時代になったころで、移民してきた人々は未開のアフリカでなく、当時世界最新鋭の文明国から、未開の我が国に移民してきたのです。これはちょうど文明ヨーロッパから未開の北米に移民してきた状況と同じでした。大陸沿岸や江南地方や半島南部からの人々は、主食は米で、河や海の航行に明るく漁猟や水田耕作を行う人々でした。歴史書では弥生人は非文明国の稲作民たちが非文明国の我が国に水田耕作を進めたとか、縄文人が狩猟採集から稲作を始めたとか書かれていますが、水田耕作は、大規模な灌漑工事が必要で、また太陽の動きを見ることのできる天文知識や暦の概念も必要で、何よりも集団作業が必要です。

故に我が国が原始採集社会から集団で農業を行う文明社会に変革したのは弥生時代からで、この時代に行われていた生活文化が現在生活のルーツになっています。

彼らは集団で河を遡り水利の佳い地点を見つけながら移動し定住して行きました。多分この弥生時代の大陸や半島からの人々の移動規模は、ヨーロッパにおけるローマ帝国崩壊後のゲルマン人の大移動や、ヨーロッパ人による北米アメリカへの入植に匹敵するものでした。

ゲルマン人は自分たちの食料を確保するために、森が生茂るケルト人の住処を駆逐し、深い森を切り開き小麦畑に変え、遊牧民から教わった豚や羊の家畜を育てました。

北米アメリカに入植したヨーロッパの人々は、ヨーロッパで暮らしていた姿を実現すべき、広大な小麦畑をつくり、ついでに足となる馬を確保しようと西部に向けて大移動を行いました。また都市化が進んで東部の町の需要を満たすべく、広大な地に牧場を求めました。

弥生時代、我が国に移住してきたひとの一番の目的は、水田で稲をつくることでした。

彼らは稲が小麦と比較して収量が多大な事を知っていたし、高温多湿な江南地方の人々は、水の中で育つ稲が何よりも雑草対策に優れており、麦より雑草の方が育つ我が国では水田耕作以外は考えられませんでした。しかも我が国南部では二毛作も可能でした。

縄文人が徐々に水田を作ったのではなく、水田をつくるために大陸南部の航海民が我が国に移住し河を遡って稲作の適地を探し、その付近の山で山桜の花見を行い稲の豊作を願いました。

新たに移住してきた弥生人たちは先住民の縄文人たちと混血し、狩猟や土器づくりや我が国の風習を習ったのでしょう。

稲をつくるために移住した人々にとって、稲の豊作を願うあまり、春、水源の小山の頂上に咲く山桜の凛とした美しい姿が、稲の精霊を宿していると信じたのでしょう。
これがミモザやライラックだとしたら、稲の精霊など感じなかったはずです。

凛とした美しい山桜の花は、ただ眺めて愛でるのではなく、枝葉を折って髪や帽子に挿して稲の精霊を共有しました。

春さらば挿頭にせむとわが思いし桜の花は散り去にしかも 万葉集

春になったら挿頭(かざし)にしようと思っていた桜の花は散ってしまったなあ  この歌の意ですが挿頭(かざし)とは精霊が宿っていると思われている山の木の枝葉を切り取って、髪や冠に挿して精霊の祝福を得ていた習俗でした。桜は稲の精霊が籠っていると信じられてきた花のため、満開の桜の花の枝を挿頭(かざし)にすることは花見の習慣だったと思われます。

現在私たちが鑑賞するソメイヨシノは、多くの人々が知っているように明治になって作り出された品種です。
明治維新の直前、現在の東京の駒込付近にあった染井村の植木屋が、伊豆にあった品種を増やして各地に広めました。当初は吉野桜と呼びましたが吉野の山桜と混同されるのを防ぐため染井吉野となずけました。

ソメイヨシノは移殖、栽培が容易で成長が早いため瞬く間に広まりましたが、欠点としては開花が早く散るのが早いことです。山桜も散るのは早いですが、ソメイヨシノは山桜に比べると風格が劣るという人もいます。

吉野の千本桜の一部

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私たちが春になると桜の開花が気になり、開花予報が国民的な行事になり、桜見物に行くのは、先祖たちが弥生時代以来、桜の花に稲の精霊を感じて来たことが染みついているからと記しました。

現在ではお米は余り食べなくなり、お米の豊作を願う人もいなくなり、桜の花と稲作は無関係な出来事になってしまいました。
しかし米は江戸時代までお金の代わりでした。幕府や藩の収入は米で、武士階級はお米で俸給を得ていたので稲の豊作は必需でした。

私たちは冬になると、鍋料理を好みます。

またどの家庭でも洋食器、和食器、中華食器、汁椀、湯のみ茶碗、ぐい飲み、盃、コーヒーカップ、ティ-カップ、マグカップなどバラエティに富んだ食器を揃えています。我が国は世界最古の土器文明を持っています。数々の縄文土器は土器という機能を離れて祈りの道具も存在します。


縄文時代、海山の自然の産物が豊富だった我が国では、狩猟採集した植物や木の実、獣肉、魚介類を鍋に入れて煮込んで食べていました。

10,000年以上前の縄文時代、世界に先駆けて豊富な土器文明をつくり鍋料理を発展させた伝統が今でも残っているし、海山の自然の産物が豊富だった我がにおける食生活が世界の国々と比較して豊富なバリエーションを好んだため、日常使う器の種類が増えたのでしょう。

吉野ケ里遺跡では、弥生時代から米と汁が分かれていて、汁は土器でなく漆器を使っていました。

能登半島地震で輪島塗の存続が危ぶまれていますが、家庭で使う汁の椀はプラスチックの漆器でなく木地氏が作った木の器の漆器を使いたいものです。

江戸時代ロシア船のゴロブニン少佐の日本抑留記を読むと根室から松前に移送中、3度の食事は米食と漆器の汁椀で行われていました。北海道で生産しない茶碗や漆器が普通のように使われており、牢番はいつも本を読んでいたと驚いて書かれています。

私たちが普段親しんでいる習慣は、急に始まったわけでなく、文字の無い何千年も前から受け継がれてきたものです。それが日本の文化と言えるものでしょう。桜はその代表的なものです。

用水沿いに江戸時代以来の斜面林が残っています。ここは美しい竹林とこの樹の名前は不明ですが、見事な大木です。

この辺りの自治会はヤブカンゾウの保全に熱心で、ボランティアで手入れを行い繁殖も行っています。

埼玉県立浦和西高校です。正門は用水に面していませんが、裏門は用水に面しており見沼田んぼには専用グランドがあります。

ヤブカンゾウを育てている自治会がハーブ園を持ち、皆で管理しています。

見沼用水に面した土手はこの辺りでは無くなり、自動車道となっています。従ってこの辺りには桜回廊は途切れています。

大原中学校を過ぎると前方に再び桜回廊が見えてきました。

この辺りは幼稚園のグランドなどがあり、再び桜回廊らしい静かなたたづまいに変わります。回廊沿いにベンチも設けられています。

静かな桜回廊が終わると現実的な見沼用水が姿を現します。この水門はかなり重要そうで、水門の向こうは用水の水位が1m以上高くなって、用水は満々と水を溜めて流れています。

さいたま新都心入り口に着きました。ここから新都心駅まで15分ぐらいでしょうか。ここは首都高の派生路線が第2産業道路まで続く地点で、車道が主でとても桜回廊のプロムナードのイメージとは程遠い場所です。しかしこの道を新都心方面に5分もたどれば、このような場末的な風景でなく近代的な美しい都市空間が現れるのです。

さいたま市は延々20㌔の桜回廊をアピールしていますが、このような場末的なプロムナードの雰囲気を改良することが先決です。

行政は、民間企業のように先進的な競争を行って経済効果を挙げることでなく、競争社会とは対極にある地域住民が暮らしやすい自然空間を提供することではないのでしょうか? 

高速道を潜って大宮方面に桜回廊を少し辿りましたが、ここから先はプロムナードと言いにくい道なので、ここで引き返すことにしました。

帰りは見沼用水の桜回廊をショートカットして浦和レッズの練習場前を通ります。

レッズのグランドか市のグランドかわかりませんが美しい桜並木で囲まれています。

大原中学校正面です。大原中学校は浦和旧市内で最後に出来た中学校でした。ということは浦和市内でも一番田舎の中学でしたが、今ではさいたま新都心駅が出来て焼く5分で駅から来られる便利な都会の中学校に変わりました。でもグランドを見ると野球、サッカーゆったりと別々にできてもまだ余裕があるほど広大です。

浦和西高の生徒が帰りに楽しんでいるのどかな風景です。子供たちが塾だとかセカセカしている風景は楽しくありません。私も部室でいつまでも山の話をしていました。

小銭を忘れたので喉が渇いても自販機で買えないつらさです。

帰りは桜回廊から外れて芝川の土手を歩きます。今年はなぜか菜の花が遅いように感じます。

枝垂桜の林と土手の菜の花のコラボです。

ここはいつもこのモミジが楽しませてくれます。前方の緑は梅の木で、この梅も楽しみました。

再び桜回廊の土手に上がります。

出発地点の市立病院のバス停が近づいてきました。往復約10kmの行程でした。

今年の桜はこれで十分すぎるほど堪能しました。