吉田稔展(陶芸)コレド室町ちばぎんギャラリー
最近はすっかりローカルな人間になってしまって、たまにしか都内に出かけません。
東京の衛星都市の浦和生まれの私にとって、子供の頃から都内は荒川の川向うで、電車に揺られて行く心ときめく特別な地でした。同じ東京でも感覚からいうと赤羽から田端、鶯谷は東京でなく、京浜東北線がまだ省線と呼ばれていたころ、上野を過ぎ省線電車の車窓からアメ横の入口にある三角形のビルが見えた時、初めて東京に来たというトキメキを感じました。
子供心に東京は、浦和から東京駅まで電車で40分、中山道で日本橋まで27㎞の至近距離にあるものの、文化的には遠い異国のような感じでした。
浦和での小学生低学年の時の通学では、冬になると霜柱を踏んで行くため下駄で通いましたが、東京の電車の中で、帽子をきちんとかぶり全革のランドセルを背負い,革靴に海軍の軍服のような制服を纏った小学生に出会い、自分たちとは随分と違うなという違和感を感じた記憶があります。多分私学の無かった浦和の小学生が全国標準で、私学が豊富にある都内だけが異質だったかも知れません。
案内状の陶芸展のコレド室町という会場の名を見た時、室町の名は聞いたことが無く、ましてコレドの名も初耳でした。
八丁堀生まれの家内に聞いたら、日本橋、室町というように、室町は町名で昔から日本橋とセットで呼ばれているとの事でした。高校2年に浦和に引っ越すまで八丁堀に住み都電で私学の中学、高校に通学していた家内にとって、子供時代から大幅な変貌を遂げ、日本を代表する商業ビジネスの街並みに変わりましたが、私が浦和を庭みたいに感じているのと同じように、子供時代この辺りは庭のように親しみを持って感じていたようです。しかし幼稚園から高校まで校庭が狭くコンクリートだったため運動は嫌いになっったと言っています。
そんな家内にとって東京がふるさとになりましたが、比較的順応性のあった私でも、歳を取るにつれてローカルな子供の時の浦和の感覚に戻ってしまっています。そして再開発された都心の新しい商業施設にも関心もなくなり、東京は益々遠くなって子供の頃電車で出会った、こまっちゃくれた小学生が住むところのイメージが強くなっています。
前置きが長くなりましたが、三越前のコレド室町3にちばぎんのギャラリーがあり、そこで山の会の吉田先輩の陶芸展が開催されたので、出かけてきました。
正式にはちばぎんひまわりギャラリーですが、千葉県在住の芸術家たちの個展が、年末までスケジュールが一杯です。都心で千葉県民が気を吐くスペースを千葉銀行が提供していますが、埼玉もライバル千葉に負けてはいけません。
吉田先輩は1985年、備前焼の師匠に入門して趣味の陶芸の道に入られましたが、今年、久々に創造美術展を訪れて瑠璃の釉薬を使った先輩の作品に接し、驚愕してしまいました。作品は第75回創造美術展でオキラジ賞を受賞したもので、以前見た吉田先輩の作品の延長線上にはなく、新境地に達したかの印象がありました。
吉田先輩とは今年7月北アルプス双六岳に同行しました。私より4代上の先輩で、改めてその強さには舌を巻きました。
瑠璃の釉薬を使用した作品です。釉薬の模様の美しさが、勝手な言い方になりますが、素人陶芸作家の作品から一挙に現代最先端の陶芸芸術作品に変わったように感じました。
この作品も同様です。
最新の作品です。美しい釉薬の表情と存在感のあるフォルムが格調を際立たせています。
上の壺を焼いた時の登り窯の内部です。
完璧な備前です。かなり昔の作品のようですが、陶芸を始めてこのような備前が焼けたら、もう陶芸から足が抜けないでしょう。事実吉田先輩は、これから釉薬の研究に変わったそうです。
手前の壺が今年の創造美術展の受賞作です。
さまざまな瑠璃の表現を求めています。
右は吉田さんのアトリエの看板です。ちろり庵とは千露里庵という八ヶ岳の山荘の名前です。私も何回か行きましたが、山の会の学院ワンゲル出身者たちが作った山荘で、吉田さんはそのメンバーです。
もう北アルプスの登山は卒業しようと決めましたが、吉田先輩からまた来年の北アルプス行きに念を押されました。