3回の中国地方の旅を振り返って
旅は、日々の繰り返しの暮らしから一時離れることで、日々の習慣や自分で決めた勝手な行動の規制から解放され、人の気持ちを自由にしてくれます。しかも旅で眼にしたことや感じたことは、気持ちが活性化することによって、歳寄りの鈍い感覚でも鉛筆を削るように先が少し尖って来て、普通だったら何も感じないものも、頭の中で映像が続々と録画されて行きます。
こうして旅が終わった後は、ゆっくりとPCの画像を楽しみながら、頭の中で録画した映像を再生して行くのです。
昨年同時期、出雲から石見銀山、萩、津和野の3日間の生まれて初めての山陰地方の旅を経験しました。そして今年4月、今度は岩国、宮島、江田島、呉、広島、大三島、鞆の浦、吉備の瀬戸内を縦断する4日間の旅を行い、そして今回の松江、安来、米子、高梁、岡山、神戸の4日間、計11日間の中国地方の旅を終えました。
人生の終盤になってようやく実現できた山陰地方を中心とした旅でしたが、80年間、今まで実現しなかったのは,山陰地方が首都圏からは、北海道や九州より遠く感じたためでした。
以前に比べると旅や山行の回数は減りましたが、さまざまな場所を旅していると改めて我が国の風土の広さと歴史を感じます。年末にも恒例の奈良を旅しましたが、改めて関西圏の人々の神仏に対する信仰の深さを感じました。関西の人々と比較すると関東圏の人の神仏に対する信仰はとても淡白に感じます。これについては年明けに旅紀行をしたためる予定です。
都市の賑わいの格差
今回の旅紀行で触れましたが、新幹線の通る都市と通らない都市の格差が、加速度的に広がっているように感じます。
新幹線の停車駅になって街が発展した方が良いのか、少し前には街がやみくもに発展することによって生活しずらくなると否定的な意見もありました。かって地方都市郊外に大型商業施設ができたため街中のシャッター通リが増えたと言われ、大規模小売業出店法の規制が強化されたこともあります。
しかし結果として、様々な大規模商業施設が出店した地域は、概して活性化した街が多くなりました。
旅して感じることは、活性化している街の特徴は、繁華街に若い人たちが多く往来し、また若い人たち向けのファッションやおしゃれなカフェの店が多いことに気が付きます。特に顕著に感じることは、駅周辺のローカル鉄道に乗る高校や大学生、或いは通勤客が東京近郊並みに多いことです。例えば八代~熊本間、宮島~広島~呉間、総社~倉敷~岡山間などは、通学時には人で溢れ、更にこれらの街の市電やバスもにぎやかです。東北では仙台が断トツで山形市まで衛星圏になり一強を走っています。。
地方の振興は昔から声高に叫ばれていますが、上手く行かず寂れていく地方都市が多い中で、確実に地方に中核都市が形成されつつあるように想います。中核都市とは映画館も含めた商業施設、博物館、美術館、コンサートホールなどの文化施設、大規模公園、そして球場やイベントで使用できるスポーツ施設などが集積し、暮らしに彩を与える地域です。これが城下町だった言うことなく、更に基幹病院、学校、基幹的大学、各種専門学校、神社、寺院の存在も需要で、雇用を維持できる経済規模、文化施設規模、高度教育環境規模、病院など健康環境規模の4つがバランス良く整っていることが条件です。
地方都市の中核都市化は単独では難しく、二眼レフ以上の広域的な街の方が複合的な魅力が合わさって中核都市化が増進されると想います。
例を挙げると昔は小倉、福岡が一体ででしたが、今後は福岡と熊本の間に久留米を挟んで確実にメガロポリス化するでしょう。広島は岩国、呉と一体でサミットを実施できる機能を持つ中核都市化が進行し、倉敷と一体の岡山は今後は海峡を挟んで高松と複眼中核都市化するでしよう。
北陸の富山は金沢と複眼になるのか、単独では難しいかも知れません。新潟は長岡と一体になりさらに広げて中核都市化するでしょう。新潟は仙台と同じく東京と程よい距離にあります。高崎は昔から前橋と複眼都市ですが中核都市化には東京と近すぎ準中核都市になるでしょう。宇都宮も同様で栃木市と一体になりようやく準中核都市化するでしょう。
東京が異常に発展したのは、複々眼の都市というか盛り場が次々と生まれ重層的な都市に拡大したからです。私の生涯で見ることができたのは、戦前戦後の盛り場だった浅草、上野、銀座が、私の学生時代には新たに西南に住宅が増え新しい拠点が西に出来ました。新宿、渋谷、池袋です。この新しい拠点の背景には大学と学生の存在がありました。そして地下鉄網の発展により六本木や青山など都心に穴がなくなり、更にスカイツリーにより浅草が国際的に復活しました。
東京を考えると都市の発展は、単眼では無理で複眼、複々眼が基本になるような気がします。
浦和を愛する私は、昔から大宮との微妙な関係がありますが、さいたま市は上手くやれば、この異質な浦和、大宮、与野、岩槻の集合体で大化けし、東京に隣接しながら一層の中核都市化が進行するような気がします。中核都市のイメージは商業地域だけでは不足で、そうなるためのイメージの中核を果たすためには浦和の存在が益々大きくなるでしょう。
残念ながら新幹線が近くにも通らない大分、宮崎、松江、鳥取、高松、松山を除いた四国の各都市は厳しいでしょう。しかし刺激を求める若者以外の住人にとって、雇用があるならば、何も中核都市になる必要もないし、中核都市化を拒否し完全な田園都市化も十分考えられます。多分今後の地方都市は中核都市化とは別に、産業の中心都市プラス田園衛星都市の複合化もありうるかも知れません。いずれも、商業や工業だけでなくサービス業や文化ソフト業、第一次産業の農業、漁業、林業、畜産の組み合わせがポイントになるかも知れません。
山陰地方と関東地方の冬の空気の違い
米子駅前
山陰地方の冬の天候は、雪山登山で親しんだ同じ日本海沿岸の上越や北陸と比較して、晴天に恵まれないことは同じですが、少し空気が異なるように感じました。
それは黒潮から分かれた対馬暖流が山陰沖から越前沖まで流れていて、豪雪地帯の北陸や越後に比べると気候がやや優しく感じられました。
特に感じたのは水蒸気を多量に含んだ初冬のしっとりとした空気でした。
丹後宮津、阿蘇海
このしっとりとした空気は17年12月に訪れた宮津や橋立も同じでした。
丹後ちりめんの産地の宮津の街を歩くと、今は工場に集約されていますが、風花が舞う家々の奥から規則正しい機織りの音が聞こえてくるような風情を感じます。多分雪国ですから寒いけれど、家々の中から機織りの音を想像できるくらいの心のゆとりは私にはありました。朝さいたまを発って来たばかりの、あの関東の乾いた空気に包まれていた私の肌に、風花が優雅に舞うしっとりとした空気がとても貴重に想えたのです。この感覚は京都発の特急から誰も降りない閑散とした宮津の駅に降り立った時から、感じた感覚でした。
丹後ちりめんは最初、農家の農閑期の冬の作業から始まったのでしょう。勝手な仮定ですが、宮津が冬のしっとりとしたやさしい空気に包まれていなかったら、面倒なちりめん織は行われなかったとも想うのです。
武蔵野の木枯し遠くなりにけり 紫雲
これは学生時代の岳友とメールでの句会の下手な作です。兼題は木枯しだったので下手を承知で書きました。幸い同じ武蔵野の川越の岳友が賛同してくれました。
唱歌で、木枯しを詠った焚火があります。今は焚火は出来ないけれど、サザンカの花を見ると子供の頃の木枯しを思い出すのです。
今は都市化が進んで木枯しは無くなりました。子供の頃冬は木枯しの季節で、秩父おろしの冷たい風が容赦なく吹き付け、冬の朝学校に向かう時は、風で耳がちぎれそうになるため、うさぎの毛皮の耳当てをして厚い毛糸の手袋をはめて、霜柱が厚く降りた朝は足袋に下駄を履いて通いました。さすが市内の小学校だったので頬や手がしもやけで赤くなっている子は少なかったのですが、冬の空っ風と乾いた空気は関東の特色でした。大人になって東海や瀬戸内地方や福岡に出張した時には、冬は空っ風が吹くか尋ねた記憶があります。
関東でも東京の多摩、埼玉、群馬の平野は冬の西高東低の気圧配置では必ず山から空っ風が吹き、もし空っ風が吹かなかったら関東はかなり良い所だと子供心に想っていました。
皆生温泉の海です。これから季節風が吹くと荒れます。しかし夏の日本海は海は凪いで、船は容易に航行できたでしょう。北前船は夏期のみ航行しましたが、沿岸に寄港が必要のない舟は佐渡や能登の遥か沖を一直線に進んだと言われています。
反面太平洋岸は一年中波が荒く、蒸気船の榎本艦隊でも品川から函館に脱走するときは房総沖で2割の船が失われました。
冬、日本列島の半分は雪に覆われる
松江駅、境港行列車
我が国は、多少の気温の高低はありますが、春、夏、秋の間は日本中同じ気候で過ごします。
しかしこれが冬になると一変し、日本全体が地面が雪に覆われどんよりとした曇った日か雪の日が続く地域と、晴れが続き空気が異様に乾燥した地域とが2分され、その割合は、冬は雪に覆われる地域は山岳を含めると5割に達します。言い換えれば冬になると日本の半分が雪に覆われることです。
昔、東北地方に初めて出張した時、新幹線の時代で無いため速度が遅く、車窓の光景もゆっくり変わって行きました。宇都宮を過ぎ那須を過ぎて関東から離れ、白河で東北に入ります。今は分かりませんが郡山に着くと雪が現れ、東北担当の営業マンが郡山から雪が現れるのだと言うのを聞き新鮮な驚きを感じ、まさに日本の半分が雪に覆われてしまうことが分かりました。
また盛岡出身の会社の後輩が、盛岡は冬があまりにも寒いため、屋外では口を開けて話が出来ないから方言が生まれたと言っていました。それを聞いた時、学生時代の南アルプスの冬山で日中氷点下25°になった時の行動中の休憩時、上級生が冗談を言って自分では笑っているつもりなのに、私から見たら泣き顔だったことを思い出しました。
冬の日本海沿岸と太平洋岸の晴天と雪の量
06年5月北ア劔岳
南アルプスは太平洋岸気候で西高東低の気圧配置では晴になり気温が低下し、反面北アルプスでは吹雪になりますが、気温はやや高めです。積雪期登山は天候に左右されますが、南アルプスは北アルプスと比べると遥かに容易です。合宿で3年生の3月に長大な南アルプスをサポート隊を入れましたが27日間で全山縦走に成功しましたが、その前年の2年生の春、長大な遠見尾根を使用し五竜岳、唐松岳、鹿島槍ヶ岳登頂に努めましたが、21日間の内満足な晴天はわずか1日だけで、後は一晩で1m以上も積もる風雪とも戦いでした。太平洋岸気候と日本海岸気候の相違は12月から3月までの冬に最も現れるのです。
冬に雪に覆われる地域は冬は湿気に包まれますが、雪が降らず冬晴れの地域は、空気が異常に乾燥します。
私は関東の空っ風が好きでないのは、冬に空気が異常に乾燥するからです。
梅雨時の湿気と異なり、冬の湿気はしっとりとした空気で気持ちを安定させますが、冬の乾燥は、なぜか人の気持ちを気短にするように感じるのです。
同じ列島内で2つの異なる気候の地が共存する国は多くありません。2つの異なる気候の地は夏になると突然熱帯地方に変わります。ヒマラヤにもあり得ない世界一の豪雪地帯が、夏になると突如熱帯地方に変わることも、改めて考えるととても不思議に感じます。しかしこの変化の多い気候が、私たちにおいしい山海の食物を与えてくれて、年間の激しい気候に長年耐えて抵抗力が増すために長寿を与えてくれました。
旅をすると私たちにとって自明の事柄でも各地の風土に触れて見ると、改めて様々な事が当たり前でなく、特別なことと想えてくるのです。
余談ですが英国の芝が美しいのは、メキシコ湾流の影響で冬に湿気があるため洋芝が育つからです。反面日本では洋芝を植えたら夏に成長が激しく芝刈りが大変なため高麗芝を植えますが、冬には枯れる部分が多くなるため、芝は美しくなりません。
弥生時代早期、日本海沿岸地域に人々の移住
石州瓦の風景
中国地方を旅していると、縄文から弥生時代にかけて我が国は2つの人の流れと定着があったような気がします。
その1つの流れは出雲を中心とした大陸や半島からの人の流れです。
松江で「出雲に来た渤海人」という本を購入しましたが、渤海国は唐に滅ぼされた高句麗の遺民たちが満州に建国した国家ですが、727年から919年の間34回も我が国に使節を派遣しました。来着地は出羽、佐渡、越前、能登、など様々でしたが後半は都に近い伯耆や出雲が多くなりました。
長門、日本海、金子みすゞの故郷、仙崎の海
多分その1000年前から大陸や半島、特に半島東や現満州からの移住者たちがフロンティアの我が国を目指して来着し、出雲、伯耆、若狭、越に定着し翡翠文化と製鉄文化をもたらしたと想います。
松江の歴史資料館で町人の祭りの日の食卓の想像された展示がありました。米は松江城のニの丸に米蔵を作ったように貴重品でしたが、その代わり副食と汁物が山海の素材を使用して予想以上にバラエティに富んでいました。また漬物も関東の沢庵だけでなく季節それぞれ変えて楽しんでいたように思えます。このことから想像するに弥生時代から日本海沿岸地方は魚介類を中心にバラエティに富んだ食事をしていたと想像できます。
半島東や現満州からの移住者たちにとって、何よりも水と食と木材が豊富で燃料に困らない点で日本海沿岸は素晴らしいフロンティアだったような気がします。しかも翡翠の玉や砂鉄からの鉄に恵まれ、他地域との交易にも多くの魅力的な品を抱える豊かな土地だったように想います。
黒潮に乗って太平洋岸に人々が移住
平戸湾
もう一つは弥生時代早期に中国沿岸や東南アジアからの海人族が黒潮に乗ってやってきたと思われます。中国沿岸と東南アジア地域間は紀元前から海の交易があり、航路も確定していたと言われています。しかし日本は交易の品が無く交易の対象外でしたが、高温多湿で水が良く木材に恵まれたフロンティアでしたが、縄文海進によって平地がなくなり稲作不能のため移住しようとするものはいませんでした。やがて海退期になると海水が引き、奥地の山裾の扇状地に平野が生じてきたため、海人族たちは多勢九州に移住してきました。
ヤマト王権の成立
三輪山から畝傍山と耳成山を望む
しかし九州は阿蘇の火山灰に覆われていたため稲作の適地は少なく、海人族たちは内海の瀬戸内沿岸に徐々に移住し、吉備はその大規模な集積地になりました。
そうした情報が伝わり、集団で稲作を展開していた九州の元海人族たちがは連合して瀬戸内から未だ未開の畿内に向けて移住しました。それには数十年、100年単位の時間をかけて徐々に移住していったのです。
そして海退期が完全に終わった大和盆地を目指して大和川を遡り、先に葛城山麓を開拓していた先住者の鴨・葛城族と折り合いを付けながら大和盆地中央に移動し、これまた先住者を引き入れ東の太陽が昇る三輪山の麓に拠点を設けたと想像しています。この最後の移住者の集団がヤマト王権になりました。
海人族は海の民ですから旭日を好みます。葛城氏やヤマト王家のはるか前から、小部族同士黒潮の流れる列島沿いに熊野、尾張、駿河、伊豆、武蔵と移住し、列島の真東に当たる鹿島に達しました。
弥生時代から現代に続いている文明
木の文明:神木、鎮守の杜、神社、木造家屋、箸、椀
騎兵隊の砦のような吉野ケ里弥生遺跡
現代文明や伝統の文化は、思い立って直ぐ作ろうとしても簡単に作れるものではありません。現代の日本や日本人が身近に感じていて、しかも他国と比べても得意と想われる文明や文化は、今から2千数百年前の弥生時代に生じて、古墳時代になると確固としたものになり、明治の産業革命が終わってもそのまま現代に引き継がれているものがたくさんあります。旅に出て遺跡など見ると一層その感が強くなります。
文化、文明は長い熟成の時を経て現在に引き継がれています。
吉野ケ里遺跡を見た時、日本は木の文明の国なのだと改めて実感し、そしてまた弥生時代の日本が、アメリカのフロンティアの時代に匹敵するほど世界史の大事件だったような気がしました。
繊維文明:簾、呉服、太物、四十八茶百鼠の江戸染色文化、古着流通、
日米繊維戦争で米国に敗れるまで、日本は繊維大国でした。それも現代中国の繊維委託工業でなく、オリジナルの繊維を生み出し、しかも製造できる大国でした。
幕末の開国は列強の圧力だと言われています。米国は捕鯨船の水や食料の供給を望んでいましたが、英国は自国の繊維製品や機械類の輸出をもくろんでいましたが、フランスの開国ニーズはシルクの輸入にありました。シルクという国際映画を見ると、当時中国産の蚕種は病気が多く蚕が育たないため、フランスの生糸工場は困っていました。映画では日本産の蚕種を求めて密航し国外に持ち出すストーリーでした。
開国間もなく八王子から横浜に街道が敷かれたのも、東京、高崎間にいち早くレールを敷いて鉄道馬車が運行したのもシルクの蚕種や生糸のためでした。
吉野ケ里遺跡では弥生時代様々な草木染が行われ織機も使われ、当時から繊維が確立していました。また網野佳彦氏によると律令時代武蔵国の調は米でなく絹織物だと言っています。関東の山間部の農家は生糸が副業と言われていますが、古代から生糸とが正業だったのです。
製鉄文明:日本刀、剣流派、日本料理、戦艦大和、自動車産業
たたら製鉄の条件は、良質な砂鉄が採れること。砂鉄と木炭を燃やすために大量の木炭の原料の木が必要な事。鉄を高温で溶かすためには風を協力に送るフイゴが必要な事でした。我が国には砂鉄、木材が豊富で強力な風を送るフイゴを使う製鉄遺跡が6世紀になるまで見つからないため、それまでは半島から鉄を輸入していたという説が考古学の学者たちの定説です。
しかしたたら製鉄は山の尾根上の風を利用する野タタラで十分可能だという説もあり割れています。これらは考古学上の遺跡を前提の学説です。しかも我が国は高温多湿の環境のため鉄は直ぐ錆びて土壌に還り、また30年でジャングルのようになる山の尾根でたたら製鉄跡を発見するのは不可能でしょう。
先日NHKBSTVの科学番組で古代人の骨からDNAを調べる画期的な研究が行われており、日本人のルーツが弥生時代の広い地域からの大量移民によってもたらされたとあります。私も日本はアメリカと同じくアジアのフロンティアの地であり、従来の半島から南下して移住してきたという学説はどうかなと思っていました。
あと30年も経てば新しい学説も定まり鉄の問題も解決するでしょう。
我が国のたたら製鉄は鋳鉄もできますが高品質な鍛鉄ができることが特徴です。中国と比較すると中国は青銅器文明を経て鉄器時代を迎えましたが、鋳鉄が主力で、戦国時代日本刀が大量に明に輸出されました。優秀な鍛鉄づくりと日本刀づくりの伝統が、鍋釜よりも難しい特殊鋼づくりに変わり、戦艦や商船ずくりに行かされ、更に悪条件に強い日本車の伝統が現在でも世界中で生きています。また日本の特殊鋼がなければ、ロケット、ジェットエンジンのタービン、発電機、さらにICパーツまで世界の企業が困るでしょう。
太平洋戦争では日本の軍用機のエンジンや電気部品の故障が多く、稼働率が大幅に低下していたことは戦史によく出ています。多分高品質な特殊鋼を使えないために兵器の稼働率に悩んでいる国は多いと思われます。
鉄も長い間の技術の熟成によって維持されています。
稲作文明:花見、神社、草鞋、清酒、丼、握り飯、
弥生時代は稲作から始まりました。平地で稲作を行う場合は大規模な灌漑作業が必要です。初期の稲作は盆地の平野から最初にそそり立つ沢筋のの開けた扇状地で自然の沢の流れを利用して小規模で行われました。盆地の際にそそり立つ山は田の神が宿ると考えられ、春になると小山の頂上の山桜や椿の花の花見を楽しみながら、宴が行われ田の神に豊作を願いました。このしきたりが山見と呼ばれやがて花見に変わりました。
こ田の神が宿る頂上には田の神=水の神が祀られ、やがて社が建てられ修験者たちの修行の場と変わりました。
古墳時代は大規模な古墳が各地でつくられましたが、私は灌漑用の堀づくりと古墳づくりを兼ねていたように感じます。大和王朝により全国統一がなされ、伊勢神宮が作られ、宮津の豊受神も合祀され、稲が奉納されました。
以来稲は日本国の基本的な食糧でありしめ縄など神との媒介をなす植物にもなりました。
以上とりとめもなく書き連ねましたが、要は弥生時代、日本海沿岸に移住した人たちも、瀬戸内や太平洋沿岸に移住した人たちも、木や織物や鉄や稲が共通して同化し現在に至り、それぞれが我が国を代表する要素となっていることを、今まで旅した中で気が付きました。当たり前と言えば当たり過ぎて、書いていて馬鹿に想えるほど、これら要素はそれだけ深く私たちに浸透しているのではとおもいます。
旅の終わりに
昨年、そして今年と初めて訪ねた山陰の風土は独特でした。山陰の風土を一言で表現すれば「しっとりとした空気の地」と感じましたが、これは対馬暖流が影響しているのかなと思っています。
あの松江のどんよりとした空の下、さっそうとして自転車で下校して行く高校生と、雲一つない岡山の総社や倉敷から大勢乗り込んできた賑やかな高校生たちを思い出しながら、風土とはそれぞれ一長一短はあるなと思いながら旅した中国地方でした。
多分、再び訪れる機会は無いと想いつつ、人生の終盤に実現できた貴重な旅でした。