暮れの調宮神社のお詣り

29日夕方、息子が帰省して来たので30日、成就院のお墓詣りと久振りに浦和の街の総鎮守の調宮神社をお詣りしました。
旅先で見知らぬ地の神社やお寺をお参りするのに、地元の神社をないがしろにするのは気が引けるものです。
成就院の駐車場は狭いので、お墓参り後近くのスーパーの有料駐車場に車を置き、暮れの浦和の街を歩いて、全く久しぶりに調宮神社をお参りしました。
今は初詣は氷川女体神社に行きますが、息子も一緒だし久しぶりに調宮神社に初詣を考えましたが、元旦は込みそうなのと初詣の準備に忙しい暮れの神社の風景も風情があるとの提案で、お墓参りと合わせて30日に行きました。
お詣りを済ませ、今年も何もない平穏な年を送れたことに感謝の念が湧いてきました。若い時は何もない平安な時が続くと、物足りなく想い変化を願いますが、歳を重ねるとこれが真逆になり、平穏こそが幸せと想うように変わります。人間は面白いものです。

旧浦和市民にとって旧浦和の総鎮守であった調宮神社は氏神であり、7月の祭礼には、調宮神社の氏子となって各町内で夏祭りが開かれました。
子供の頃から、神社は調宮、お寺は玉蔵院、お墓は末寺の成就院上寺の存在が身近にあり、調宮神社の夏祭り、暮れのトリの市である十二日町、上寺のお盆、玉蔵院のお施餓鬼など親に連れられて行きました。そうしたことが積み重なり歳を経るにつれて、この3カ所の神社仏閣が私の心の拠り所になって来たように想います。

旅して、各地の高名な神社仏閣や地域の人々のための神社仏閣を訪れるにつれ、そこに心を寄せ参拝に見えられる多くの人々の姿に接すると、私も同じように地元に心を寄せる場があるのだと、生きる上での独特の安心感を感じます。このなぜだか分からないけれど独特の安心感が、いわゆる心の拠り所といえるものなのでしょう。

調宮神社には神社に付き物の鳥居がありません。その由来について神社に入ると直ぐに解説していますが、他の神社と同じくほとんどの参拝者は素通りしてしまいます。

祭神は天照大神、丹後宮津の元伊勢神社の豊受命、そして出雲王朝の創設者素戔嗚尊の3者です。大和王朝、丹後王朝、出雲王朝の神々が並び様々な歴史を想像させてくれます。開創は、欠代と言われる第9代開花天皇で、実際の大和王朝の最初の天皇と言われる崇神天皇の勅命により神官斎主倭姫命が、清らかな地を選び、調を納める御蔵を建て、初穂米の集約納品運搬所と定めました。初穂米の搬入に妨げとなる鳥居や門を作らなかったとあります。
この初穂論は江戸時代末期の神学者平田篤胤が参拝し考証したものによるものとされています。

調宮の名称は調の集積する御蔵から来ているとされていますが、もう一つこの辺りが槻(けやき)の木の原生林だったことから槻(つき)宮と呼ばれ、それが中世に流行った月待講の神社に繋がりました。

明治になり埼玉県には岩槻県や熊谷県、入間県が置かれましたが、最終的には坂本宿までの中山道の中でも最も戸数の少ない宿場町の浦和宿に埼玉県庁が置かれたのは大きな謎です。このことはあまり問題になっていませんが、県庁所在地の多くは旧藩の城下町に制定されましたが、中には弘前でなく寒村の青森が制定された例もあります。青森は函館戦争の際の新政府軍の軍政や攻略の基地となり、それまでの松前に代わって函館と直接結ぶ基地となり、青森だけでなく北海道開拓の基地になったため、県庁所在地になったと想います。
当初岩槻県の県庁所在地は仮に東京に置かれましたが、熊谷県、入間県、岩槻県を統合した埼玉県庁を設置する時になって、行政処理の関係で恐らく県庁はなるべく東京に近い場所、忍、川越、岩槻など旧幕府の色の付いていない場所など検討した結果、明治新政府の神祇官が平田篤胤の考証にもとづき、浦和宿の調宮神社が古代ヤマト王権の初穂の集積所だった故事から、関東に何の足がかりを持たなかった明治新政府が、寒村の浦和宿を県庁所在地に制定し行政都市をつくろうと考えたのではないかと、勝手に想像しているのです。

珍しい兎の手水口です。

納札所に参拝者たちが並んでいます。今は神社やお寺ではダイオキシン発生のため焼却炉が使えません。お札を家庭ゴミにして出すのも気が引けるため困っている人が多いです。私も家の前でお寺の札を神経を使って燃やしています。

神輿の収納庫です。クラシックなたたずまいです。

調宮神社は拝殿、幣殿、本殿の三殿が繋がる複合社殿です。

30日ですが次から次へと参拝客が訪れます。浦和駅から10分の距離のため手軽に参拝出来ます。

総ケヤキの拝殿の竜の彫刻は、江戸時代の名工島村俊表の作です。

うさぎの石像です。

浦和宿は調宮神社と平安時代からの名刹玉蔵院の門前町でした。中世から幕末まで神仏習合の時代、玉蔵院が調宮神社の別当寺として調宮神社を維持してきた歴史があり、私たちは、一体とは思いませんが調宮神社と玉蔵院は神様は調宮神社、お寺は玉蔵院と余り分けてはいませんでした。

境内には玉蔵院24世の名高い連歌師無相の句碑もあります。 神さびし木陰は月の宮処

神楽殿の周りに少し駐車場がありますが、狭いため車で来る人たちは多くありません。

調宮の象徴はケヤキ林です。ケヤキは大きく枝を広げ生命力が素晴らしい木のため初期ヤマトプ王権の神木と言われています。
ケヤキと言えば棚倉に陸奥一宮の八槻都々古別神社と馬場都々古別神社の2つの古社があり、常陸から久慈川沿いにヤマト王権の日本武尊が奥州に進行した際、谷あいの地形の棚倉に拠点を設け後の棚倉城の位置が神社になりました。江戸時代近隣に移転しましたが、日本武尊が都々古別山から放った8本の鏑矢が土蜘蛛の身体を貫き8本のケヤキに変わったというケヤキと密接な関係があり、今でも棚倉城址には樹齢600年の堂々たるケヤキが立っています。

調宮神社が初期ヤマト王権の調の集積所であったなら、王権のシンボルであるケヤキを植え、それを言い伝えにしたことも考えられます。

本殿の下に池と鬱蒼としたケヤキの森があり、そこに稲荷社があります。この稲荷社が江戸時代本殿が建てられるまで、調宮神社の本殿でした。

調宮神社の裏手は古い公園があります。

浦和出身の長谷川かな女の句碑があります。生涯の影ある秋の大地かな 自筆の字で刻まれています。

旧浦和市は戦後長い間社会党の市長でした。そのためあまり旧軍国主義を匂わすものは少なかったように想います。この慰霊碑は太平洋戦争の戦死者の慰霊ですが、保守系市長に代わってから建てられました。

息子を交えてお墓と調宮神社にお参りしてすがすがしい気分になりました。連れ立って駅前のパルコで昼食を楽しみ、暮れの1日をのんびりと過ごしました。

遠く離れて暮らす息子にも、たまには浦和の核心部の空気を吸ってもらいたいと想った日でもありました。