信州の旅2、安曇野

信州の旅の2日目は安曇野の散策です。
一概に安曇野の散策と言っても安曇野は広く漠然として、誰もが認めるここぞという観光地は穂高神社と大王わさび農場しかないため、行き当たりばったりでなく、どこをどう回れば良いのかプランが必要です。

京都や奈良或いは市街地にある城郭、寺社などの観光地は、都市交通が発達しているため徒歩で移動が容易ですが、奈良郊外や飛鳥や吉備など田園の中に目的地が点在し都市交通があまり当てにならない観光地は、断然自家用車やレンタカーが有利です。しかし車やレンタカーの欠点は目的地を結ぶだけでその過程の景色が味わえません。

現代社会は完全な車社会のため、郊外や農村や山地の観光は都市交通ではとても不便になります。昨年6月に行った北茨城は都市交通機関は全くありませんでした。観光地でのタクシーの一日乗車という手もありますが、そんな贅沢な旅も出来ないので、部分的にタクシーを使用すると便利ですが、地方によってはタクシー不足を痛感する時代になりまし

安曇野は広大な農村地帯で、観光用の循環バスも運行し定期運行本数も努力されていますが、都市感覚で利用できる本数ではありません。

事前にネットで安曇野の地図を見ながら、さて安曇野をどのように散策するか考えましたが、城郭や寺社などインパクトのある目的地が少ない安曇野は道中を楽しむことが最大のテーマになり、それが実現可能なのはレンタサイクルだけでした。

意外にも白馬山麓から移動して安曇野散策を行うための一番の障害は、白馬駅から穂高駅までの大糸線の本数の少なさでした。松本からだったら別な展開だったかも知れません。

大糸線

近年、白馬や立山方面に行く場合、長野新幹線経由急行バスで行くために、懐かしい大糸線は遠い存在になりました。今回安曇野に行くために久しぶりに大糸線に乗るプランを立てましたが、松本から大町止まりが多く大町以北の運行本数が激変していた事に改めて驚きました。大糸線の本数を見ると周辺の人たちの暮らしが想像できます。

大糸線の運行は通勤、通学にシフトしていて、7時台の通学時間を過ぎると10:23しかなく、しかも全て信濃大町止まりでその後は昼過ぎまでありません。

旅の出発では異様に遅い10;23に白馬駅を出発すると、信濃大町で乗り換えも加わり穂高駅着は12:05になってしまいます。信濃大町から松本行は30分間隔で運行されているため、問題ないのですが、なにせ大町以北が運行本数が少なく不便です。
ホテルから白馬駅へのタクシーの運転手さんは、大糸線の本数が少なくなって白馬のお年寄りは大町の基幹病院に行けなくなったと話していました。またこの路線にはバスも運行していません。

穂高駅に12時に着いても昼食を採るため、安曇野の散策の出発は13:00近くになり、16:00に宿に入るとしたら散策には実質3時間しか時間を取れません。
レンタカーでしたら丸一日安曇野散策が可能ですが、大糸線の移動が最大のネックでした。

今回の安曇野散策は、常念岳など北アルプスの残雪を望みながら散策することにあったので、観光地や宿は大糸線の西側に多く点在していますが、あえて北アルプスの眺望の良い東側に宿を予約し散策コースを考えました。

当初安曇野散策は2日間を予定していましたが、直前に天候悪化に予報が変わり、北アルプスの眺望どころでなくなったため、最終日は松本の市内散策に変更しました。
結局安曇野散策には3時間しか時間を取れなくなり、目的地の移動方法については穂高の観光案内所で相談することとしました。

青木湖です。20年前、同期の杉村兄と唐松五竜山行後、この大糸線の車窓から青木湖を眺めました。青木湖には寄ったことはありませんが、この湖の畔の民宿に逗留し、水辺で七輪に魚でもあぶりながら、暮らしたら楽しいだろうなと話し合ったことを思い出しました。彼は7年前故人となってしまいましたが、彼とは50代の終わりに登山を再開してから同期の仲間を誘って定期的に山行を繰り返してきました。
彼が亡くなった際、ハードディスクに記録してある山行を振り返ってみたら、最初の10年間で彼とは日帰りも含めて80回も山や旅に同行していたことが判りました。

大糸線の分水嶺は青木湖の北にあり、そこが白馬山麓を流れて糸魚川に流れる姫川の源流地域です。
一方青木湖、木崎湖の水は南に流れ、鹿島槍からの鹿島川と、槍ヶ岳や三俣蓮華岳に発し北アルプスの懐を流れる高瀬川と合流します。江戸時代松本藩は、理由は分かりませんが、塩のルートは北塩のみとし塩尻からの南塩を禁止したため、糸魚川からの千国街道の交通が活発になりました。しかし価格が高騰したため途中南塩も解禁したそうです。

高瀬川は上高地からの梓川の水を集めた犀川の流れになって長野市東方で千曲川と合流します。川中島は犀川と千曲川に挟まれた地が、大きな島のような地形のため名づけられました。
千曲川は秩父の甲武信岳が源流の山で、そこから小海線に沿って佐久、上田に流れ大河となって、中野、小布施、飯山と北上し、越後に入ると信濃川と名を変え新潟で日本海に注ぎます。
車窓から見える水が、安曇野から川中島に流れ、飯山を通って日本一の大河となって新潟に注ぐのですが、大糸線沿線は越後に近いので、驚きは少ないものの、槍沢の水や穂高涸沢の水が上高地の梓川の流れになって新潟まで続いていると思うと感慨深いものがあります。

信濃大町駅

信濃大町に着きました。旅行者たちはほとんど信濃大町で降りて行きました。学生時代の信濃大町は大都会まで行かなくても、とても賑やかでした。

信濃大町は北アルプス核心部の登山基地です。大きくは3方向で、鹿島川の流れに沿って鹿島槍ヶ岳の赤岩尾根や東尾根方面、高瀬川から扇沢方面では立山黒部、針ノ木方面、高瀬川の源流方面では烏帽子岳や槍ヶ岳北鎌尾根方面の登山口になります。

黒四ダム

09年7月、黒4ダム放水。

北アルプスには大町から針ノ木峠という鞍部があり、ここから黒部川の谷に下り、立山連峰の稜線の下にザラ峠という鞍部があります。ザラ峠とは沙羅沙羅越えが訛った呼び名です。雪の12月、このザラ峠と針ノ木峠を越えて富山から浜松まで往復した佐々成政の雪のサラサラ越えの伝説があります。

戦国時代、信長が本能寺で討ち死にし跡目相続で内紛が生じました。富山城主の佐々成政は秀吉に臣従を嫌いましたが、秀吉に組した前田利家に攻められ、何とか家康を引き込んで秀吉に対抗させようと、浜松の家康に交渉しようと考えました。しかし富山から越前方面は前田利家が固めているため浜松に行けず、富山の東は敵対する上杉景勝がいるため、糸魚川から信州に南下することができませんでした。
時は12月、成政は大決断を行い、立山岩鞍寺や芦鞍寺の漁師を大動員し、富山から雪の北アルプスを越えて大町に下り松本から浜松に至ったとの伝説があります。しかし難渋して雪の北アルプスを越えて浜松で、家康に面会したものの家康の答えはつれないものでしたが、成政の雪の北アルプス横断は、余りにも困難なため歴史でなく伝説で残りました。

私は、冬の北アルプスの状況を知っているため、成政の立山ザラ峠越え伝説は、事実でないと想っていました。
秀吉に臣従した成政は、国衆たちが不穏な動きをする熊本の領主に任ぜられましたが、案の定国衆の反乱を治められなかった罪で切腹を命じられました。本能寺の変後、信長の初陣である桶狭間の戦いで馬回衆を務めた成政が、草履取から伸し上った秀吉に臣従することは誇りが許さなかったのでしょう。旅で訪れた熊本城で突然、佐々成政を思い出し、秀吉に臣従するくらいなら、雪のアルプスで朽ちても悔いがないと想ったに違いないと感じました。以来私は成政のザラ峠越えは事実であったと考えるようになりました。

ザラ峠と五色が原

09年7月、立山浄土乗越からザラ峠、五色が原方面を望む


信越の針ノ木越えは、元々猟師が行き交うだけの路でしたが、糸魚川の塩商人によって千国街道経由での塩の高騰に長い間悩まされてきた大町の庄屋叉左衛門は、この針ノ木越えの道を街道として整備しようと考えました。

叉左衛門は、越中の東岩瀬村と芦鞍寺村に協力を要請し、明治7年「開通社」を設立し「信越連帯新道」として、この峠越えの道を幅2間、全長82kmの本格的な街道として整備しようと政府に申請したのです。しかし工事に着手したものの、あまりにも費用がかかるため、その後明治15年事業の継続を断念してしまいました。
幕末から明治にかけての山好きな英国の外交官アーネスト・サトウの旅行記を読むと、案内人を雇いこの新道を富山まで通りました。黒部川の平の渡しには旅宿が建っていたそうです。

この「信越連帯新道」の考え方はその後、黒部アルペンルートとなって現代に生きています。

再び大糸線の車窓

りんごの花が咲いています。

穂高駅

穂高駅はクラシックな駅舎です。穂高駅は安曇野の中心駅ですが、それは観光の中心駅で、大糸線の乗降客を眺めていると、隣の柏矢町、豊科、南豊科、中萱、一日市場と松本に近づいてくるにつれて乗り降りや駅周辺の住宅は多くなっていきます。
どちらかと言えば穂高駅は田舎の駅で、隣の柏矢町から豊科、南豊科からは都市郊外の駅という感じです。駅に降り立ったのはたった6人でした。ゴールデンウイークの中日とは言え、余りに寂しすぎます。観光地は完全な車社会です。これではJRも気合が入りません。

常念小屋

穂高駅の2つ手前は有明駅があり、そこは中房温泉から燕岳の登山口です。

穂高駅は常念岳の登山口です。画像は09年9月の常念小屋から常念岳の上りで、大天井岳から続く横道岳を振り返った時です。
農作業の暦に使った北アルプスの峰に現れる雪形の中で、白馬岳の「代馬」、暦に使用したか分かりませんが五竜岳の「武田菱」爺ヶ岳の「種まき爺さん」そして山の名前となった常念岳の「常念坊」が代表的です。

菊池俊明著「白馬岳の100年」によれば、明治になり参謀本部陸地測量部が後立山連峰の地図作成の際、地元民に白馬や五竜などの山名を訪ねたところ、全て村の西にあるから西山だと答え、言い伝えられた個々の山名は明かさなかったとありました。理由は北アルプスは加賀藩と松本藩が領有しており大藩の加賀藩は毎年奥山回りを派遣して黒部を含めて北ア山中を見まわり密猟を摘発しましたが、後立山連峰や槍穂など東側は松本藩の領有で小藩のため見回りができなかったため、村人たちは密かに山に入り密猟をしていたそうです。そのため山名を知っていると山に詳しいとの事で、摘発されると勘違いし全て西山と答えたとありました。
北陸では白馬岳を大蓮華岳と呼び、隣の小蓮華岳は信仰の山のため今でも使われています。

穂高駅

駅前の観光案内所で、頂いた地図を元においしいお蕎麦屋さんと早春賦の碑、大王わさび農場から宿への行き方を説明していただきました。これでコースの概念が判りレンタサイクルを勧められました。

穂高駅前のレンタサイクル店、しなの庵です。

食事を終えて、観光案内所で教わったレンタサイクル店の道路の向い側で信号が変わるのを待っていると、お父さんが手押しボタンを押して信号の操作をしてくれました。
何もしなかったらずっとそのままでした。お店はお父さんと息子さんと若い妹さんの3人で運営してしており、若い女性の3人組に電動自転車の貸し出しと地図でコースの説明を忙しく行っていましたが、とても熱心で説明も手際よく、女性たちは何の不安もなく電動自転車に乗ってさっそぅと出発して行きました。

実はこのお店と出会ったことで今回の3時間しか取れない安曇野散策の問題は全て解決してしまいました。
早春賦の碑と大王わさび農場を往復してからお店に自転車を返しに来て、穂高駅から隣の粕谷町の宿にはタクシーで行くつもりでいましたが、隣駅にある宿までレンタサイクルを回収しに来てくれるとの事でした。

これによってわさび農場からレンタサイクルで散策を楽しみながら宿に行けて、しかも僅かな費用で自転車を回収してくれるとのこと。更に荷物を宿に届けてくれるとのこと。これでサイフとデジカメだけを持参してサイクリングに出かけられます。頭の中にあった課題は全て解決してしまいました。

旅に出ると自分の希望に反する不快な事も少なからずありますが、このお店の出会いはとてもラッキーでした。そういえば昨日から不快なことは少しも生じてなく、今回の旅はとても快適になるような気がしてきました。

穂高神社

最初は穂高神社です。以前仲間と来たことがあるので、詳しい散策は行わず。今回はお詣りを主にしました。
主祭神は穂高見神で海人族の安曇氏の祖神です。穂高神社は醍醐天皇の延長5年(927)に剪定された延喜式の神名帳では国幣小社ですが、古くから霊験著しい神を祀る神社に与えられる名神社に列しています。

水軍の安曇氏がなぜ安曇野に移り住み、自らの祖神穂高見神を明神池に祀ったか、移住は文字の無かった時代のため謎に満ちています

神楽殿と舞殿がある神社は、古くから舞楽などの祭りを重んじた格式のあった神社のように見えます。

祭礼に使用する御船です。海人族安曇氏の名残です。いずれにしても、日本第3の高峰に海人族の祖神の名が付けられているのも面白いし、日本列島の古代で一番の海から遠い山国に海人族の安曇氏が移住した歴史を考えるにつけ、我が国の歴史は一筋縄で行かない歴史が秘めていると感じます。

海人族の安曇氏は、弥生時代、恐らく春秋戦国時代など中国江南地方から大集団で渡来し、各地に集団で入植し安曇、厚海、渥美、渥見、熱海、渥見、温海、阿積、安積、などの名を残したと言われています。特に本拠の筑前以外、筑後、肥前、河内、摂津、阿波、讃岐、播磨、隠岐、因幡、近江、美濃、三河にその名が残っています。
集団の本拠地は長らく筑前国磯賀島でその水軍の能力を活かし半島や大陸の交易に従事し、その軍事力と中国及び半島とのネットワークから半島遠征の水軍主力として、活躍したものと想像します。神功皇后の半島遠征の伝説にも安曇氏が登場するほど安曇氏抜きにして古代は語れません。

しかし筑前に本拠を置いた水軍安曇氏が海を捨てて内陸の信濃国への本格的な移住は、何時の時代だったのだろうか?文字のあった時代ならば当然記録されますが、未だ我が国文字が使用されていない時代、おそらく5世紀頃の古墳時代だったと思われます。また磐井の反乱に加担して水軍の任を解かれたという説もあります。

阿曇比羅夫像、

阿曇比羅夫は百済救援のため662年百済遠征先軍として軍舟130艘を率いて百済に出陣し、翌天智元年663年阿倍引田比羅夫の後続軍が百済に遠征、白村江で唐、新羅連合軍との海戦で大敗し、阿曇比羅夫は戦死してしまいました。穂高神社の船祭は阿曇比羅夫の戦死日に行われています。

この新羅遠征の直前、658年から3年に亙って阿部引田比羅夫は水軍180艘を率いて、秋田から北海道に遠征を行い、大陸からの北方民族のミシハセを破り北海道の蝦夷を従属させました。この遠征は、唐、新羅連合軍による同盟国の百済滅亡の危機に際し、日本海沿岸の脅威を取り除く意図があったのでしょう。

阿曇比羅夫と阿部引田比羅夫は同じような名前で混同しますが、2人とも大和朝廷の軍事貴族で臨時の大将軍職を務めたと考えられます。阿部引田比羅夫に関して一説には越国の国守に任ぜられ、越国、能登国全域の兵力、造船を動員できる権限を与えられていたと言われています。

阿曇比羅夫は百済遠征において自らの水軍を率いたのでなく、この当時は安曇水軍は解体して信濃国に移住していたので、阿曇比羅夫はかっての水軍の率いた栄光の部族として、遠征軍の先軍の将軍に任じられ、自己の水軍でなく寄せ集めの水軍を率いたと想像します。
阿部引田比羅夫も寄せ集めの水軍の長として白村江の戦いで敗れましたが、300年間に亙って半島での戦いを行って来た海洋国家の倭の水軍が、磐井の反乱後、半島の拠点だった任那を失い、百済も救援できず、寄せ集めの水軍になってしまい、唐、新羅の水軍に完璧に負けたことは、この陰に磐井の反乱や筑紫から安曇氏の移動も関係していることは無いのでしょうか?



穂高山中の穂高神社奥宮

明神館前

穂高神社の奥宮は上高地奥の明神池にあります。私たち岳人にとって穂高神社は、穂高駅の穂高神社本宮より明神の奥宮の方が馴染みが深いので、奥宮に触れたいと想います。

12年7月、明神館付近です。この奥に上高地の主でウエストンのガイドを務めた猟師嘉門次小屋があります。


上高地は昔は神河内と呼ばれてきましたが、山中に、清らかな神々しい川が流れ、平らで白砂のごとく見える広い河原が存在は、あたかも水の神が山から降臨する広大な依代のごとく感じ、神河内と呼ばれて来たのでしょう。

話が飛びますが、山深い熊野に行った時、熊野本宮の信仰がなぜ生まれたのか、山深い場所なら日本各地どこにもありますが、どうして山中の河原の熊野本宮が信仰されたのか、そこに行くためには山また山を越えて行かないとたどり着けません。かって熊野本宮が存在した河原を見た時、ここは上高地と同じではないかと感じました。上高地や明神も熊野と同じ、山また山の真ん中にすっぽりと、清らかな大河の流れと河原が存在します。
山中に水神を求めて熊野本宮を感じた熊野族は海人族と想いますが、同じく北アルプスの山中に水神を求めて上高地に至った安曇族はいかにも海人族らしいと感じます。

明神池

18年8月、明神池です。穂高神社祭礼の際はここに舟を浮かべて祭事を行います。

一般的に古い神社の多くは水の神を祀りますから、最初は平地でなく水源の山頂に祀られやがて参拝が便利なように山頂に奥宮、麓に本宮が建立されます。

神社の社は仏教が伝来し寺院が作られるようになると、それまでの磐座から木造の社がつくられました。
穂高神社の場合も古代安曇族が安曇野開拓のため水源に祖神を祀ったと想像します。安曇野で一番顕著な前山は有明山ですが、有明山は八面大王の本拠であるため、前山を越えて雪を抱く神々しい北アルプスの山中深く神の座しそうな地を探して辿ったのかも知れません。

蝶ヶ岳から穂高岳を望む

私がまだ20代の時、蝶ヶ岳から穂高岳遠望、 安曇族はこの光景に出会い驚いて、穂高の峰々を仰ぎ見られる明神池に奥宮をお祀りしたのではと想っています。

弥生人たちが稲作のための神を祀るために、水源を求めて山にどこまでも分け入って、この世のものとは思えない衝劇的な風景に対面した地は4つあると想います。その1つは那智の滝、2つ目は日光華厳の滝、3つ目は称名の滝から立山室堂、4つ目は加賀禅定道からの加賀白山、そして最後は蝶ヶ岳の稜線から見た穂高岳だと想います。

安曇族が北アルプスの山中に祖神を祀る水源の地を求めて行動したのは、多分1回だけでなく数十年間に亙って試みたのかも知れません。
そのルートは下記2つ考えられ、1つは前山の鍋冠山からさらに奥を目指し、蝶ヶ岳の稜線で穂高岳と対面し、その光景に驚き、山を下ってたら神々しい広い河原に出て、山中では珍しい明神池に出会い、そこに祖神を祀ったと思われます。それは飛騨新道ルートだったかも知れません。

幻の「飛騨新道」
江戸寛政期、1790年幕府の寛政の改革で全国の13の街道が廃止されてしまいました。これによって安房峠を越えて信州と飛騨を結ぶ平湯道が廃止され野麦街道のみになってしまいました。この結果飛騨吉城郡高原川沿いの村では安曇野から手に入れていた米が入らなくなってしまい、安曇郡岩岡村の庄屋伴次郎と小倉村の中田又十郎は新道を計画し1835年高山郡代から幕府に「新道通路願」を提出しました。

この新道は信州小倉村から黒沢を登り、鍋冠山から大滝山の稜線を通り、現在の蝶ヶ岳ヒュッテから長壁山の尾根を下り、徳澤に出て明神、上高地に至り、ここから新しく架けられた与九朗大橋を渡って旧中尾峠に上がり、吉城郡上宝村中尾に下り神岡に至る道でした。この街道によって上高地に湯宿も作られ、播隆上人の槍ヶ岳開山は小倉村の案内人を雇って行われました。しかし1860年暴風雨によって道が崩れ25年続いた街道は閉鎖されてしまいました。

もう一つは、烏川ルートです。穂高神社からはダイレクトに烏川沿いに北アルプス山中に入ると三俣があります。ここは一の沢経由で常念岳を登り下山路として前常念岳から三俣に下ります。また三俣からは蝶ヶ岳の登山路があり、常念岳、蝶ヶ岳を縦走し、徳澤、上高地に下山せず三俣を経由すれば、安曇野に直接下山できます。
古い道は上り下りがあるものの、がけ崩れの危険が無い尾根道を利用します。多分明神池には、遠回りの梓川沿いや徳本峠越ではないと考えます。

穂高神社奥宮

12年10月、穂高神社奥宮は普段寄ることがなく、画像を探したら家内と来た時の画像がありました。

  



18年8月、穂高神社の鳥居の中からは明神岳最南峰が奥宮のように聳えています。これを見ると御神体は何かよく分かります。

18年8月には明神岳では忘れられない出来事がありました。

明神岳

19年8月、明神岳最南峰とワサビ沢 。  
この前年の同時期、日本山岳会上高地山岳研究所を拠点に穂高の奥又や明神を単独で登っていた、若い時、我が国を代表する先鋭的なクライマーだったT君が明神S字状ルンゼの下降中、雨のためビバークするとの連絡を山研にしたまま下山せず行方不明になってしまいました。
同時期、私たちは鏡平山荘から雲ノ平、烏帽子方面に縦走行動中、鏡平山荘にクラブ事務局から連絡が入り、縦走を中止して急遽下山し飛騨から上高地の山研に向かいました。
長野県警の3日間の捜索で発見されず、御兄弟や息子さんも来られた第2次捜索では、危険な箇所のため専門のクライマー集団に捜索を依頼し、再び山研入りを行いましたが、それでも発見されず、その後長野県警からのヘリで発見されました。遭難場所は穂高神社の御神体明神岳最南峰の左のワサビ沢でした。この画像は翌年の同時期、荒天のため鏡平山荘から上高地山研に来て、T君の1周期にご冥福を祈りにやって来た時の明神岳の画像です。

日本山岳会上高地山岳研究所

  

何回もお世話になった日本山岳会上高地山岳研究所です。

安曇野のサイクリング 穂高川の土手道

安曇野のサイクリングは想像した以上に快適でした。なにせこの土手上には車も来ません。たまに来ると減速してくれます。

穂高川の清涼な流れと土手上の美しい緑、そいsて八重桜もまだ咲いています。

この土手下を見るとワサビ田が長く続いています。

大王わさび農場のパンフから転載させていただきました。
この時期安曇野に来た目的は、この風景を見るためでした。安曇野では白馬山麓と異なってもう少し広い範囲で北アルプスが望まれます。右から白馬鑓、五竜岳、双耳峰の鹿島槍と同じく双耳峰の爺岳で、岩小屋沢岳とか鳴沢岳、針ノ木岳が続きます。中央左の丸い前山は安曇節にも唄われている有明山で、そこから左は燕岳とか大天井岳などが重なっています。更に左に眼を転じれば、常念岳、穂高岳が望めるのです。
あいにく前日の夜から天気が崩れて山はすっかり雲に覆われてしまいました。

早春賦の碑

早春賦の碑です。作詞家の吉丸一昌はこのブログで触れたように大分臼杵の出身です。作曲は「雪の降る街を」「夏の想い出」の中田喜直の父君中田章です。
この唱歌は私の大好きな唱歌の1つで早春の見沼田んぼを散策する時はいつも、この歌を口ずさみながら、春まだ浅い安曇野に想いを馳せています。

シンプルな歌碑でもあると想ったら、大岩が3つも鎮座していました。また折角ですがパンジーも不似合いです。
歌碑が目的でなく歌碑を通して、春まだ浅い安曇野の風景を味わいたいのです。

穂高神社の白松の説明板がありました。千木は舟を形どった穂高神社オリジナルでシンプルでとても美しいです。
説明板ではこの一直線の方向に穂高神社、明神池の奥宮、そして奥穂高岳の峰宮があると記しています。ここからT君に黙祷を捧げました。

レンタサイクルしなの庵で頂いた地図とマーキングのお陰で、未知の道を何の不安もなく走ることができます。

安曇野の用水は北アルプスから斜面を利用して流れる縦堰と等高線に沿って横を流れる横堰があり、横堰を開削したお陰で安曇野は肥沃な水田地帯になったと言われています。この河川は万水川で典型的な横堰です。水中に梅花藻が見えます。

代掻きも終わり水田に水を張っています。アルプスが見えたら言う事が無いのに。贅沢を言ってはいけません。この風景を見られただけでも良しとしなければ、唯の欲深人間になってしまいます。

大王わさび農場

安曇野を目的とした旅で大王わさび農場に寄らない人は少ないでしょう。それぐらい大王わさび農場は安曇野を代表する観光地となっています。また安曇野を代表する観光地なのに入場は無料です。
道中、わずかしか観光客を見かけなかったのに、大王わさび農場はの広い駐車場には車で溢れ観光バスも何台も駐車していて、安曇野中の観光客がこんなにいたかというほど賑わっていました。まさに地方の観光地は完全な車社会です。

道中緑や土手の風景、穂高川の流れや代掻き中の水田、梅花藻が棲息する清らかな流れ、緑野と調和する美しい家のたたずまい、風を切るほほの清々しさを味わいながら自転車を走らせてきました。多分車で移動していたら、道路の前方とナビを見つめるだけで、全て見落としていた風景でした。
早春賦の碑も車で行ったら駐車場もなく、土手の上の単なる大石が並ぶ歌碑で何の感慨も湧かなかったでしょう。
また大王わさび農場への道も、車で行ったら我が家の近くの見沼田んぼを走る景色と同じようで、美しい小川も道標も水田に水を引く細い灌漑水路の流れも見えなかったし、水田でトラクターで一心不乱に代掻きする農家の方々の姿も目に入らなかったかも知れません。

おかげさまで自転車で目的地を探しながら走ったからこそ、路傍の草も含めて安曇野の風景を克明に脳裏に刻めることができ、安曇野の詩情と安曇野を旅した旅情をたっぷりと味わうことができました。そして大王わさび農場では素晴らしい風景とも出会いました。

一番見たかった大王わさび農場の蓼川の流れと水車小屋の光景です。

おそらく明治時代まで安曇野はこのような風景に満ち満ちていたのでしょう。

河原がなく水が岸辺まで満々と水を湛えて流れ、岸辺すれすれに樹木がはえている姿は、東北やヨ-ロッパなど北国特有の美しい風景です。河原が広がっていると風景に想像力が欠けてきてしまいます。賢治が見る北上川の風景は岸まで満々と水を堪えて流れています。ドイツのメルヘン街道の川も同じような流れです。戦場ヶ原の川も奥入瀬の川も同じ光景です。

私が山が好きなのも、北国が好きなのも、深層にはこの川の流れが異様に好きなのでしょう。

水と緑だけでどうしてこんなに美しい光景をつくるのでしょうか? それに水車など自然と共生した人々の営みの形まで加わると、さらに風景は美しくなります。

北国や山中の風景が美しいのは、気温が低いため下草がいたずらに繁茂しないこともあります。ドイツの郊外の森で我が家で1,2mになったホワイトレース・フラワーが3~40㎝の高さで咲いている光景を見て驚きました。

自然の醍醐味は2つあり、手つかずの大自然と、人間の自然と一体となった営みが加わった自然の2つがあります。冬山の光景でも、手つかずの大自然の風景と、そこに冬用天幕がある風景と、どちらが良いかと問われたら、私は両方と答えるでしょう。

湧水100%の蓼川と、一般河川の万水川の水質の全く異なる川が合流せずに流れる珍しい風景です。

寒冷な気温を好むわさびは水温が高くならないように、寒冷紗で太陽光を遮っています。

大王わさび農場は、冷涼な北アルプスの豊富な湧水の蓼川の水を使用してわさびを栽培しています。真ん中に湧水が流れ、わさび田は石造りの畝を使用して、湧水を一定量石組みを通して絶えることなく行き渡せる農法を採用しています。真ん中の勢いよく流れる湧水を、石畝を通して水が左右のわさび田に供給され、わわさびも石畝に植えられて栽培されています。石洗いや整地、畝たて、苗の定稙全てを手作業で行わなければならず、非常に手が掛かります。
宿の食事でわさび田で作られたわさびが出され、少量ずつ擦って刺身を頂きましたが、そのピリッとしたとんでもなく辛い味は、さすが凛とした北アルプスの賜物だと感じました。

大王わさび農場のパンフによれば、大王わさび農場の創始者深澤勇一が蓼川の豊富な湧き水を利用してわさび田の開拓を思いついたのは大正4年のことで、2年かけて土地を取得し大正6年から農閑期の農民の人たちの手作業で、雑木の生茂る湿地帯を切り開き、掘っては堤防を築き、冬の厳しい寒さや水害などの苦難を乗り越えて、昭和10年前期農場が完成しました。

日本一広大なわさび田の開拓は農閑期の雇用を創設し、同時に犀川の治水工事も完成させることになりました。この堤防は湿地帯を掘り起こして積み上げたもので、観光用の遊歩道ではありません。

これら道祖神は多分わさび田の周辺に置かれていたものを、土手の完成とともに、人々の目に触れる場所に移動してきたのでしょう。

大王神社です。安曇野には安曇族が入植前には、縄文時代からの先住民族が狩猟生活を行っていたのでしょう。その長は魏石鬼八面大王と呼ばれ有明山に本拠を置いていたと言われています。八面大王はいわゆる安曇野の先住民の鬼伝説となっており、坂上田村麻呂に滅ぼされたと言われています。多分安曇族が入植して稲作を始めた当時、先住民の八面大名と戦が起こり、敗れた八面大王は、復活されないため身体を分けて埋められたと言われています。胴体部分が農場内にあったことから、わさび農場は大王わさび農場と名付け、大王を祀るための大王神社を建立しました。

この日は4月30日、五月の節句の季節でした。

わさび田を後にして

レンタサイクルしなの庵で、大王わさび農場から安曇野アルプスのハイジ村を通って、宿に向かう裏道を教えていただきました。全く車の来ない道で気兼ねなく走ることができました。安曇野の北方面を振り返ります。晴れていれば白馬三山から五竜、鹿島槍、爺岳が美しく聳えているはずですが。

道々各農家はトラクターで争って代掻きをしていました。今は各農家毎に大型機械を所有していて、代掻きから田植え、稲刈りまで全て機械作業でスピーディの行っています。機械の能力からみて、どのお宅も田が少ないように感じます。
背後の北アルプスは雲に隠れ、前山しか見えませんが中央右のくびれた所は一の沢で鞍部は常念乗越でしょう。安曇野の象徴常念岳は中央の雲の中です。

話は飛びますが、数日前戦前の画家であり登山家であった上田哲農の安曇野日記を読んでいたら、白馬山麓の代掻きの際は馬喰が馬を大量に曳いてやってくるそうです。馬によって怠け馬や人を軽蔑する馬などあって、どの馬が割り当てられるか運みたいなようです。昔は馬は貴重で、平野の農家が馬を所有することは外車を所有することと同じだったように想います。おそらく馬は千国街道の塩を運ぶ中馬を曳いて来たのでしょう。馬喰の良いアルバイトでした。

田淵行男記念館

一昔前の登山家だったら、常念岳・高山蝶と言ったらまず田淵行男の名を思い出したでしょう。
田淵行男は、北アルプスの登山口としては有明駅から中房温泉、燕岳、穂高駅から常念岳しかない安曇野を北アルプスと結びつけた偉大なナチュラリストであり写真家でした。

サイクルで宿の安曇野ビレッジに着いてみたら、敷地の隣が田淵行男記念館だったことを知りました。15年前の未だ仲間が元気だった頃の画像です。


この記念館には2009年に同期会で来たことがありました。その時は八方に泊まり遠見尾根や大町の山岳博物館、穂高神社に参拝し最後に寄ったのは、この田淵行男記念館でした。この時は私の車で仲間4人と善光寺に寄ってきましたが、同期会はここで解散し一路長野に出て関越経由で帰った記憶がありました。この時の同期会は私が幹事でしたので、前から行く機会が無かった田淵行男記念館を初めて訪れました。

私にとって安曇野といえば田淵行男の写真の記憶でした。

田淵行男は戦前の教師生活を終えて戦後安曇野に居を構え、常念岳周辺の高山蝶の研究を行いながら四季の北アルプスを撮影してきました。田淵行男はいわゆる武田久吉の系譜を引く本格的なナチュラリストでした。ガラス乾板風の巨大な写真機を背負い、小さなテントで一瞬のシャッターチャンスを狙った道具の数々です。彼の安曇野からの北アルプスや八ヶ岳山麓からの八ヶ岳、雪のシュカブラなど、その後の山岳写真の定番アングルを数多く作りました。

今ではこのアングルの写真は当たり前で多くの観光写真はこのアングルで撮られています。しかし初めて出会ったこの安曇野からの後立山連峰の写真は衝撃的でした。
私の若い頃は、岳人は山中の風景だけで、麓から山を撮ることはありませんでした。なにせ写真フィルムは何枚もとれるはずがなく、自家用車で山に行く時代でもなく麓をうろつく余裕もありませんでした。
また旅人も少なく、山好きでなければ安曇野から北アルプスの風景を撮ろうとしませんでした。このアングルの画像は、安曇野に住んでいた登山家の田淵行男だったからこそ生まれたのだと想います。今ではこのアングルが安曇野や白馬山麓の観光写真の定番となりました。

この八ヶ岳のこの地での画像アングルも登山家の山の写真では見たことがありません。登山家でナチユラリストの田淵行男だからこそ生まれたアングルでした。

私が田淵行男の写真と出会ったのは20代に中頃で、その時の事は今でも克明に覚えています。その後一眼レフカメラやスームレンズ、三脚など購入し山に出かけたきっかけになりましたが、写真はものになりませんでした。

20代の中ごろのある年の6月中旬、残雪を求めて1人で穂高を目指しました。しかし夜行で上高地に着いた時から集中豪雨で梓川は渦巻き、横尾の丸木橋は流されてはいなかったものの、横尾の河原は増水して涸沢への路は完全に水没していました。早い時間でしたがやむなく横尾の小屋に入り、そのまま翌朝まで様子をみる事にしました。しかし翌朝になっても雨は降り止まず、河原は昨日以上に増水し、大河のごとく音を立てて流れており、横尾の丸木橋も流されるのは時間の問題でした。仕方なく穂高はあきらめて、大雨の中下山を始め、上高地に着きましたが、崖くずれのためバスは不通になっていました。

上高地の旅館に宿を取ったものの、午後の時間を持て余したので、雨の中下山時に新しく見つけた国立公園のビジターセンターに出かけました。ビジターセンターとは聞きなれない新しい施設で、入ると訪問客は誰もおらず係の女の子が1人いるだけでした。

回りに展示してある美しい写真に心動かされ、ベンチを見ると1冊の写真集が置いてありました。それは田淵行男の「山の季節」という写真集でした。田淵行男の名は山岳雑誌で時折高山蝶の写真が掲載されていたので名は知っていましたが、昆虫が嫌いなため田淵行男には興味を抱きませんでした。写真集のページをめくると周りに掲出している写真パネルのいくつかは彼の作品であることが判りました。

    


こういうアングルの落葉の写真に出会ったのも、田淵の写真集が初めてでした。いまでも紅葉の山に行くとこの画像のアングルを意識しながら歩きます。

この写真集の一枚一枚の写真に衝撃を受けながら、食い入るように見つめている内に、あっという間に時間が過ぎて行きました。大雨の中、誰も訪れないビジターセンターの中で、この写真集との濃密な時間が流れて行ったのです。ビジターセンターの女の子は、他に客は誰もいなかったので特別にコーヒーを入れてくれました。彼女は名古屋の女の子で、アルプスに憧れて上高地に常駐し、この5月から出来たばかりのビジターセンターで働き始めたとのことです。冬になったらどうするの?と聞いたら安曇村のスキー場で働くと言っていました。この日、外は終日雨が降り続いていました。

  

 

翌朝、起きて旅館の窓を開けると、さんさんたる光の中で緑が輝いていました。昨日ビジターセンターの女の子に教えて貰った田代池への路を散策しました。
この時出会った上高地の新緑の凄まじさ、美しさは、その後の生涯で出会っていません。豪雨の直後、旭日と共に一気に芽吹いて光を浴びた樹々を見ると、紅葉と同じく新緑にも盛りがあることを初めて知りました。

この時出会った田淵行男の写真と、すさまじいまでの上高地の新緑は今でも脳裏に焼き付いています。

10年ほど前、浦和の行きつけの古書店で、上高地のビジターセンターで出会った田淵行男の写真集「山の季節」が新たに入荷していました。価格を見ると5,500円でした。欲しかったけれど、既に2003年度に発売した文庫版を手に入れていたので、残りの人生と価格とをてんびんにかけて判断し購入は断念しました。

田淵行男の山の写真は、会場できれいに撮影が出来なかったため、上記本から転載させていただきました。

白馬山麓と安曇野の旅を振り返って

白馬山麓と安曇野の旅の目的が、美しい北アルプスの残雪を眺めることと、雪解け水が音を立てて流れる山麓の春の風景に触れることでした。しかし晴れて北アルプスが望めたのは初日だけだったこともあり、撮影した画像を見ると多くは水田の風景や水が流れている風景ばかりで、結局は水を探る旅でした。

小学生の時、学校で市川崑監督の映画「ビルマの竪琴」を見に行きましたが、英軍の捕虜になり日本に帰還する輸送船の船上で、もうすぐ国土を踏める兵士たちが、水がおいしく緑が美しい故郷に帰れる喜びを言いあっているシーンのセリフが、なぜか子供心に今でも記憶に残っています。水がおいしく緑の風景は、毎日見慣れている何の変哲もない学校の裏の肥溜めの匂いがする水田の風景が、そんなに良いのかなと子供心に強く感じたのかも知れません。

私が生まれる前にビルマ戦線に出征し戦後復員した父に、いつかこのことを尋ねようと想いましたが、とうとう聞きそびれたままになって亡くなりました。子供の頃、父は薪から石炭に燃料を変えるために風呂釜を変えた時、お湯がチリチリすると言って薪で焚いた風呂を懐かしがっていたことや、私が中学生になって、浦和市の水道水が地下水のくみ上げから荒川からの取水に変わって、水がまずくなったとしきりに言っていた事を憶えています。今想うと上海事変で4年間、ビルマ戦線に4年間出征していた父は、おそらく水では辛い想いをしていたのかも知れません。

ガザのラファの映像が連日TVに登場します。ラファは海岸の砂浜がそのまま市街まで続いているように見えます。かっては地中海沿岸一帯は乳と蜜が流れるカナンの地と呼ばれていたという記憶があります。そんな世界中で一番良いとされていた地が砂漠化し、爆撃でがれきの山になってしまっています。
水がおいしく緑が美しい我が国の国土は、長い間各地で水源の神を祀り、水の流れを大切にして、水田を整備し、水田で取れた米を国が貨幣の代わりに流通してきた歴史の賜物であると想っています。

見慣れた風景を眺めながらかしこまって歴史を考えるわけではありませんが、不変なものを作り出す努力は、身近な歴史から学べるような気がします。