信州の旅1,白馬山麓

ゴールデンウイークの前半の4月29日、30日、1日に白馬山麓、安曇野、松本の旅を行いました。

晴れた日のゴールデンウィークは、風香り、緑輝く一年中で一番良い季節ですが、長い間私にとってはこの期間は、登山や旅には無縁な時期が続きました。

その理由は、仕事での現役時代はゴールデンウイークが繁忙期であり、また趣味の薔薇もこの期間が開花シーズンとなり、公私ともに繁忙期が重なり登山や旅どころでありませんでした。またリタイア後も趣味で薔薇の仕事に携わっていたため、6~7年前まではやはり一年中で一番登山や旅に行きにくい季節でした。
その後仕事を終えても、この期間は薔薇が満開寸前のため、ゴールデンウイークの旅は避けざるを得ない状況が続きました。

今回ゴールデンウイーク期間に白馬山麓を訪ねようと思ったのは、この地域に長い間の想いがあったためです。
そのきっかけは20年前のゴールデンウィーク直後、雪の唐松岳登頂の翌早朝、宿のサンダルをつっかけて付近を散策した時の光景でした。

残雪の白馬三山からの雪解け水を集めた松川の流れが、枝分かれして狭い灌漑水路に音を立てて流れ、傍らに水仙やスミレなど春の花が咲き、しかも所々に山桜や桃まで咲いている光景に接した時、その美しさに目がくらみました。

首都圏の春は3月、4月、5月初めと約2か月かけてゆっくり訪れますが、北国ではゴールデンウイークのたった数日間に、春がいちどきにやってくるのです。白馬山麓と同じように、桜の角館や弘前などは、春がいちどきににやってくる光景は北国共通ですが、白馬山麓は残雪を抱いた美しい後立山連峰を背にして一体となって突然やってくるのです。

また白馬山麓は、若い頃から登山の基地として度々訪れていて、いわば私が密かに心の故郷と想い抱いている地でもありました。白馬山麓は、私の北アルプスの雪の峰々の想い出と、山麓の瑞々しい緑が一体となって私を招きました。

更に、今は若い時と違って、登山だけでなく薔薇やガーデニングも趣味として加わったために、残雪の後立山連峰だけの興味に留まらず、花や植物に興味が無かったら見落としてしまう水田や路傍の土筆や蕨、林の間に咲く辛夷などにも目が惹かれました。

このように白馬山麓は、私の美しい北アルプス連峰の想い出だけに留まらず、春のいのちの躍動の場として密度の濃い光景が目前に展開していました。

白馬山麓はたった1日の旅でしたが、あれこれ思い出が詰まった旅だったため、今回のブログでは、これもあれもと次々と想いつくものが多く、そのため山麓の風景とは異質な画像を入れ込み過ぎたような気がします。

仕事に薔薇に多忙だったゴールデンウィーク期間中は、1年の内でも、北アルプスの雪の稜線に登れる唯一の機会だったため、指をくわえて見ているわけにいきませんでした。
登山を再開していた60代の前半は、まだ登山の体力や技術が衰えていなかったため、無理して休みを確保し雪のアルプスへの挑戦しました。いつでも休める仲間たちにお願いして、ゴールデンウイークの中日を避け、始まりや終わりの外れた時に日程を組み、唐松岳、北穂高岳、立山劔連峰の奥大日岳、立山など3000mの雪のアルプスを楽しんで来ました。

ゴールデンウイークの多忙な中、日程をやりくりして北アルプスに登ったからこそ、3000mの雪の状況と山麓の春の訪れという落差を、余計鋭敏に感じたのかも知れません。

登山を再開して雪のアルプスの最初の挑戦が八方尾根から唐松岳でした。

唐松岳は雪の北アルプスの稜線に立つためには雄山と並んで一番容易なピークです。
2006年のゴールデンウイークの直後、唐松岳を訪れました。

雪の北アルプスを登るのは20代の終わり以来で、60歳になった当時の私にとって未だ雪の北アルプスを登れるのだと自信が湧いた山行でした。

登頂が容易とはいえ、それは他の低山との比較であって雪の唐松登山は、八方尾根上部で滑落すれば1000mは流されます。雪山には40年の空白があったため、危険に満ちた北アルプスの峰に登る準備は怠りませんでした。手始めに前年の12月下旬に仲間とアイゼンや冬山ウエアなど冬山装備を手に入れ北八つ天狗岳を登りました。そして年明けには奥多摩の川苔山、そして春にはロープなど確保用具を購入し八ヶ岳赤岳の雪の岩稜をこなしました。

登りながら、八ヶ岳の稜線で滑落したら500m程度で済みますが、谷を見ながら、さすが北アルプスはスケールが大きく滑落したら1000mは流されると想いました。大抵はそこまで流されず途中岩にぶつかり絶命してしまいますが。
そしてこの唐松岳のピークで、懐かしい雪の剱岳と対面したのです。

白馬山麓の雪解け水は、白馬大雪渓の北俣谷と唐松沢からの南俣谷は二股発電所で合流し大河の松川となって山麓の田畑を潤します。
北陸からの塩の道だった千国街道が、松川を渡る鉄橋は白馬三山の眺めが良い所です。

20年前、唐松岳登頂の翌朝見た光景がこの流れでした。この時道々松川の雪解け水が、音を立てて水田横の水路を流れ、その傍らには水仙が咲き乱れ、遠くに山桜や桃や林檎の花が咲き、まさにこの短い時期、白馬山麓に関東の3月、4月、5月の春が一時に訪れる季節を目の当たりにしたのです。

今回の白馬山麓では、白馬三山をバックにして峰から流れる雪解け水が、音を立てて灌漑水路に流れる光景をぜひ見たいと想っていました。

懐かしいゴールデンウイークの山行

この雪の中の体験があるからこそ、麓の瑞々しい春の訪れをより鮮明に感じるのです。

2007年、5月の立山三山です。

2008年、連休初日、まだ登山者たちのトレースが出来ていない北穂高に登りました。
北穂沢上部で東稜寄りにコースを取っていた他パーティの1人が滑落して300m流されゴルジュの上で止めましたが、幸い大きなケガにはなりませんでした。山で人が滑落して行く姿を見るのは学生時代の雪上訓練の富士以来でした。
やがてGW後半になると、登山者たちが登降するため穂高は雪道が出来て楽になります。
背後は懐かしい穂高の代表的な岩場、滝谷です。

2010年、立山劔連峰奥大日岳  
雪庇が5,6mも張り出した日本一の豪雪地帯で、ルートファィディングはじめ、持てる雪上技術を駆使して登りました。多分ここに登るのは秋に雪が積もってから初めてだろうと想います。この広い空間は我々だけでトレースの形跡も皆無でした。

2012年5月、それまで学生時代の同期の中間たちと5月だけでなく12月も3月も幾度となく雪山を登りましたが、この立山が同期と登った最後の立山です。

2018年3月,北八ヶ岳天狗岳、74歳の時でした。クラブの学生たちとの雪山訓練山行が私の最後の雪山になりました。

長野駅

久しぶりに長野駅に降り立ちました。スキーシーズンも終わりましたが、それでも高原はまだ雪のため、本格的な観光シーズンでないためか、連休の最中なのに駅は空いています。

長野駅アルピコバス乗り場

私が唐松岳の翌朝の白馬山麓の光景に感動したことと別に、白馬山麓の美しさについてはその前の聞いていました。
それは20数年前家内と白馬に紅葉見物で栂池から天狗原、八方池、小遠見に行った際、タクシーの運転手さんから白馬山麓の春がいかに美しいかお聞きし、そのピークが5月4日と明言していました。そのタクシーの運転手さんの言葉を家内は憶えていて、いつか行きたいと言っていましたが、私も家内にあいまいな返事をしたまま、訪れることもないままに20年以上が経ってしまっていました。

白馬駅前

白馬駅前は白馬三山が圧し掛かるように迫ってきます。日本広しと言えども、街の鉄道の駅に雪の高山が圧し掛かるように迫る光景はここ白馬駅だけです。

白馬駅前です。現在の駅名は「ハクバ」ですが、以前は「シロウマ」駅でした。しかし駅に行って思い出しましたが、学生時代の駅名は信濃四谷(シナノヨツヤ)でした。

昔は白馬に行くためには中央線で松本に行き、大糸線に乗り換えてきましたが、長野オリンピックの際、長野新幹線が出来て、長野から大町、白馬五竜、栂池山麓までオリンピック道路が開発され、急行バスが運行されるようになってから、黒部立山方面や白馬山麓は長野新幹線経由が主流になりました。

大糸線の白馬駅には今まで何回来たでしょうか。

高校2年の夏の白馬、大雪渓です。往復夜行でした。
初めて訪れたのは高校2年の夏で、白馬登山のため夜行列車で到着しました。夜明けの大糸線で紫色に染まる鹿島槍の姿は今でも目に焼き付いています。
大学1年の10月下旬の新雪の白馬行きでは、夜明けの大糸線の寒さが、まだ寒さに慣れていない身体に一挙に押し寄せました。この当時栂池にはロープウエイが無く信濃森上から落倉発電所の水道管に沿って登りました。この20日後には爺岳東尾根から鹿島槍の春山偵察のため大町で降りましたが、大町も今と比べると遥かに活気がありました。
大学2年の夏の後半、徳澤での1週間授業山岳実技の後、白馬ピークでの1週間の気象観測のため、駅前の旅館で泊まりましたが、当時は1泊2食で500円の破格の安さでした。朝食を終えて通りを見たら既に登山者が500人近くバスを待っているのを見て、トイレに行かず慌てて飛び出してバスに乗りましたが、その後の話は秘密です。
あの当時は駅前は古い宿が軒を連ねていましたが、今よりはるかに活気がありました。

この年は夏合宿の黒部、劔、五色、針ノ木、鹿島槍、唐松の縦走を終えて白馬駅に下り、家に3、4日いましたが、8月は夏合宿と徳澤と白馬でほぼ1か月山で暮らしました。翌年の3年の時も夏合宿後は涸沢の岩登り山行のため同じでした。

私が入学以前からクラブの山行が後立山連峰が多かったため白馬館の支配人と交流があり、夏の後半の2週間交代で気象観測と観望天気を勉強しながら、天気図と気象予報を小屋に張り出してとても好評でした。夏の終わりの白馬ピークでの暮らしは、暇になると付近の山々を登ったり快適でした。その内クラブの人数が少なくなり維持できなくなったため大学4年の時止めてしまいました。

この当時は体力があり、入山の時は天幕泊のための1週間分の燃料と食料と寝袋を担いで猿倉から3時間足らずで白馬山荘まで登っていました。多分普通の登山者が見たら走るようにして登っていたと想います。

10年前夏白馬山荘に泊まったら、気象協会の人が常駐して天気予報を行っていました。白馬山荘の歴史が山荘に掲出していましたが、私たちが気象観測を止めてから、数年後に夏は気象協会常駐での天気予報が開設されたことを知り、私たちがやっていたことが、あの当時有効だったことを改めて知りました。

白馬岩岳マウンテンリゾート

八方にはスキーで何度か行きましたが、隣の岩岳はその後できたこともあり、訪れた事はありませんでした。

長野発のバスの乗客はほとんど東南アジア系の外国人で、長野に宿泊していて日帰りで岩岳スキー場に行き、アルプスの眺望を楽しむ人たちでした。

白馬山麓を散策する予定で来ましたが、残雪の白馬連峰を見たいので、白馬駅までは下りず岩岳スキー場に向かいました。
バスの乗車の際、前に並んでいた地元にお住いらしきご婦人が、スマホの画像を見せて頂き岩岳は素晴らしい所ですよとお話されていたので、急遽予定を変更して大正解でした。

白馬岩岳スキー場はマウンテンリゾートとして近年開発され、入場料2400でゴンドラリフトに乗り山上迄行きます。山上にはそれぞれ別料金ですがブランコ、マウンテンバイク、カート、乗馬、ドッグラン、マウンテンバギーなど遊びものが完備し、レストランや展望デッキを備えたカフェがあります。

ロープウエイ乗り場の広い駐車場には車が一杯でした。

ゴンドラリフトはやや古いけれど、登るに従って残雪の峰々が顔を出し、かなり興奮してきました。ゴンドラは今冬のシーズンには新しい車両になるそうです。

ゴンドラロープウエイを降りると、そこはスキー場の頂上の草原で素晴らしい景観が舞っていました。
手前の尾根が八方尾根で、八方のゴンドラリフトの終点の八方山荘と同じ高度です。その向こうの尾根が遠見尾根で、やはり遠見のゴンドラリフトの終点と同高度です。八方も遠見もゴンドラリフトの終点では、あまりアルプスの眺望が良くないのですが、それに比べて岩岳は抜群です。

仲間内でたまに議論しますが、私は環境保護でやたらと開発を拒むより、ヨーロッパと同じように、登山と関係のない人たちにもできるだけアルプスの素晴らしい景色を見て貰った方が良いと想っています。例えば横尾まで電気鉄道が走り、蝶ヶ岳には展望ゴンドラがあっても良いと想います。こういう環境問題になると仲間内でも必ず反対意見があります。

上高地の自家用車規制は正解です。安房トンネルが開通したお陰で首都圏から飛騨が近くなりました。黒部アルペンルートもそうです。こうやって登山と無関係な人々が、美しいアルプスの光景に見とれている姿を見ると良かったなと想います。人は皆美しい風景が好きなのです。

ここには食べるスープの専門店スープ・ストック・トウキョウがありました。何種類かのスープを選択して食事ができます。スープはコーンのような飲むだけのスープもありますが、ビーフシチューなどの食べるスープもあり、満足しました。

この山頂平原の突き当りにザ・シティ・ベーカリーがありニューヨーク仕込みのパンやドリンクを片手にデッキでアルプスの眺望を楽しむことができます。

ここが眺望デッキです。度肝を抜かれる北アルプスの光景が待っていました。このデッキが無かったらここにいる人々は一生アルプスの美しい光景を見ることなく終わったでしょう。

右から平らな稜線は天狗平、そこから乗鞍岳を登ると白馬大池が拡がります。手前の台地は栂池高原です。
大池から長い登りで中央が小蓮華岳、そこから左の山は雲に隠れた白馬岳です。中央の沢は白馬登山口の猿倉に至り、その先に白馬尻があり、ここから大雪渓が始まります。

2006年8月家内と息子と訪れた栂池高原、翌日は唐松岳の八方丸山下まで登りました。

2004年7月中旬、梅雨末期の白馬大池です。学生時代のクラブの同期たちと山を本格的に再開した年です。梅雨末期の豪雨に襲われ予定を変更し白馬大池の小屋に午前中入りました。豪雨で小屋は定員の10倍が宿泊し入り口の土間迄人が寝ていました。

2005年7月 梅雨が明けず、大雪渓から白馬岳に登り三国境で決断し、午後大雨との予報で雪倉岳、朝日岳を断念して大池経由で蓮華温泉に下りました。
この頃はまだ現役で7月中旬の海の日の3連休しか休めませんでした。あと1日休みがあれば朝日岳まで行けたのに、仲間と朝日小屋に迷惑をかけてしまいました。ここ三国境で朝日小屋の名物女将に宿泊予約の断りを携帯電話で行ったらがっかりしていました。大雨の中雪倉を越えて朝日小屋まで行く自信はありませんでした。学生時代から北アルプスの縦走は繰り返してきたために、全てのピークは登りましたが、この時で朝日岳はとうとう未踏になってしまいました。

白馬三山です。右のピークが雲に覆われているのが白馬岳2932mです。真ん中が杓子岳2812m、左が白馬鑓ヶ岳2903mです。中央の杓子岳から右側に伸びる尾根が杓子尾根で冬季の登攀に使用されます。

14年7月、クラブの学生パーテイと前後して登った白馬です。この時は学生時代以来白馬鑓温泉に泊まりました。

学生パーティは天幕山行で、リーダーを除いて中国、オーストラリア、アメリカからの皆留学生でした。9月末に帰国するオレゴンからの留学生マライアさんは白馬のピークで感動して涙を流していたし、中国からの留学生張さんは白馬ピークからの画像をお母さんにメールで送っていました。

右の杓子岳、白馬鑓ヶ岳から左の稜線はなだらかな尾根が続き、真ん中に天狗山荘があります。中央の三角の雪の沢を下った辺りに白馬鑓温泉があり、雪崩のために冬には小屋をたたみます。

白馬、八方にはこれ以外同期会やクラブ会、など何回も来ています。

右の天狗山荘から尾根が急に深い下りになり、天狗の大下りと呼ばれています。右側の長い雪の沢は唐松沢で氷河跡と言われています。稜線は唐松沢のコルから不帰の剣の難所が始まり、不帰1峰、2峰、3峰と続き、唐松岳2620mに至ります。左から中央に唐松岳に突き上げる尾根が八方尾根です。

10年9月下旬に唐松、五竜に行きました。唐松小屋から剱岳の有名な光景です。

五竜岳は想い出多き大きな山です。

八方尾根の彼方に頭を出しているピークは右から五竜岳2814m、中央の双耳峰は鹿島槍ヶ岳2889mです。

連休のため五竜小屋は超満員でした。この頃はまだ現役で連休しか山に行けませんでした。

白岳付近で、学生時代春山で雪崩で天幕が潰された場所を確認しましたが、どうしても分かりませんでした。

鹿島槍ヶ岳をズームアップしました。中央の遠見尾根は大学2年の春山合宿でこの尾根から五竜岳、鹿島槍ヶ岳、唐松岳の登頂を行い22日間雪の中で過ごした懐かしい思い出があります。
画像の中央の長大な尾根が遠見尾根で、現在はテレキャビンで遠見尾根の稜線に出られますが、当時は麓の神代の駅の民宿から尾根の上に上がるのは1日がかりでした。当然雪道など無く、自分たちでラッセルしながら道を切り開きます。

この尾根の上に法政大学山岳部の小屋があり、ここをお借りしてベースハウスにして上部を目指しました。

法政小屋からの最初のピークが小遠見山で、荷揚げの場合必ずここで休みます。狭いピークには風雪の中でたった1本のダケカンバがあり、休むたびに氷に覆われた幹を撫でていました。
それから2週間後に連日の風雪の中から下山して、あと1本で法政小屋に戻れる解放感に満ち、風雪の中で皆で談笑していました。上りの時と同じようにダケカンバに寄りかかって氷に覆われた幹を撫でていたら、枝のそこかしこ微かに芽が膨らんでいることを感じました。

小遠見山の風雪の中でも来るべく春に備えて芽を膨らませ始めていたダケカンバの姿は、今でも鮮明に覚えています。
この山行は、その冬薬師岳で大量遭難があった38豪雪に続く3月で22日間の入山中まともに晴れたのはたった1日でした。春一番後の猛烈な二つ玉低気圧に襲われ2時間おきの除雪を繰り返していた晩、突然白岳の稜線で雪崩が発生し天幕が潰されナイフで天幕を破って脱出し、装備が埋まったまま五竜の冬季小屋に避難し、翌日風雪の中一日かかって装備を掘り起こしました。

小遠見山のダケカンバは、豪雪の中から無事下山できた我々を祝福してくれているように感じました。

私が植物を意識したのはこれが初めてでした。それから数十年後、薔薇に興味を抱いたのもこんな背景があったのかも知れません。

全員一緒に行動するのは入山初日と下山時のみで、山中では別行動です。

天幕2張を廃棄し、食料がゼロになっても下山時にはまだこれくらいの荷を背負っています。昔は装備が重く団体でないと雪山に登れませんでした。

12年9月下旬 種池から鹿島槍に登りました。

白馬岳の名の由来、水田の代掻きの時期を告げる「代馬」の雪形

白馬岳の名の由来はオレンジでマーキングした馬形から来ました。

この時期、白馬岳に田植えの前に田を耕す「代搔き」作業の馬形が現れると、田に水を張り代掻き作業を開始しました。

この代掻き作業を行う馬を「代馬」(シロウマ)と呼びそれが白馬(シロウマ)に代わり白馬(ハクバ)に変わりました。白馬(ハクバ)になると本来の名の由来であった代馬の名は完全に歴史から消えてしまいます。誰がハクバに変えたのでしょうか?

稲作は、田植えから稲刈りまで5ヶ月を擁し、途中日照りや、病害、日照不足による冷害、稲刈り前の恐ろしい風水害など、予期せぬ自然災害に見舞われるリスクの多い農作業です。
人々は、水田稲作を始めた弥生時代から、無事稲の収穫ができるように自然の神に祈り農作業を行ってきたのです。水田は稲によって人々養う神聖な場所であり、田の神が来臨する領域である依代の存在でした。この神聖な依り代で、田植えの前に固まった田に水を入れて土壌を耕す、代掻きが行われました。代掻きという用語は田植え作業の一巻として今でも使われています。

この代掻きには力が必要なため馬を利用しその馬を代掻き馬、すなわち「代馬」と呼びました。穂高神社に行くと馬が神馬として祀られています。古代貴重な馬は神のような存在で、神の依代を耕す馬も神聖だったのです。

春の訪れの遅い北国でも、実りの秋から逆算すると田植えの時期は関東と同じで、まだ冷たい雪解け水を田に浸しながら八十八夜になると代掻きの季節が始まり、やがて田植えが始まります。

岩岳にはアルプスを望みながらヤッホースイングがあり子供から大人まで大人気で、列を作って順番を待っています。

白馬山麓の散策

ツアーでなく個人の旅の宿選びは楽しいけれど難しいものです。以前は観光協会やその他ネットで調べましたが、今では宿予約スステムを多く活用します。

宿の選択は旅の目的で異なります。風光明媚な場所でゆっくりくつろぐ目的の宿や、街歩きのための便利な市街地の宿、或いはレンタカーが前提の駐車場が完備した宿、都市交通機関で翌日の移動を重視した駅前のホテルなど、旅の目的によって大きく選択は分かれます。

また繁忙期の旅は避けますが、ゴールデンウイークのように繁忙期が10日間も続く季節や桜、紅葉の季節は、どうしても宿と交通機関の予約が難しい期間に重なってしまうことがあります。そのため桜と紅葉見物は、個人で予約する旅行は避けてツアー旅行に参加してきました。

今まで白馬山麓の宿は、登山のために便利で温泉が引かれている八方山麓がほとんどでしたが、今回は白馬三山を眺めながら山麓を散策したいため、白馬山麓の地図を眺めながら、なるべく山に近寄らずしかも宿が林立している地域を避け、しかも静かな宿を探しました。

調べている中で.宿泊客2組のみの小さなホテルを見つけました。この宿はペンションでなくれきっとしたホテルで、小さなホテルの形をとっているのはオーナーの強い意思でした。
駅から若干距離がありタクシーでないと行きにくい宿でしたが、白馬山麓の散策という今回の目的に叶った宿でした。白馬山麓はスキー宿や家が不規則に乱立し決して風光明媚とは言えない恐れがありましたので、風光明媚なスポットを探すことも散策だと心得ていましたが、そんなことは杞憂に終わり、ホテルは目的にかなった素晴らしい場所にありました。

日本の観光地はどこでも徒歩での散策を重視しているところは限られています。郊外は完全な車社会になっており、観光地に向かうのは自家用車の移動が前提になっています。
近年の旅では地方へ行くほどタクシー不足でホテルで頼んでも断られることが多く、まして小さな駅の大半がタクシーは待機していません。また地方は人口減少がはなはだしくタクシー以上に路線バスは合理化され本数が少なく、当てにならないことが多いのです。
今回の旅も実はタクシーの不安がありました。長野からのバスで白馬駅で確認したのは駅前にタクシーがあるかを確認することでした。

私の旅の荷物は全てザックです。航空機の旅には畿内持ち込みギリギリの大きさの40㍑のノースのディパックで、それ以外は30㍑のディパックを使用し、家内も手提げからザックに変えています。ザックでしたら最悪2kmは難なく徒歩で移動できるからです。

ホテルにチェックインを済ませて、目的の白馬山麓の散策に出かけました。
まず雪解け水が水田の灌漑水路に音を立てて流れる様子を見るために水田に向かいましたが、運が良いことにホテルのすぐそばに灌漑水路がありました。

まして運のよいことに灌漑水路から水田の開口部を開いて、田に水を流している光景に出会いました。

この辺りを大規模に稲作を行っている農業法人の方に出会い、さまざまお話をお伺いしました。

この方は10年前脱サラして知人と農業法人を立ち上げた方で、稲づくりなど農業の事をお話していただきました。ビジネスに携わった方のお話はとても論理的で分かりやすく、ここで出会ってお話を聞けてとてもラッキーでした。

白馬山麓の雪解け水は白馬大雪渓からの北俣谷と唐松沢からの南俣谷が二股で合流し松川となり、また八方尾根の北側の水は木流川に、八方尾根からは大楢川、八方尾根と遠見尾根の間からは平川が流れ、いずれも青木湖の北を源流とする姫川となって日本海に注ぎます。
この水路の上流は平川の水を流したものでしょう。

美しい林を辿ります。

ここは灌漑水路でなく小川です。いわゆる春の小川です。
春の小川はさらさらいくよ 岸のすみれやれんげの花に すがたやさしく色美しく 咲けよ咲けよとささやきながら

唱歌ふるさとをつくった高野辰之と岡野貞一のコンビの作品ですが、当時高野が渋谷区の代々木八幡に住んでいたため、付近の風景を詠ったと言われ現在は歌碑があるそうですが、高野が作詞した大正時代は、高野の故郷の信州だけでなく日本中このような風景があったのかも知れません。

キクザキイチゲ

カタクリ

辛夷が咲いています。北国では桜の代わりに辛夷が春を告げる花だったようです。
私は春の花木では、桜より辛夷の方が大好きです。我が家にも植えましたが暖地では枝が伸びるのでいつも剪定しなければならず、そのためいつも花芽を切ってしまいろくに花は咲きませんでした。やがて薔薇のために切ってしまいました。

ナナカマドも植えましたが、紅葉もせず、北国の木は暖地で欲をかいて植えても難しいのだと想いました。

白馬山麓の人々は白馬岳の山腹に「代馬」が現れると、水田の代掻きを開始したのでしょう。

唐松、五竜の稜線です。左は長大な遠見尾根です。正面の黒々とした尾根の台地に法政小屋があります。

ダケカンバのある小遠見山はその左側の雪のピークです。遠見尾根はそこから隠れて中央の雪の稜線に突き上げます。中央の雪の大きなピークは五竜岳で遠見尾根が突き上げる白岳はその右にあります。そこが天幕が雪崩で潰された場所です。

稜線の峰々、それぞれの派生した尾根には多くの想い出が詰まっています。山を眺めていると次から次へと思い出がよみがえってくるので、時間が足りません。

八方尾根と白馬三山です。美しい緑と残雪の峰々、どこを見ても絵になります。

道祖神といえば安曇野ですが、白馬山麓にもあちこちに道祖神があります。

辻々には小さな祠があり神様を祀っています。寒冷な気候のため神様に祈ることが多かったのでしょう。祠は水辺に多く見られました。水神が多いのでしょう。

幼稚園の庭に植えられたチューリップです。ここからも左端の稜線に「代馬」望まれます。

まだ桜が咲いています。

木蓮と水仙の春そのものの光景です。

翌朝

水田にたくさん水が張られていました。今は機械で代掻きするため、あっという間の作業なのでしょう。

水路の画像を見ると、耳の奥にあのゴウゴウという水音が聞こえてきます。水辺は蓬の間から土筆が顔を出しています。まさに3月4月5月の春が一挙に訪れています。

山の想い出と共に、白馬山麓の春を堪能しました。白馬山麓の旅は他の地域の旅と異なりました。

私の最も敬愛する戦前の登山家大島亮吉は彼の著作で、「ベルクシュタイガー(アルピニスト)はみな山の中におのおののハイマート(ふるさと)を持っている」と言っています。高校時代彼の著作の中でこの言葉を知り、自分にはどこがハイマートになるのだろうかと想っていました。

やがてこの言葉もすっかり忘れていましたが、80になって突然行って見たくなったのは、やはり後立山連峰と関連した白馬山麓、そして今年の10月に紅葉を見に行きますが、穂高涸沢が、私にとってハイマートだった気がします。

今回の旅が終わって改めて地図を眺めていたら、白馬三山から流れる松川などの小河川は千国街道沿いの川に注ぎこまれて流れますが、これが姫川の上流であることを初めて知りました。
大糸線のJR東日本と西日本の境界は南小谷のため南小谷の北に分水嶺があり、白馬山麓の川は北に流れず、南の大町から高瀬川に注ぎこむものだと想っていました。
姫川は古代の最高の宝物であった翡翠の産地です。出雲大社の宝物館で見事な翡翠の宝物を見たことがあります。福井、金沢、富山から姫川の河口一帯は、弥生時代の超古代から高志(越)と呼ばれ、神話に寄ればスサノオが滅ぼしたヤマタノオロチの本拠は越でした。玉の材料となる翡翠は、金銀を越えて超古代最高の宝物で貨幣価値がありました。

白馬山麓は我が国の弥生時代の先進地であった最上流に位置します。当時は水利の面で山地から平野に面した扇状地が稲作の適地のため、開発されてクニづくりが行われましたが、姫川の最上流の狭く気候が厳しい白馬山麓まで行かなくても、下流で未開発の場所がたくさんあったと想います。白馬村のネットを見ると白馬山麓の最北端の千国には800年前から千国荘と呼ばれた荘園があったようです。
白馬山麓は耕地が狭く水田を前提とした歴史は深くありませんが、翡翠の産地姫川の最上流に位置していることは、さまざまな想像力が湧いてきます。

白馬山麓には神社や寺院が少ないですが、あちこちに道祖神や小さな祠の存在や、アルプスの雪形を暦として、厳しい自然の中で懸命に作物を育てようとしてきた人々の営みの歴史を感じます。

白馬山麓はただの風光明媚な観光地ではなかったのです。