大内氏ゆかりの大寧寺、瑠璃光寺、津和野紀行
山陰ツアーの最終日、萩から大内義隆最後の地である長門市の西日本きっての名刹大寧寺から、山口市に移動、大内氏ゆかりの美しい五重塔を持つ瑠璃光寺を訪ね、ツアーの最後に城下町津和野を訪れました。
津和野は萩と並んで、私が20代の頃から古い城下町として著名な存在でした。30代の時出張で時々岡山や倉敷に行く機会があり、休日に足を伸ばして訪れようと考えたこともありましたが、新幹線の小郡(現在の新山口)からなお遠いため諦めたことがありました。
また関東にいると、室町時代から戦国にかけて幕府の管領代であった大内氏が、遠く離れた長門国山口に咲かせた大内文化の地は余りにも遠く感じます。この大内文化の結晶であった2つの名刹、長門の大寧寺や山口の瑠璃光寺を訪れたいと想っていましたが、念願がかないました。
自分で運転する訳でないので気楽な旅ですが、観光バスの運転手さんは大変です。本日の予定は萩→長門市の大寧寺→仙崎海岸→山口市の瑠璃光寺→長門峡→津和野→石見空港の地図上の赤いラインです。
萩の宿を出て一直線に海辺の道を西に長門市を目指します。山口県では萩や長門は北浦地方と呼ばれています。
長門市の名ははいかにも旧長門国の国府のように見えますが、旧長門国の国府は下関で長門市は戦後地域市町村が合併し長門市と名乗った地名です。江戸時代、萩藩は長門国と周防国の2国から構成されており、一方の周防国の国府は防府です。
旧帝国海軍の戦艦は旧国名を、重巡洋艦には山の名を、軽巡洋艦には川の名前を付けていました。軍事オタクの私には長門というと、山口県の旧長門国より戦艦長門を想い出してしまいます。戦艦長門は戦艦陸奥と同型艦で大和が出来る前まで連合艦隊の旗艦でした。長門は終戦まで生き残り最後は太平洋ビキニ環礁での核実験の標的に使われましたが、最後まで沈まなかったそうです。長門は建艦時から世界の最強力艦を意図していたため、最初から連合艦隊旗艦が約束されていたのでしょう。
戦艦長門、陸奥の後、世界最大の戦艦大和と同型艦武蔵が竣工しました。これを考えただけでも、戦前我が国おいて旧長門国は重い存在でした。ちなみに陸奥国は東北6県の国名で、面積から見たら長門国は陸奥国の6分の1しかありません。
首都圏に住んでいると、遠く離れた西日本各県の主要都市の位置付けは分かりにく感じます。これは近くの関東でも同じです。たとえば栃木県の県庁所在地は宇都宮市ですが、県名と同じ名を使った栃木市があります。栃木市が旧国府だった事は私は知らず、栃木市は県の名前を冠した変な市だなと思っていました。栃木県の旧国名は下野国ですが、明治維新の際、県名は旧国府があった栃木市を中心とした栃木県と、江戸時代宇都宮藩だった宇都宮県が合併して栃木県となりましたが(宇都宮藩は佐幕藩)県庁所在地は奥羽交通の要衝である宇都宮市になりました。
埼玉県は東京都と合わせて武蔵国で、埼玉県には国府が無く、都下の府中が国府でした。当時未開だった府中がなぜ国府になつたか謎ですが、同じく旧浦和市が何で県庁所在地だったのか埼玉県の事も他県の人々から見たら分かりにくいと想います。近年合併してさいたま市となり少し解り易くなりましたが、反面今までの歴史が消えて行ってしまいます。
山口県の人口10万人以上の都市は、人口順で下関市、山口市、宇部市、周南市、岩国市、防府市でほとんど大都市は瀬戸内側で、北浦地方の萩市や長門市は含まれていません。そんなことを初めて知ることも旅の楽しみです。
曹洞宗 瑞雲萬歳山 大寧護国禅寺
大寧寺の正式名称は瑞雲萬歳山大寧護国禅寺で曹洞宗の寺院で、室町幕府の足利義満の時代応永17年(1410)に大内氏の支族鷲頭弘忠が、宋で修行すること20年の活達磨と呼ばれ朝廷の信認篤い石屋真梁禅師を迎えて開山しました。
大寧寺が開山した時代は、中国が明に代わり、鄭和が大船団を組みインド洋からアフリカまで遠征した時代でした。東シナ海の航路が確定し足利義満は明の永楽帝か貰った勘合符による勘合貿易が始まった時代です。日本からの主な輸出品は刀剣、槍、扇、硫黄などで、明からは銅銭、シルク、掛け軸や陶磁器などの美術品を輸入しましたが、これらは足利幕府に莫大な利益をもたらしました。勘合貿易は150年ほど続きましたが、中国に近い西日本の有力な大名は、密貿易など様々な形で中国との交易を開始しました。
その急先鋒は海外交易港の坊津を持つ島津氏と、交易港博多を領有していた大内氏でした。
京都五山の禅宗寺院は、室町幕府が堺を拠点とした勘合貿易における明の禅僧の外交官事務所の役割を果たし、幕府にとって中国の文化、芸術などノウハウの情報収集の場でした。
大寧寺のHPの大寧寺物語によれば、鎌倉時代から幕府の公式の臨済禅に対抗して、最初は島津氏が後に大内氏が加わって、2氏が禅宗の新興教団である曹洞宗の西日本における二大スポンサーとなりました。中国で学んだ留学僧たちの先端知識やテクノロジーや芸術の美意識は、島津氏や大内氏にとって欠くべからざる知的資源でもありました。大内一族は15世紀の前半に4カ所の重要な曹洞宗寺院を建立しましたが、僧侶は石屋禅師の薫陶を受けた鹿児島の僧たちが招かれました。その中の2つが大寧寺と瑠璃光寺でした。
この掲示板によると、大寧寺は江戸初期には禅宗寺院行政を管轄する僧録司となり、九州、中国、四国一円に高い寺格を誇る寺院となり、毛利家家臣250余人が望んで大寧寺墓地に埋葬されました。掲示板にその名が記されています。
大寧寺は、一族の家臣陶晴賢の反乱に敗れた大内義隆が自害した場として名高く、大内義隆の墓所もあります。
義隆は当時一流の文化人で和歌、儒学、有識故実、漢詩、連歌、今様、管弦に至るまで京文化に秀でており、居城の山口には応仁の乱の戦火を逃れるために、京から大勢の文化人が大内氏を頼って滞在していました。
第寧寺は紅葉の名所になっています。参拝客は横にある大寧寺を横に見て、まっしぐらに豊川稲荷に向かいます。
右に見える墓の中には元関東管領上杉憲実の墓があります。上杉憲実は鎌倉公方足利持氏との争った永享の乱の後、足利学校を再興した後出家し西国行脚に旅立ちますが、諸国を巡った末に大寧寺の竹居禅師と出会いました。禅師は憲実のため庵を建てましたが、参禅中に生涯を終えました。
もう一つ著名な墓があります。左大臣三条公頼の墓所です。大内時代大寧寺が位置する深川は三条家の荘園でした。大内義隆が陶晴賢の謀反にあった際、たまたま義隆に招かれて山口城に滞在していた三条公頼は、山口を逃れた大内義隆を追って大寧寺に向かう際、暴徒に襲われて最期を遂げてしまったのです。
大寧寺を調べていたら武田信玄の正室「三条の方」は三条公頼の娘であったことを知りました。信玄にとって「三条の方」は大事な役割を果たしましたが、今まで読んだ信玄ものには、「三条の方」は公家の娘とあるだけでした。信玄が大好きなのでこれを知り感慨深いです。
大寧寺には昭和36年愛知県の曹洞宗寺院妙厳寺の守護神豊川稲荷が勧請祭祀されました。曹洞宗寺院では仏法の守護神ダキニ天いわゆる稲荷社を祀ることが多く、その中でも愛知県妙厳寺に祀られた豊川稲荷が有名です。
明治の神仏分離令で、妙厳寺と豊川稲荷が分離命令が出された時、妙厳寺に大寧寺第45世泰成和尚が、旧藩の騒動によって大寧寺から追われて妙厳寺に身を隠していましたが、泰成和尚は幕末の7卿落ちの際、太政大臣三条実美を手厚く保護した縁で、新政府を説得し妙厳寺と豊川稲荷の分離を阻止したのです。その縁で大寧寺に豊川稲荷を勧請しました。
現在の大寧寺は境内の導線も参拝客の流れも圧倒的に豊川稲荷が主で歴史ある大寧寺は従になっています。この方が経営的に安定するのでしょう。
豊川稲荷社の参拝を終えると大寧寺へと導線が導かれます。
大内義隆の墓所は寺院の奥の山中にあります。西日本一帯の曹洞宗行政の元締めの寺院にしては、庫裏も小さく本堂も質素で坊舎も少ないことが意外でした。2度の火災によって七堂伽藍が消失したまま再建されず今に至っています。2度目の火災は幕末に近くなった頃のせいか、これだけの名刹を毛利氏は保護しなかったのでしょう。
大寧寺の本堂です。
天文20年(1551)大内義隆が最期を遂げた戦乱で七堂伽藍は消失してしまい、その後毛利氏によって復元しましたが、寛永17年(1940)野火によって消失してしまい、焼け残った寄宿寮を本堂として文政12年(1829)に移築したものが現在の本堂です。
歴史ある名刹の本堂が、若い僧の寄宿寮を移築して使用していることも異様です。
豊川稲荷の隆盛に比べると、禅宗の大寧寺は参拝客はまばらです。
長門仙崎海岸
第寧寺を出て長門の仙崎海岸にて昼食タイムです。ツアーの企画者は昼食、トイレタイムなど大型バスが無理なく寄れる場所を設定したり大変です。
仙崎海岸は風光明媚な地で、海の幸を食する施設が揃い観光船の港でもあります。また海上保安庁の巡視船の基地もあります。
大内義隆は一族の家臣陶晴賢に山口を追われて北上し、日本海に面したここ仙崎から九州に渡り再起を意図しました。しかし小舟で出航しましたが強風で航海が不可能となり、再び仙崎に引き返し陸路大寧寺を目指しました。
仙崎で地図を見たら金子みすゞの記念館がありました。ネットで記念館はみすゞが女学校を出て3年後、下関に嫁入りするまで過ごした実家の金子文英堂書店を復元した施設でした。ツアーですから記念館を訪れることはできず残念です。
みすゞの詩は下関に嫁いでからの作品ですが、大漁や星とたんぽぽなど、魚とか海の言葉が印象的で、自分中心でないやさしい眼ざしの言葉は、どこで生まれたのかなと想っていました。しかし仙崎の美しい海を見ていると、みすゞが幼少の頃からこの仙崎の静かな美しい海の光景に育まれて育っていたことが分かりました。
みすゞは下関に嫁いでから亭主が理解不足のため自殺をしてしまいました。童謡の詩人として西城八十や北原白秋、野口雨情など当代一流の詩人たち評価されていたのに、あたら若き才能が生かされなく残念です。
仙崎のあまりにも美しい海を眺めていると、義隆やみすゞの哀しみが漂っているような気がしてきます。
ツアーですから記念館を訪れることはできず残念です。
大内文化の結晶、瑠璃光寺国宝五重塔
瑠璃光寺は、毛利氏以前、防長2州で花開いた大内文化の結晶です。
ここで戦国時代前期に滅亡した西国一の名門大内氏について少し触れたいと想います。防長2州には毛利氏が300年かけても乗り越えられなかった華麗な大内文化が花開きました。
大内氏の出自は百済の聖王の第3王子の琳聖太子の末裔と称し、周防国大内村に居住したことから大内氏を名乗りました。奈良時代任那系の渡来人として多々良氏がいて周防介に任じられており、大内氏も多々良氏を継いでやがて周防権介を名乗り、鎌倉時代には完全に周防国を支配下に置きました。
南北朝時代に正式に周防守護職に任ぜられ、長門国も切り取って防長2州を支配し、京での南北朝合一にも尽力し、その結果、和泉、紀伊、周防、長門、豊前、石見の6か国守護に任ぜられ、百済王子の末裔を名乗って李氏朝鮮とも独自の貿易を行い莫大な富を築きました。
室町時代には筑前守護も命ぜられ貿易港博多を手に入れ、応仁の乱には山名方に着き2万の軍勢を率いて京に上り、管領細川氏と争い石見銀山の豊富な銀を持って明との勘合貿易を独占しました。そうして幕府の管領代として、周防、長門、石見、安芸、備後、豊前、筑前を領し、西国一の戦国大名となりました。
周防の大内から本拠を山口に移したのが第24世の大内弘世で、山口開祖と呼ばれています。弘世は室町第2代将軍足利義詮に挨拶に京に行き、その時京都の雰囲気とたたずまいに驚き、帰国して山口盆地に京都に倣った町を作ろうと決意しました。
そうして大内氏は第24世の大内弘世から31代義隆にいたるまで200年間、歴代の当主は山口盆地に古典的な京の町の様子をイメージしながら「西の京都」を目指したました。
大内氏の歴代当主は勇猛な戦国武将であると同時にすぐれた文化人でもありました。
貿易港博多を通じて明や朝鮮の豊富な文物が入り、また豊富な資金を費やし学問、芸術、寺院建築を行い、戦乱の京から逃れた文人たちを保護したため、居城の山口には大内文化が花開きました。
雪舟も大内氏の庇護を受け勘合船で明に渡り帰国後も山口に逗留し常栄寺の庭園を作庭しました。ザビエルも山口に訪れ大内義隆に謁見し布教の許可を経て伝道所大道寺を設けました。また大内政弘の援助で法華教全8巻の版木を作成、版木はかなりすり減って使われており仏教の興隆に寄与したのです。
瑠璃光寺の国宝五重塔はこのように大内氏文化の華やかな時期に建立されたのです。
法隆寺、醍醐寺の五重塔と並び我が国で最も美しいと言われる瑠璃光寺の国宝五重塔です。
瑠璃光寺は、毛利氏の時代に様々変転を経て今日に至っています。
香積寺:瑠璃光寺の前身香積寺は室町時代、大内義弘がこの地に建立した寺院の名です。しかし香積寺を建立した義弘は応永の乱で足利義満に敗れ戦死してしまいました。義弘を供養するために弟の盛見が、ここ香積寺に五重塔の建築を始めました。しかし盛見も九州の少弐氏、大友氏の連合軍の戦に敗れ戦死してしまいましたが、五重塔は嘉吉2年(1442)頃完成したのです。
香積寺の移転:大内義隆を自害させた一族で領主となった陶氏の子孫陶弘房の夫人が、安養寺を建立し後に瑠璃光寺と改名しましたが、毛利輝元が関ヶ原敗戦後萩に城を設けるにあたり、慶長9年(1604)香積寺を萩に移転しました。しかし萩の寺院を調べても香積寺の名は無く一説には萩城の建築資材のために解体移動したとも言われています。
その元禄3年跡地に安養寺後の瑠璃光寺を移転し、これが現在の瑠璃光寺です。
五重塔では5年ぶりに特別拝観が行われていました。塔の1階の横で大勢の人が拝観しています。阿弥陀如来像と大内義弘坐像が拝観できます。
五重塔の前庭も見事な庭園です。
瑠璃光寺の正式名称は曹洞宗保寧山瑠璃光寺で、御本尊は薬師如来です。
先に触れたように、この地には元々大内義弘が建立した香積寺があり、義弘が戦死したためにその供養で弟の盛見が五重塔を建てました。毛利元就が萩に城を築くに当たって大内義弘が建立した香積寺を移転し、代わりに今ある寺院は陶弘房の奥方が仁保に建立した瑠璃光寺(建立時の名安養寺)を移転したものです。
想像するに大内氏の全盛期の義弘が建立した香積寺の規模はどのくらいだったのか、恐らく今ある、陶弘房の奥方が建立した瑠璃光寺と比較にならないくらいの規模だったに違いありません。
瑠璃光寺本殿はコンパクトな敷地に上手にレイアウトされています。
紅葉の名所、長門峡
近畿や西日本は照葉樹林が多く東日本に比べると紅葉の素晴らしい地域は限られています。長門峡は紅葉の名所とされていますが、関東では名所にならないでしょう。
山陰の小さな城下町、津和野
山陰の小さな城下町津和野の名は、一面にツワブキの生茂る里のため、つわの野というと地名が生まれたと言われています。
ツワブキの花は放置していても毎年必ず花を咲かせてくれる宿根草で、野趣あふれるその姿は魅力的ですが、あまりに当たり前の宿根草のため、近年のガーデニングではあまり使われていません。
左の画像は、津和野の原名がツワブキであったことも知らず、藩校の庭で美しく咲いているツワブキを見つけ、偶然撮影したものです。案内も何も表示はされていませんが、恐らく街の人が植えたのでしょう。
昔から津和野は行って見たい街の1つでしたが、交通機関の問題で九州や北海道に比べてあまりにも行きにくい所でしたが、今回ようやく実現できました。しかしツアー旅行の制約で山の上の津和野城址は見ることができず、城下町もあまりにも小さく期待が外れました。
しかし書棚にある古い城郭本の山陽・山陰編の津和野城を読んでいたら、このツワブキの記事があり、津和野で偶然撮影した画像もありました。
ツワブキの花の画像を眺めながら、あの少し物足りないけど愛すべき津和野の街を想い出し、しばし旅情に浸ることができました。
改めて花の威力に驚いています。
山陰の小さな盆地の津和野が城下町になったのは以外に古く、鎌倉時代の元寇後まで遡ります。永仁3年(1295)鎌倉幕府の執権北条時宗は元寇の再来に備え、防御を強化するために能登守護吉見氏の一族の吉見頼行が石見国古賀郡の地頭を命ぜられ津和野の山城に拠点を設けたことがはじまりです。
鎌倉の御家人の武将で吉見氏という名は聞きなれないため調べてみたら、その出自は何と吉見氏は私の地元武蔵国の吉見の領主でした。吉見氏は頼朝の庶弟で義経と共に西国で平家の滅亡に追いやり、後に謀反の罪で自害させられた源範頼の子が比丘尼から吉見郷の所領を貰って吉見氏と名乗ったことが始まりでした。
萩城を調べていたら、毛利氏が萩に追いやられた際、何も無いとされていた萩の地の海に突き出た海岸の指月山に吉見氏の隠居城があったことを知りました。
津和野に移った源氏の名門吉見氏は正頼の時に大内義興の娘を正室に迎え、大内氏の見方として石見を益田氏と2分する勢力になり、石見の延長で萩地方も吉見氏の領地だったようです。大内氏が滅びてから毛利氏の配下になり、関ヶ原の合戦で西軍に組して敗れるまで14代310数年の間、津和野を領していた歴史的な城下町なのです。
関ヶ原で敗れた津和野城の吉見氏は、出雲国月山富田城の吉川氏、石見国浜田城の毛利氏、益田城の益田氏と共に出雲、石見、隠岐3か国の大名は毛利輝元の支配下にあり、毛利本家に従って防長2州に移りました。代わりに出雲、隠岐には浜松から堀尾氏、石見国の半分は銀山があるため徳川天領となり、津和野には坂崎出羽守が入場し津和野城を大改築しますが、千姫事件でたった16年で改易となり、因幡国から亀井氏が43、000石の藩主となり明治まで250数年間続きました。
同じ領主で800年続いた続いた城下町は相馬藩と九州人吉藩だけで極めて珍しく、津和野藩も領主が3代と変わりましたが800年の歴史を持つ珍しい城下町の一つです。
津和野は人口6,500人の小さな町です。町役場は古い明治の頃の郡役所でしょうか、今でもここで業務が行われています。
帰宅してネットで津和野街の人口を知りました。800年も続いた城下町なのに、同じ800年の歴史を持つ福島の相馬と熊本の人吉に比べると文化遺産の規模が小さすぎて物足りなさを感じたのは、人口の少なさでした。これでは何もできないでしょう。
津和野が相馬と人吉と異なるのは、城が見えないことです。相馬と人吉は平城のため城址が街の中心となります。
また山間の小さな盆地で、城址が山城の大分の滝廉太郎の岡城址や郡上八幡と比較すると、残念ながら津和野の物足りなさは、山城の存在を前面に出さないことです。岡城址や郡上八幡城は往復1時間を要する山城です。(郡上八幡城はタクシーで登れる)
竹田城と並ぶ中国地方の山城の名城津和野城はリフトがありますが、存在が薄く感じます。
津和野の唯一の観光の目玉の藩校養老館です。ここで学んだ森鴎外と西周がガイドの解説のメインでした。しかし一般に森鴎外は知られていますが私は西周の著作を読んだことはありません。
津和野の伝統的な祭り、鶴の舞の像です。
この山頂に津和野城址があります。標高350mで、スキー場と同じリフトが肩までありそこから徒歩で山頂の城址に行きます。山頂からの写真で見ると美しい津和野盆地が真下に見えます。
ツアーのコースに無いためと時間がないため、城址には行けず残念でした。
今回初めての山陰の旅で、今まで分からなかった、或いは知らなかった様々ことを私なりに知り感じました。
出雲大社と出雲神話、石見銀山、山陰地方の風景、大内氏の長州と毛利氏の長州、そして800年続く城下町津和野、これら様々な行先でそれぞれの歴史を想いながら辿る旅は、私に大いなる知的充足と至福をもたらしました。
この山陰の旅の紀行は、ブログを2度の初期化の際データーを全て消してしまったため今回3度目となりました。同じことを3回書くのも苦痛ですが、別なHPで20年間も旅の紀行を記録しているためがあり、放置せず書きました。
観光にはいろいろタイプがありますが、私の観光はおいしいものや風光明媚な景色を楽しむことに加えて、歴史を楽しむことに重点をおいていて、旅は必然的に歴史紀行となります。日本人も外国人も大方多くの人は、歴史紀行のウエイトの大小はありますが、私と同じような気持ちで旅に行きます。
山岳地帯は別として、寺社や城址など歴史建造物があることによって風光明媚な景色の魅力が倍化するし、おいしいものは古くからの名物が、年季をかけていっそう味が磨かれ味の魅力が増します。都会のエンターテイメント施設を除くと、私たちの観光の主要目的は過去の遺産に触れに行くことになります。
古都を除いて、魅力的な各地の物産の大半は、各藩が財政立て直しのために江戸時代に力を入れて育てた産物です。また神社、仏閣は江戸時代各藩が保護し発展させたものが多いです。
江戸時代、島原の乱が鎮定された以降、幕府は武断から文治主義に大転換を図りました。
思いつくまま列記すると、かっての倭寇の当主平戸の松浦氏は鎮信流茶道や甲子夜話をしたためる学芸大名に変身したし、佐賀の鍋島氏や島津氏は自然科学系の学芸大名になりその結果、佐賀藩や薩摩藩の軍艦や兵器が無かったら戊辰戦争は勝利しなかっただろうし、肥後細川家は幽斎の古今伝授の家柄で文化度はNO1の家系でした。加賀前田氏はもちろんのこと、白河藩の松平定信は老中の際、学芸大名と交流があり学芸をいっそう促進しました。盛岡に行った際博物館で南部氏の書籍の展示を見た時、宮沢賢治や石川啄木がなぜ岩手で生まれたか、その意味が解りました。南部氏に対抗した津軽氏も学芸都市弘前を生みました。そして秋田の佐竹氏、会津藩の松平氏、伊達氏など東北6県の大名たちも薫り高い文化を残しています。関東では佐倉の堀田氏が蘭癖大名と呼ばれ西の長崎東の佐倉と言われるほどオランダ医術のメッカになりました。
今回の旅で、長州はいまだに大内氏の遺産で人を集めていますが、長州藩では大内氏が学芸文化のために滅んだと想いこみ、長州藩全体が学芸文化に対して冷淡に感じました。その中でも名所旧跡では、松下村塾の足軽の息子品川弥ニ郎の名が見られました。彼は新政府の内務大臣にりましたが、多分各地の文化保存思潮を知ったのでしょう。萩城の花江御殿、松陰神社の花月楼、山口の露山堂の移設保存に力を注いだ数少ない人物でした。
長州や津和野を旅した後より深く歴史を調べると、明治2年にそれぞれの地域で負の遺産が生じたことを知りました。長州では明治になり廃藩置県の直前、戊辰戦争で戦った兵の大半を解雇したため反乱が生じ大弾圧が行わたこと。長崎の隠れキリシタンたちを萩、津和野、福山に移送し弾圧を加え、外遊中の岩倉使節団が諸外国から非難を受けて中止指令を出したことなど、一般的な歴史では語られることのない歴史に暗い影を落としました。特に後者は明治新政府の人たちや、政府をリードした岩倉使節団が、世界の中で新国家を樹立するに当たり、欧米諸国の価値観をそのレベルでしか把握していなかった教養の無さを露呈してしまったと想います。
今回の旅では、仙崎と萩以外山陰の美しい海を眺めることはできませんでした。バスツアーでは、時間がかかる海岸沿いの国道ではなく、中国山地の高速道を移動するため、日本海の変化に富む海岸線や山間の小さな漁港の景色を味わうことができず、旅の特徴の線を辿るのでなく観光地の点だけを訪れた結果に終わりました。
たとえば五能線の海岸の景色に堪能することは、鉄道旅行の醍醐味であり、津軽を目指して一直線に内陸の高速道を走って行っただけでは本当の津軽は味わえないと同じように、山陰の海岸線を走らずして山陰を旅したことになりません。
ここにツアー旅行の限界がありますが、便利なため仕方がないことです。今回消してしまった山陰旅行のブログを3回書き直した結果、2つの心残りを感じました。1つは松江の街に行かなかった事、2つ目は山陰海岸の窓であった鄙びた漁港の温泉津に行かず、変化に富んだ山陰海岸の景色を味わうことが無かった事です。晩秋には松江と温泉津と山陰線の旅をぜひ実現しようと考えています。黒潮の流れに面した太平洋岸だけでなく、古代先進地であった日本海沿岸が分からないと本当の日本のことを知れないような気がします。