松陰神社、萩の武家屋敷、萩城祉

本州の西の端に位置する旧長門国は、中国地方を山陰と山陽に分けていた深い背稜山脈は末端になって低くなっており、黒潮から流れた対馬暖流が沖を流れ、山陰地方と見られないような温暖な風景が広がっています。
その長門国の毛利藩とも長州藩とも萩藩とも呼ばれる36万石の城下町萩は、日本海沿岸にありながら江戸期より続く夏ミカンの山地で、武家屋敷の庭から夏ミカンが顔を出している穏やかな温暖な地で、ここが薩摩の鹿児島と共に幕末戊辰戦争で、江戸上野、関東、東北から函館まで新政府軍の主力となって戦ってきた剽悍な長州兵の根拠地であったとは、とても想像ができません。

松陰神社

萩郊外の吉田松陰を祀った松陰神社です。

松陰神社は明治23年松下村塾の出身者によって塾の改修が行われ、この時松陰の実家の方により土蔵造りの祠が建立されました。明治40年松下村塾の出身者の伊藤博文が中心となって本殿が建立され、昭和17年には社殿が建立されました。

下田の私営の歴史資料館には、松陰が江戸での獄中の様子が模型で再現されていますが悲惨です。東郷元帥や乃木大将など皆神様に祀られていますが、松陰はいわゆる安政の大獄の政治犯に過ぎないのに下田の獄中の様子は悲惨すぎ、萩の地で神と祀られていると少しほっとします。

松下村塾は松陰の叔父、玉木文之進が八畳一間で開いた私塾の名です。吉田松陰は少年の時から入門しましたが、秀才の誉れが高く藩校明倫館の塾頭になり、その後、松下村塾を引き継ぎました。

藩校明倫館は士分の子しか入学は認められませんでしたが、松下村塾は武士や町人分け隔てなく入門をさせ、約50名の塾生がいたと言われています。

門下生には高杉晋作、久下玄瑞が松下村塾の双璧と言われ、吉田稔麿、入江九一加えて四天王と呼ばれましたが,維新を見ることなく奇兵隊を創設した高杉晋作は藩の大回転を行った後、病死。久坂玄瑞と入江九一は禁門の変で戦死、吉田稔麿は池田屋の変で討死にしてしまいました。

明治維新を迎えた主な塾生は、伊藤博文、山県有朋、品川弥ニ郎、山田顕義、野村靖、前原一誠などです。木戸孝允(桂小五郎)は江戸に遊学していたため塾生でありませんでした

松陰を始め、松下村塾の一流の人間は皆、明治維新を見ずして亡くなり、明治新政府は二流の人間でスタートしたと言われています。
このような話が伝わっています。山県有朋が高杉晋作に「自分は吉田稔麿に比べてどの程度劣っているか」尋ねた際、晋作は笑って、「人と比べられるくらい同等というのか、吉田が座敷にいるとすれば、お前は玄関番ですらない。味噌も糞も一緒にするとはこのことだ」と答えたとあります。

この8畳間の狭い座敷で国事を語っていたのでしょう。皆若いから攘夷だとか幕府のだらしなさとか、我が国を取り巻く脅威とか、そんなことを口角泡を飛ばしながら議論していたのでしょうか。高杉晋作は4か国連合艦隊との交渉で偽の全権家老として事に当たり、久坂や入江は禁門の変の長州軍の司令官レベルであり、吉田は長州代表として肥後の宮部鼎蔵など脱藩浪士幅広く付き合いがあり視野の広い人物でしたが、明治新政府の指導者となった伊藤博文や山県有朋は、小栗上野介のような教養を身に着ける時間が無かったのだと思います。

城下町萩

城下町萩の美しさは昔から有名です。
萩は中国地方の大大名で広島を本拠としていた毛利氏が関ヶ原の戦いに負けて、長門、周防の2州に閉じ込められてしまいました。

新しい居城は、山陰、山陽どちらも交通便利な旧大内氏の城があった山口を望みましたが、幕府は許さず、瀬戸内から遠く交通不便で誰も住まなかった日本海に注ぐ阿武川の三角州を形成する松本川と橋本川にはさまれた州に萩を指定しました。

毛利氏は城は日本海に突き出た指月山の麓に作り、阿武川の中州に城下町を建設したのです。

しかし毛利藩は中国地方120万石から防長2州36万石に減らされ、家臣団もそのままで移住しましたが、防長2州は中国山地の裾に当たり山陰の厳しい気候は和らぎ、日本海側には対馬暖流が流れ温暖な地でした。

このため新田や塩田の開発や下関を中心とした北前船や瀬戸内の交易により経済が発展し、幕末には表高36万石でしたが実質100万石の裏高があり、豊富な資金で倒幕活動を行いました。

萩には武家屋敷群の町割りがそのまま残り、新しいデザインで家を建て替えていないため、補修や改築で大変ですが古い町並みが自然に残っています。

近年各地で古い町並みが復元されており、観光用に整備された町並みが増えていますが(それでも古い街並み再生には大賛成です。)萩の家々は、少しずつ補修し街並みを維持してわざとらしい雰囲気は皆無です。萩の街は、全国的に古い町並みの保存活動が始まる以前から、高山や津和野と共に江戸時代以来の古い町並みを維持していて都市として有名でした。

古い町並みの維持は費用の他、想像するに大変なことです。まず自家用車の駐車場の問題があります。自家用車ほど古い街並みに違和感を与える存在はありません。古く美しい街並みが統一されている高山や角館、或いは奈良の今井町にはカーポートが無く、広い住宅は屋敷の庭内に自家用車を入れ、ほとんどの家は目立たない共用駐車場に自家用車置いています。

若い主婦に世代交代をした場合、毎日使用するバストイレ、キッチンの近代化が必要です。まして我が国の近代的な水回り設備は世界最高水準にあるためなおさらです。
大正時代に建築された多層階の銀山温泉の旅館の女将からお聞きしましたが、バス・トイレの水回りの近代化のために、昔の温泉街で工事車両が入れないため、大型クレーンを使用して裏山越に搬入したそうです。水回りを一新したことから若い女性たちに人気の宿になりました。白川郷の合掌造りの宿も水回りは近代化されています。昔英国で日本の鎌倉時代の古い木造の修道院に泊まりましたが、水回りは古いデザインで復元された最新のものでした。

そして全室空調の時代になった今、高温多湿な日本の夏はエアコンが無いと過ごせません。空調設備の場合室外機の問題があります。室外機はカバーを付ければ景観的には解決します。
私たち観光客は勝手に非日常的な古い町並みの景観を楽しみますが、住んでいる人は、そこが日常の場なのです。

考えて見れば近年の我が国の住宅は日本の風土に合う住宅デザインを、大工さん、或いは工務店、或いは住宅メーカーそれぞれが、てんでんばらばらに行って来ていました。我が国の街並みが欧米のように統一したような姿は、今後難しいかもしれません。

それまで昭和の住宅に共通していたのは、伝統的な日本家屋の深い庇のゆったりとした傾斜の瓦屋根、2階建て住宅は総2階では無く2階の窓から1階の屋根に出られる構造のため、特に雪国では転落の危険が伴わず雪下ろしが可能でした。外壁は土壁と木材で腐食防止のため柿渋が塗られていました。開口部は桟の多いのガラス戸で、玄関は細かい縦格子の引き戸が標準でした。

戦前戦後の住宅は大工さんがいて、瓦屋、左官、建具、畳、水道屋、電機屋さんそれぞれが、風土的に若干の相違はありますが、ほぼ共通した技術と素材の基に家を建ててきました。各地それなりの不揃いな街並みでも、地域に共通した大工さんや職人さんによってほぼ統一されて来たように想います。

ことさら古い街並みを求めなくても、現在でも地方の農村部の家並みはほぼ地域で共通しており、都市に比べて日本の農村の美しい景観を形作っていて、人々が口には出さないけれど、なつかしさという感覚で旅の楽しみの一つになっているように想います。今回旅した山陰の石州瓦の家並みは、まさにそうでした。

萩は日本海に面しているのに家々の庭には夏ミカンがなっており、萩周辺は夏ミカンの山地でもあります。対馬暖流のお陰なのでしょう。

高杉晋作の像です。この近くに高杉晋作の生家跡があります。

高杉晋作は若くして視野の広い人物で、幕末の傑物である佐久間象山や横井小楠とも親交がありました、江戸遊学、上海遊学後、江戸で獄中の吉田松陰を度々見舞い、上海で見て来た列強の様子に義憤を感じ、長州藩士を集めて建設中の英国公使館を焼き討ち行いました。更に下関戦争、奇兵隊の創設、1次2次の幕府との長州戦争で大活躍しましたが、27歳8か月でその生涯を終えてしまいました。

私は幕末の長州藩士の中で高杉晋作を最も評価しています。多分彼が生き残っていたら明治新政府は別の形になっていたような気もします。

もう一人高杉晋作に惚込み、自己の私財を全て奇兵隊に投げ出した下関の豪商白石正一郎を想い出します。奇兵隊は藩から1銭も得ず、白石が隊士400人の手当てと奇兵隊のために自分の屋敷を本陣に提供し、その後も援助を続け借財迄してしまいました。維新後、文人でもあった白石正一郎は自己の事も語らず、恩に報いてくれる晋作もこの世にいないため、下関の赤間神宮の神官でひっそりと生涯を終えました。西郷も維新の影の功労者として、白石正一郎を高く評価しています。白石正一郎の生涯を想うと長州藩士たちは冷たいなと感じます。

以前、明治人の伝記を好んで読んだことがあります。例えば会津藩落城時の若き家老山川浩は、落城後斗南藩の指導者となりましたが、暮らしは厳しく妹の捨松(アメリカ留学後大山巌に嫁ぐ)を里子に出し、後陸軍に入り西南戦争を経て、弟健次郎(後東京帝大総長)の面倒を見ながら、陸軍少将のまま高等師範学校校長を務め、晩年は貴族院議員になり亡くなりました。しかし彼の家には絶えず会津藩関係者や故郷の若者が書生として面倒をみていたため、その矍鑠とした経歴の影で最後まで生活は苦しかったと言われています。

もう一人熊本藩士の息子だった石光真清の手記は明治の時代の軍人を描いた私記で隠れたフアンが大勢います。幕末熊本藩の様子、神風連の乱、西南戦争、そして陸士入学、台湾遠征、日清戦争、日露戦争の従軍、満州での秘密任務、そして晩年と一人の明治人の生涯の一大ドラマが描かれています。本書の中で石光真清の叔父野田豁通が登場します。野田豁通は幕末から活動し戊辰戦争では東北各地を転戦し函館戦争では軍監として活躍し、戦後初代青森県知事になりました。後に陸軍主計総監になり貴族院議員を歴任、石光曰く後藤新平、斎藤実、柴五郎たちと将来有為の少年として拾い上げ社会に送り出すことに努力しました。時に野田邸では十数名の書生が養われていて収入は惜しみなく後輩のために費やされました。しかし野田豁通が亡くなり石光が叔父の葬儀を行うに当たって金庫を見たら85円しかなく、銀行通帳にも残高が無く、生命保険も借り入れのため受け取る金はありませんでした。葬儀は宮内庁からの御下賜3千円と親戚知己の3千円で、名誉を傷つけることなく葬儀を済ませたとあります。功成遂げた明治人の壮絶な生涯でした。

こうした明治人の生涯についての著書を読んでいる時、椿山荘で親戚の結婚式の機会があり改めて庭を眺めましたが、会津藩士の山川浩や熊本藩士の野田豁通の生きざまと、元椿山荘の持ち主の山県有朋と比べてしまいました。

萩城下は萩焼の店や骨とう品店がいくつかあります。昔長い間唐津焼の湯飲みを使っていましたが、割れてしまったので、萩焼に切り替えた記憶があります。記憶が定かでないのは余り愛用していなかったせいもあるのかも知れません。でもお湯を指すと美しい桜色になったことは憶えています。多分萩焼うんぬんより湯飲みの形状が快適では無かったせいもあるのでしょう。

柿渋塗料の禿具合いは何とも味があります。現在の浸透性木材保護塗料は均等に色あせてくるため、味わいが深くありません。

旺盛な樹勢の生け垣です。裾も枯れ上っていません。気候も良いのでしょう。

このような住む人の息遣いの感じる家は大好きです。旅に出ると家並みを撮影したい衝動に駆られますが、プライバシーの問題もあるため、伝統的景観保存地区や石見銀山のような世界遺産登録地区の家並みしか撮影はしません。木製の門扉や木戸は珍しく中々お目にかかりにくい光景ですが、とても美しいです。

日本人は新しいものが大好きです。一説には災害が多い我が国では、歴史は積み上げるものでなく、流れて行くものだと唱える人がいます。季節の移り変わりを尊ぶ心から「変わることを尊ぶ」文化が生まれたと唱えます。家も新しいタイプに建て替えられて家並みもどんどん新しく変化している現象もあります。しかし伊勢神宮の20年ごとの遷宮は、従来と同じものを建てるので、新しいタイプの家に作り替えることと意味が異なります。

日本人は新しいものも好きですが、それなりに古いものも好みます。しかい単なる古いものだったら古臭いと言って嫌われます。私たちが好む古いものはいわゆる「年季の入った」古いものが好きなのです。「年季」とはただいたずらに歳を経たものでなく、その背後には「年季の入った腕、芸、美意識」が含んでいるように感じます。
先ほど家内が雛祭りのためのひな人形を飾っていました。新しいものだけが好きだったら毎年古い雛人形も五月人形も飾りません。雛人形や五月人形には職人の腕を感じるし、雅な平安時代や豪気な鎌倉時代の先祖たちの年季の入った生き様を偲ぶ機会となるのです。

こういうことを毎年目で見て子供たちは学習し伝統を学びます。多分この風習があるのは我が国だけでしょう。

先日のカタールでのサッカーワールドカップを皆、TVで観戦していたと想います。素晴らしい近代的なデザインのスタジアムとその周辺の画像を見ていると、オリンピックの際の日本の国立競技場のデザインと比較しながら見ていた人も大勢いたと想います。これを見ながら未来志向の近代的デザインは、世界的に近代デザインに携わるデザイン事務所がたくさんあり、お金を出せば素晴らしい未来デザインも可能だと思いました。以前国立競技場のデザインが討議されていた際、大手ゼネコンの建築部門の先輩に聴いたら、今はどんなデザインでも建築は可能だと言っていたことを想い出しました。

成熟した国家を目指す我が国には、「年季の入った腕、芸、美意識」を相当意識せざるを得ない時期に入っているように感じます。

萩の宿

海辺に面した萩の宿のロビーは長州藩士の鎧兜や戊辰戦争で使用した大砲、萩焼の名品が展示されていました。

左は仏式四斤山砲の改良型と想われます。射程2100mで、四斤とはフランス基準で砲弾の重さが4kgの砲の意味です。山砲は砲架を分解出来て馬2頭で運搬できる砲を意味しており、山道が多い我が国では多くの藩が使用した砲ですが、画像は仏式4斤山砲に比べると砲身が長く、改良型と想います。

右はホウイッスルと呼ばれた砲で、擲射によって炸裂弾を発射する榴弾砲で、攻城に使われました。

萩城址

萩城はツアーコースに含まれていませんでしたが、地図を見ると宿の直ぐ近くのため、早朝浜辺の散歩を兼ねて城に向かいました。萩城跡は天守も無く一般に知られていませんが、訪れて見ると海に囲まれた素晴らしい城址でした。

本丸内門


萩の地は、鎌倉時代の元寇再来に備え、能登守護吉見氏の一族が、石見国古賀の地頭を命ぜられ津和野に居城を設けました。それから300年後の元亀元年(1570)に隠居城を日本海に面した萩の指月山に砦を設けたことが、萩城の始まりです。吉見氏は毛利氏に従って関ヶ原合戦に敗れ、津和野を明け渡し萩の指月山城に移りましたが、毛利本家が萩に移るに当たって、指月山城から退去し北部の櫛山城に移りましたが、やがて吉見氏は毛利氏を見限り江戸に出奔してしまいました。

萩に移住した毛利氏は海に突き出た指月山(しずきやま)を新城と決めましたが、36万石の家臣が登城する指月山では城が狭すぎるため、満潮時には海に没する麓を埋め立てから工事を始めることを余儀なくせざるを得ませんでした。築城には大量の資材が必要で、山口の香積寺を解体し建築資材として使用したとの説もあります。また築城中に大量の五郎太石が盗難される事件があり、キリシタンの有力家臣を誅殺する事態などが生じ、工事は難航しました。


しかし山と海と川の天然の要害に囲まれた難攻不落の萩城は、とうとう戦火にまみえることなく明治6年の廃城令を迎えました。萩城は明治新政府の立場から率先して取り壊しをを行いました。

城址の堀を渡ろうとしたら、大陸から何梯団にも分かれて鴨の渡り鳥が飛来してきました。先頭の鳥が、堀の着陸地点を見つけようと急降下して来ましたが、それを狙う猛禽の存在に気付き、堀に着陸しないで指月山の上に戻って行きました。

この時期早朝の見沼たんぼでも鴨の集団が飛来し、着陸点を探しながら旋回している光景をよく見かけますが、このように猛禽類が待ち構えている光景に出会ったことはありません。長州は猛禽類の生息地なのでしょうか。

萩城の特徴の一つは美しい花崗岩から作られてた石垣です。造営に急いだため堀がかかる表面の石垣は、緻密に積まれていますが、裏側は粗い積み方で間に小石を詰め込んでいます。この方が自然で私は好きです。石垣の間の土壌から植物が成長して伸びている風景も中々のものです。

美しい城址のため、かなりの枚数を撮影しましたが、キリがないため最小限を掲載しました。右の階段を登ると天守台に出ます。

天守台です。ここに五層の壮大な天守が築かれました。幕府は築城地を萩に指定しましたが、その後は江戸城普請で忙しく、遠国の大名の城郭に付いては放任したので、毛利氏は、気兼ねなく五層の巨大な天守を持つ広大な萩城を建築したのです。

天守台から望む広大な内堀で36mの幅があり、武具をまとっての渡河は事実上不可能だったでしょう。

天守台から指月山を望みます。頂上にも本丸、二の丸の砦があり、萩城は指月城と萩城の2つが組み合わさった平山城の形になりました。

早朝のため城址で犬を散歩させている人を何人か見かけました。こんな美しい城址を毎朝散歩できる萩の人が羨ましくなりました。

築城以来の天守台への石段です。藩主は籠で登りましたが、山口政庁に移る前、藩士たちは毎朝ここを登って登城したのでしょう。福原氏や益田氏、周布氏など藩の重臣たちや松陰も、高杉も、木戸も久坂もこの石段を登ったのでしょう。

城内2ノ丸には毛利氏の別邸から移築した花江茶亭が残っています。

藩校明倫館から移設した太鼓橋の万歳橋。中国上代のデザインを象徴した橋。漢籍の教養教育が行われた明倫館を象徴するデザインです。

萩城の絵図。2重の堀の外側が三の丸、その内側がニの丸、内堀の中が本丸です。三の丸、二の丸、そして指月山城を合わせると萩城の巨大さが分かります。

在りし日の五層の天守の写真です。これ1枚しか残っていません。

城を出て舞の浜づたいに宿に戻りました。美しく日本海に突き出た萩城は遺構が残っていなくても、難攻不落な鳥取城や月山富田城を落城させ中国地方の覇者となった毛利元就の城に対する思想が伝わって来て、名城の印象が心に深く刻まれた城址でした。