瀬戸内紀行その1・錦帯橋、岩国城
4月の17日から20日までの4日間、昨秋の山陰に続き、瀬戸内地方を歩きました。
今回はツアー旅行でなく、オリジナルでコースを設定したので、電車やバス、フェリーの運航地や時刻など事前に丸2日間要して、乗り継ぎと見学時間を調べました。また旅行中も絶えずスマホでそれぞれの時刻表を確認しながらの旅でした。
今回改めて気が付いたことは、主要な観光地や地方大都市以外の地方は、以前に増して車社会が進行していることを痛感しました。バスも1時間に1本運行していたら良い方で、タクシーも見当たらずしかも呼べません。レンタカーは便利ですが、歳を取ると地理の勘が働かなくなり最新のナビを備えた車でないと、スムーズに目的地に行けません。また昨秋の山陰旅行のように高速道路に頼ると道中の鉄道沿線の風景や旅情が味わえず、ただ観光地に行ってきただけの結果に終わってしまいます。
その意味で今回はどうしても行きたかった場所も行けたし、沿線の街の様子もうかがえたし、何より岩国、広島、呉周辺や岡山周辺の鉄道や路面電車に乗れたことで、自分の知らない地域の人々の日常が垣間見られたことで、とても楽しく感じられました。
錦帯橋
岩国空港に降り立って、外を見たら遠い滑走路で米軍海兵隊のF35ステルス戦闘機が2期編隊で離陸する光景に出会いました。ついでにオスプレイも飛んでいれば良いのに想いました。昨日開催された米軍海兵航空隊のフェスティバルのポスターが掲示してありましたが、駅までのタクシーの運転手さん曰く、岩国基地はアジアでの米国海兵航空隊の最前線基地のため新鋭機が多く、今年は全国各地からマニアックなフアンが押し寄せたと言っていました。
岩国駅から街外れにある錦帯橋は距離があります。路線バスを降りて錦帯橋やロープウエー、岩国城のセット券を購入し、川に面した広い道路を渡ったら突然錦帯橋が眼に入ってきました。しかも180度のパノラマの光景でした。
目の前に横たわる錦帯橋の景色を見て、久々に胸のときめきを感じました。川床が覗く美しい川面、川の畔に連なる新緑の桜や八重桜、そして背後のやさしいなだらかな山、石と木の素材で優雅なアーチを描く錦帯橋がそこにかぶさります。
ヨーロッパ大陸諸国の直線を多用したシンメトリーな庭園に対して、英国の風景式庭園は自然には直線が無いという理念で始まり、それが個人のイングリッシュガーデンに引き継がれましたが、古来我が国の庭園にも長い直線は全くありません。
本来、橋にあるべき直線が無い光景というのがこういうものかと感じる心のときめきが、しばらく止みそうにもありませんでした。
どうしてこのような手のかかる5連式のアーチ橋を作ったのか、それにはこの橋を作った歴史を辿る必要があります。
この答えは、岩国市公式ホームページを見ると、第1章から4章に亘って錦帯橋の歴史が書かれており、一目瞭然です。その一部を要約してみました。
関ヶ原の合戦に敗れた毛利氏とその支族吉川(きっかわ)氏は、共に大幅に石高を減らされ毛利宗家は中国地方8ヶ国112万石から、周防、長門36万石に減らされ、拠点も広島城から萩に移されました。
関ヶ原敗北を予想し、毛利宗家を守るため家康と内通していた吉川広家も、出雲富田12万石から毛利宗家の周防、長門に組み入れられましたが、毛利宗家より岩国3万石を与えられ、何もなかった岩国に城と城下町を築くことになったのです。
関ヶ原の戦いが終わったと言え、未だ豊臣家は秀頼が堅固な大阪城に居住しているし、まだ戦乱が収まったわけでないと判断した吉川広家は、防御に強い城をつくろうと岩国の地形を調べ、その結果大河である錦川を天然の防御として、背後の城山の山頂に城を築きました。このような構成にした理由は、前に川があり背後の山に城があった、出雲の月山富田城を拠点にしていた経験からだと思います。通常の屋敷は麓に置き、周りを上級武士の屋敷で固め、中下級武士と城下町は錦川を挟んで対岸に設けました。
錦川は山口県一の大河で河口も近く川幅が200mもあり、初代藩主広家は橋を架けましたが直ぐ流されてしまいました。更に2代藩主広正が架けた橋も直ぐ流されてしまいました。三代目藩主広嘉は家臣を長崎の眼鏡橋を視察させ、工法を研究させました。しかし錦川は広く眼鏡橋の様式では不可能でした。橋が流された後は、渡船で川を渡っていましたが、それは大変な労力でした。
広嘉は、たまたま明の帰化僧から杭州の西湖の5つの小島にかかるアーチ橋のことを聞き、絵図が掲載された本を取り寄せて、5連のアーチ橋建設を思いついたのです。
この美しい錦帯橋は、この地形に城と城下町を作らざるを得なかった時代背景があり、流されることがない橋の建設は、岩国藩の死活問題だったのです。
アーチの登りは板の厚さで階段を作っています。
アーチの頂上部分は床材がフラットなので、景色を見ることができます。
ア-チの下りは足元を見ていないとつまずいてしまいます。
浅い川床には石板を敷いています。砂が堆積するのを防いでいるのでしょうか。理由は分かりませんが美しい光景です。
家老屋敷跡です。この門は岩国藩家老香川正恒が270前に築いた屋敷門で、香川正恒の父が、毛利氏の歴史を描いた有名な「陰徳太平記」の著者でした。
前方の山の上にロープウエイの駅が見えます。岩国城はその付近にあるのでしょう。
毛利元就の子、元春が吉川家に養子に入って以来、その子広家と続き、毛利宗家と共に様々な軍を戦って来ました。広家の時代は山城の時代でなく、城は平地の行政機関の役割が強くなっていましたが、まだまだ先行きが見通すには難しい時代でもあり、新しい城郭もいざという時の防御を重視して山上に設けたのでしょう。
城山に登るロープウエイは距離は短いですが、とても見晴らしが良いです。
最初はこの石垣の上に天守を築きましたが、完成後ほどなく1国一城令がだされ、作ったばかりの天守は破却してしまいました。
こちらは昭和37年再建された天守です。日本100名城の1つです。桃山風南蛮づくりと言われています。
毛利元就には3人の子供がいました。元就が3人の子たちに、1本の矢では直ぐ折れるが3本まとめると折れない「3本の矢」の説話が有名です。
長男の隆元は毛利宗家を継ぎ、次男元春は吉川家の養子に入り、3男の隆景は小早川家の養子になり、両川(りょうせん)として毛利宗家を助けました。事実毛利家が強大になったのは、3家が一糸乱れぬ行動を起こしたからでしてた。
吉川氏は、駿河の武士団でしたが、承久の乱で勲功を受け地頭として安芸国に所領を与えられ、そこから国人として勢力を広げて、後に尼子氏か毛利氏の勢力争いで、毛利氏を選択しました。
小早川氏は小田原早川の武士団で、やはり地頭として下向し勢力を広げてきました。毛利氏も頼朝の事務官僚大江氏の子孫が相模の毛利荘を領有し、名を毛利と改め、地頭として安芸国山中の郡山に地頭として下向し、そこで勢力を蓄え、中国地方の覇者大内氏と尼子氏の間を泳ぎ、最終的には大内氏について勢力を急拡大した歴史があり、毛利、吉川、小早川みな同じような歴史を歩んで来ました。
3男で小早川家に養子となった隆景には、男子の跡継ぎが無く、秀吉の親戚から養子を迎え小早川政景となりました。小早川政景は毛利家と血縁は無くなって、関ヶ原では西軍を裏切り、東軍勝利の要因をつくりました。しかし小早川政景には嫡子がなく家は断絶してしまいました。
岩国城縄張り図です。狭い山上によくこれだけの城を築いたとなと想います。
天守から岩国市街を望みます。岩国基地は海に面しています。
山麓に降りてくると掘の畔に隅櫓があります。この堀に囲まれて下図のような御土居と呼ばれた藩主の御殿や政庁がありました。
吉香神社
御土居は明治になり解体され、その跡に藩主を祀る吉香神社が作られました。
とても芸術的な狛犬です。
山上を振り返ると岩国城の天守が顔を覗かせています。
山麓の美しい吉香公園の雰囲気に感動しました。各地を旅する際できる限り公園に寄ることにしています。そして我が町浦和の公園と雰囲気を比較してきました。
公園は景色や樹々の緑、トイレなどハード面とともに、その公園で憩う人々たち日常のゆったりとした様子などソフト的な両面が合わさって、公園の雰囲気が醸し出されてきます。素晴らしい雰囲気のある公園の街は多分、ゆったりとして文化度が高く住み良い街に違いありません。
今度の旅で最初に素晴らしい公園と出会いました。
岩国市のHPを見ると子育て支援に熱心で、子育てしやすい街を目指しているようです。
旅で素晴らしい街に出会うと新たな発見が加わり嬉しくなります。