瀬戸内紀行その2、宮島

岩国を堪能した後、岩国駅から山陽本線で宮島口を目指します。宮島口迄20分ほどです。

旅に出ると鉄道の車窓から街並みを見るのが好きです。山陰沿線の石州瓦の家並みと異なって、山陽本線沿いの家々は埼玉と全く変わりません。多分下関から大阪、名古屋、東海、東京、関東、仙台まで、ほとんど家が途切れることなく同じ街並みが続いているでしょう。
20代の時新幹線が開業して初めて乗った際、それまで登山で愛用していた中央本線や信越本線、上越本線と異なって、東京から新大阪まで車窓の景観が途切れなく家々がが続く風景を視て、これが当時言われていた太平洋メガロポリスだなと感じた記憶がありました。要は東京から大阪まで都市が連続して村がない風景でした。

今やそれが熊本、佐賀、福岡の新幹線沿い、下関から仙台まで、瀬戸内、太平洋岸に一直線に繋がる、一大メガロポリスになっていることに改めて気が付きました。
この根底には新幹線の存在があります。過去新幹線延長問題が生じる度に、新幹線反対論者からは開発費用の議論がやかましく、鉄道が出来て我が国の歴史がどう変わったかという歴史認識の議論はありませんでした。

10数年前、北東北旅行をから帰宅して、夜9時のNHKTVの天気予報で東北地方の地図を眺めながら、下北半島のマサカリの先端の尻屋崎に、昼頃までいたことを想いました。昼にあんな遠い所にいたのに、帰宅して夜9時の天気予報を見ていることが、改めて新幹線のお陰であると感じました。多分東北新幹線が開通していなかったら、一生尻屋崎に行くことは無かっただろうと想いました。

今回は新幹線では時間がかかるため空路を使いましたが、新幹線を想うと、古来、移動好き、旅好きの日本人にとって移動時間の短縮はありがたいものです。
これを書きながら、高校2年の修学旅行を想い出してしまいました。修学旅行は四国金毘羅と大阪、京都、奈良でしたが、行きは北浦和駅から臨時列車で14:00に出発し、翌日10:00に岡山か宇野か記憶にありませんが20時間を要しました。4人の対面座席にベニヤ板を1枚ずつ渡されましたがどのように寝たか記憶にありません。


宮島口駅に着きました。大勢の人が降りて行きます。

改札口を出てホームを見たら、誰もいなかったホームにたくさんの人たちが、電車を待っていました。広島方面でしたら今乗ってきた電車に乗ればよいのに、多分岩国方面に行くのでしょう。驚いた事に全て欧米系の外国人です。岩国は空いていて観光客もいませんでしたが、これから錦帯橋に向かうのでしょうか。

宮島口駅の構内は、これから宮島に向かう人、宮島から帰って来た観光客で溢れていました。観光客の8割は欧米系の人たちで、日本人はほんの少数です。
どうしてこんなに人気があるのか不思議でした。
よく考えて見たら宮島は世界遺産であることを想い出しました。

私は宮島は初めてですが、なぜか、今まで行ってみたいとは思いませんでした。中国地方の出雲が入るツアーのほとんどが、宮島か姫路城をコースに入れている理由で、長い間行って見たいと思っていた出雲大社に行くことはありませんでした。昨秋の山陰のツアーが、出雲から石見銀山、宮島でなく、初めて萩、津和野に行くコースだったので参加したのです。

私はあまのじゃくな所があるため、皆が良いと思うものは、あまり関心がありません。若い頃。映画好きな私でもアカデミー賞受賞作はさほど興味がありませんでした。ミュージカル始め映画好きな家内は、私と違って、皆が良いと思うものは良いという主義で、アカデミー賞受賞作は真っ先に見なければという主義でした。

実は今回の旅行は当初、錦帯橋や宮島を予定していませんでした。私が広島に行きたかったのは江田島と呉の大和ミュージアムでした。若い時だったらまだしも、今の私には新幹線では広島は遠く、行ったことが無かった広島空港は広島と名ばかりで、離れた空港で名高い長崎と大村空港の距離以上に離れていたので、広島に行くために鉄道の便が良くアクセスのよい岩国空港便を選択しました。

たまたま帰省した旅好きな息子に、錦帯橋や岩国城に行く価値はあるかと尋ねたら、錦帯橋は中々のもので、城も山上にあり気分が良いし吉川家の武具もあるし、それなりに時間が必要だということでした。宮島は当然行くべきという返事でした。

錦帯橋とか宮島とか誰もが知っている名所に行きたかった家内は、息子の話に大喜びでした。

フェリーは10分足らずで宮島に着くため、わざわざ階上のデッキに上がらず、車のデッキで海峡を眺めていたら、遠い国からやってきた外国人たちが食い入るように海と宮島の鳥居を眺めている姿を見ていると、次第に私も彼らと同一となって、あたかもここが第1目的だったような気分になってきました。

宮島と言えば、景色だけでなくつい戦いの歴史を連想してしまうのが、私の悪い癖です。
眼の前に広がる宮島は、広島の奥の吉田郡山城を進発した毛利元就が4000の軍勢を率いて、宮島を攻めこれに対応した陶晴賢20,000の軍勢を1日で破り、退路を断たれた陶晴賢が宮島の浜で自刀せざるを得なかった厳島合戦で名高い地です。
この戦いで毛利氏は、尼子氏とならび中国地方の覇者になりました。厳島合戦は大内氏の重臣陶晴賢が、主君大内義隆を滅ぼしその勢力を引き継ぎ、安芸の小領主毛利元就領に侵略するために生じた戦いで、この時の毛利元就の軍略は戦国時代最高と評価されています。

この厳島合戦は、瀬戸内の小早川水軍と能島、来島の村上水軍が重要な役割を果たしました。この戦いの後、毛利氏は瀬戸内の制海権を手に入れ、遠く日本海沿岸まで遠征できる水軍を手にしました。

信長は石山本願寺のとの戦いで、石山本願寺を海から支援する毛利水軍に悩まされ、それを見ていた秀吉は養子を入れて小早川水軍を手に入れました。まともな水軍を持たない家康は朝鮮出兵の際、名護屋城で西日本の大名たちの水軍を目の当たりにして、幕府開設後は大船建造を禁止しました。そして瀬戸内の制海権を渡さないために、毛利氏を防長2州に閉じ込めたのです。

フェリーに乗る時も、乗っている時も、フェリーから降りて誰もが遠望するのは、大鳥居の存在です。実際はもっと遠いのですが、ズームアップしています。

宮島の構築物はみな大振りです。巨大な狛犬と巨大な鳥居です。
我が国の公の構築物や建造物が小さくなったのは、明治になってからだと想います。
徳川の幕閣よりも、明治新政府のメンバーの方が西洋コンプレックスが強かったような感じます。そのコンプレックスを富国強兵に変え軍事国家を目指しました。


江戸時代、要塞として作られている大名屋敷の塀は2階建てほどの高さで、昔の東映時代劇のように鼠小僧次郎吉が塀の屋根から飛び降りれる高さではありません。

寺院の大広間や城の大広間の天井は、障壁画の上の欄間が障壁画と同じ高さであることが普通です。平城京の古代寺院の本堂や金堂、講堂の天井は高く皆巨大ですが、江戸の寺院もまたそれに準じています。

なぜ小さくなったのか不思議です。

厳島神社の大鳥居です。一日の内2回ずつ満潮と干潮を繰り返します。今は残念ながら干潮で砂浜が見えています。

厳島合戦図

学研「歴史群像」戦国の戦いビジュアル合戦シリーズ第2巻 中国、四国編より転載させて頂きました。

毛利元就の拠点広島の山中の吉田郡山城から安芸武田氏を滅ぼして、広島海岸まで勢力を広げ武田水軍を引き継ぎ、さらには強力な水軍を持つ小早川家に3男を養子に出し、更に元就の妻の実家の吉川家に次男を養子に出し、毛利、吉川、小早川の3家で盤石な体制を築きました。
こうして安芸に台頭した毛利氏は対岸の広島桜尾城に進出し、陶晴賢の勢力圏であった宮島に宮ノ尾城を築き兵を駐屯させました。大内義隆を滅ぼした陶晴賢は厳島神社の宮島は精神的にも経済的人も大内以来の聖地であり、そこに侵入した毛利氏を許せませんでした。

陶晴賢は陸路安芸国に侵入せず、宮島から安芸国に侵攻しようと、500隻の舟で20.000の軍勢を率いて宮島に上陸し宮ノ尾城を攻めました。
毛利元就は吉川、小早川両家合わせても4,000の軍勢しかなく、陶軍20,000を破るためには狭い場所に閉じ込め殲滅する必要があり、陶晴賢はまんまと毛利元就の戦略に乗ってしまいました。

海上の戦いの帰趨は水軍の存在でした。毛利氏と陶氏は能島、来島水軍の将村上武吉に味方に付くように説得し、毛利氏の戦いは1日のみという不退転の決意を知り、毛利軍に味方することになりました。

弘治元年(1555)9月30日、午後6時、風雨強よき晩を待って毛利元就、隆元、吉川元春2,000の軍勢は三日分の糧食を腰にぶら下げて、対岸から出航し4時間かけて、暗夜の中島の東側の鼓ヶ浦に上陸しました。すぐさま道なき道を稜線に向けて進軍し、午前一時に稜線を越えて陶軍の本陣が指呼できる位置に散開を終了し、午前4時の戦い開始を待ちました。

一方能島、来島水軍は厳島正面沖に海上で待機し、小早川軍は午前4時を記して厳島正面から上陸、山越えして来た毛利、吉川軍と同時に、狭い場所に陣を敷いていた陶軍に襲い掛かりました。襲撃を全く予想していなかった陶軍は寝込みを襲われ大混乱し、弥山や島の西方向に敗走し、海岸から舟でのがれようとすると、海上で待機していた村上水軍に火薬玉でことごとく沈没させられてしまいました。陶晴賢も敗走し舟を探しましたが、ことごとく破壊されたため、もはやこれまでと自刀してしまいました。

厳島神社の祭神は宗像三女神といわれる三人の女神です。

イチキシマヒメノミコト(市杵島姫)
タゴリヒメノミコト(田心姫命)
タギツヒメノミコト(湍津姫命)

今は引き潮で気が付きませんが、厳島神社の社殿は全て海の上であることに驚きます。

創建は推古天皇元年(593)で当地の佐伯氏が社殿造営の神託を受けイチキシマヒメノミコト(市杵島姫)を祀る社殿を創建しました。厳島(イツクシマ)の名もイチキシマから転じたと言われています。

実際はそれより前から存在していた古社と思われます。延喜式神名帳では名神大社に列せられ安芸国一宮とされています。厳島神社の本格的な造営は1168年平清盛により現在の社殿の形はこの時作られました。

その後1207、1223年の2度の大火に寄り消失し再建されました。しかしその後衰退しましたが毛利元就が大掛かりな社殿修復を行い再び隆盛を迎え、江戸時代には厳島詣が盛んになりました。

明治の廃仏毀釈では社殿が仏式と認定され、宮司の新政府への直訴によって焼却は免れましたが、社殿の色は剥がされ白木造りに改められました。

大鳥居の大きさが分かる画像です。

回廊からズームアップしないとこれだけ離れています。満潮だったらまた別な光景が見られたでしょう。

国宝の能舞台で、お能が上演されています。

向こう側は外国人ばかりでした。

みなさんこの能を見に来ているようです。

宝物館です。平家納経には感動しました。

明治8年に建立され昭和26年まで使われていた大鳥居の楠木の根元木です。

五重塔です。厳島合戦にも登場します。左は廃仏毀釈で寺院から神社に変更され豊国神社となっています。

江戸時代から名残でしょうか門前町が厳島神社の裏側に延々と続いています。どうしてもプライバシーの関係で人物が少なく場面を狙って後ろ姿を撮ります。それでも目が合ってしまう人がいるので気を付けています。