瀬戸内紀行その5、大三島、大山祇神社

瀬戸内の旅の4日目です。今日は瀬戸内海のど真ん中を横断するしまなみ海道の大三島の大山祇神社を訪問しました。

大山祇神社について以前息子が、大山祇神社の宝物館には、日本の国宝や重要文化財の鎧の8割があり、見た方が良いと言っていました。
それからこの言葉が気になり機会があったら行って見たいと思っていました。

今回の旅の主要目的は大山祇神社でしたが、大山祇神社のある大三島は瀬戸内のど真ん中にあり、旅の日程としても極めて行きづらい場所にありました。

当初広島から瀬戸内クルーズ船で今治に行き、しまなみ海道を戻って大三島で宿泊を考えましたが、あまり旅館はなく場所などリスクがあったので、広島から松山に渡り、鉄道で今治に行きそこで宿泊して、大三島に行こうと考えました。しかしこれは広島、松山間の高速船と今治迄の鉄道が時間を要することから、このプランは止めて、四国に渡らず山陽新幹線で福山に行き、そこからしまなみ海道の高速バスで大三島往復を計画しました。計画の途中広島電鉄が広島から今治の高速バスを運行していることが分り、最終的にこの高速バスを利用することとしました。

ただし高速バスの大三島バス停から大山祇神社まで5㌔以上離れていますが、路線バスの本数が少なく神社までの往復が困難そうでしたが、大三島バス停や大山祇神社に行ったらタクシーでも止まっていて、それを利用すればOKと軽い気持ちで出かけました。

広島バスセンター

広島電鉄バス今治行は7:50発のため、ホテルで6時半からの朝食を採り、ホテルの前の停留所から路面電車に、広島中心部のバスセンターを目指しました。
バスセンターは前日広島城に行く途中場所を確認していました。

広島バスセンターは新宿のバスタのような施設ですが、広島中心街のそごうの3階にあります。外見からはデパートの3階に大型バスが発着するバスターミナルがあるとは見えないです。ちょうど新宿伊勢丹の3階にバスタがあると思っても差し支えないかも知れません。

3階は新宿のバスタと異なって、コンビニや一休みするカフェが充実していて、とても先見的な施設です。

そごうは2棟立っていて左の交差点の角の棟にバスセンターが入っていて、右の棟とショピングセンターが連結していてファッションの高い施設です。

西武とそごうが米国のファンドに売却及延期の報道がありますが、バスセンターのような広島駅と並ぶ交通の拠点がどのような影響を受けるのか、胸が痛みます。

しまなみ海道

しまなみ海道は,瀬戸内の中央に位置し、淡路島、瀬戸大橋に次ぐ四国連絡橋です。
しまなみ海道は、向島、因島、生口島、大三島、伯方島、大島と6つの島を橋で結び、近年ではサイクリング道路も整備され人気のコースとなっています。

これらの6つの島は瀬戸内の中央をふさぐ形で存在し、潮流の変化が激しい海域、古来海難が多く生じた所です。
現在の瀬戸内を航行する船舶の大半の航路は、今治と大島の間の来島海峡です。

鎌倉時代からこの辺りに勢力を張っていた伊予の河野水軍に代わって、村上水軍が台頭し、能島、来島、因島の村上水軍に分かれ、通行税を徴収しながら勢力を拡大して行きました。

このしまなみ海道の芸予海峡の中央に位置する大三島の中央に位置する大山を背景とした大山祇神社は、おそらく弥生時代初期から海人族によって海の中の顕著な山に海の神が祀られたものと勝手に想像します。

恐らく大山祇神社は、我が国最古の神社の一つだと想います。

しまなみ海道はサイクリングコースが設置され、サイクリストの聖地の存在になっていますが、この日はウイークディと天候があまり良くないので、サイクリストは余り見かけませんでした。右側にサイクルと歩行者の専用道路があり、橋以外でも自動車道とは別にサイクリング専用道が設置されています。

大三島バスストップに着きました。もともと広島からの乗客は、我々の他2~3人で、降りた人間は我々だけでした。 事前の想像では、大三島バスストップは大山祇神社のあるしまなみ海道一の交通の要衝で、道の駅やレンタサイクル場などがあり、常時タクシーも2~3台待機しているかと思ったら何もなく、グランドのようなだだっぴ広いバスストップに、今治方面行きと福山方面行きの待合所の小さな小屋とトイレがあるだけだったのです。

こんな荒野に降ろされて、一瞬途方に暮れました。大山祇神社方面に行く路線バスは本数が無く40分待たないと来ないことは知っていたので、距離は5㌔以上ありますがタクシーで向かうつもりでいました。
タクシーを呼ぼうと思い、バス停にタクシー会社の案内があると想い探しましたが見当たりませんでした。バス停対岸の福山行のバス停に1人の中年の女性がバスを待っていたのでタクシー会社をお聴きしたら、島の反対側の大山祇神社の先に漁港があり、そこにはタクシー会社があるかも知れないとの事でしたが、連絡先が分かりませんでした。仕方が無いので大山祇神社方面に行く路線バスを辛抱強く待つことにしました。

要は島は完全な車社会で、バス停までは家族が来るまで送ったり迎えたりして、都会のようなタクシーとは無縁な社会でした。

しまなみ海道は有数の観光コースで、サイクリストの聖地と言われており、さらに大三島の中心をなす大山祇神社は太古からの神社のため参拝客が多く、しまなみ海道を大三島で途中下車する観光客も多いのではないかと勝手に想像していたのです。そういう独りよがりの想像をしなければ、驚くには当たらなかったのです。

ようやくやってきた路線バスにのって大山祇神社に着きました。
イザナキ、イザナミによって我が国の14の島を生みましたが、その後自然現象や生産に関わる23の神を生みました。その中の神様が大山祇大神(大山津見神)で山の神として生まれました。コノハナサクヤヒメは大山津見神の娘です。

大山津見神は山の神だけに留まらず海の神を兼ねていて、瀬戸内の海の真ん中に突き出た大三島に、山と海すなわち我が国の総鎮守として、古来朝廷や時の政権から熱い尊崇を受けてきました。宝物館の展示を見るといかに古来尊崇を受けて来たか良く判ります。

大山祇神社は伊予国一宮で、四国唯一の官幣大社です。

大山祇神社は宮浦港から参道が続き、大鳥居を潜ると総門があり、樹齢2600年の大楠木の奥に、神門があります。神門の奥に拝殿があり、本殿は拝殿の奥で拝殿からは見えません。

神門です。日本総鎮守、大山積大明神の扁額が掲げられています。

天然記念物、能因法師の雨乞いの楠です。日本最古の楠で樹齢3000年と言われています。後冷泉天皇の時代、伊予国守藤原範国が能因法師を大山祇神社に来てもらって、雨乞いを行いました。能因法師は下記の歌を詠み楠に雨乞いを行いました。

天の川苗代水にせきくだせ天降ります神ならば神を

この雨乞いの儀式に寄って、伊予国では3日3晩雨が降り続いたと金葉和歌集で伝えています。

能因法師と言えば、奥州白河の関にも、能因法師の歌がありました。
都をば霞とともに発ちしかむ秋風が吹く白河の関 (都を春の霞とともに旅立ってきたのに、白河の関に着いてみればもう秋風が吹いている。想えば遠くに来たもんだな)

都から遠いみちのくの入り口白河の関は、都人の憧れの地でした。能因法師は勿論、実際に白河関には行かず、想像で詠みました。

十七神社です。このように長屋の社に多数の神をお祀りする形は、古い神社に良く見受けられます。出雲大社でも栃木の大平山神社もそうでした。

国指定天然記念物、小手命御手植えの楠です。大山祇神社のご神木です。宇佐神宮のご神木も楠でした。楠は古代、舟の材料として使用した木材ですが、海人族の神のご神木は楠なのでしょう。
神武天皇の東征前に大山津見命の子孫の小手命が、瀬戸内の中央に位置する大三島に上陸して、此処を神の地として大山津見命の神を勧請し、その時植えた楠と言われています。大三島は弥生時代から神の地とされて来たのでしょう。

堂々たるご神木です。何やら楠を見ていると、阿蘇や九重連山、霧島の火山灰地で耕地が少なかった東九州の集団が、新たな米作地帯を求めて瀬戸内を東征して来た空想が湧いてきます。

17社の前にも何やらご神木らしきものがあります。

神門です。周りに回廊で取り囲み神門があって中に拝殿がある様式は、想い出すと熊野本宮がそうだったし、阿蘇神社もこの形式でした。古い神社は共通しています。

神門から拝殿を望みます。

厳粛な光景で心が震えます。古社の歴史の重みなのでしょうか。

これ以上近づいて、カメラを向ける気持ちになりません。左右に下津社、上津社の門が取り囲んでします。本殿は見えません。

回廊です。この回廊の間から宝物殿に向かいます。

宝物殿への道も巨木が茂り厳粛さを感じます。

重要文化財の鎌倉時代の塔です。独特なデザインです。

宝物殿の入り口に来ました。

宝持殿から国宝館に連結しています。鎧は日本の国宝、重文の8割が所蔵されており、圧巻です。

国宝館の圧倒的な国宝、重文の武具には圧倒されました。国宝の頼朝と義経が奉納した鎧、河野通信が奉納した鎧兜、国宝の護良親王が奉納した完全な鎌倉時代の太刀、更に斉明天皇が奉納した唐の鏡、斉明天皇と言えば天武天皇の母親です。そんな古いものがあるのです。

また平安時代、3筆の1人藤原佐理が航海の安全を願って書いた木製の扁額、総門の扁額と同じく日本総鎮守、大山積大明神の扁額が眼を惹きました。

神社を出て御桟敷殿と斎田を望みます。宝物館でどっと疲れが出ました。

大三島で一番高い山は鷲ヶ頭山で436mで、画像の山は266mの安神山です。これらの山が大山祇神社の御神体となっているようです。

大山祇神社の周辺は食堂のほとんどが休業していました、たった1軒営業している海産物の食堂はSNSで人気があるらしく並んでいました。食堂が無いので仕方なくコンビニで昼食を済ませました。

バス停でバスを待っているおばあさんと色々島の事をお聞きしました。おばあさんのお子さんは4人いて、1人は神奈川、1人は八王子、1人は岡山でもう一人は今治に住んでいるそうです。一番近い今治には娘さんがいるとの事で、これからバスで今治に向かうそうです。子供たち4人は全員島から出て行ってしまいました。その原因は島では職が得られないからです。

島は漁港が近くで魚がおいしいでしょうと尋ねたら、島には魚屋さんが無く、スーパーで魚を買うそうです。という事は漁港があっても漁師の人が歳を取って漁をすることも無くなり、従って魚市場もなく島内で水産物が流通しなくなったため、他から運んでくる魚をスーパーで購入しているのです。

路線バスの本数が少ないのは、乗る人がいないので余計少なくなります。大山祇神社の参拝客は大半が車できますが、食堂が1軒以除いて全て休業してしまったことは、車で来る人たちが、途中のコンビニを利用して地元にお金を落とさなくなったことです。多分、しまなみ海道が開通していない時は、参拝は船で来るため、神社付近には宿や食堂がありそれなりに繁盛していたと想います。


車社会が山の世界を変えてしまったことに気が付いたのは、50代の終わりに登山を再開した時でした。ケーブルの終点の栂池の山荘で、山菜蕎麦を食べていた時、私と同年配の男を先頭に観光客の家族が一団で入ってきましたが、メニューを見て高いと言って出て行ってしまいました。標高1800mの山荘では材料の輸送に手間がかかり、価格も1~2割高くなるのは仕方がありません。食事を終えて入り口を見たら、大勢の中高年の登山者たちは、山荘の食堂に入らず山荘のテーブルを使って、途中で買ってきたコンビニのおにぎりを堂々と食べていました。
その光景を見ていると、昔と違って中高年登山者たちは、途中でお金を使いますが、現地でお金を落とさなくなっていることに気が付きました。

車社会は観光地を変貌させてしまいました。宮島は車で行けないから宮島の飲食店は大繁盛し、公共の駐車場が広い錦帯橋のレストランは閑古鳥でした。高尾山の門前町は駐車場がないからいつも繁盛しています。難しい問題ですが、昼食位現地にお金を落とすことは観光客の義務のような気がします。