瀬戸内紀行その4、広島の街と広島城

50年前に広島の街を訪れたことはありましたが、その時の広島の印象は原爆ドームが意外に低かった事と古い市電がトコトコ走っていた印象だけが残っています。

それ以来、初めて訪れた広島の街に、家内共々魅了されてしまいました。中心部は道路が広く緑豊かで清潔で、乗りやすい路面電車が市内を走り回り、店もホテルも完備していて、町全体に活気がありました。
地上道路の車両の渋滞解消のためを地下道も張り巡らされ、街の中心部の繁華街の広い道路には横断歩道が無く、広い歩道には自転車の通行が多いものの、パーキングが完備していて放置自転車や不法駐輪が見当たりません。

欧米系の観光客も多く、広島城の係の人の話では90%が外国人の観光客だそうです。夜の居酒屋の前には必ず外国人の観光客が店を覗いている光景が見られました。

広島は政令指定都市の人口では、京都に続くさいたま市の下ですが、街のイメージでは、さいたま市は広島に完全に負けたなと感じました。

岸田首相がサミットを広島で開催しようと動いてきましたが、その理由は被爆地広島を世界の首脳に見て貰い、核廃絶の機運を盛り上げることと言われていますが、それだけでなく被爆から復興した広島の街の美しさと都市機能に、首相自身が地元に自信を持っているからだと感じました。

今回の旅の最大の印象は広島の発見でした。

広島駅の北口ですが、北口は開発途上の地域です。宮島から広島駅に着き、ホテルに荷を置きようやくくつろげると思ったら、ホテルは駅から至近距離にもかかわらず、駅の構造が複雑で、スマホで検索しても方角が明確でなかったため、近くでパトロールしていた警官に教えていただきました。若い警察官たちの腕章を見るとサミットのため他県から応援の警察官たちでした。



ホテルはビルの階上の上に位置した新しいタイプのホテルでしたが、チェックインしようとしたら、予約されていないとの事だったので、スマホでのホテルからの直前の宿泊確認のメールを示したら、ここは同じチエーンの新しいホテルで、私が予約したのは市街にある同じチエーンのホテルでした。
ネットで予約する際、禁煙の部屋が満室でしたが突然画面が飛び、結果的には市街の同じチエーンのホテルに予約したことになったのです。
以前は宿の予約はTELで直接行っていましたが、近年はネット業者の予約システムが主流になりましたが、ネット予約ではこんなこともありうるのです。

今回の旅は、温泉を楽しむことでなく目的地を回ることが主体のため、広島で2泊、岡山で1泊、できるだけ駅中及び駅前の足の便の良いホテルを予約しました。
しかし実際広島に来てみると街の中心が駅周辺でないことが分り、実際に予約したホテル周辺には店も多く路面電車の駅近くだったため、結果的に間違えたことで、快適で好都合でした。

広島の街の中心部や主要部には地下道が張り巡らされて、横断歩道がなく交通が非常にスムーズです。地方都市の地下道はうら寂しい感じがしますが、広島の中心部の地下道は明るく、人の往来も地上より多いくらいで、街づくりが計画的に行われてきたことが分ります。

原子爆弾の投下3日後に、灰燼の中を走った広島電鉄


広島の路面電車の総延長距離は日本一です。しかも市営でなく民間の広島電鉄が運営しています。広島の路面電車は原子爆弾が投下された3日後、全くの灰燼の街中を走りました。その時のニュースフィルムを見たことがあります。その後MHKの終戦特集でドラマにもなりました。
その歴史もあって、広島市民は広島電鉄に誇りを持っています。

旅をして地方都市で地方交通会社が活き活きとして活動している姿を見ると嬉しくなります。広島の路面電車は市営でなく広島電鉄が運営しています。古いレトロな車両も味がありますが、5両連結の新型車両も90度近いカーブもスムーズに回るし、なによりも車内はバリアーフリーが行き届き、スイカの位置も的確で、超低床で足の悪い人もなにも捕まらずに乗降もスムーズです。

旅に出て、朝夕の通勤時間帯の路面電車に乗ることがあります。バスと違って路面電車は対面掛けなので、勤めの行き帰りの人たちの雰囲気がうかがえます。街が素晴らしくとも勤めを終えた若い人たちが暗い顔して家路につく姿を見ると、若者にとってその街は未来が無いように見えてきます。反面若い人たちの顔が暗くなく、若い女性のファッションが活き活きしている街は、活気があるような気がします。そういう町はファッションのお店も充実していていて活気があります。じろじろ見ているわけではありませんが、活気のある街に出会うと新たな発見があり、自分がその街に住んでも良いという気持ちになってくるのです。広島は活気がありました。

広島県庁です。埼玉県庁とおなじようにこれが県庁かと思えるほど、権威主義的でなくコンパクトであっさりしています。出先機関を充実させているのでしょう。

焼野原から計画的につくった街と想いますが、歩道が広く自転車通行も多いけれど、決して危なくありません。行きかう人の半分は欧米系の外国人で街の雰囲気に溶け込んでゆったりとくつろいで歩いています。
広島の車の運転は粗いと聞きましたが、運転していたわけでなく気が付きませんでした。

レンタカーを運転していて、車の運転が粗い地域はよく覚えています。10年ほど前、まだ煽られるほどの運転年齢でないのに、日本の先端に位置する某地のカーブの連続する道で、毎日往復しているトラックに煽られました。トラックの運転手は慣れないレンタカーの「わNO」を見ると煽りたくなるのでしょう。

ある有名な観光地では客のいない路線バスまで疾走して、まさかと思ったことがありました。皆、観光を目指している地域ばかりでした。

ひろしま美術館です。西洋美術を展示しているようです。
広島市内には他に県立美術館と市立現代美術館があります。街の中心部の1等地に美術館や音楽ホールのある街は薫り高く感じます。

都市が住民に提供するものは、文化であり保養であり演舞でありスポーツであり、それらは古代ローマから模索されて来ました。
広島には広島カープがありサンフレッチェ広島があり、いずれもローカルチームにと留まらず、我が国有数の強豪チームです。

江田島から呉を回って駅に着き、市内を散策しながら広島城を目指しています。
昨日は岩国から宮島で22,000歩を歩き、今日も既に15,000歩になろうとしており、城を見学してホテルに戻り、晩飯に広島焼の居酒屋に行くと、今日も20,000歩近くになりそうです。

旅に出て地方の県庁所在地を訪ねると、つい地元さいたま市と比較してしまいます。
広島市民病院です。堂々たるたたずまいを見ながら家内は、さいたま市民病院も負けるわねと言いました。広島市民病院は被爆者治療の病院としても有名です。

埼玉県唯一の国立大学の埼玉大学と異なって広島大学には医学部があります。埼玉県には医学部の大学が無かったためか、長い間大学病院がなく首都圏において医療後進県とされてきました。昔は病院など無縁で意識したことはありませんでしたが、歳をとると地域医療の存在に関心が湧いてきます。

広島大学の医学部の前身は県立医学専門学校で、戦前には公立医専が全国11カ所あり、それらが戦後県立医科大になったり国立大の医学部になったりしました。
埼玉も明治初期に県立医学校が設立されましたが、まもなく財政難で廃校となりました。多くの県も財政難に苦しみましたが、県立医専として細々存続し、戦後医科大学に改編し大半が、1県1つの国立大医学部に変わりましたが、埼玉には、何故かその機運は生じませんでした。
群馬県や千葉県、神奈川県と違って国立大医学部の無い埼玉県は公立の基幹病院はありませんでした。


しかし旧浦和市は戦後財政難にもかかわらず慶応大学病院の協力を得て市立病院を設立し、さいたま市に合併後主たる基幹病院を持たなかった旧大宮市、与野市、岩槻市民に多大に貢献しています。

家内が、岩国でやたらと医者の看板が目に付くと言っていたので私もバスの車窓から見ていたらやはりそうでした。旅先で医院が多い街と感じた街は熊本でした。

明治中期、医学校が2つあった熊本は、1つを長崎県に譲りそれが長崎大医学部になり「長崎の鐘」で有名になった永井博士を生みました。
旅をしていると地方の路線バスの乗客の大半が、片道6~700円かけて基幹病院に通っているのを見ると、落ち着いて暮らすためには医療環境が整っているかが、住む街の価値を決めます。


戦前広島市は、旧高等師範学校(旧東京教育大、現筑波大学)に次いで全国2番目に高等師範が設立された学問の重要拠点でした。更に高等高専(現広島大工学部)旧制広島高校、広島文理科大学が設立され、岡山と並ぶ中国地方きっての文教都市となり、戦後、大同団結して広島大学となりました。


ヨーロッパの古い大学都市がそうであるように、単科大学でなく医学部も含めて人文科学、社会科学、自然科学の総合的な学部を備えた大学が存在する都市は、なぜかどっしりと安定して見えます。

だんだん夕方近くなってきました。この一帯は元の城跡です。

市街地では大型トラックやダンプカーが走っている姿はほとんど見かけません。なにか特別な規制をしているのでしょうか。この通りも地下道で横断します。

ようやく広島城に着きました。初めて訪れる城で最初に出会う際は心のときめきを覚えます。出会う前は予備知識を避けて、最初の出会いの衝撃を大切にします。
勿論広島城は原爆投下で灰燼となり、戦後復元されましたが、旧天守閣は戦前の昭和6年国宝に指定されていました。

今まで歩いてきた広島県庁、広島市民病院、ひろしま美術館は全て広島城の三ノ丸跡です。
これから辿る城址は、左図のブルーの中の部分で、旧城の2ノ丸、本丸部分です。

御門橋と表御門です。広島城のパンフによれば、広島城は別名鯉(り)城と呼ばれていました。広島城は太田川の三角州に作られ、この1帯は巳斐浦(こいのうら)に当たり、巳斐の音が鯉と同じなため鯉城(りじょう)と呼ばれるようになったと言われています。広島東洋カープのカープ(鯉)はこれにちなんで名づけられました。

広島城は毛利元就の孫の輝元がここ太田川の河口の三角州に初めて城を築きました。毛利氏は広島の奥の吉田郡山に本拠を構えていましたが、安芸武田氏を滅ぼしてから海寄りに進出してきました。宮島で大内氏の勢力を継いだ陶晴賢を破ってから、安芸、周防、長門、石見に勢力を拡大し、出雲の尼子氏を滅ぼし中国地方の覇権を手に入れました。
毛利本家を継いだ輝元は、秀吉の聚楽第や大阪城を見学し、城郭は政庁の役割を第1に果たし、城下町と1体化して政治・経済の中心地として機能する必要を痛感し、この地に平城を築き城下町建設を図りました。

関ヶ原の戦いで敗れた毛利輝元は萩の地に移動され、代わりに秀吉の子飼いでしたが家康に忠誠をつかった福島正則が安芸、備後の領主として広島城に入りました。しかし幕閣は秀吉子飼いの大名に難癖をつけ取りつぶしをはかり、清正は毒を盛られ、福島正則は洪水で破損した城を修理しただけなのに、難癖をつけられ改易されてしまいました。

その後和歌山から浅野氏が入り、明治維新まで250年間続きました。忠臣蔵でよく登場する晩秋浅野氏の本家は広島浅野氏でした。

広大な二の丸です。

夕闇近い城ですが、ここも外国人観光客の方が多いです。

石垣も原子爆弾の投下によって赤く変色してしまっています。

本丸の奥に広島護国神社があります。参拝している人は外国人ばかりです。この護国神社には正月の初詣の人たちは、50万も集まり中国地方最大と言われています。

宮島から感じていることですが、欧米系の外国人は、神様が好きで日本のスピリチュアルな部分に非常に惹かれているように感じました。多分日本の神々は自然崇拝から産まれたもので、神を通じて自然と共生して来た日本の伝統的な心に惹かれるのでしょう。そこはまたサスティナブルの心と一部繋がっているような気がします。

年末葛城山中の日本で一番古い古社を巡りましたが、鴨氏や葛城氏の古社の成り立ちは、一族の鎮守から始まっているように感じました。私たちが神様を通じて自然と共生し、清涼な水を確保しつつ無用に耕地を広げることなく、神々に作物の実りを願って水源の山頂で山桜の季節に祭りを行いました。そして日々神々と接することができるよう、山の麓の清浄な森に鎮守の神を祀りました。


国家が神道を強制したのは明治新政府からで、江戸時代、皇室の神だった伊勢神宮も神宮の御師が各地に講を組織し、東国の村々も一生に一度は参拝できるような無尽の仕組みを整えました。このようにして男子は一生に一度は、お伊勢参りによって暮らしの骨抜きができたのです。民の幸福を第1に考えていた幕府もお伊勢参りの札があれば、些細な詮索を行いませんでした。

南会津の武士の一族の集落だった村長の家の史跡を見たことがありますが、居間に大きな不動明王権現が鎮座していました。村落のはずれには小さな薬師堂があり、そこは寺院の代わりに集会所として使用していたのでしょう。
山間の村人たちは、日常的には自然を司る山の神である権現を信仰していたことが分りました。権現は本来は仏ですが神の姿に変えて現れる本地垂迹説から生じた神仏習合の神様で、特に武将は不動明王を信仰していました。

一方平地では浄土信仰が盛んで、日本中各地で様々な八百万の神々や仏が祀られ、病気治癒や家内安全など信仰されて来たようです。


いずれの神仏も、大自然の造物主の存在でなく、自然をコントロールするような思想もありません。密教のように自然と一体となる境地が理想であり、山川草木悉皆成仏の天台思想のように、草や木にも魂があり成仏できるという思想が仏教の根底にはありました。

我が国には、仏と神は一体で、神仏のスピリチュアルな心性を通じて自然と共生していく考え方が、長く続いてきました。
先進国の人々は、現代思想が行き詰まりを見せている現在、未来に永続するサスティナビリティを模索する上で、我が国の神々や仏道や修験道など、古来信仰して来たスピリチュアルな場である神社仏閣に惹かれるのでしょうか。

神仏のスピリチュアルな要素は、宗教的というより哲学的なもので、現代人にとって極めて普遍性があります。それは決して功利的なものでなく、まして政治的なものではなく、先進工業国に生きる現代人が求める哲学そのものと想います。

日清戦争の大本営跡です。欧米系の若者が一人、英文を読んで一生懸命撮影をしてながらタブレットで何かを読んでいました。今回の旅では欧米系の若者の一人旅が、眼に付きました。彼らは事前に良く日本を勉強して来たようで、見るべきツボをよく心得ていました。

本丸の奥に天守閣が見えてきました。

戦後廃墟の中から復元した天守です。天守の中は博物館になっていて、広島城の歴史や武具が惜しげもなく展示されていました。天守閣の中でガードマンの人とお話したら、原子爆弾の投下で全て焼き尽くされ、展示してある武具は全て借り物とのことです。毛利家と安芸武田氏の攻防の様子の資料もあり、市販の本にも見かけない内容ですが、残念ながら写真撮影は禁止で、短期間で頭の中に入りません。

普段の見学客は欧米系外国人は80%以上とのことで、100%の日もあるとの事です。彼らは神社仏閣に加えて、城や侍にも興味があるようです。大谷のエンジェルスの兜はタイムリーでした。

天守閣の最上階から外を眺めます。

城址の緑豊かな光景です。

市の中心部の緑はロンドンに匹敵します。

路面電車を少し乗ってホテルに戻りました。一休みして広島焼を食べさせる居酒屋に行きました。鉄板の前の席に並んで一人旅の外国人の青年が、片言の日本語とスマホの翻訳で一生懸命料理を注文していました。鉄板に乗ったままの広島焼を上手く食べられないため、恥ずかしいと言いながら皿に盛って貰っていました。
我々が飲んで食べて退席する時は、私の横に2人連れの外国人の中年女性が席に着きました。広島も国際都市になりました。