瀬戸内紀行その6、鞆の浦

瀬戸内の名勝、鞆の浦です。
鞆の浦の魅力は、風光明媚な海の光景というより、現在の新幹線や高速道と同じように、西日本の交通の大動脈だった瀬戸内舟運の潮待ちの港として、江戸、明治、そして昭和30年代までの家並みが保存していて、しかも今なお活発な営みが行われている街だからです。

今まで、各地の伝統的建造物群保存地区を見てきましたが、地域によっては古い建物を復元した新築住宅も見かけましたが、掛け値なしで見事だったのは奈良の今井町でしたが、ここ鞆の浦の街並みには、事前には期待していませんでした。しかし鞆の浦には江戸、明治、昭和30年代の街並みが、補修しながら残っていてその姿には圧倒されました。

旅に出ると、本当に来てよかったと思う街並みがあります。鞆の浦の街並みに出会った時は、まさにそう思いました。

鞆の浦は瀬戸内海の中心にあり満ち潮が出会い、引き潮が離れていく場所に位置します。
令和の元号の基となった大宰府での梅見の宴を主宰した大伴旅人、奥方同伴で大宰府に赴任する途中、鞆の浦で潮待ちをしました。しかし旅人の奥方は大宰府に到着後2~3か月で病死したため、その2年後に大納言に就任するため帰京の途中、行きに潮待ちした鞆の浦に寄り、海辺にあったむろの木(ねずの木の古名)を眺めて1首読み後万葉集に収録されました。

  吾が妹子が見し鞆の浦のむろの木はとこ世にあれど見し人ぞ亡き

このように鞆の浦は歴史的な港でした。

例によって事前に何も調べず、福山駅から鞆の浦行のバスに乗りました。大三島で今治からのバスが6分遅れで到着しましたが、福山駅で鞆の浦行のバスとの連絡は4分しかなく、バスがこのまま福山まで挽回しないで走ったら、福山で鞆の浦行のバスに連絡しません。案の定バスは時間を詰める訳でなく福山にも6分遅れで到着しました。
荷物を駅のロッカーに預けそれから35分後のバスを待ちました。バスにはこういうリスクがあります。
もう午後遅い時間で、バスの乗客は、福山駅周辺の病院帰りのお年寄りが多く、観光客は多分鞆の浦の宿で泊まるのでしょう、私より年上の老人3人組と、哲学的な風貌の欧米系外国人の若者だけでした。ステッキを持った老人3人組は、物見遊山の旅でなく多分朝鮮通信使の歴史を回顧するために訪れたような知的な雰囲気の方たちでした。

最終日の明日、夕方、岡山空港から帰宅するため、吉備の古代王国巡りを兼ねて岡山でレンタカーを予約していました。
鞆の浦で宿泊してしまうと、翌日岡山で半日しか旅程を組めず、少しガツガツした旅になりますが、鞆の浦での宿泊は全く考えていませんでした。その最大の理由は事前に全く鞆の浦を調べなかったため、鞆の浦が素晴らしい港町だったことは全く期待していなかったのです。

鞆の浦のバス停に着きました。バス停の観光案内所を兼ねた店舗は、がさがさした雰囲気で、前は堰堤に隠れた海岸が拡がり、望遠で見なければ目の前の弁天島もただの島でした。大三島からバスを乗り継いで、苦労して大した場所に来てしまったなと多少後悔の念が生じながら、海岸の何の風情の無い道を歩きました。しばらく歩けば有名な常夜灯でも見られるかも知れないと歩きましたが、改めてバス停の前の観光案内所(名ばかりで係もいないしパンフが1種類置いてあるだけ)で手に入れたパンフの地図を眺めたら、鞆の浦の街並みは海岸に無く、海岸から離れた脇道にあることが分りました。

脇道に入って驚きました。頭の中に明るいランプが灯ったのです。脇道に入るとすぐ古い家並みが現れました。

坂本龍馬率いる海援隊の持ち船「いろは丸」が鞆の浦沖で沈没してしまいました。その処理で坂本龍馬は鞆の浦にやってきてここ枡屋清右ヱ門宅に逗留していました。竜馬は幕府方の刺客に狙われているため、ここを隠れ家として使用していました。
鞆の浦の観光船はこれにちなんで「平成いろは丸」として運行しています。

こういう家並みに出会うとゾクゾクとしてきます。                  

保命酒の醸造で栄えた太田家住宅です。 蔵や保命酒造など9棟で構成されています。       

年季の入った蔵です。 太田家には、幕末、薩摩、会津連合軍の禁門の変で敗れた長州に、長州方の公家7卿が京を追われて落ちのびる際に、逗留したと言われています。                       

看板をみるとカラオケ喫茶でした。          珍しい3階建てです。

漁具屋さんです。       私の子供の頃の浦和の中山道沿いにはこのような店が多かった記憶があります。

素敵なデザインのお店です。窓ガラスや格子は手が込んでいます。角に洋館を併設した店舗です。店舗の事務所として洋館に改造したのでしょうか。

建物を黒で塗り補修しています。家屋には中々黒色は使えませんが、見事な補修です。 昭和の30年代の店舗は建具をサッシに変えてから、形が崩れてきました。木製建具は錠前が不備で防犯に完全ではありませんが、鞆の浦はよそ者の少ない安全な街だったのでしょう。

家並みを通り抜けると突然港に出ました。ここが鞆の浦の港です。遠くに鞆の浦のシンボル常夜燈が見えてきました。
この港の岩壁は石が階段状に積まれた雁木と呼ばれた構造でした。我が国の港は古来、津と呼ばれ平底の舟が砂浜に乗り上げて停泊するシステムでした。後に舟が千石船と呼ばれるような大型になると、舟は沖に停泊し荷役ははしけを往復して行われました。
江戸の隅田川の絵図を見るとたくさんの小舟が、沖に停泊している千石船と往復しています。江戸時代はワークシェアリング社会だったため岩壁をつくり大船を横付けして荷役を行うという発想は無かったのでしょう。

従って我が国には桟橋という概念はなく、明治になって初めてお雇い外国人の手によって三国湊に作られました。

日本で初めての桟橋(明治15年三国湊、エッセル提)

14年9月

オランダのお雇い外国人エッセルとデ・レイケが中心となって九頭竜川の河口に突堤をつくりました。これが我が国初の桟橋と言われています。デ・レイケはエッセルと安積疎水を作ったファン・ドールンの後任として、オランダ国土の知識を生かして、日本各地の堰堤や水防施設を作りました。
立山常願寺川の砂防の依頼を受けて現地調査をした時、常願寺川の流れを見てヨーロッパの河を比較しながら「これは川でなく、まるで滝だ!」と言った有名な言葉が残っています。

大三島と異なって漁港も活気があります。背後に鞆の浦や福山の消費地を抱えているからでしょうか。真ん中迄雁木の岩壁が続きます。

港の風景は良いものですね。子供の頃の交通の絵本では港が主力で、空港は1枚ぐらいしか掲載されていませんでした。横浜の波止場や、大島航路の橘丸や隅田川の勝鬨橋が開いて客船が通行している様子など、子供が想像しやすい光景が並んでいました。
当時、大島三原山に衝突したJALの木製号事件が大ニュースになりました。羽田を出て三原山に激突する位しか高度をあげられなかった旅客機は、憧れの交通機関ではありませんでした。多分与圧機構が不十分で高度4,5千mを飛行した旅客機は、悪気流の影響を受けて、乗客、乗務員ともに太平洋横断は必死だったに違いありません。

コンテナ船が普及して、輸送品が見えなくなり、波止場そのものの概念が変わりました。また積み荷が見えないアルミボディのトラックが行きかう物流も、また商品を見ないで買う通販も、便利な反面、人の労力や営みが視界から遮断されて、ロマンが消えてしまいました。

港で漁船を眺めていると、片手で操舵しながら魚群探知機で魚を探したり、網を投げ入れる漁師さんたちの姿が目に浮かびます。

鞆の浦の象徴、常夜燈です。内海の瀬戸内でも常夜燈はありがたかったでしょうが、太平洋沿岸の要所には欲しかったのだろうと思います。江戸期舟運が活発に行われ沿岸舟運大国だった我が国で、内陸志向の強い徳川幕府は海の視点は行き届かなかったと想います。

雁木がはっきり見えています。

再び街並みへ

鞆の浦の地図を見ると神社仏閣が多いことに気が付きます。神社は上の画像のように小さな祠が各所にあり、数を数えられませんが、寺はざっと数えたら20ありました。
この前、房総の日本寺に行った時、高校時代の臨海学校を想い出し、10カ所の寺に分宿した記憶が蘇り、勝山の小さな町に、1クラス50人が雑魚寝できる寺院が10カ所もあったことに不思議さを感じました。

鞆の浦の街の規模も勝山と変わりませんが、20も寺があることを考えると、漁師の人たちやその家族は、海という人知を超えた場で生きているため、神仏への信仰が篤いのでしょう。

人がようやくすれ違うことができる路地です。こういう場所でも建て替え時建築基準法のセットバックが要求されるのでしょうか。

じゃこの干し物と小さなイカの乾燥物を購入しました。イカは優れモノでお店の人の言う通り包丁で小さく輪切りにして口に含むと、磯の香りが長時間口の中で転がります。PCをやりながらイカを口に含んでいると、あの愛すべき鞆の浦の店を想い出します。旅では駅ビルの名店センターに並ばない隠れた名品に出会うのも、旅の想い出ともに最高の楽しみです。

昨秋山陰旅行の際、バスの車窓から山陰の家並みを眺めていたら、直ぐ後ろの席の私と同年配の夫婦連れの御主人の「イタリーの街並みと比べて暗い」との声が耳に入ってきました。その方は学識ある風体でしたが、どうして山陰に来てイタリーと比較する必要があるのか、唖然とした記憶があります。

考えて見れば私の年代は、戦後教育を受け洋風化、欧米化を目標に育ってきました。上昇志向の強い人は、日本古来の住宅を狭いもの、畳での生活を古臭いもの、トイレや風呂は汚いものと否定しながら育ってきた人が多かったと思います。
私は、子供の頃育った家では楽しんだし、ネコが早朝勝手に片手で雨戸を開けて散歩に行く造りも悪いと思わなかったし、夏になると蚊帳を吊ったりするのが面倒でしたが、それらが当たり前だと育ってきました。

今の若い人たちは生まれた時から洋風の暮らしだったため、古い町並みがとても印象的なのでしょう。この感覚はとても自然なことだと思います。

今考えると家が変わったのは、建具がアルミサッシに代わった事、家庭の道具が木や竹や銅や鉄製品から、樹脂製品やアルミ製品に代わったことでした。その変化は昭和30年代後半から現れました。そう考えると家庭生活は、基本的には昭和30年代まで江戸時代からあまり変わっていないことと考えています。
教科書の時代区分は江戸、明治、大正、昭和、平成と続きますが、家庭生活は、電気、動力、TV導入など変化が生じましたが、生活そのものは風呂と台所を例にとると、プラスチック製品導入の前と後ろに大きく別れるような気がします。

石油製品は、農業の分野では肥料を大きく変え、人糞を使った有機肥料から化学肥料へ、そしてハウス栽培によって1年中夏野菜が食べられるようになり、鶏の大量飼育により卵や鶏肉が普及し、豚や牛の大量飼育によって、豚肉やハム、ソーセージ、牛肉の大量飼育は牛乳、バター、ヨーグルト、チーズの普及をもたらしました。

小学生から中学生になったころTVでプロレスブームが生じ、力道山物語の映画が上映されました。力道山が戦後上京して相撲部屋に入った時、母親が激励に上京して新弟子の力道山に会った時、母親は力道山に何が一番食べたいと聞いた時、力道山は店の前で茹っている卵を指さして、それを腹いっぱい食べたいと話したシーンを覚えています。その映画を見ている時には卵は既に、力道山が望むほど貴重品ではなくなっていたため、そのシーンを覚えていたのでしょう。

街中でも小高い丘があります。朝鮮通信使が滞留した丘の上の寺に向かいます。路地の中にこのような小さな旅館があります。宮崎駿は「崖の上のポニョ」の構想を練るため鞆の浦に1か月逗留していたと言われていますが、このような宿に逗留し、毎日ブラブラしていたのでしょうか。

朝鮮通信使が逗留した副禅寺です。朝鮮通信使の一行には李朝朝鮮きっての文人たちが随行していました。江戸時代の我が国の文人たちの教養は四書五経から始まる漢籍や山水画の風景に依っていました。朝鮮通信使の滞留する宿には、名筆や思想を求めて多くの文人たちが、参集し交流したと言われています。

この福禅寺には朝鮮通信使が滞在した迎賓館の対潮楼があります。ここから眺める鞆の浦の風景は天下一品です。雨模様の天気のため入館しませんでした。

鞆の浦の普通の街並み

伝統的建物群保存地区か区域外か分かりませんが、多分区域がと想いますが、鞆の浦の街並みは清潔で手入れが行き届いて、とても美しいです。まず気が付くことは車が見当たらないことです。これは駐車場に纏めて駐車しているのでしょう。

家の前に自転車を乗り捨てていないことです。当然ゴミバケツの姿も見かけず、ゴミも落ちていません。

この美しい街並みは住民の合意がなくてはできません。

また街の路地には車も見かけず、通り抜けの車も皆無です。小雨が降り始め道路がしっぽりと濡れてきました。路面のピンコロの石の配置も特筆ものです。

今回の旅では様々な発見がありました。錦帯橋と鞆の浦は期待していなかったというより事前の下調べを行わなかった分だけ、出会いは強烈でした。
こういう出会いがあると旅は止められなくなりますが、さていつまで続けられるか、欲をかかず、せめてささやかな善行を行い、心は天にお任せしようと想います。