中国地方の旅その2,松江から、たたら製鉄の歴史の町安来、米子

30代の頃、市の図書館で家族で子供の図鑑本を眺めていたら古代の鉄づくりという図解本があり、その時初めてたたら製鉄という鉄づくりを知りました。
子供の本は図解が基本で、大人の本には無いジャンルのことが詳しく図解されていて、面白くいろいろ眺めていた頃です。

砂鉄から鉄をつくる、たたら製鉄は古代から江戸時代まで我が国の鉄づくりで行われていた方法で、学校では教わった記憶はありませんでした。その神秘的な鉄づくりの場が出雲であり、現在は試験的にしかたたら製鉄は行われていませんが、安来の日立金属がその拠点でした。

私はDIYが好きで工具や刃物にも興味がありましたが、刃物の世界では白紙、青紙など安来ハガネの種類を現わす伝説的な刃物鋼があり、安来鋼の刃物を買おうとしてもホームセンターでは販売していなく、特別な専門店に行かないと手に入らないように感じていました。

更にまた安来は山陰地方の松江付近に位置することは漠然と判っていますが、具体的に何線のどこにあるのか、そこにはどうやって行くのか? 幻に包まれていました。

この日は中国地方の旅の2日目で松江城址前の歴史館を見学し、山陰本線で安来に行き待望の和鋼博物館を見る予定です。多分2つの博物館で時間を取られるために、米子では真っすぐ皆生温泉に向かうことになりそうです。

昨晩は松江宍道湖温泉の宿で、アワビを中心としたおいしい魚介類を堪能し、しじみ汁を何杯もおかわりしました。松江や米子地方は、近くに山陰屈指の漁港境港があるあため魚介類は豊富です。

宿のすぐそばの松江しんじ湖駅前からバスで松江城に向かいます。市内はさまざまなバス路線で、頻繁にバスが走っています。

松江歴史館

鎧や刀剣の展示ではなく松江城の建立の歴史、藩を維持して行くための商品経済、など非常にユニークな内容で、活きた歴史が学べる画期的な歴史館でした。
我が国の歴史は、人文科学だけでなく社会科学のスタンスで研究する時代に早く入った方が良いと想います。

土器などの遺跡からの出土物だけを並べた博物館の時代は終わったような気がします。

歴史館の前では、これから歴史館で歴史を学んでから松江城を見学するため集結しています。児童は多分松江城の配置図を見ながら講師の説明を聴いているらしく皆真剣です。こうやって郷土の歴史を学び、やがては自己のアイデンティティを確立して行くのでしょう。心の拠り所がある城下町の子供たちが羨ましいです。

先日友人と久しぶりで会ったら仕事でザルツブルグに行って来てモーツアルトを聴いてきたと言っていました。オーストリアのザルツブルグといえばモーツアルトを庇護した大司教の有名な宮殿があるところで、オーストリアではウイーンに次ぐ観光地になっています。

ヨーロッパの騎士による城や大司教の宮殿などは、単純に権力を誇示するだけの目的で建てられたのではないような気がします。同様に日本の城郭も権力志向だけの建築ではないような気がします。もし権力志向だけの遺物でしたら、こうやって子供たちに城について学ばせることはないと思うのです。
城郭とは何か?最近考えているテーマの一つです。

松江市立歴史館は松江城や松江藩に関する歴史を解説した資料館です。通常の博物館と異なって、考古学上の遺跡物の展示や、城郭の歴史館にあるような武具や鎧など一切ありません。

その代わり豊富な資料を基に、松江城の歴史や松江藩について詳細に調査した結果を解り易く纏めていて、小学生でも学べるように展示しています。

特筆すべきは、松江藩の営みや人々の暮らし、そして松江藩の産業基盤を詳しく解説しており、非常にユニークな試みです。

また幕末での幕府親藩の最前線だったことから幕府の長州征伐の先鋒を務めた結果、維新では新政府から白い目で見られた歴史もあります。

建物や展示も新しいことからビジュアルで非常に解り易く松江藩を理解できます。松江城、歴史館、武家屋敷、小泉八雲記念館を回ると大方松江城及び松江藩の在り方を理解できる優れた構成です。

とても見やすい展示です。江戸時代は、戦国時代に始まる米の石高制の農本主義を基本にしながらも商品経済の時代に入りました。資本主義の定義は様々ですが、商品が全国的に流通し北前船など全国的な舟運による物流が行われ、為替業務が発達し物々交換からお金とモノの動きが分離され信用取引が行われました。

江戸時代中期には幕府天領は400万石ありました。幕府は小さな政府ですから、天領で生産される米は地元商人の請負制で徴収され保管されたと想います。天領の代官所は少数の人間で運営され、しかも代官の異動は頻繁に行われていたため、請負商人から年貢料を貨幣で徴収したとも考えられます。こうした商人による請負制によって資本を蓄積した商人が誕生し、その資本をもとに次々と業務を展開して行ったものと想います。こうした幕府の取引方法は、各地の諸大名を刺激し積極的に領内だけの経済から大阪を中心とした商品経済に参加し始めたのです。

西日本の大名は商品取引のメッカの大阪があるため、城下の商人や大阪の商人の支店を通じて、北前船による日本海航路、瀬戸内航路を使用する物流を利用し藩内の特産品を積極的に販売して藩財政に貢献するように努めました。

東日本の太平洋航路は波が荒く、下北半島の尻屋岬、房総の犬吠岬の難所のため東周りの航路は不活発でした。しかし瀬戸内から紀伊半島沖、東海を経由して江戸の航路は良港も多く物流は盛んに行われました。幕末戊辰戦争で西日本や東海各地の藩が新鋭の武器を所持していたことに比べると、関東、東北の諸藩の兵器が遅れていたことは、東周り航路の不活発から、商品経済と商品情報の不活発さが大いに影響をしていると想います。

松江藩は18万6千石の親藩ですが、幕末2隻の軍艦を装備し藩を挙げて米だけでなく商品経済に参入できる特産品の生産に熱心であった事が、この歴史館の展示で良く判りました。

松江藩士1,158名の出身地の図です。極めて珍しい分析で初めて出会いました。歴史館の学芸員の人たちが研究したのでしょう。とても参考になりました。

宍道湖と中海を繋ぐ大橋川を挟んで松江城下を南北に結ぶ大橋の岸は渡海場とよばれ松江藩の舟運の拠点でした。この渡海場に属さない舟は無断で通行できず、必ずこの渡海場で荷を下ろさなければなりませんでした。

この大橋の両岸の渡海場には旅の安全を願う地蔵堂、番所、髪結い床、廻船問屋、船宿、八百屋、魚屋などで大賑わいでした。また出雲大社参詣も大橋のたもとから舟で平田まで行く参詣客で大賑わいでした。

北前船の寄港地は美保関が有名です。後に宍道湖の湖水を逃がすためと松江から最短距離で日本海に通じるために佐陀川が開削され、運河の機能が果たせるようになり加賀湊が北前船の主要な船着き場になりました。

明治時代、出雲の鉄は全国の鉄生産量の5割に達していましたが、松江藩では江戸時代の初めには専売制とし、安来から出荷し美保関から北前船で各地に出荷しました。鉄は石州瓦とともに航海中船を安定させるバラストになるため、北前船は鉄荷を重宝していました。

第7代松江藩主松平治郷は、若い頃から禅や茶の湯を学び大名茶人として、「不味」と号して生涯茶の湯を追求しました。不味は現存する名物茶道具を9年かけて調べ
「大名物」「中興名物」に分類し解説書を刊行しました。大変な業績です。

また城下でたびたび茶会を実施しましたが茶会にはその席に合わせて趣向をこらした和菓子を用意しました。これら茶会から生まれた数々の和菓子「若草」「山川」「やまかつら」「菜種の里」「姫小袖」「沖の月」などが現在でも伝承され和菓子の松江に息づいています。

松江の食(大保恵日記)より再現

大保恵日記は松江城下に住む町民太助の日記で、幕末の松江での様々な食事の様子が記されています。その日記を元に再現したメニューが歴史館で展示されていました。当時の祭りの日などで食したものです。(松江歴史館図録より)

松江は海の幸に恵まれておりおかずのヴァリエーションが豊富です。やはり米は貴重で白米を山盛り食べるのでなく、山海の素材を豊富に使っておかずの数を増やしています。また漬物や汁の種類も豊富で、食事を楽しむ文化が城下には漂っていたようです。

松江藩の商品経済(松江歴史館図録より)

以前私は、政治制度や人のからみの歴史に親しんで来ましたが、近年は人文科学の歴史より社会科学の歴史を好むようになりました。

歴史学は文学部出身者が多く携わって来たため、商品経済史、物流史、交通史など余り注意は払うことは少なかったようです。学問の分野では商品経済史、物流史、交通史などは社会科学の分野ですが、経済学部では講座がなく商学部の分野でした。私の学生時代はマルクス経済学に代わって近代経済学が全盛になり、商学部でも4年生まで経済学の英文、独文の原書購読が必須で、商品経済史、物流史、交通史など今考えると当時我が国で最先端の講座が用意されていたのに、地味で余り注意は払いませんでした。
多分歴史学の分野では、こういう社会科学の分野は異端で、世界史、日本史を見渡しても、この分野の研究は極めて少数だったと想います。

私が20年前我が国の舟運史を調べていた時、安部比羅夫の渡島の北征について論じるほとんどの著作は、安部比羅夫は北海道に渡っていない説でした。歴史学者たちは陸上の歴史ばかり研究していて、当時、我が国の舟の移動を低く見て、2年後に比羅夫が大軍を率いて白村江に行ったにも関わらず、思考の背景には海は未知で、安部比羅夫は北海道には渡る能力がないとしていました。
秀吉の朝鮮遠征に日清戦争並みの15万の兵力が半島に渡海しましたが、秀吉は大名たちに命じて船をつくらせたとあります。私は発想が逆で西国大名たちは15万の兵力の渡海可能な水軍を持っていた背景があるため秀吉は遠征を決めたと想っています。船を持っていないのは家康だけで、彼は根小屋城で西国大名の水軍の能力に恐怖を感じ、幕府開始後大船建造を禁止し鎖国を行ったと想像しています。

江戸時代、商人の税について余り研究は進んでいないように感じます。多分天領では年貢の徴収や米の物流等、全て商人の請負制だったと想像します。幕府は小さな政府でした。関八州取り締まり、江戸の南町、北町奉行も少数で運営し民間活力を動員していたと想います。

松江市歴史館は松江藩の商品経済の分野まで視点を広げ非常に珍しい博物館です。武具の展示だけでは、藩士の武の部分しか見えず、藩士の暮らしや藩経済を支える民衆の生きた歴史は学べません。その意味で松江歴史館は子供から大人まで生涯学習にふさわしい施設です。

歴史館の前で入場を待っていた小学生の一団と館内を前後しながら見学しましたが、教師OBの方の熱の溢れる解説とメモを取りながら素直に聞く姿が印象的でした。
80近くなって想うことは、学ばなかったことの方が多かったと想いますが、学んだことがいかに歳を取って楽しみになるか良く判ります。多分小学生たちにとって今日の1日は長い人生の中で忘れてしまうでしょうが、先生の一言や展示の一コマをやがて思い出すこともあるでしょう。学びとは受験勉強のことでなく、こういう一コマが本当の学びに代わると想うのです。

松江藩の商品の番付表です。江戸時代に作られ、いかに商品経済に熱心に取り組んでいたか、想像できます。

鉄、木綿、人参(朝鮮人参の中間)櫨蝋(蝋燭の原料)が一大産業で
出雲大社、一畑薬師が人を集めました。

明治時代のチラシ(松江歴史館パンフ)

歴史館のカフェ

カフェの庭、外は急に強い雨が降り出し、水しぶきを上げていましたが、今は少し収まりました。

抹茶と和菓子です。

和菓子の材料で作られた椿や牡丹です。

歴史観のミュージアムショップはかなり充実しています。また地元の出版物も豊富です。松江市ふるさと文庫22の渤海人来日の資料です。図録や現地を訪れないと他では手に入らない出版物はが充実しているミュージアムショップに出会うと嬉しくなってしまいます。さすが松江です。

松江から安来へ

山陰のの天気は変わりやすいです。昨日と打って変わって冷たい初冬の雨で、一挙に冬が来た感じです。

松江歴史館からバスで松江駅に来ました。3人では駅までの距離ではタクシーと変わりませんが、タクシーが少ないのでバスを利用しました。市内のバスは頻繁に運行しているため待つことは少ないです。

閑散とした松江の山陰線のホームでも列車が来る時刻になると、結構、人が集まってきます。

車窓から沿線の風景を眺めることは、旅の最大の楽しみです。特に沿線の家々の様子、田畑の様子、工場や資材置き場など観光と無縁な、旅先の街々の日常の風景を視ることが楽しみです。車窓の風景を見飽きたと想う旅慣れた息子も黙って外を眺めており、車窓の風景を楽しんでいるようです。

昨年の出雲から石見銀山、萩、津和野のツアー旅行では、中国自動車道のバスでの移動のため、人家の全くない山中の同じような景色ばかりで、山陰の美しい海の光景を味わうことができませんでした。そのため今回の山陰行は当初、松江を起点として温泉津まで山陰本線で旅することを考えましたが、温泉津から先はどうするかで、その不便さを検討した結果、かねてより行きたかった安来の鉄を見てから瀬戸内に出るプランに変更しました。

山陰地方の各地の鉄道や道路は、山陰を縦断するよりか、個別の主要都市は中国山地を横断して瀬戸内と連絡する様になっています。

戦国時代、中国地方の覇権を争った尼子氏、大内氏、毛利氏は全て中国地方も内陸が拠点でした。中国地方を考えた時、中国地方の最初の高速道の中国自動車道が、中国山地を縦断するルートを採用したことは、中国地方の特質を歴史的に捉えているのかも知れません。

山陰線のこの地方のメイン路線の松江~米子間でも通勤、通学時間帯以外はこの程度の乗客で7割が旅の人です。地方は完全な車社会です。

荒島という駅に着きました。荒島は中海に面していて、次の停車駅は目的地の安来です。ホームの表示では中海畔に荒島墳墓群があり、足立美術館と月山富田城の最寄り駅ですが、両者は安来駅からバスかタクシーで行くようです。

安来に到着しました。安来の和鋼博物館に行くことが、今回の主要目的の一つです。
江戸時代から明治にかけて、近代的な高炉による鉄生産は本格化される以前、中国地方は全国の鉄生産量の9割を生産し、島根県の奥出雲では全国生産量の5割を生産していました。近代的な高炉生産の前は、砂鉄を原料としたたたら製鉄でしたが、奥出雲で生産される鉄の大半は安来に集積され、安来港から船で江戸時代は美保関で北前船で、明治になると安来港から直接全国に出荷されていました。

明治32年に出雲と伯耆のたたら製鉄経営者が合同で雲伯鉄鋼合資会社が設立され、明治42年に安来鉄鋼合資会社に社名変更し、後に日立金属安来工場として高品質な特殊鋼生産を行って来ました。日立金属は大同特殊鋼とともに我が国が世界に誇る特殊鋼専業鉄鋼メーカーで、おそらくこの2社の製品が無かったら、世界の企業で困るところが続出するでしょう。しかし本年度から日立製作所は選択と集中経営から優秀な子会社群を分離し、日立金属は(株)プロテリアルに社名変更しました。

安来駅に着きましたが、昼時のため食事店を探しましたが、あまり見当たりません。駅の近くでこの居酒屋を見つけましたが、満員で30分以上待ちましたが、魚介類のメニューの豊富さ、圧倒的なボリューム、おいしさでたまげてしまいました。日立金属に行くビジネスマンや職人さんたちでごったがえしていました。もう行く機会はありませんが、忘れられない店です。

安来和鋼博物館

30代の頃、図書館の子供の本で、伝統的な鉄製法のたたら製鉄を知り、以来出雲、安来、たたら製鉄の故郷を訪れたいと思っていました。
今このことを思い出すと、私が不勉強だったかどうか分かりませんが、学校では鉄鉱石を石炭を燃やして作る近代製鉄の歴史しか学んで来なかったと想います。子供の頃は
太平洋戦争の反省から日本陸軍の象徴であった日本刀についてもふれることは無かったためかどうか、我が国の明治時代までの鉄製法であるたたら製鉄は、先生方も良く判らず触れてこなかったのだと想います。

それよりも産業革命の象徴であり近代重工業の中枢を担い鉄は国家なりとうたわれた高炉や電炉による近代製鉄こそが製鉄でした。社会科の授業では石炭を蒸し焼きにして不純物の無いコークスにして高炉で鉄鉱石を溶かして鉄にする手法だけを学び、川で砂鉄を選別して小さな小屋で木炭をフイゴを使用して燃やし鉄をつくるたたら製鉄は、工業的作業と程遠い遅れた作業として無視されていました。

しかし明治中期まで我が国の鉄が、このようなたたら製鉄で作られ鍋釜初め武具や釘や大工道具や農耕用具まで、この方法で作られていたとは、教えられてきませんでした。明治以降の教育の分野では近代がテーマで、たたら製鉄は時代遅れの鉄づくりとして無視されてきました。

日本刀の名品は鎌倉時代とその後に分けられます。戦時中、学徒出陣で陸軍将校が大量に誕生し軍刀の需要が高まりましたが、彼らが所持した刀は昭和新刀として重きは置かれませんでした。通常は時代の新しいものの方が性能は進歩しますが、日本刀とその材料の玉鋼は平安、鎌倉時代が最高で多くは宝物となりました。日本刀の材料は中世のたたら製鉄で作られた玉鋼で当時の名刀鍛冶が叩いて作った方が技術は高かったのです。

工業製品の材料の鉄は、それほど奥深く神秘的な素材で、人類が鉄を発見し製品にしなかったら、人類は今でも野生のサルやゴリラと同じく、農業を知らず一日中餌を求めてさ迷い歩く、彼らとそれほど変わりがない暮らしをしていたかもしれません。

和鋼博物館は日立金属安来工場の保有資料を安来市が譲り受けたたたら製鉄の記念館で、合わせて日立金属の特殊鋼安来ハガネも展示しています。たたら製鉄はNHKTVが近年製鉄づくりを制作し何回か放映していました。私も録画して何回か見ました。

昨年同時期出雲大社から石見銀山、萩、津和野と旅しましたが、出雲大社のスサノオのヤマタノオロチ退治の神話は、出雲の弥生時代の歴史だと確信しましたが、ツアー旅行だったので、安来の製鉄関連を横目で見ておばさんたちに人気のある足立美術館に寄りました。

あれから1年、今回の松江行きと共に安来の和鋼博物館に行くことが主要目的でした。

出雲のたたら製鉄関連施設

弥生時代のヤマタノオロチ神話の出雲の製鉄は、現在の奥出雲市、雲南市、そしてこれらの集積と出荷の安来湊で構成されています。

この出雲の製鉄エリアは日本遺産に設定されています。本来たたら製鉄は世界遺産の価値はありますが、たたら製鉄=日本刀=サムライ=ハラキリに繋がるため
なかなか世界遺産の登録は難しいでしょう。

出雲神話では右端の鳥上山に新羅からやってきたスサノオが降り立って、少し離れていますが出雲の斐伊川の流れにそって下って行くと、娘を間に老夫婦が泣いている姿に出会いました。訳を尋ねると山奥に住む八つの頭を持つ巨大な蛇が、今夜娘を差し出せと言ってきているとのことでした。蛇は高志のヤマタノオロチと言います。多分高志とは越の事で今でいう富山辺りの豪族で糸魚川の翡翠産地を元に勢力を拡大し出雲地方の製鉄も行っており、流した土砂が斐伊川河口の水田を覆い、稲作が出来なくなった住民たちが泣いていたのでしょう。スサノヲは乱開発している越の製鉄勢力を出雲から駆逐し、老夫婦の娘稲田姫と結婚し松江の南の八雲に新居を構えました。

出雲での砂鉄の採取は川面で砂鉄をすくうのでなく、右図の「鉄穴ながし」(かんなながし)という大規模な方法で行われました。
砂鉄の含有量の多い風化した花崗岩を見つけ崖ごと崩して川に流し、選別水路に導入して、何回も選鉱枡を通しながら、重い砂鉄を沈殿させて選別します、このため土砂は水流と共に河口に流れ田畑を荒らします。

ヤマタノオロチの正体は「鉄穴ながし」でした。

巨大なフイゴ(吹子)と築炉です。
たたら製鉄は約70時間、3日3晩交代でふいごを使用して風を送り燃やし続け、築いた炉が崩壊寸前に燃焼を止め、炉を壊してけらを取り出します。

1回の操業では砂鉄8トンを木炭13トンで燃焼させ、できるけらは約2,5トンです。このけらの中から選別した良鋼は玉鋼といい高級刃物の原料になりました。2,5トンのけらから採れる玉鋼は約1トン程度です。

出来上がったけらです。

近世たたらの操業には、熱を地下に逃がさず常に高温を保つように大掛かりな炉が築かれました。たたら製鉄も原理は同じですが、江戸時代末期や明治時代には
炉の作り方も進歩し、大量に鉄が生産できるようになりました。

安来鋼は高級刃物の鋼として定評があり大工、植木屋、洋裁、調理など広い分野で高級刃物として安来鋼が使われています。

私は30年来、毎日電気でなくカミソリを使用しています。愛用ブランドはここ20年来はジレットです。ジレットのカミソリは他に比べると高価ですが、長持ちします。公表はしていませんが全品種安来ハガネ使用しているそうです。

また刈込ハサミと剪定鋏の1個は岡恒ブランドですが、これも公表はしていませんが安来ハガネのようです。


今回の安来訪問の目的の1つに家内が包丁を購入することでした。数年前九州の刃物産地人吉で1軒だけ残っている鍛冶屋さんで包丁を購入しようと想いましたが、手荷物で持ってこられないので断念しました。その後ホームセンターで2本購入しましたが、砥いでも切れ味が悪く、機会があったら安来ハガネの包丁を手に入れたいと思っていました。

ネットで安来鋼の刃物屋さんを探したら和鋼博物館に刃物メーカーの守谷宗光がテナントで出店していたので、家内は待望の包丁を購入、私は切り出し小刀を購入しました。ホームセンターではまともな切り出し小刀は販売していないのを知っているからです。

安来駅に戻りこれから米子行きの列車を待ちます。駅には和鋼博物館で1人もいなかった観光客がおおぜい列車を待っていました。少し経つとまた大勢やってきましたが、外を見ると足立美術館の送迎バスでした。足立美術館は外国人に人気があると想っていたら日本人にも人気があり、松江行の列車が出たら駅はまた閑散としてきました。

米子、皆生温泉

生まれて初めて米子駅に降り立ちました。松江、安来は島根県、米子は鳥取県で山陰の2眼レフ街が、県が異なるためなぜかまとまりがありません。島根県、鳥取県ともに横に長く、島根県の松江は東端にあり西端は益田です。一方松江と隣接した鳥取県の米子は西端にあり、県庁所在との鳥取市と倉吉市は東端に位置します。いっそのこと島根、鳥取と合併し中心の松江、米子を政令指定都市でメガポリスにすれば、地域の求心力が働くような気がします。

地方の中心都市は益々メガポリス化し人が集中し始めているような気がします。九州では福岡、熊本がメガポリス化し中国地方では広島、岡山、神戸がだんとつです。四国は見当たらず、北陸は金沢、越後は新潟、東北は仙台、大阪、京都、名古屋岐阜、東海は不明で関東は横浜、東京、さいたまで、北関東は未だ見えません。
福井迄新幹線が伸びますが、次は岡山からトンネルで米子、松江、出雲と結ぶ必要があります。四国は大分からトンネルで松山、高松、神戸まで伸ばしても良いかもしれません。将来は航空輸送では限界でCO2の問題もあります。

朝の内は欲を出して米子城址でもと想っていましたが、息子に聴くと大した場所でないとの事で、どんよりした天気のため早めに宿にいくことにしました。息子は小学生の時から一人旅をしているので、日本中著名な地で行ったことの無い所は少ないようです。
駅を出ると運よく皆生温泉行のバスが連絡していました。

皆生温泉は日本海に面した温泉です。今宵は旅慣れた息子が中程度の規模の旅館を予約しました。夕食は松葉ガニを1人1匹ずつ堪能しましたが、値段はそれほど高くありませんでした。カニにとって皆生温泉は穴場のようです。同じズワイガニでも山陰地方では松葉ガニ、福井県では越前ガニとブランドとしての読み方が異なります。以前宮津の宿ではズワイガニの雄ガニと雌ガニを食べたことがあります。

宿について未だ時間があったので海岸や皆生温泉を散策しました。海の光景は飽きません。山陰の海はもう冬です。風が冷たいです。