中国地方の旅その3、城郭ファン憧れの備中松山城、ベンガラの里・吹屋集落

私は日本100名山とか、寺院の四国88カ所、西国33カ所、秩父34カ所とか決められた地を順に辿ることは好きでありません。それぞれ対象となった寺院の場合は歴史的経緯もありますが、日本100名山は深田久弥が稜線上の1つのピークを含めて恣意的に選択したものが多く、比叡山を名山と呼ぶには異議を挟む人はいませんが、100名山には選択した概念が良く判らない山が多いのです。
日本100名城もあります。100名城は歴史的にも、風景的にも誰もがなるほどと納得できる名城が多く設定されています。
実は本棚で日本100名城のパンフを探しているのですが見当たりません。半年ほど前500冊ほど処分した中に入れてしまったかも知れません。

なぜ日本100名城の本を探しているかというと、今回の備中松山城が山城に関わらず100名城にカウントされていた記憶があるからです。

中国地方の旅3日目は、米子駅から伯備線で高梁市に行き、備中松山城、吹屋集落を訪れ岡山に向かいました。春の瀬戸内旅行の最終日、レンタカーで吉備に行った時、備中松山城のある高梁市は総社市の北にあり、それほど遠くはありませんが、吉備と高梁を両方訪ねることは時間的に無理で、備中松山城はまたの機会にしましたが、まさかこんな早く実現できるとは思いも寄りませんでした。

伯耆国と備中国(米子と岡山)を結ぶ伯備線は、山陽と山陰を結ぶ鉄道で人気があり、単線ですが電化されており、古いタイプの特急車両が集積し乗り鉄マニアの人気路線です。

息子が事前に指定席特急券を購入しておいてくれたので安心して乗ることができました。米子では既に満席でした。

東日本ではあまり見ることができなくなった古いタイプの特急列車です。

米子から直ぐに伯耆大山駅に着きました。どんよりした雨模様の天気であいにく大山は見えません。今日の天気予報は島根県や鳥取県では小雨、岡山県では晴で、典型的な西高東低の気圧配置です。米子駅に向かうバスは通勤バスですが、女性の会社員は全てスニーカーを履いていました。初冬から普通の靴は履けないのでしょう。反面雪の札幌の通勤女性たちはおしゃれを意識してか普通の靴を履いていました。札幌は地下鉄が完備しているからなのでしょうか。

鉄道の旅で嬉しいことは車窓からの光景を楽しめることです。特に家並みを見ることが旅の最大の楽しみです。山陰地方全体は石州瓦がほとんどですが、石州瓦独特のベンガラ赤は少ないです。

これだけの豪快な民家は関東では出会うことはありません。ただ列車はスピードが速いため、あっという間に被写体は通り過ぎてしまいます。

伯耆線の特急停車駅は10カ所あります。単線のためこの10カ所の駅では特急の上下線が待ち合わせてすれ違います。単純に計算すると伯耆線は特急10列車プラスアロファ5の計14列車で回しているのでしょうか。鉄道事業は規模が大きいです。

昔、初めて中国自動車道が開通した際、中国自動車道が神戸から山陽道を通らず山口まで内陸を縦断していることに、多くの人が驚きました。今考えると東北自動車道も内陸を1直線に北上しているし不思議ではありませんが、中国地方は山陽道と山陰道があり、どちらかといえば新幹線も瀬戸内沿線で、山陽道の方が圧倒的に交通量が多いことを知っているからでした。しかし内陸に通しておけば、左右枝分かれで山陰、山陽どちらでもアクセスできるという発想は、当時私たちには思いつきませんでした。
今では山陽道にも高速道が走っているし山陰道も部分的に高速道路が敷かれています。

この中国自動車道を内陸に縦断しようと企画した人たちは、中世の中国地方の歴史的特徴をよく把握していたと想います。

中国地方の近世の主要街道は山陽道と山陰道に分かれています。しかし江戸時代はともかく戦国時代只中の中国地方の、大内氏は山口、尼子氏は安来近くの月山富田城、毛利氏は広島の内陸の吉田郡山城など有力大名の拠点は皆中国地方の内陸にありました。彼らは軍勢を動かす際内陸経由で移動しました。

津山、新見、三次など中国地方の内陸の分水嶺を縦断しながら繋いでいる古い街道にそって中国自動車道は走っています。中国自動車道は米子自動車道と松江自動車道など高速自動車道と繋がっています。

また現在米子から伯備線と平行して道路が走っていますが、そこより西寄りの山中に江戸時代から出雲の鉄を瀬戸内に出荷するための旧出雲街道が走っています。

鉄道はこのような川の上流に向かって登って行き、小さな峠のトンネルを潜るとまた小さな盆地に出ることを繰り返して進んでいきます。

山間には小さな盆地が連続して現れます。
こういう地形を見ると、いつも古い西部劇ウイリアム・ワイラーの「大いなる西部」を思い出します。この映画は大好きな女優ジーン・シモンズ主演の数少ない映画で、最初に見たのは中学生時代でした。ストーリーは西部で牧場を経営する2つの家の抗争の物語で、抗争は両家の殺し合いまで発展します。抗争の原因は、放牧している牛に飲ませる川の水利権の争いでした。大陸の平野は地続きで川の流れが限られるため、水の争いが絶えないのでしょう。

反面、我が国は尾根が複雑に走り、尾根の間にはそれぞれ水が流れ扇状地を形成し、まとまれば盆地になります。まして砂漠地帯と異なり高温多湿な気候の我が国では、水の争いは皆無だったでしょう。これは古代史を考える時一番重要なファクターだと想っています。
歴史学者たちが学んできた大陸型陸上史観では、古代では争いが絶えず、発掘した人骨に矢じりでも刺さっていれば、国同士、部族同士抗争の歴史が展開できるため大喜びです。

伯備線は、山陰地方から中国山地の背を越えて瀬戸内の岡山に通じています。
米子のどんよりした雨模様の天気は、分水嶺を越えたら本当に変わるのだろうかと案じながら、車窓を眺めていました。分水嶺によって明確に天候が変わる地域は、旧上越線でした。今は上越新幹線で、上州から越後に変わる情緒あふれる光景は期待できませんが、伯備線だったらそれが可能な筈です。

分水嶺近くの新見を過ぎると空が明るくなってきました。分水嶺をすぎても直ぐに天気が変わる訳でなく、完全に山中を脱すると天候は変わってきます。
もうすぐ高梁市です。

高梁市に着きました。高梁の字は普通は読めません。高梁市は備中松山藩の城下町で、幕末まで備中松山と呼ばれていましたが、江戸時代後期に伊勢亀山から板倉家が入封し、幕末には老中首座となり慶喜と行動を共にしたため戊辰戦争で朝敵とされたため、明治になり明治新政府によって地名を高梁と変えられてしまいました。

幕末まで使われた山城の最高峰・備中松山城

高梁の駅前で予約したトヨタレンタカーでアクアを借りて松山城を目指します。松山城の麓の駐車場まで集落の中の道は狭く対向車が来ないことを願う道です。

城見崎公園から8合目のふいご峠の駐車場までは、1車線のため市の係の人が無線で登り、下りをコントロールします。

備中松山城は、完璧な山城ですが戦国時代の遺跡でなく幕末まで老中首座板倉家の備中松山藩の城として使用されてきました。最も藩主及び政庁は麓の現在の高梁高等学校の位置に設けられ、家臣団も市内に城下町を形成し暮らしていました。同じ山城でも家老以上が山上で暮らした滝廉太郎の故郷で荒城の月の曲想を練った豊前岡城と異なります。

備中松山城は鎌倉時代承久の乱で戦功のあった三浦一族の秋庭三郎重信が地頭としてこの地に赴任、臥牛山大松山に砦を築いたのが始まりで、以来幕末まで15家が城主を歴任、特に江戸時代には池田家、水野家、水谷家、浅野家、老中安藤家、石川家、老中板倉家など有力家が城主を歴任しました。

備中松山の地は、美作津山と共に岡山の背後に位置する中国地方の重要拠点だったのでしょう。

大分、岡城址

12年3月 豊前竹田、岡城跡

備中松山城、登山開始

下の公園の駐車場から頂上の天守まで歩いて1時間半の登りです。車で8合目のふいご峠から登り始めます。所要時間は20分、距離700mですが、決して甘くありません。

麓の屋敷と天守との伝達手段として太鼓が使われました。常設した太鼓は下太鼓の丸、中太鼓の丸の2箇所の中継点を繋いで連絡しました。

ここは中太鼓の丸跡です。

尾根の上の天守への道です。

大手門跡に近ずくと異様な石垣群が眼に入ってきます。

大手門跡です。

三の丸は見上げるような傾斜の上です。

三の丸から見た石垣群は圧巻です。まるで漫画のようです。

二の丸に上がってきました。

二の丸から見上げた天守です。本丸は天守の前の小さなスペースです。ここまでは誰も攻めて来られないでしょう。

この天守は靴を脱がなくてはなりません。私のトレッキングシューズは紐を締め上げているため靴が履きずらいのです。

天守からの眺望は大したことはありません。

本丸からの眺望は圧巻です。下の河原は高梁市内を流れる高梁川で、そこから車、徒歩で標高430mの頂上まで上がって来たのです。
左側の山の稜線に人家が見えます。息子は西日本は山の上に人家がある所が多いと言っていました。あの人家もポツンと1軒家の1つです。

ベンガラの里、吹屋集落

文化庁HPより、吹屋銅山は大同62年(807)に開坑された古くからの銅山で、戦国時代には中国地方の有力大名の争奪の場となった有力銅山でした。江戸時代中期には住友家が経営に参画し国内屈指の産銅量を誇りました。

明治時代になると三菱商会が買収し近代的銅山に変え、後の近代鉱山経営のモデルとなりました。しかし昭和47年に閉山しました。

吹屋集落は建築物伝統的保存地区に指定され、20年には日本遺産に制定されました。

吹屋銅山はまた日本を代表する顔料のベンガラ(弁柄)の生産地となり陶器や建築など様々にベンガラの顔料が使われ、外国人を魅了するジャパンレッドの発祥の地となりました。

山の世界では夏山の登山者が多い白馬の大雪渓初め初心者が集まる大きな雪渓で、雪の上に登路を表示するために昔からベンガラが使われてきました。改めて想うにベンガラ以外雪の上で表示する方法は今でもありません。

集落全体がベンガラの赤で染まっています。

文化庁の伝統的建築物保存地区に指定されている地区のため、良くありがちな復元新築家屋の街並みと一線を画した美しさが漂っています。

ベンガラを和紙や布に染めています。

赤く染めた白壁が美しいです。

季節外れのため観光客は少なく唯一の小団体客です。

金沢の飯屋の室内壁にはベンガラが良く使われています。雪国の家屋には良く似合います。

自然素材の顔料は良い味がでます。

タイムスリップした気分です。

少し季節的には寂しい季節に来てしまった感があります。早春の草木が芽吹く直前の季節には赤のベンガラが美しく輝くでしょう。

街外れの最後の紅葉です。

高梁の駅に着きレンタカーを返却し岡山に向かいます。駅の階段を上がったら、駅に来るとき気が付かなかった図書館がありました。

蔦屋と高梁市とJR西日本が提携して、本屋のある図書館でした。蔦屋の書店と市の図書館と行き来が出来るユニークな構造で驚きました。書店が全国に半分になった現状から、本難民が増加していますが、地方都市のこのような試みは特筆に値します。

石村嘉成の動物画は独特です。高梨市歴史美術館で行っている個展のポスターです。オウムの迫力は圧倒的です。
宮崎駿の最新作「君たちはどう生きるか」で何の意味付けがなくオウムが登場していました。

高梁から岡山行きの列車に乗りました。岡山まで40分ですが途中総社、倉敷を経由して岡山に行きますが、総社から大勢の通学の高校生たちが乗り込んだり、降りたりして、東京近郊の鉄道風景と全く同じです。同じような風景は宮島から広島でも見ましたし、仙台もそうですし、八代、熊本間でも同じようでした。県庁所在地を含めて地方都市が車社会一辺倒になり周辺鉄道も寂れて行くように想いますが、このように地方中核都市では周辺鉄道が活性化しています。

地方再生は商業施設と文化施設、スポーツ施設を集合した中核都市化をどう図るかのような気がしますし、県単位で細かく考えるとどんどん衰退に向かうように想えます。
松江、米子と比較して岡山近辺の鉄道利用の状況を目の当たりにすると、余計そう感じます。

岡山で食事して九州に還る息子と別れ、岡山駅構内のホテルに宿泊します。息子は九州まで新幹線で短時間で帰れます。これを考えると新幹線が通じていない都市は、非常に不利に想います。県庁所在地で新幹線が近くにも来ていない都市は、鳥取、松江、四国全県、大分、宮崎、こう挙げていくと気の毒な気がしてきます。

このホテルは2度目ですが、鉄道旅行の際は駅構内にあるのでとても便利です。