中国地方の旅その1,美しい城と城下町松江

11月の月末の4日間、松江から安来、米子、備中高梁、岡山、神戸へと、山陰から中国山地を横断して瀬戸内に出る4日間の旅を行いました。

昨年同時期、ツアー旅行で玉造温泉、出雲大社、石見銀山、萩、津和野と山陰地方を駆け抜ける旅を行いましたが、行きたかった松江市内をカットされたため、九州に住む息子に声をかけ、松江で落会って松江しんじ湖温泉、皆生温泉、そして伯備線で備中高梁の名城備中松山城を訪れた後岡山で息子と分れ、最終日は神戸を散策しました。

実は私はしじみが大好きです。津軽の十三湊でしじみラーメーンを食べたらあっという間に下痢が治ったことから、しじみが余計好きになりました。松江といえばしじみの街です。

旅を終わってから直ぐブログに着手すれば良いのですが、帰宅してから用事も待ち構えているし庭の薔薇の剪定作業も待っています。しかし時間がかかるのはそれだけでなく、旅での画像を眺めながら、旅先で集めて来たパンフや買い求めて来た図録など読みながら、ブログ掲載画像をあれこれ選別しながら旅をゆっくり反芻するのに時間を要します。今回もグズグズしていましたが、やがて年末にかかり、次の旅も迫っているため、ピッチを上げてUPしました。

宍道湖のしじみ漁 宍道湖畔の宿から見たしじみ漁の船です。この程度の隻数で2時間程度漁するだけで1日の作業を終わりにして乱獲を防いでいるのでしょう。産地でもしじみは高価です。その代わり宿ではおいしいしじみ汁をふんだんに味わうことができます。

米子空港から空港バスで松江駅に向かいます。昨年と同じ時期バスで通った道なのでなぜか懐かしく感じます。ツアーで旅するのも便利ですが、旅先での移動は全てバスのため、旅先の鉄道の駅と無縁なため、旅の魅力を半減させています。

旅の醍醐味は鉄道にあります。松江駅で息子と待ち合わせしました。生まれて初めて見る松江駅は他の駅と似たようなたたずまいですが、私たちと同じように駅の改札口でビジネスや旅行客たちと待ち合わせする人たちを眺めると、なぜか旅の駅だなと心のときめきを感じます。
息子は静岡に所用があり航空便で静岡に行き前夜は岡山で宿泊しました。私たちは羽田9:10発の航空機でも松江には12時近くの到着です。

駅前の観光案内所で、出雲蕎麦の有名どころをお聞きしたら名店の「一福」を紹介されました。駅前の一畑百貨店の6階の「一福」に行くと、正午前なのに大勢の地元の人たちが順番を待っていました。年配のご夫婦や母娘が多いですが、店前には椅子が完備しているため待つのは苦になりません。みなさん定期的に来て「一福」の蕎麦を楽しんでいるようです。

「一福」の奥出雲蕎麦は、辛めの汁に薬味を入れ腰のある蕎麦を味わうのですが、腰のある蕎麦はおいしいですが、汁は私には今一でした。出雲大社前で食べた出雲蕎麦のシジミや小魚のだし汁が気に入っていたので、すこしがっかりでした。

息子や家内は奥出雲蕎麦に肯定的で、地元の人たちがあれほど入店を待って食べる蕎麦だから、地元の人の味に会っているのだろうと、2人で口を揃えて私の感想には賛成してくれません。

考えて見れば食べ物の味付け自体が元来ローカルなもので、そのローカルの味に馴染めないからと言って、否定的になる私が間違っているのかも知れません。元来、世界標準、日本標準の味などあり得ないのは当たり前です。


一畑百貨店は、出雲大社と松江を結ぶ、地元の名門電鉄会社一畑電鉄が経営している百貨店ですが、哀しいかな閉店セールを実施していました。多分赤字でとっくに閉店したかったと想いますが、地元の有力企業のため地元の要望を受けて今日まで閉店できなかったと感じましたが、この私の見立てを、宿までのタクシーの運転手さんにお聞きしたらその通リだと言っていました。

秋にセブン・アイグループがそごう・西武を売却するニュースで大騒ぎでした。その報道に接しながら、旭川や秋田、広島など旅で訪れた各地のそごう・西武を思い出してしまいました。旭川駅前、秋田駅前の西武撤退は街として大打撃です。一生懸命売り場づくりをしていた秋田西武のパートさんたちの姿が思い浮かびます。

もっと衝撃的なのは、新宿のバスタ以上の設備を誇る広島のバスターミナルはそごうの店内にあります。そごうの撤退のニュースを地元の人はどう受け止めたのでしょうか。川口駅前のそごうは撤退しましたが、東京にはデパートがいくつもあり、地域文化が崩壊することはありませんが、地方都市の百貨店撤退は決定的です。

百貨店ばかりでなく巨大なショッピングセンターの核店舗の撤退も衝撃を与えます。津軽の五所河原郊外のヨーカードー撤退の報道も衝撃的でした。五能線で五所河原に行きレンタカーで十三湊に行く時、五所河原の2軒のホテルは満室のため、郊外のヨーカードーのショッピングセンター前のホテルに宿泊し、食事はショッピングセンターの居酒屋で海鮮を楽しみました。田んぼの真ん中の何もない場所に立つ広大なショッピングセンターの核店舗のヨーカードーが撤退したら後は専門店ばかりのショッピングセンターや隣接したホテルはその後どうなるのか、想像するだけで哀しくなりました。

全く余談ですがねぶた以外観光客が少ない五所河原周辺のホテルが満室だったのは、翌日津軽半島を走っていて原野に大規模な風力発電の工事を行っていたことが理由だと分かりました。

松江にはたくさんの温泉があります。昨年は玉造温泉に泊まりました。宍道湖の夕陽は定評がありますが、宍道湖の南岸は温泉がないため、北岸の松江しんじ湖温泉郷に宿をとりました。今回は宿の予約は息子に任せましたが、旅慣れた息子の宿選びの基準を良く知っているので、おいしいものが食べられそうな予感がありました。

宿に荷物を置き松江城に行くため、フロントでタクシーを頼みましたが、今観光地のニュースで報道されているように、運転手不足でタクシーを呼んでも中々来ないという事なので、直ぐ近くにある松江しんじ湖温泉駅からバスで行くように勧められました。

松江しんじ湖温泉駅は、出雲大社行きの一畑電鉄の始発駅です。一畑電鉄は宍道湖の北岸に沿って走るローカル鉄道ですが、多分、個人旅行で松江を観光して出雲大社を参拝するためには、この一畑電鉄が一番便利でしょう。空港は松江は米子空港、出雲は出雲空港があるため、一畑電鉄を使えば、松江、出雲両方を楽しむことができます。

バスが行ったばかりなので、松江城まで大した距離で無いので街を散策しながら行くことにしました。

初めての知らない街を歩くのはトキメキを感じます。若い頃、永六輔、中村八大の「遠くへ行きたい」という歌がありました。詩の初めは、「知らない街を歩いて見たい。どこか遠くへ行きたい。」「知らない海を眺めてみたい。どこか遠くへ行きたい。」まさに名歌です。

改めて考えて見ると、今まで私が行って来た旅のイメージは、まだ見たことに無い知らない街を観ることが最大の目的で、その上に城下町だったら城跡を見て、名高い神社仏閣だったら寄って、海辺でしたら港を訪れることでした。ツアー旅行と異なって最初から風光明媚な地を目的にしているわけではありませんでした。

しかし紅葉の最中とか桜の満開の季節は、宿や交通機関の予約が難しいためツアー旅行に参加してきました。

知らない地の街並みは、できるだけ時間を経ている光景に惹かれます。旅先で現代的な箱型の住宅の街並みを眺めても、普段の暮らしの延長でしかなく、わざわざ旅に出た甲斐がありません。




街歩きを行う際、伝統的重要建造物群に指定されている街並みや観光地の商業地の街並みは撮影しますが、たとえば古い街並みの中に、古くて崩れそうな雰囲気がある家に出会うと記録に留めたくなりますが、プライバシー上で画像に収めることは我慢し、できるだけ印象を脳裏に焼き付けています。

古くて美しい町並みは車の存在によって景観は失われてしまいます。美しい町並みを維持している地域は、車の存在を上手く処理しています。各家は車がむき出しにならないように、車庫を建物内に設置したり、車の頭部が道路に覗かないように奥まって駐車しています。

街並みを辿ると大きな堀に突き当たりました。堀というより川です。地図を見ると京橋川という名の川で、城を大きく囲って流れており城の周囲の堀と2重構造になっています。まさに水の都、松江の姿を象徴しています。江戸時代、城下のほとんどの物資は、宍道湖や中海から舟運で運ばれていたことでしょう。

ヨーロッパや北国と異なって、我が国のほとんどの川は、河口は別として中流では河原のウエイトが大きく、岸辺迄水を溜めこんでとうとうと流れている風景は観られません。松江は宍道湖の河口に発展した城下町で、この京橋川も上流から自然に流れた川でなく、宍道湖の水を城下に引き込んだように見られる川のため、このように満々と水をたたえる美しい景観をつくっています。

高度成長時代、河川の汚染が問題になってきましたが、これは高度成長時代になってから河川にゴミや汚水を流し始めたのではなく、それ以前からゴミや汚水を流していた習慣が産業規模が拡大したため、ゴミの量が拡大し汚染が広がったものと想います。

また洗濯洗剤や家庭用洗剤もそれまで天然の粉石鹸を使用したため汚染問題はそれほど目立たなかったものが、石油化学工業の発達によって、合成洗剤に切り替わり界面活性剤による大量の泡や、洗浄力を高めるリン酸塩の添加による富栄養化の結果大量のプランクトンが発生し、水中の酸素が不足し魚類が住めなくなり河川全体が汚染化して行きました。。

多分川に流す習慣は中世から行われてきた習慣で、江戸時代の舟運が盛んになっても、この習慣は続けられていたように想います。昔は堰堤やダムが無く、町に入っても川は海にスムーズに流れ汚物が溜まることは無かったと想いますが、洪水の時はそれだけ被害は甚大でした。

昭和30年代まで、農業は人糞や家畜や魚粉を使用して有機栽培を行っていたので、これらは貴重な肥料のため川に捨てることはありませんでした。特に江戸時代は都市でも農家が人糞を回収するシステムが出来ていたため、川の汚染は無かったと想います。

また戦後の昭和30年頃までは、ゴミの量が少なかった記憶があります。子供頃の記憶では町内の何カ所かにセメント造りのゴミ箱が設置してありましたが、そこが満杯になってカラスが群がっていた記憶はありません。大体が街中ではカラスは見かけず、カラスと言えば郊外の田んぼの上を飛んでいた印象しか残っていません。

生家の庭にイチジクと柿の木とザクロがありましたが、秋になると木に登って実をもいで枝に腰かけて食べていましたが、実を食べた後に残る皮はそれぞれ木の根元にそのまま捨てて、猿と同じ食べ方をしていました。女姉妹ばかりだったので柿やザクロやイチジクは誰も食べず、私だけが食べていたように想います。
どの家にも放し飼いの犬がいて、残飯や魚の食ベカスは犬たちが食べていました。私に懐いていた猫は主食は煮干しで、贅沢に育てたため残飯には決して口を付けませんでした。

近年ゴミとして多くなったのは食品の包装ゴミです。生鮮食品は市場から魚屋さん、八百屋さんの店頭に並び、野菜も魚も全てむき出しで並べられ、むき出しで家に持ち帰り、肉や魚の包装は経木でした。豆腐や油揚げはお豆腐屋さんに鍋や飯盒など容器持参で買いに行き、パンも包装紙はありませんでした。牛乳やお酒やビールやサイダーは瓶のリサイクルシステムが完備していて瓶のゴミ出しはありませんでした。

街には自動販売機やコンビニが無いから、喉が渇いた時は水道から水を飲んでいました。私は子供の頃肥満でしたが、必要以上に糖分を採らないため皆スリムでした。

松江の古い町並みを歩きながら、松江の美しい堀の水と、華美なところが微塵も見られない質素で清潔な街並みを眺めながら歩いていると、子供の頃の浦和の街並みを思い出し、ついでに当時のゴミの事まで思い出してしまいました。今の松江と昔の浦和の街と街並みの清潔さという点では良く似ています。

見知らぬ街を歩くのは良いものです。

京橋川の枝川が北の方に伸びています。この川が城の内堀となるのでしょう。木ツタの美しい紅葉が眼に沁みります。

大通リに出て左折すると県のさまざまな施設がる場所にやってきました。いわゆる皇居前です。

松江藩初代藩主松平直政像です。直政は家康の次男結城秀康の子で大阪冬の陣では、14歳の初陣で真田幸村の守る真田丸に突進し、幸村はその勇猛ぶりを称え軍扇を投げ与えたと言われ、現在でも松江神社に保管されています。この像はその初陣の際の直政です。

島根県庁です。この手前に竹島は島根県との看板が設置してありました。隠岐は昔は隠岐国でしたが今は島根県です。

島根県庁を見ると埼玉県庁の建物と良く似ています。
埼玉県庁は昭和24年の大火で焼けてしまい再建されましたが、今では各階の外壁の筋交いを入れて耐震対策を施しています。島根県庁も大きくは無く、県が広いため事業所は各地に分散しているのでしょう。埼玉県庁も同じく狭いです。さいたま市も旧浦和市庁舎を使用しており好感が持てましたが、現在はさいたま新都心に新市庁舎の建築が進行しています。さいたま市は、旧浦和市の矜持を無くしただの豪華な流行りの市庁舎に変わろうとしています。政令指定都市はそんなに偉いものなのでしょうか?

さいたま市は、義務教育の学力向上には熱心ですが、市のイメージはさらに個性のない政令指定都市に突き進んでいるように感じます。

東京オリンピックの時完成した代々木の岸体育館は、岸信介の名をつけた設備と想っていましたが、松江出身の岸清一の名を付けたものだと知りませんでした。

説明サインによれば、岸清一は幕末に産まれ明治、大正、昭和を通じて法曹界の第1人者として活躍される一方、日本体育協会会長、国際オリンピック委員会委員として、日本スポーツ界の育成と国際的地位の向上に半生を捧げられ、近代スポーツの父として敬慕されています。またスポーツ振興のために巨額の浄財を投じられ、地元の発展にも多大な貢献をされましたと記されています。

オリンピックが金まみれの世界になり、多くの逮捕者が生まれ、今またキックバック問題が生じています。

岸精一は松江藩の下級藩士の子として生まれました。同じく奥に銅像がある東条を糾弾した首相若槻礼次郎とは遠い親戚で、若槻の方はより下級藩士の子弟で困窮の中育ち、東京では岸の下宿に同居して学問を修めました。

岸清一、若槻礼次郎の生涯を想うとそれを生んだ松江の風土、清貧の武士社会、高いモラルと世に役立ちたいとする向上心、そんな日本人が消えてしまったような気がします。このような偉人を生んだ松江の風土を羨ましく想うとともに、現代では同じ松江出身で自民党安部派の代表で謎を残したまま亡くなった人もいます。やはり日本人は変節したのでしょうか?

お城が見えてきました。湖のような広い堀の向こうに小高い山の上に城は築かれています。

国宝の天守はまだその姿を覗かせません。ナンキンハゼの美しい紅葉が加わります。

城を望む1等地にススキが残っています。ススキが雑草でないことの証です。
ナンキンハゼは葉が散り白玉だけが付いています。

米子空港から松江に向かうバスからたくさんのススキを見かけました。特に中海の畔はススキの群れが美しく続いており、未だこの地では見沼田んぼのようなセイバンモロコシは現れていないようです。

水辺には特にススキがあり、ススキは湿地を好むことが分かりました。見沼田んぼの土手は水ハケが良いので、ススキはセイバンモロコシに駆逐されてしまうのでしょう。

松江城を築いた堀尾吉晴の銅像です。堀尾吉晴は尾張の土豪でしたが、信長に仕え頭角を現した後秀吉に仕え、関ヶ原では家康に味方し活躍し、出雲、隠岐両国を拝領しました。古代出雲国の国府は中海と宍道湖を繋ぐ大橋川の南に位置し、出雲守護の京極氏や尼子氏はそれより内陸の月山富田城を拠点としていました。


出雲、隠岐24万石の領主となった堀尾吉晴は内陸の山城の月山富田城では舟運が使えず、広大な城下町を建設できないため、大橋川の北の亀田山に新たに松江城を築きました。山陰本線は宍道湖と中海の南を通っているため、JR松江駅は大橋川の南に位置しているため、松江の街は大橋川を挟んで北に松江城と県庁や市役所などの公共施設、南に市街が拡がっています。

堀尾吉晴が関東の土豪だったら、出雲、隠岐2か国24万石の大名になったでしようか。どう考えても関東に比べると畿内や西日本の方が戦国時代は緩やかだったような気がします。また反面関東の武士だったら松江を選択し松江城を築くことはしなかったように想えます。

考えるに戦国時代は関東はまだ農本主義の時代であって、畿内や西日本は一早く資本主義社会に突入していたとも考えられます。松江城を眺めながらそんな気がしてきました。

広い大手門跡から二の丸に向かいます。

1年に1回ですが、小学生時代から一人旅を続けている旅慣れた息子と旅をするのは楽しいものです。うまいものとお酒が好きな家内はその分野で話が合うし、仕事の傍ら今でも頻繁に旅を続けている息子とは、歴史や地理について子供の時から話が弾みます。

ここで初めて国宝の天守が望まれます。天守が見える位置は木が植えていません。

松江城の概念図です。

ここを回り込めば天守です。

クロガネモチでしょうか? お城の石垣によく合います。

興雲閣という明治の洋館が現れました。

明治36年(1903)に松江市工芸品陳列所として建築されました。明治天皇の行在所に使用する目的で建てられましたが、明治40年(1907)皇太子(大正天皇)の迎賓館として使用されました。工芸品陳列所として主に使用され松江市の迎賓館としても使用されました。

工芸品陳列所という古臭い名前ですが、内容は工芸美術館であり、松江藩伝統の漆器を展示する場でした。

明治36年(1903)で日露戦争直後の建築で、洋館建築技術もかなり進んでいた時代でしたが、国産木材を加工した装飾は、重厚さからかなり優しさに変化しています。

天守の方に気を取られて、松江神社に行くことを忘れてしまいました。

この門を潜ると待望の松江城の天守です。

国宝松江城天守、外見は4重、内部は5階、地下2階の堂々たる天守です。

明治初頭廃城令で、取り壊され建築材料として売られるところを、旧松江藩士と豪農らによって取り壊しを免れました。

上田城の天守は実際に遊郭に売られました。廃仏毀釈では興福寺の5重塔も解体され建築材料として売られるところでした。明治新政府の革命政権は、将軍が君臨した江戸時代を否定したくてしょうがなかったのでしょう。

革命は前の政権とその社会を全否定します。ロシア革命はロマノフ王朝とロシア文化を否定しましたが、フランス革命はブルボン王朝を否定しましたがフランス文化は否定しませんでした。

天守を支える柱群です。

天守の階段は急ですが、後世手すりが付けられ登降が楽です。

天守の階段と言えば、現存している最古の天守越前丸岡城の天守の階段は恐怖そのものです。

学生時代の同期の山仲間と訪ねましたが、岩の経験者ばかりだったのに穂高の岩より怖い想いをした記憶があります。

恐怖の階段、最古の天守・越前丸岡城

越前丸岡城 14年9月
恐怖の天守階段 ステップの間隔が広く足を挙げるのは大変で、むしろハシゴを設置した方が楽です。

宍道湖が望まれます。

大山方面ですが、雲で見えません。

クスノキの巨木です。

下に見える二の丸を横切って護国神社に向かいます。ここには米蔵があるとした資料を見かけました。二の丸に米蔵があるとは珍しい城址で、それだけ米が大事にされていたのでしょう。関ヶ原後の築城当時、まだ戦国の名残で世の中不安定だったのでしょう。江戸時代の武断政治から文治政治に変わったのは島原の乱以後です。

立派な護国神社です。旅のついでに訪れる護国神社で訪れた神社は多くありませんが、印象的な神社は、函館、秋田久保田城、熊本城、広島城、秋月城、諏訪城などを思い出します。福山城は気が付きませんでした。名城の影に立派な護国神社がありました。

城址に行くと必ず護国神社や招魂碑を訪ねます。護国神社や招魂碑は地元から出征し戦死した人たちを祀っています。戊辰戦争から、日清、日露、市那事変、太平洋戦争で戦没された人たちは、郷土を守るために心ならずも戦で亡くなられました。彼らは国家のためというより、家族や郷土を守るため戦いました。

私は鎮守の杜の神社と招魂碑が、我が国のナショナリズムの原点と想っています。

松江でもツワブキの黄色い花を多く見かけました。関東ではあまり見かけない花です。津和野はツワブキが咲く野という意味の地名から生まれたと言われています。

護国神社から北の小道は今回の松江城散策のハイライトでした。城門入り口の駐車場や城外の駐車場から離れているため観光客は誰もおらず、美しい林の道は今でも脳裏に浮かびます。

途中ハーンが愛した城山稲荷神社や城山に関係する特別な家屋が散在します。多くの城址は2ノ丸付近まで市街地になってせせこましくなっている中、熊本城と同じように広大な城山全体を城址している規模の大きさは特筆に値します。

天守は大事ですが城址の魅力は天守だけにあるのではなく、城を構成している全ての要素が魅力にかかわっています。

松江城はその典型のような気がします。この小道があることで私の松江城に対する印象は倍増し、ハーンが松江を愛した理由が分かるような気がしました。

同じくハーンは熊本も愛しましたが、私個人としては、熊本城も城址全体の魅力という点では、我が国における城址の魅力の点では1,2位を争うと想います。

楽しい小道の散策も終わりになり城山から裏の堀に来ました。

堀というより川で、中海から流れる京橋川が城の周囲を囲っているため、堀に見えますが実際は川が城を囲っているのです。左側の城址から堀に面した斜面は、誰も足を踏み入れていない原始の森というには大袈裟ですが、未開の茂みのようです。雪国なので太平洋岸のように、低木や下草の繁茂が防げているかも知れませんが、やはりメンテに相当人の手が入っているようです。

護国神社に入る時、植木屋さんたちが作業を終えて森から車列が出て来るのに出会いました。多分日常的にメンテが施されているのでしょう。

センダンの木でしょうか。葉が落葉したわわに黄色のかわいらしい実を付けています。

掘を挟んで城山の対岸は、武家屋敷が続いています。この1画にラフカディオ・ハーンの記念館があります。

記念館は2016年完全なリニューアルが行われ、外側は和風ですが、内部は洋館の記念館に生まれ変わりました。
内容は充実していて、特にハーンの書物を集めたライブラリーは圧巻で旅の途中に寄るためには時間が無さすぎます。家内はハーンの著作の装丁がとても可愛らしくかなり気に入ったようです。

ラフカディオ・ハーンはアイルランド人の軍医の父とギリシャ人の母の元でギリシャで生まれ、2歳の時アイルランドに移りそこで教育を受けました。19歳の時単身アメリカに移民し流浪を続けジャーナリストとして文筆が認められて来て、日本に興味を持ち1890年40歳の時来日し、4か月後松江の島根県尋常中学校に英語教師として赴任しました。

アイルランド人は、スコットランド、ウエールズと共にヨーロッパ原住民族のケルト民族の末裔であり、ケルト文化の血を引き美術、文学、音楽に長けた民族です。

音楽で言えばビートルズは全員アイリッシュ系であり、特に文学においてアイリッシュを除いて英文学は語れないほど文学者の宝庫です。例を挙げるとスィフト、トーマス・モア、詩人のイエーツ、オスカー・ワイルドや20世紀最大の文学者ジェ-ムス・ジョイスや不条理劇の聖者サミュエル・ベケットなど多彩です。ラフカディオ・ハーンは当然その血を引いています。私が子供の時から最も敬愛する映画監督のジョン・フオードもアイリッシュです。

アイルランドでは日本の弥生時代当時ケルト文化が栄え、日本の古墳時代ではイングランドに先駆けてセント・パトリックによるローマ・カトリックが布教され、平安時代ごろまでケルト系キリスト教として修道院文化が栄えました。
しかし頼朝の時代にイングランドに征服され、アイルランドのローマ・カトリックと英国国教会の対立が生じここからアイルランドの苦難の時代が始まりました。クロムウエルの時代には大虐殺が行われ、19世紀の大英帝国繁栄の時の1845年アイルランド人の主食であったジャガイモが病気のため大飢饉が生じましたが、英国は何の救済策も取らなかったため100万人以上の餓死者が続出し、貧困にあえいでいたアイルランド人は、相当数がアメリカ大陸に移動したため人口800万人が半減してしまいました。

この時、アメリカに移民したアイルランド人の子孫は、現在アメリカに4000万人いると言われています。
ニューヨークのセント・バトリック教会に行ったことがあり、教会の内部の壁に灯した圧倒的な数の蠟燭と一心不乱に祈りを捧げている多数の信者を眼にしながら、宗教の違いだけで、同じ民族によるアイルランドの過酷な歴史に想いを馳せました。

我が国は幸いこのような過酷な歴史を持っていません。アイルランド人のラフカディオ・ハーンは日本に帰化し松江藩士の娘を妻とし子をもうけ14年後に無くなりました。ハーンは、ケルト民族の血から伝わるその鋭い芸術的感性で日本の風土と日本人を捉え、多くの著作を残しました。彼の細やかな感性は、日本人でも気が付かない点にまで観察が及び驚かされます。

DVDリオグランデの砦より

ラフカディオ・ハーンはどちらかと言えば、幕末英国の外交官のアーネスト・サトウ、東京帝大の建築科の基礎をつくり日本人の多くの建築家を育てたジョサイア・コンドルと共通しています。

3人とも幕末明治に日本にやって来た英国人で、誰よりも日本を愛し日本女性を妻としました。アーネスト・サトウは幕末、初代公使オールコックの片腕になり薩摩や長州など西国諸藩の藩主や重臣たちと交わり明治維新に立ち会いました。サトウは来日後、お雇い英国人たちと共に我が国の主要な山岳を登り、旅の記録と共に来日外国人向けに日本旅行案内を発行しました。ウエストンが来日するずっと前の話です。

子息の植物学者武田久吉は日本山岳会の実質的な創設者で、尾瀬を水力発電のダム湖にする計画に科学的に反対し、我が国最初のエコロジストと呼ばれています。

ラフカデイオ・ハーンの著作は怪談が有名ですが、日本人の所作や伝統、美意識、日本家屋、伝統行事などなど神の国と捉え哲学的考察を究めた著作もあります。

ハーンやサトウ、コンドルたちは我が国が英国に遅れること100年で産業革命に突入しましたが、美しい日本人の道徳や暮らし社会のしくみが近代の産業効率化によって、母国英国と同じように社会全体の経済効率化によって崩壊してしまうことを何よりも哀惜を持って案じていました。

その後、日本は世界の強豪国の仲間入りを果たし、結果は彼ら3人が案じていた通りの経済効率が優先する社会に変わってしまったのです。

松江歴史館図録「雲州松江の歴史をひもとく」より転載しました。

ハーンが住んでいた時代の旧居です。

小泉八雲記念館の隣に小泉八雲旧居があり、その先に武家屋敷があります。塀はよく見ると完全な新築復元でなく古いものを活かしながら整備しています。
近年新たに復元された古い街並みの観光地があります。松江の武家屋敷はそのような所と一線を画し風景に溶け込んでいます。観光地でありながら観光地臭を感じない松江は偉大な街です。

武家屋敷です。500~1000石取りの上級藩士の屋敷で、個人の所有でなく藩の所有で、家屋の移動も行われていました。

松江藩18万6千石で藩士数は1,158名で、内200石以上の上級藩士は70名でした。

武家屋敷の前は広い堀が続きます。

堀端の紅葉が美しいです。

クロガネモチが美しいです。松江でよく見かけたナンキンハゼ、クロガネモチとかセンダンは首都圏ではあまり見かけない庭木で、足元に咲くツワブキと共に、これら花木を見つけるだけでも旅情を感じます。

武家屋敷と旧知事公館の上の道から多数の高校生たちが、授業が終わったのか自転車で降りてきました。旅先で中学生や高校生たちの通学姿を見かけるとなぜか旅情が湧いてきます。彼らの姿がその地の日常を最もよく表しているからでしょう。

地図を見るとこの坂の上には島根県立松江北高校があります。松江北校といえば島根県のNO1高校です。彼女たち島根の才媛たちはこれからどんな人生を送るのでしょうか? 松江の美しい町が育んだ彼女たちに美しくあれと心の中でエールを送ります。

城山を一周して取り囲んだ京橋川の堀を渡ります。街の中心部でこのような美しい光景の街があるでしょうか? 松江の本領がここに発揮されています。

元家老屋敷跡に建つ市営の歴史観です。歴史博物館としなかったのは理由があるような気がします。本日は大分歩き疲れたので歴史館訪問は明朝にしました。

これからまっすぐ宍道湖畔にあるホテルに戻りました。