冬の奈良古寺の旅・その1、信貴山
畿内の旅を振り返って
私が本格的に旅を行うようになったのは、70歳になった時からでした。
高校時代から登山を続けてくると、未知の山や季節はなくなり、素晴らしい景色に出会っても皆いつか見た景色でした。昔から親しんできた山岳登攀記も若い時のような血沸き肉躍るような刺激も無くなってきます。また登山記では無く一般的な歴史と同じように山岳の交通の歴史など、山岳の峠と人々のかかわりの歴史に親しもうと想っても、山岳そのものが交通の障害でもあり、極めて狭い言い伝えを集めた著作しかありませんでした。
北アルプスが交通の障害で歴史記述の対象にならなかった例があります。源義仲が信濃の小県で挙兵し、京に侵攻するためになぜ北陸まで遠回りして倶利伽羅峠を越えたのか、昔から不思議に想っていました。このことをあえて金沢在住のクラブの岳友に尋ねたら、当時はそれしか道は無かったのだよという答えでした。山岳には道が無いので佐々成政の冬の針ノ木越えは、歴史では無く伝説以上にはなりませんでした。
学生時代から登山の途中のアプローチで通りかかっていた三国峠のような街道の分水嶺の峠の下に必ず人家があり、耕地も狭く暮らしは猟師や木こりだとしたら随分人が住んでいるなと想っていました。
ところが20数年前、富山和子の「水の文化史」と出会い、我が国の内陸交通の主力が河川舟運であり、街道の分水嶺の峠は川の最上流で舟から荷を下ろし、峠の部分だけ人や牛がに担ぎして越えていたことを知りました。信州の中馬制度は請負で長距離荷を運送する仕組みですが、有力な河川がある所は街道でなく川が物流の手段でした。川の最上流から分水嶺の峠の物流は最奥の集落の人々が担っており、冬は猟師、雪の無い時は運送業に携わっていたことを知りました。そうして古い街道の峠と舟運の歴史に興味を持ちました。
それまで各藩の江戸屋敷への廻米も馬や牛に積んで街道で輸送していたと思い込んでいたし、歴史学者も河川の移動では無く陸の街道での移動の歴史しか記述してきませんでした。更に以前から不思議に想っていた事柄でしたが、戊辰戦争において会津藩がなぜ三国峠で戦ったか、その意味も分かりました。会津藩の物流の半分は阿賀野川舟運で、越後にも領地があったのです。
歴史への興味が街道や河川や内陸の舟運に興味が拡がると、狭い地域の登山も良いけれど、もっと広い地域を旅をしてみたくなったのです。
こうして山行の合間に岳友たちと旧街道の古い峠道を歩いたり、大きな河岸や北前船の古い湊を訪れたりして、舟運や街道の歴史への興味を深めてきました。
街道や舟運への興味は、意外な歴史への興味にもつながりました。たとえばシルクです。幕末列強から開港を強いられ5つの港を開港しましたが、その背後には米国やフランスから良質なシルクのニーズあった事に気が付きました。当時シルクは世界商品でしたので、開港まもなく八王子から横浜まで街道が敷かれ、まもなく中山道には上野から高崎まで鉄道馬車が運行しました。
街道は、車やバスで移動すると景色は流れるように去って行き、細かく見ることはできません。古い旧街道の小さな峠を歩いて越えると、やがて小さな沢が現れ、少し広くなると必ず棚田が現れ、更に扇状地が広くなり水田が多くなると彼方に必ず消防分団の火の見櫓が見られます。火の見櫓の傍には村役場と小学校があり集落が形成されています。
消防分団は学生時代私が18歳になり自動車免許を取った時、近所の大工さんから分団の消防車の運転士に誘われたことがありましたが、学生でしかも山にも行っていたので魅力的なお誘いでしたがお断りしました。火の見櫓の真下には小型消防車の車庫があり本署のサイレンによる応援要請が発せられたら直ちに出動します。そんな自分の遠い記憶も加わって、分団の火の見櫓を見ると昔の村や町の在り方を思い出すのです。今では震災では多くの地域の分団の人たちの活躍が見られます。東日本大震災でも今回の能登地震でもそうでした。消防分団の活躍は主要な歴史に残ることはないけれど、地域での人々の記憶には必ず残ります。
若い頃見た山の沢筋の小さな棚田は貧しさの象徴のような風景に見えましたが、実は違っていました。
棚田の上の方ほどミストに包まれ、寒暖の差が激しく、最上流の山のミネラル豊富な水が補給され、よりおいしい米が採れることを知りました。山村の人たちは一番上の棚田のお米は家族用で、決して農協には出荷しないことを聞きました。
こんなことも、薔薇栽培で培った土壌とミネラルの関心がもたらしたことで、登山と平行して始めた薔薇とガーデニングで培った水や土壌や植生への興味が、旅において風景の見方が短絡的でなくなり重層的に見られるようになりました。もしガーデニングを行っていなかったら棚田の意味を知らないままに終わったでしょう。
こうして舟運や街道や水田への関心が、人々の暮らしの民俗学的な分野への興味にいっそう傾斜し、歴史への興味が人文科学の分野より社会科学の分野に移行し、旅の目的が風光明媚な観光地を回るだけでなく、車窓から水田や植生の変化を楽しみ、古い街並みを訪ね、その街にお城があったら登って招魂碑を見つけ、丘の上に名が知れた古社や古寺があったら寄り、港があったら舟を眺めました。
また遺跡が無くても、山の扇状地を眺めた際に稲作の歴史や、平野の際に立つ山での山見や花見の祭りなど、地形から古代世界が想像可能なことも知りました。
特に延喜式に掲載されているような古社が水源地らしい山の上にあったら、その山麓の扇状地や盆地は弥生時代から稲作が行われた地であることも気が付きました。
弥生時代の初期紀元前10世紀頃に最初の稲作が始まっていたと言われていますが、紀元前2~3世紀の神話の時代、文字の記録が無い時代でも、地形から十分古代史が想像可能と知り、いっそう古代史への興味が芽生えてきたのです。
想像の世界はさらに膨らみ、紀元前10世紀頃、南方や大陸沿岸から初めて古代の海人族たちが集団で列島にやってきて、縄文海退期の湾奥の川を遡り、水利の良い扇状地を見つけて定住し稲作を始めましたが、当時は日本列島は人口も少なく、何よりも森林資源が豊富で水の心配もなく海が引いて耕地も十分ありました。多分アーリーアメリカン時代の北米大陸と同じようにアジアの大フロンティアの時代だったと思われます。次々と列島に移住してくる海人族たちにとって、コミニュケーションは文字よりも話言葉が発達したのでしょう。
私は高校時代日本史は選択しませんでしたので、大学入試の際は中学校レベルの日本史の知識しかありませんでした。日本史は政治制度の変遷など憶えることが多すぎて、歴史を俯瞰的に見られなくなる恐れがあるように感じます。幸い高校時代選択した世界史は俯瞰的に見ないと何もわからなくなるため、細かな年号を覚えたり、複雑な権力闘争の政治的な流れを把握する呪縛から解放されて来ました。
30代になり司馬遼などの歴史物語の本を親しむようになりましたが、高校時代日本史を選択しなかったおかげで、TVの賑やかな歴史番組の中で、歴史登場人物の性格とか権力闘争とか或いは細かな城郭の構造とかの通俗小説的な事項に興味が抱くことなく、広い意味で歴史を楽しむことができたように感じます。
私は昔から何となく生粋の東男と思って生きてきました。そのためか畿内の地理には興味がなく各都市の位置関係も明確でなく、地名を聞いても即座にイメージは出来ませんでした。東日本や信州までは明確に分かりますが、大井川以西の地理は良く判らず、戦国の戦史に接しても前半戦の信玄の行動は明確に分かりますが、三方ヶ原の戦い辺りから霧に包まれてしまいます。
10年前まで私の旅では、畿内の寺社を訪ねたことは1回もありませんでしたし、当時息子は8年間大阪にいましたが、私は山行が忙しかったこともあり、とうとう大阪には1回も行ったことはありませんでした。畿内の寺院はいずれ訪ねたいとは考えていたものの、訪ねるためには仏教や神道や修験道の深い歴史に親しむ必要があり、それが身についていない私にとって、畿内の寺社巡りは単なる物見遊山の旅に終わってしまうため、行くことに逡巡していました。
今回同行した玉置兄とは、11年前から毎年12月の下旬に畿内中心に寺社巡りを行っています。途中コロナ禍や私の入院で2年ほど中断しましたが、昨年から再開しました。
玉置兄は、私よりずっと若く、サンケイの関連会社で薔薇の世界でトレンドづくりを主導している薔薇専門誌「ニューローズ」を主宰していますが、薔薇の縁でずっと昔に知り合いになりました。彼が早稲田の文学部出身で謡曲サークルの金春会で活躍していたことを知りました。早稲田のクラブやサークルは、どの団体も学生最前衛を目指して切磋琢磨し活動しているため極めてレベルが高く、4年間活動することがいかに多大な犠牲を払うかを知っていたため、学部が異なりますが同窓でもあって彼に親近感を抱きました。彼は愛知県一の進学校旭丘高校出身で、高校時代から奈良、京都の寺社や庭園を巡っていて、謡曲に明るくしかも日本文学科のため古典にも明るく、仏教の経典には直に接し歴史は原典に抵抗なく当たれる教養の持主であることを知りました。
畿内の寺社の歴史に疎く、古都の寺社に憧れながらも避けてきた食わず嫌いの私にとって、彼は絶好の指南役でした。
こうして、年末12月の中旬、2人の仕事が空く季節、東大寺、興福寺、春日大社、新薬師寺、元興寺、高野山、比叡山、日枝神社、三井寺、東寺と冬の旅が始まりました。もし彼と回らなければ華厳や法相、そして唯識など南都の仏教哲学の存在も知らず、東大寺の大仏に込めた聖武天皇の華厳世界の実現の願い、空海の理趣経、修験道の三井寺の歴史、吉野修験、丹後の元伊勢、切戸文殊、そして安部文殊院の渡海文殊群像、鴨、葛城族の存在など自分の生涯の中で多分理解出来なかったでしょう。
毎年末、彼と畿内の寺社巡りを行うようになってから、今まで娘と行っていた京都好きの家内も、京や奈良、飛鳥、熊野へ私と同行するようになりました。また岳友とも冬の比叡山の縦走や先達を訪ねて聖護院に行ったりした結果、畿内の古社や古寺はかなり訪問することができました。
近年、特に奈良盆地の鴨、葛城族の古社やヤマト王権ゆかりの宇陀や山辺の道の古社を巡りながら、古代史の跡を巡る旅を行っていますが、今回は信貴山と平城京の光明皇后ゆかりの寺院を訪れました。10年前には霧に包まれていた畿内の歴史が少し霧が晴れて、弥生時代からの畿内の古代史が、自分なりにようやく想像できるようになりました。
信貴山真言宗総本山、朝護孫子寺
関東の人は奈良の信貴山と言ってもほとんどその名を知らず、高校の授業で真面目に日本史を学んだ人は、あの国宝の信貴山絵巻の寺だと思う人はいるかもしれませんが、こその国宝の信貴山絵巻も鳥獣戯画と混同している人も多くいるようです。首都圏や関東では一般的に信貴山の名を聞いてすぐイメージできる人は、相当マニアックな人です。
私も奈良に何回か行っても、奈良盆地の中心の南都大寺や東の奥の長谷寺や室生寺や宇陀、南の飛鳥や吉野の位置関係は分かるようになりましたが、大阪との西の境の生駒、信貴山地や南の金剛、葛城山地は霧に包まれ位置関係が良く判りませんでした。
1昨年末、奈良盆地の先住移殖者、鴨、葛城族の故地の古社を初めて訪れたことから、大阪と奈良の境の山地の南半分が理解できるようになりました。
そして昨年暮れに大阪と奈良との境の生駒、信貴山地を始めて訪れました。そこはヤマト王権を構成した古代豪族平群氏の地で、今でも行政区分は平群町となっています。
首都圏にいると良く判らなかった京都、奈良、大阪の関係ですが、実際に奈良に来てみると、奈良市はおよびその周辺は、京都との縁が薄く、大阪の衛星都市のような気がします。奈良県は偉大な農業県で、大阪の胃袋をまかなっているようで、大阪への通勤も多く感じます。
葛城、生駒、信貴山は古代では奈良ですが、現在は完全な大阪圏のような気がします。
東京から京都に昼頃着いて、八条口のレトロなカフェで飛び上がるほどおいしいカツカレーとびっくりするほど安くておいしいコーヒーを堪能し、京都から近鉄線で奈良へ、奈良から近鉄生駒線に乗り換え王子に到着そこからタクシーで信貴山の山門に到着しました。時刻は既に14:30を大幅に回り、西日が深く差して冬至の短い夕闇が今にも訪れそうな雰囲気の中、信貴山にやってきました。
タクシーを降りると目の前に突然巨大に竜の像が鎮座しています。これは竜でなく奈良の西方を守護する白虎だそうです。四神は架空の神獣であり、首が長いため竜のようですが、仔細に眺めると白虎のようです。
関東の寺院では、寺院の門前にこのような像があることは皆無で、奈良でもありません。この白虎に対面した時から不思議な寺院に来たなという感を強く抱きました。
入り口を見上げるとなんと鳥居ではないですか! ここは信貴山真言宗大本山、朝護孫子寺で、まるで明治の廃仏毀釈で消滅した神仏習合の寺院です。
山の上に高々と本堂らしき伽藍が望まれますが、その下に何やら鮮やかな虎の像が見えます。
近寄ると見上げた伽藍は本堂でなく千手院でした。本堂はもっと高い位置にありました。
信貴山朝護孫子寺は様々な如来、菩薩、明王の集合体であり、テーマパークのようです。実際は概念図に比較すると、山の斜面の上まで伽藍が密集して、登りながら次々と風景が変わって行き、飽きません。そしていつの間にか御本尊毘沙門天が祀られている本堂に導かれるのです。
右手に虎の像が鎮座しています。余りにも目立つカラーのため撮影は控えましたが、後でこの信貴山で物部守屋討伐を祈願した聖徳太子が毘沙門天を感得し、必勝の秘法を授けられたのが寅年寅の日、寅の刻であったことから、寅年の初詣や寅の日の縁日には特に参拝者で賑わうそうです。
毘沙門天は、仏法を守護する四天王の1人で北方の守護神ですが、また七福神の中の福徳神で、家運隆盛、商売繁盛の御利益が特に優れており、寺院内にびっしりと建てられている堂宇を見ると、代々家で継続している固定信者が多いように感じます。
この雰囲気は国家管理の官寺が主体で発展した奈良の寺院や、庭園美の格調を重視する京都の寺院と異なり、奈良に位置する寺院でありながら商都大阪の匂いがしてきます。
この奉納された堂宇を見ると昨年秋に松江歴史館で見た松江藩の産物の流通を思い出してしまいました。松江藩の藩が管理していた特産物は1)鉄、2)櫨蝋3)強壮人参
4)雲州綿布などで北前船で大阪に送られていました。大阪に送れば大阪商人によって江戸にも渡ります。東日本の藩が米経済に頼っていたことに反し西日本の藩は、商都大阪の存在でよって各種産業が発展しました。
冬の吉野の宿坊や鴨の古社や葛城の一言主神社を訪れると大阪の人々の存在に気が付きます。大阪から近い修験系の寺院や古社は、代々大阪の人たちの信仰に支えられてきたように想います。
信貴山から斑鳩までは、とても近いです。聖徳太子が信貴山で毘沙門天を感得し、信ずべき貴い地として信貴山となづけたそうです。太子は毘沙門天の加護により物部守屋を討伐したことから、自ら毘沙門天像を刻み本尊として祀りました。
成福院への長い階段を登ります。
信貴山を実際に開山し今日の寺院の基礎をつくったのは明蓮でした。明蓮は信濃もしくは常陸の僧といわれていますが、889年毘沙門天像だけの円堂が一宇あるだけの信貴山に入山し、ここに庵を結んで修行を続け60余年、人が集まり堂も6宇に増えました。そして930年には宮中に出仕し加持を行ったとあります。
信貴山絵巻では明蓮は宮中には行かず、法術を使って左手に索を右手に剣を持った護法童子を自分の代わりに醍醐天皇のもとに派遣し、病気を治癒したのです。
成福院から頭上に多宝塔を望みながら、本堂を目指します。信貴山は主な堂宇の案内に色別の幟を連続表示し誘導するとともに、寺社詣出を華やかな気分で盛り上げ、心憎い演出をしています。
いよいよ本堂へ水平な参道に来ました。今度は高貴な紫の幟で毘沙門天の鎮座する本堂へ誘います。
ふと横を見たら虚空蔵菩薩の堂宇がありました。虚空蔵とは無限の宇宙の事で、奈良時代無限の徳や知恵を持つ菩薩に対する信仰が盛んでした。この虚空蔵菩薩を本尊として虚空蔵求聞持法を究めればあらゆることを理解し暗記することができると言われ、空海も四国の山野で虚空蔵求聞持法を究め、唐に渡りあの天才的な頭脳で短時間で梵語を学び恵果阿闍梨から密教を伝授されたと言われています。京都学派の哲学者上山春平もエッセイで虚空蔵求聞持法を究めたと語っていた記憶があります。
本堂に着きました。本堂の下には信貴山絵巻が収蔵されている霊宝館があり、本堂を参拝してからに訪れました。
本堂への長い階段を振り返ります。下を眺めると狭い斜面に様々な堂宇が配置され、とても芸術的な風景を感じます。昔中尊寺に行った時、境内に各宗の堂宇があり
宗派のデパートのような印象を受けました。浄土真宗や日蓮宗の信徒も天台宗の中尊寺に参拝しても必ず自己の宗派の堂宇があるため、気兼ねなく中尊寺に参拝できます。
この信貴山も縁結び観音や子安観音があり、若い女性の参拝者がとても多いことに気付きます。神社や寺院は年寄りの参拝者が多いという先入観念がありますが、近年の神社や寺院を見ていると若い女性や壮年夫婦の参拝客が目立ちます。特に山の神社や密教寺院は、坂が多いため年寄りは少ないというより見かけなくなりました。
信貴山の華やかな色別の幟は、華やかさ賑わいを演出するためには極めて有効のようです。
よく見たら欄干が朱で鮮やかに塗られており本堂はまるで神社です。毘沙門天が神か仏かというと仏像であることに違いありませんが、私は仏像では、大日如来と仏法を守る具体的な12神将とか四天王が好きです。なぜならとても分かりやすいからです。
本堂からの奈良盆地の眺めは素晴らしいです。信貴山は難波から大和川を遡って斑鳩を攻めてくる外敵を守る位置にあります。ここに守護神四天王の1人毘沙門天を祀ったことは必然でした。
本堂です。本堂内は撮影禁止です。ご住職の読経をお聴きしながらご本尊と対面します。
霊宝館です。受付の老婦人の方から信貴山絵巻の解説をお聴きしました。老婦人は元画家でさまざまなお話をお伺いしました。昨年度の秋篠寺もそうでしたが
旅先での何事か究めた人と、また究めようとする人との出会いは、まさに一期一会の楽しみです。
信貴山絵巻の一場面です。小学館古寺をゆく35号「当麻寺、信貴山」より掲載させて頂きました。一番有名なシーンは護法童子の天駆ける図と、東大寺大仏のシーンです。
東大寺大仏の図は、平重衡による焼き討ち以前の大仏様のお顔が描かれていて名高いです。
信貴山は標高437mの尖った山です。楠木正成の母親は懐妊を願って屋敷の近くの信貴山に登って毘沙門天に願いをかけたと言われています。こうして生まれた正成の幼名は毘沙門天の別名である多聞天から名を頂き、多聞丸となずけたと言われています。
大阪、堺と奈良を結ぶ奈良街道の要衝近くに信貴山が位置します。戦国時代松永久秀がこの山頂に城を構え尾根上には家臣団の住まいを築きました。更に奈良市内の丘に多聞山城も築き奈良盆地を領有しましたが、織田信長に攻められ天正5年(1577)に城に火を放って自決しました。
信貴山山頂の登り口です。ここから約20分要します。
山頂への道は意外に急で時間も要しました。山頂直下のコルまで登りましたが、日没が近づいてきたので山中のため山頂は断念しました。
下る途中、ザックの中に泊まり用具と共に、何時も旅には必ず持参するヘッドライトを今回も持参していたことに気が付き、暗くなってもOKだったと想いましたが、
気持ちは温泉と夜のフグの御馳走がちらついていたので、山頂を断念して正解でした。
不思議な事に複雑な伽藍が、登りの時と違って別な路で必ず辿れるように設計されていたことです。
振り返ると夕闇迫る本堂が望まれました。
登りでは行けなかった千手院方面に幟が誘導しています。
千手院の護摩毘沙門堂です。千手院は境内の宿坊です。境内の堂宇にはいくつか宿坊があり、季節の良い時は賑わっているのでしょう。かんがえてみれば麓の王子辺りには宿泊できる宿が見当たりませんでした。今宵の宿も含めて宿泊設備は全て山中に集中しています。
霊宝館の受付の老婦人に勧められた劔鎧護法堂に参拝します。劔鎧護法堂は護法童子を祀る堂宇です。
夕闇の中、気が引き締まります。もう山中にいるのは我々が最後でしょう。
今宵の宿が遠くに見えました。もう一度登るのは嫌だなと想っていましたが、案外簡単に着けました。
奈良は食べ物がおいしい所で、京と比べると価格は安く、また余りPRしていませんが深い食文化の地です。奈良に行き、おいしいほうじ茶の味を憶え、葛切りやわらび餅を味わい、製造直売店の三輪素麺はおいしく、帰りの新幹線の夜食は必ず柿の葉寿司です。それぞれ素朴な食べ物ですが、いい加減な素材からつくられたものとは一線を画した長い伝統に裏図けられた庶民の味の矜持を感じます。
玉置兄は宿探しの名人でフグづくしの料理を堪能しました。