冬の奈良古社の旅・その2、風の神・龍田大社

奈良古社の旅の2日目、この日は信貴山の麓近くの龍田大社を訪れました。龍田大社は初めて耳にする神社で、私にとって歴史上ノーマークの神社でした。
私はいつもの癖で、行先についてネットで検索し大体の概略は目を通しますが、歴史等の詳細については詳しく調べません。初めて訪れる寺社や旧跡あるいは城郭など、事前に調べない理由は、初めて出会って眼にした印象を大事にしているためで、帰宅してから強く印象が残っている事項や歴史について、改めて調べることにしています。これは昔から行っているいわば生癖で、海外でもそうでした。

今回龍田大社を訪問したおかげで、難波津と斑鳩宮、平城京と結ぶ我が国最初の官道で、生駒と金剛山地との間の渓谷が第1級の難所であった龍田古道の存在を知ることができました。
信貴山に行って斑鳩宮の聖徳太子ゆかりの寺であることを知り、更に具体的な龍田古道と龍田大社の存在に、我が国の近代化を目指した聖徳太子を強く感じたのです。

太子にとっては、アジア全体に普遍性のある深い教義を持つ仏教を我が国の統治の基本とし、東アジアの国際社会の中で確固たる国家を築くために、海外から仏教経典や寺院建築を初めとする近代技術の導入は必須でした。このため難波津に対外公館を作り、海外使節にとって飛鳥では奥過ぎるため新たに斑鳩宮を興しました。半島や大陸文化に通じる龍田古道の存在は太子にとっては死活問題でした。
太子の鋭敏な時代感覚は、飛鳥宮で呑気に日本国内だけの政治を楽しむことを許さなかったのです。

信貴山観光ホテルのマイクロバスで王子駅まで送ってもらってから、タクシーで龍田大社についてみると、未だ9:30を回ったばかりなので参拝客は少なく、毎日の日課のウォ-キングらしく、神社に入らず鳥居の下で参拝されている人を何人か見かけました。

いつもの習慣で、入り口を眺め全身の感覚を開放しながら、鳥居から拝殿への参道を眺め神社の規模やその醸し出す雰囲気を感じます。入り口には龍田神社でなく、龍田大社と表示した大きな石塔があり、鳥居の扁額には龍田本宮と書かれていました。

これを見て改めて目前の神社は大社であることが判りました。神社は平安時代に制定された延喜式神名帳によって勝手に神宮とか大社を名乗ることはできません。

龍田大社というからには、第一級の格式を誇る官幣大社と想いましたが、関東における官幣大社は、武蔵国一宮の氷川神社、千葉館山の安房国一宮の安房神社、下総国一宮香取神宮、常陸国一宮の鹿島神宮しかなく、いずれも大社として堂々たる格式を誇っています。龍田大社はこれらの一宮と同じ格式の神社であるとしたら、なぜ官幣大社の格を誇るのか、その理由と歴史が気になって来ました。



振り返ってみると王寺駅からタクシーで龍田大社に向かう時大きな川を渡りましたが、すぐここが大和川と知ると、突然信貴山や龍田大社は大和川の流域と密接な関係があることに気が付きました。

私にとって関西はなじみの薄い地域でしたが、この大和川が、奈良盆地と大阪湾を結び、瀬戸内から吉備や阿波、筑紫、或いは半島や中国と繋がる古代の大動脈であることは漠然と知っていました。

背後の尖った山は信貴山であり、大和川に出合ったことで、大和川の畔に位置する龍田神社は唯の神社でなく信貴山と共に、この大動脈を精神的に守護する重要な拠点であることが分かりました。

大和川は我が国古代史の最重要河川



日本列島は約6000年前の地球温暖化による海面上昇によるいわゆる縄文海進によって、現在の列島を取り巻く海岸の平野は全て海だった時代が長く続きました。関東は奥東京湾と呼ばれる海が関東平野の奥深くまで進出し、海から遠く離れた内陸の三内丸山遺跡も海に面していました。大阪湾も生駒山の麓まで海で、奈良盆地も海だったようです。

この後4000年前頃から海退期が始まり、徐々に日本列島の海岸線の平野が再び現れ始めました。しかし海岸線は湖沼地帯や河川の氾濫原になり、安定した定住の場にはなりにくいものの水が豊富なため人が住み始めました。一方海退によって内陸深く河川が生じ、山の際の扇状地は水利も良く河川が氾濫しない場所に人々が集団で定住し大規模な稲作を開始しました。

約3000年前~2000年前の大阪平野にはかなりな数の弥生遺跡が発見され、筑紫や吉備と並んで稲作の先進地帯だったように想像します。

大和盆地の先住者は葛城・鴨族と三輪族の2派と言われています。弥生時代の前期、海人族の葛城・鴨氏が、筑紫から瀬戸内を東進し縄文晩期の海退によって内陸に陸地が拡がった大阪平野に定住しましたが、河川の氾濫原のため、より長期的な定住の場を求めて一族で大和川を遡り、巨大な湖だった奈良盆地を葛城山塊沿いに定住地を探しながら南下し、葛城の地に辿り着きました。

葛城・鴨族は大規模灌漑技術を身に着け、支族は京都に進出し上賀茂、下賀茂神社の地を開発しました。一方一族の一部は尾張に進出し尾張氏の祖となりました。


1800年前の大阪城まで迫った海と、生駒山の下まで広がる河内湖

平凡社 日本の自然6、日本の平野から掲載させて頂きました

上図は約1800年前~1600年前の弥生時代後期から古墳時代前期の大阪平野の図です。赤色は弥生遺跡で茶色は前期古墳、緑の鐘は銅鐸の出土地です。
別の3000年前~2000年前の縄文晩期から弥生時代前半の図では、上図とほぼ7割ぐらいの数の弥生遺跡が見つかっており、稲作は相当早く大阪平野に浸透していたことが想像できます。

当時大阪から奈良盆地へは3つのルートがありました。一番多く使われたのは生駒山系と金剛山系の間を流れる大和川と川沿いを辿るルート。律令時代には現在の柏原市に河内国府が置かれ、聖武天皇の時代には国分寺や国分尼寺が築かれ、飛鳥、平城京時代は地図上の森ノ宮近くの難波宮と平城京の往復にはこの街道がメインになりました。
2つ目は河内湖の湿地帯を通って生駒山地を越えて奈良盆地に至るルート、3つ目は淀川を遡り木津川を南下して奈良盆地に至るルートです。
大阪平野は瀬戸内の交通至便でしたが湿地帯で流域が安定しないため、耕地として安定している奈良盆地が望まれたのでしょう。

古代史は謎に満ちています。我が国には大和王朝以前に出雲王朝が存在し国譲りを行った神話があり、また神武の東遷以前から大和は葛城氏や三輪氏などが勢力を築き、神武の大和入りに反抗した部族や協力した部族など様々存在しました。八咫烏は神武を案内して神武軍を大和に導いたとされていますが、葛城、鴨族は八咫烏をルーツとしています。
またヤマト王朝侵入以前の奈良盆地は葛城王国と三輪神社を祀る倭王国があり、やがて纏向に大和王朝が誕生し、豪族連合の統一大和朝廷が出来たとの説もあります。
葛城、鴨氏の末裔は巨勢氏、平群氏、蘇我氏等の豪族となり、ヤマト王権の物部氏や大伴氏と共に大和連合政権を支えたとも言われています。

私の古代史への興味はこの程度で、ここから先は古事記や日本書記の関連個所を詳しく紐解くことになりますが、そうするとかっては邪馬台国の歴史で一夏潰したように袋小路に入ってしまうため、想像しながらイメージで楽しめる範囲内で留めることにしています。学者と異なって、文献にあまり首を突っ込まないことが、素人にとって歴史とイメージをミックスした楽しい旅を行う秘訣と考えています。

改めて全国の神社の格を定めた延喜式神名帳に触れますが、平安時代中期延長5年(927)の律令時代末期に律令の施行細則を定めた延喜式が発布され、その細則の中で、全国のあまたの神社の格式が制定され神名帳に記載されました。延喜式神名帳に記載された神社は式内社として、国家の法律に裏図けられた神社の格を誇りました。

大和朝廷は国家事業としてその年の五穀豊穣を祈願する祈年祭を毎年2月17日に行って来ました。祈年祭には宮中の神祇官のもとに各地の神社の神職が集められ、それぞれの神社に祝詞と幣帛を持ち帰り神に捧げましたが、遠方地域からの参集は容易でなく、宮中で神祇官から直接祝詞と幣帛を受ける官幣社と各国の国司から幣帛を受ける国幣社に分け、更に歴史的に重要な神社を大、中、小に分類し、その結果最高の格式を誇る官幣大社198社が制定されました。

そして更に古より霊験が著しいとされた明神を祀る神社が特定され、いずれも官幣大社以上であったことから明神大社と呼ばれ更に高い格式を誇ったのです。

龍田大社は大和では三輪神社、石上神宮、或いは大阪の住吉大社と肩を並べる堂々たる官幣大社だったことが分かりました。

神社の前の道を参拝せず、足早に歩いて行く人を見かけました。1人は外国人で比較的大き目なザックを背負い、いかにもロングトレイルを辿る旅行者のようでした。

もしかしたら神社の前の道は、唯の里道でなく古代からの街道で、今はロングトレイルとして整備されているのではないかと想いましたが、この道が大阪湾に抜ける龍田古道とは知りませんでした。

龍田古道

平凡社 日本の自然6、日本の平野から掲載させて頂きました.

帰宅して調べたら案の定、龍田神社から河内国の国府(柏原市)に抜ける道は龍田古道と呼ばれ、更に街道は大和川に沿って難波宮に通じています。この龍田古道は平城京に都が置かれた奈良時代、平城京と難波宮、難波津を結ぶ当時の大動脈で日本遺産に制定されていることがわかりました。

上図を見ながら龍田古道の通過の困難性、龍田山の地すべりによる大和川舟運の不確実性から考えると、淀川舟運の安定性が、平城京から藤原京を開発せずに、長岡京や平安京に移ったのは、歴史の必然のように想えます。巨大な都市の建設には舟運が欠かせなかったのです。
また平安京に都を定めてから、淀川と琵琶湖の存在によって日本海と太平洋岸が結べたことが、我が国の発展の基礎となったことはその後の歴史が証明しています。


私は初めての気になる土地を調べる際は、国土地理院の地形図を見ることにしています。
龍田古道には龍田山を詠った歌が数多く出て来ますが、地図には龍田山の記載がなく大和川北岸の三室山を中心とした山地全体を龍田山と呼ばれていたようです。

ほとんどの古い神社の由緒は、ヤマト王朝の事実上の初代天皇と言われる崇神天皇の時代の創建とされていますが、今までの古い神社に出会った時の経験では、古社の創建はそれよりずっと古い時代に祀られていたと想像しています。
多くは弥生時代初期の紀元前10世紀頃、古代人が集団で定住し、初めて稲作を開始する時には、まず良質な水が一年中安定して流れる広い場所に、集団で水路を伴った田を開墾しました。そして田の背後の水源の山に水の神、龍神を祀り春に稲の豊作を願いました。この願いが歌垣を伴い花見の原型となりました。

上の図の三室山の名は神の坐す山の意味ですが、初めてこの地に入植した弥生人たちは三室山を水源の山として、大和川が氾濫の害のない地図上の立野南に水田を開拓して集団で稲作を始め、三室山に龍田の龍神を祀り山見や花見の儀式を行ったものと想います。三室山の奥に本宮として祀った龍田龍神は、山上の宮は奥宮として日々お詣りできるように麓に小さな本宮を設けたのでしょう。この麓の本宮が龍田大社になったと思われます。

大和川は龍田山の下から亀瀬岩が難所で、龍田山の斜面は古来地すべり地帯で、河内に向かう街道は地すべりの恐怖と戦いながら通りました。この龍田古道は三室山の裾を大和川沿いに通りますが、亀瀬岩の谷沿いの険しい道を通るため龍田の山越えと呼ばれました。平城京の時代、天皇は難波宮へは輿に乗って通過しました。

風の神を祀った龍田大社

龍田大社の主祭神は天御柱大神と国御柱大神で風の宮総本宮とあります。神社由緒による創建は崇神天皇の時代とされており、摂社には龍田比古命と龍田比売命の先祖神を祀っています。

大和川の細い渓谷の、いつ起きるか分からない地すべりと峡谷の圧迫感は、古道の峠が万葉人たちに「恐れ(かしこ)の坂」と詠まれるほど、恐れられていました。

日本遺産の解説によれば、2つの山地の切れ目となるこの地は陰陽道における「龍穴」に当たり、平城京の都に良い気を運び入れる風の通り路とされてきました。
危険な心臓部を守護し国家の安寧を祈願するために都の西の玄関口に、龍田の龍神宮を元に、官幣大社として現在の龍田大社が創建され、陰陽五行と融合し「風の神」という独自な信仰を確立しました。

おそらく龍田古道を守るために龍田大社に風の神を祀るようになったのは聖徳太子も関係しているかも知れません。

我が国では古来、龍は水の神ですが、龍田の龍は風を司る神とされています。現在でも7月に風鎮大祭が行われています。

国土地理院の地図を見ると斑鳩に龍田大社とは別に龍田神社があります。この神社周辺の地名は現在でも三室とか龍田が使われています。聖徳太子が斑鳩宮を守るために近くに龍田神社を勧請したのでしょう。このことから聖徳太子が龍田古道と斑鳩宮を守る信貴山や龍田大社への期待の強さを感じました。

龍田大社の拝殿です。しめ縄は柱に巻き付いた龍をイメージしています。

拝殿から本殿をうかがいます。

現代の龍田大社には龍田古道の直接的な守護の役目はなくなりましたが、龍田大社にはえびす神社、白龍神社、三室稲荷神社の3つの末社があり、いずれも現生利益を願う多くの信者を集めています。

摂社の龍田比古命と龍田比売命です。向いは上座に天照大神と住吉大神、中座の枚岡大神、春日大神、下座は高望王の妃をお祀りしています。高望王といえば桓武平氏の祖で、その妃とはどんな関係があるのでしょうか?

初詣の準備は出来ています。帰りのタクシーを待つ間、若い男の子や若い女の子が車でやって来てお参りしてから直ぐ帰って行きました。彼ら彼女らは龍田大社の参拝を日課にしているような気がします。
関東では神社詣りは中高年が多いですが、大阪よりの奈良の寺社は若い人たちや女性が目立ちます。

帰りのタクシーの運転手さんにお聞きしたら、三が日の初詣は前の街道が大渋滞するそうです。ほとんどの参拝者は信貴山と龍田大社を掛け持ちして初詣を行うそうです。

龍田大社の風の神を詠んだ万葉集高橋虫麻呂の長歌の碑があります。

天平6年(734)高橋虫麻呂が龍田古道の亀の瀬付近で詠んだ歌。
大意は、天皇にこの桜の花をぜひご覧にいれたい、それまでこの花を散らす風が吹かないように、龍田大社の風の神に風祭をしたいと想う。

島山をい行き廻れる川沿いの 丘辺の道ゆ昨日こそ わが越え来しか
一夜のみ寝たりしからに 峯の上の桜の花は 滝の瀬ゆ激ちて流る 
君が見むその日までには 山おろしの風な吹きそと うち越えて
名に負える杜に 風祭せな  万葉集、高橋虫麻呂

訳:「島山をめぐって流れる川にそった丘べの道を通って、昨日こそ私は越えてきた。
たった一晩寝ただけなのに、峯の上の桜の花は、激流の瀬をもまれながら流れていく
君が見るだろうその日までは、山おろしの風よ吹くなと、山道を越えて
風の神の名にもつ龍田の杜に訪れ、風祭をしたいものだ」

他に万葉集には龍田山を詠んだ歌が収録されており、万葉人にとって都から他国に行くために必ず越えなければならない難所の龍田山は、人との別れの哀しさと旅の困難さを、桜花によせて詠っているのでしょう。

家にあれば 妹が手まかむ 草枕 旅にこやせる この旅人あはれ   聖徳太子
(家にいたら妻の手を枕にしているであろうに 草を枕の旅路で倒れているこの旅人よ あわれにも)

夕されば 雁の越え行く龍田山 時雨に競い色付きにけり  作者未詳



我が行は 七日は過ぎじ 龍田彦 ゆめこの花を 風にな散らし 高橋虫麻呂
(私の旅は7日とはかかるまい。龍田の風の神よ 決してこの花を風に散らさないで欲しい)



龍田山 見つつ越え来し桜花  散りか過ぎなむ わが帰るとに  大伴家持
(龍田山越えながら見た桜の花は、私が帰る散り時にはすっかり散ってしまうだろうな)

これに比べてみると、平安時代の能因法師の歌は万葉歌の必死さは感じられません。
嵐吹く三室の山の紅葉は 龍田の川の錦なりけり 能因法師

能因法師の歌は白河関や瀬戸内の大三島で詠んだとされていますが、多分想像で詠んだのでしょう。
勿来の関でも名だたる都人の歌人の多くの歌が残されていますが、誰も通過はしていないようです。