都内の桜

家内は見沼田んぼの桜だけでは飽き、たまには都内の桜も観たいと言います。それではと想い、永青文庫と細川庭園と護国寺は、かねてより行って見たいと思っていたこともあり、江戸川公園の桜見物も兼ねて都内に住む娘の休日に合わせて3人で出かけました。
今年の桜は開花は早かったのですが途中気温の低い時期が続き、おかげで長く桜を楽しむことができました。

江戸川公園の桜

神田川に面した江戸川公園は、短い区間ですが都内の桜の名所の一つです。
5年前の桜の季節、クラブの同期5人と小島兄の墓参を終えて江戸川公園を散策し、椿山荘の庭園を楽しみましたが、同行した杉村兄が昨年亡くなってしまいました。

江戸川公園はすっかり整備されて昔の面影はありませんが、学生時代合宿前のトレーニングで良く訪れました。同期は皆トレーニングでは私をあまり見かけなかったと言っていましたが、その通りでトレーニング嫌いの私は必要最小限に参加していました。
マラソンでのトレーニングコースは早稲田から江戸川橋経由で目白通りの本女前を通り、明治通リの学習院下から戻る約5㌔のコースでした。更に明治通リを南下し戸山公園を回り、女子医大の若松町から早稲田に戻ると約10㌔のコースですが、こちらの辛さはよく覚えています。

前回はシートを広げて花見の人たちが大勢いましたが、今日はシーズンが終わったので、宴会の人たちはいません。夕方になって出てくるのでしょうか?

神田川は堀が深く桜の枝が水面近くまで垂れていて風情があります。目黒川も堀が深く両岸から桜の枝が掘に垂れているため、見ごたえがあります。
この辺りの堀の風景が、見沼田んぼの桜回廊と趣を異にしている要因です。

神田川を眺めていると、以前同期の仲間と行った日本橋川クルーズを想い出しました。クルーズ船は日本橋を出発して高速道の下の日本橋川を遡り、後楽園で神田川と合流し、水道橋、お茶の水を経て浅草橋付近を下り、永代橋手前で東京湾に出てそこから南下し日本橋川を遡り日本橋に至るコースです。

この時、オリンピック前でしたが、堀の内側の汚さや雑草の未処理が目に付き、東京都心のビル群の頭隠して尻隠さずの風景を視てしまいました。その時、まだ我が国のグリーンに対する感覚の鈍さが、やたらと目に付いたのです。それでも神田川が浅草付近の下町にかかる地点は、ビルのオーナーが江戸市民だったせいもあるかも知れませんが、神田川に面したビルの背面を裏側の風景にせず、気を使って建っていた風景が印象的でした。

都市のグリーンを推進する人々が、都心に住んで土壌や緑や花に無縁な暮らしを送っているため、緑の大切さがまだ体にしみ込んでいないのでしょう。人工的な空間にこそグリーンが必要ですが、それ以前に都心では雑草や枯れ枝を放置している風景がやたらと目に付きました。オリンピック準備で多分確認されたでしょう。

最近、日本橋の高速道を地下に埋めて空間を開けようと計画が進んでいるようです。ニューヨークもロンドンもパリも川が美しい都市です。我が国もようやく成熟国家の仲間入りに入る時代になりました。

江戸川公園は保育園児たちの格好の遊び場です。多分共稼ぎの若い世帯が、子供を預けフルタイムで働いているのでしょう。郊外に住まず住居費の高い文京区で、働くために文京区は育児環境が整備されているようです。都心の少ない緑の中、多くの子供たちが群がっている姿は、郊外ではあまり見かけません。

娘と話したら、都会で女性が働く時代、これもしょうがない現実でした。

子育てを考えると地方は育児環境の数はあるようですが、夫婦世代がフルタイムで働く雇用が少なく、逆に東京は人手不足で雇用環境は充実していますが、育児環境の数が不足しているようです。

人口減少問題の解決が急務になっていますが、将来の人口減と雇用を考えると、雇用環境と女性がフルタイムで働く環境整備が様々議論に入りました。要は社会全体で子供に対して考えなければならない時代に入っています。将来の人口減での国力の低下ばかりが問題になりますが、幼稚園から大学まで男女同格なのに、社会に出ると同時に、或いは家庭を持つと同時に、男は女性を養うものだという、古来の価値観が入り男女のバランスが崩れてしまいます。育児も家事も男女平等にしないと子供は増えないでしょう。私は古い価値観で生きてきましたが、学生時代からの娘と話していると、娘たち世代は我々世代と全く異なり、家庭と同じくらい自己の仕事に責任を持っており、趣味は別として基本的には女性というより中性的な感覚で生きているようです。

30年間我が国は賃金は上がらなかったため、男性だけの働きでは30年前の生活しかできず、現代の子供の高等教育は不可能です。資産家は別として普通の給与所得者は夫婦ダブルで働くことによって、子育てや教育も可能になりますが、育児環境の整備と女性の本格的雇用が前提になります。諸外国はこの点が成功しているようです。

以前同期と来た時は椿山荘の庭園は無料開放しており、肝が太いなと感心しましたが、今回は裏門は閉ざされホテル利用者しか庭園に入れず目白通りの正面入り口からしか入れません。

楼閣のガラス窓に桜が映っています。

関口芭蕉庵入り口ですが入れません。芭蕉は江戸に出て来てここで3年間過ごしました。主家筋の藤堂家が神田上水の整備工事を行っており、芭蕉も工事に従事していたようです。

神田川に面した道は目白の高台の下にあります。従って早稲田はその名の通り目白台の下の水田地帯が早稲田でした。ここから目白通リに上がるためには急な坂を上らなくてはいけません。ここが名高い胸突き坂です。
永青文庫はここから上がりますが、細川庭園は神田上水沿いのこの先にあるため、胸突き坂を登らずこのまま進みます。

この辺りの神田川は美しく整備されていますが。かぐや姫の「神田川」の舞台になった場所は、これからずっと先の都電の終点早稲田から都電通り面影橋方面に行った辺りです。昔はこの辺りに甘泉園があり大学の敷地で、運動部の合宿所がありました。
私は神田川がヒットする前の時代に卒業していましたが、あの当時の神田川の汚さと周辺の小さな家が林立する街のたたずまいは憶えています。

「神田川」の歌には3畳一間の下宿が出てきますが、クラブの同期が3畳一間の下宿に住んでいたので時々泊まりましたが、その狭さは実感として分かりますし、当時はそれが普通で、格別居心地が悪いとは想ったことはありませんでした。

当時モリ蕎麦は25円、ラーメンは40円、部室のそばの懇意にしていた食堂のモヤシライスが60円、たまに奮発して食べたカツライスが70円でした。
私が入学した頃は大学生はあまり学生服を着なくなりつつあり、一年の時は私も東京の街が歩けるので多少衣服を楽しみましたが、やがて山行に費用がかかるため、仲間もそうでしたが、体育局の学生と同じくほとんど学生服で過ごし衣服代はかかりませんでした。学内で行きかう知らない人間の中でも登山学生たちは、顔は一年中雪焼けと日焼けして学生服を着ていたし、体つきも他のスポーツ学生と異なっていたので、お互い同業のカラスと分かり、やがて声を掛け合うようになりました。

当時は都市交通が極めて廉価でしかも国鉄の学割は5割引きのため山行には助かりましたし、地方から来ている仲間も帰省時には大助かりだったと想います。都電は全線15円で乗れたし、何よりも山手線が午前1時まで運航していました。京浜東北線も3から5分間隔で運行していました。大学4年の時でも松本から新宿は学割で500円でしたので、下山すると松本で皆で有り金を出し合って、各自500円を残して夜行列車が出発するまで三回戦、四回戦と食べたり飲んだりしたものでした。
当時は特急は自分でお金を稼ぐ社会人が乗るもので、学生は乗ってはいけないものでした。ただし劔に行くためには富山行きの夜行急行だけには乗りました。

今考えるとあの当時の方が、競争社会以前で何とかなるとういう気持ちで、日本全体が心が豊かだったような気がします。

肥後細川庭園

細川庭園は肥後熊本藩細川家の下屋敷を都に譲り公園にしたものです。

門をくぐると突然、日本庭園が拡がります。都市のど真ん中にこのような空間が残されていること自体奇跡です。

都の公園で無料ですが管理が行き届いています。公園のベンチには近所のお年寄りの日課になっているのでしょうか、静かに池を眺めている姿が印象的です。

年季の入った松と優れたデザインの雪見灯篭です。

旧細川侯爵邸学問所だった松聲閣です。中でお茶が飲めます。

園内に小さな滝が流れ池に注いでいます。熊本藩下屋敷の頃からあったのでしょう。ここから山道になります。

山の中腹から庭園を望みます。この丘の上から江戸の町が一望できたのでしょう。

永青文庫

永青文庫は細川家の美術品と古文書の美術館で、美術品の一部は熊本県立美術館で展示しており、古文書は熊本大学永青文庫研究センターで保管研究が行われています。
細川家は足利一門の細川管領家の700年続く名家で、美術品のコレクションは徳川美術館の尾張徳川家と双璧と想います。

現在の細川家は文武両道で古今伝授を行った細川幽斎と忠興(三斎)、忠利と続き、織田、豊臣、徳川に仕え、肥後熊本54万石を領し、3代以来武を尊びながらも文芸、美術、工芸に明るい学芸大名の筆頭格でした。

昔、メトロポリタン美術館の日本ブースで、銘も分からない武具を初め美術品がたくさん展示されているのを見ました。一説にはボストン美術館でも銘の解らない刀剣が相当数あるとも言われています。明治になり、諸大名が膨大な美術品を手放しアメリカに渡りました。また廃仏毀釈で多くの仏像も海を渡りましたが、フェノロサと岡倉天心によって守られました。

多くの大名家が古美術品を海外に流出させる中で、細川家は、明治維新の廃藩置県の激動の時代でも、しっかりと日本文化の結晶である古美術品を保持して来たのでしょう。

永青文庫では国宝の名刀展を開催しています。

変わったくぐり門です。

永青文庫は細川侯爵家の元家政所に作られました。クラシックな洋館です。受け付けは別館サロンで行います。館内は撮影禁止です。

美しい青紅葉です。館内は刀剣女子らしき見学者が大半で同好の仲間か2人連れが多く、一点一点食い入るように見つめており、離れようとしません。

刀剣の鍔の肥後象眼の展示にも圧倒されました。細かな細工を見ていると鍛鉄にタガネで細かな文様を刻んでいく彫金技術は人間技とは想えません。武具を美術品までに高めていく国は、世界でも稀有でしょう。

すっかり刀剣を堪能しました。和泉守兼定の小ぶりの刀剣がありました。和泉守兼定といえば土方歳三が京に上がる時、義兄に餞別を頼み江戸の刀剣屋で流れ流れて眠っていた和泉守兼定を手に入れ勇躍京に向かいました。和泉守兼定は華奢で繊細です。こんな所に土方の隠れた一面が見えて来るのでしょう。

蕉雨園、明治の高官・旧田中光顕邸

永青文庫の前に、クラシックな大邸宅がありました。都内には一般に知られていない歴史的な大邸宅があるのだなと想いました。

この邸宅の正面に蕉雨園の表札がありました。

帰宅して文京区の歴史的な建築物を調べたら、蕉雨園の名があり土佐藩士で中岡慎太郎の陸援隊幹部で明治新政府では宮内大臣を務めた田中光顕の屋敷跡であることを知りました。現在は芭蕉庵や休刊中の野間記念館を含む敷地は現在は講談社が所有しています。


元田中邸の敷地は6000坪で、隣の山県有朋の椿山荘など、明治維新の革命で世に出た勝者の下級武士たちは、細川54万石の大名家以上の屋敷と庭園を手に入れました。片や廃城令や廃仏毀釈を行い文化遺産をを破壊しながら、それを命じた方は、新たに自らの広大な庭園を手に入れ個人の文化遺産を築こうとしたようです。


足利一門の室町管領家の流れで700年続いた細川家の庭園は、都の公園になってもその歴史と共に細川庭園として堂々とPRしていますが、椿山荘や蕉雨園の前身は、あたかも明治新政府の負の側面の秘密であるかの如く、一般には知られていないし公表もされていません。

初めての護国寺

私は真言宗豊山派の檀信徒ですが、総本山の奈良長谷寺は2度参拝しましたが、東日本の総本山の護国寺には、今まで訪れたことはありませんでした。
地図を見ると永青文庫から護国寺までは遠くないため、レストランを探しながら散策しました。

護国寺縁起によれば、創建は天和元年(1681)、五代将軍徳川綱吉が、生母桂昌院の発願により、碓氷八幡宮の大聖護国寺の亮賢僧正を招き開山しました。

仁王門の建立は元禄10年(1697)で本堂よりやや遅れて建てられました。正面の左右には阿形、吽形の金剛力士像、背面には増長天と広目天が安置されています。


鞍馬寺を模した堂々たる山門の仁王門をくぐると本堂は遥か彼方です。

桜と対比する欅の新緑が美しいです。

正面に山に登る長い階段があります。この階段の上に2つ目の山門不老門があります。昭和13年建立です。

不老門をくぐると左手に多宝塔があります。この多宝塔は近江の石山寺の模写で昭和13年に建立しました。

この塔頭の後ろ側に、近江三井寺の塔頭日光院の客殿、月光殿を移設しています。月光殿は桃山時代の書院様式を伝える建築で重文に指定されています。

観音堂(本堂)です。元禄10年(1697)正月に幕命でこの観音堂建築の発布し半年余りの工事日数で、この巨大な伽藍を完成させました。

元禄時代の建築工芸の粋を結集した大建造物で、関東大震災、太平洋戦争の二度の災害に遇いながらも姿を変えなかったと寺院縁起で述べています。

本尊如意輪観世音菩薩が安置されている本堂です。

巨大な本堂です。

本堂の横と後ろ側は広大な墓地が拡がっています。

雑司ヶ谷

護国寺から雑司ヶ谷方面に足を伸ばしました。

初めて見る雑司ヶ谷霊園の広大さに目を見張りながら辿ると、とてもクラシックな花屋さんがありました。井戸が現役として使われています。

散歩で出会った豊島区立雑司ヶ谷旧宣教師館

グーグルマップを見ながら歩くと、住宅街の中に旧宣教師館の名前が記されていたので向かいました。門かぶりの松に洋館の和洋折衷の組み合わせです。鋳物のゲートと門柱のレンガは焼が固く建築当初のものでないと想像しますが、門かぶりの松は建築当初に植えられていたのでしょう。

雑司ヶ谷旧宣教師館は、明治40年(1907)にアメリカ人宣教師マッケーレブが、自らの居宅として建築した洋館で、現在は豊島区の建築物になっています。
宣教師館パンフによると、米国人宣教師のジョン・ムーディ・マッケーレブは1861年テネシー州に産まれ、生後6か月で父親を失い,以後苦労を重ねながら敬虔なクリスチャンの青年に成長し、27歳の時ケンタッキーのキリスト教学校に入学、ここで先輩宣教師の勧めで日本伝導を決意し,新婚の妻と共に来日し築地、神田、小石川と伝道活動を展開し1907年雑司ヶ谷に移り住み、太平洋戦争開戦迄ここを拠点として宣教活動を行って来ました。

全国のアメリカ宣教師館です。現存している洋館はアーリーアメリカンのコロニアル様式、中世ヨーロッパの手法を取り入れたカーペンターゴシック様式、杮葺きのシングル様式などで作られています。

私たち現代人の多くがアーリーアメリカン様式に憧憬し、赤毛のアンが親しまれている理由は何だろうと、昔考えたことがあります。
ヨーロッパからアメリカ新大陸に渡った初期の人々は、当時電気や動力機械を除いて、家具、風呂、台所の設備や生活用具が全て完備していたヨーロッパから、未開の大地に根を下ろしゼロから文明生活を築きました。

既に理性を身に着け、近代社会の在り方も経験し、文明社会の便利さを享受してしまった近代人の私たちは、人間生活を原始の時代に戻ろうとしても、ジャングルの生活には決して戻れません。近代人の私たちがイメージ的に戻れる時代は、新大陸のアーリーアメリカン時代までです。
その意味では、文明社会を捨てて集団で新大陸に移住し、そこで文明社会を築いたアーリーアメリカンは人類の壮大な実験だったともいえるのです。

2階に上がると体重のある私が歩くと床がへこむため、刺激しないようにしてそっと歩きます。階段のスピンドルは輸入したのでしょうか。

函館が好きで何回か行きましたが、幕末開港した函館には各国のキリスト教のほとんどが進出して教会を建てました。アメリカメソジスト教会、フランス・カトリック教会、カトリック厳律シトー会、ロシアハリストス正教会、英国聖公会などが山の手教会や修道院として散在しています。西の海に面し故郷が望まれる外国人墓地の墓碑銘をみると、来日して布教に努めたキリスト者は、それぞれ教団の中でも最優秀な人々であり、故郷に戻ることなく異国の地で眠っていることが分ります。
一つ一つこれらの布教に命を懸けて異国に眠っている人々の生きざまに接すると、私はキリスト者ではありませんが、感動を覚えざるを得ません。

ロンドンオリンピックで表彰のたびごとに映画「炎のランナー」の主題歌が流れました。「炎のランナー」はオリンピック映画ですから、大事な儀式でこの主題歌が流れるのは不思議でありませんが、私はただオリンピック映画の主題歌だけで流れたのではないとのではと想っています。
映画の主役の1人、スコットランドラクビーチームの名ウイングでもあり長老派教会の宣教師リデルは、中国で布教していましたが、パリオリンピックの英国チーム選手として呼ばれましたが、100m競技の日が安息日に当たるため、皇太子の説得にも出場に応じませんでした。400m競技に出場する仲間の一人が既にメダルを得ていたため、400mで出場の権利をリデルに譲り、その結果リデルが金メダルを受賞しました。そうしたリデルも中国で伝導中現地で亡くなりました。

宣教師館で、豊島と「赤い鳥」展を行っていました。

「赤い鳥」は大正7年創刊した児童雑誌「赤い鳥」を中心とし活動した童話・童謡運動です。「赤い鳥」の主催者鈴木三重吉の自宅と発行元「赤い鳥」は豊島区にありました。
鈴木三重吉は東京帝大で教授の夏目漱石の薫陶を受けた高弟として、文壇でも重い地位を占めていましたが、自分の文学を捨てて、新しい児童雑誌に賭け「赤い鳥」を主宰しました。

当時は子供向けの総合雑誌は「幼年世界」「少年世界」「幼年俱楽部」「幼年画報」など多数ありましたが、大正の自由主義の風潮を受けて小学生の芸術教育も注目され、子供向けの新興文学が台頭しつつあった時代でした。

「赤い鳥」小川未明、宇野浩二、有島武郎、芥川龍之介、北原白秋、坪田譲二や画家の深沢省三たちが参画し児童文学の創造を行い昭和11年まで続きました。

「赤い鳥」に続いた、童謡童話雑誌「金の船」のこと

私は歌や唱歌童謡が好きで、歌の歴史や文部省唱歌の歴史や、童謡についても野口雨情や中山晋平についての著作を読み、詩人たちの記念館も訪れてきました。
唱歌、童謡を考えると、我が国が西欧音楽を導入し最初は文語調の翻訳唱歌から始まった歌の歴史が、大した日時を得ずに、西洋音階を使用して日本語で、日本人の琴線に触れる歌を作った歴史は、改めて考えると世界的にも稀有な文化創造作業だったと想います。

唱歌の歴史を触れる内、その中でも国学者の家系らしい作曲家の本居長世は私にとって謎の人物でした。
「金の船ものがたり」と出会い、この著作により大正の童謡運動の全貌と背景を知り、よりいっそう当時の人々の情熱を知りました。

少子化の危機を迎え政府も子育ての充実を力説していますが、幕末から明治初期にかけて来日した欧米の先進国の人々は、我が国の社会の様子を見て、子供たちを社会全体が共同で見守る子供天国だと記しています。
大正期の童謡、童話運動は、大正デモクラシーが台頭する中、我が国の将来の芸術文化の担い手となる子供たちに、良質な芸術文化を用意しようと始めた芸術活動でした。その運動は政府が介入したわけでなく、商業的な目算でもなく市井の人が私財を投げ打って始めたもので、このような運動の背景には、江戸時代以来の我が国の民衆文化の高さを感じます。

児童文学雑誌「金の船」は鈴木三重吉の「赤い鳥」の発刊を受けて、斎藤佐次郎が発刊した雑誌です。
当時25歳の斎藤佐次郎は、鈴木三重吉のような文壇で名が知られた文学者でなく早稲田英文科を出て、父親の事業での遺産を活用し新しい児童文学を模索していました。「赤い鳥」が文学的な香りがあるものの、子供には難しく高踏的であることに反し、より子供目線の雑誌の発刊を意図しました。

佐次郎は、大学の先輩の西条八十と相談し早稲田で共に詩作の活動していて茨城に引っ込んでいた野口雨情を呼び編集主幹にし,島崎藤村と有島武郎の監修により、新しい童謡童話雑誌「金の船」がスタートしました。

「金の船」には若山牧水、本居長世、中山晋平、竹久夢二や画家の岡本帰一、更に窪田空穂、三木露風、など早稲田文人たちも結集しました。

「金の船」から青い目の人形、七つの子、十五夜お月山、赤い靴、証城寺のタヌキ囃子、でんでんむし、俵はごろごろ、あの街この街など、子供も大人も琴線に触れる不世出な童謡が産まれました。

「金の船」ものがたりの著者小林弘忠氏によれば、「赤い鳥」の「かなりや」から私たちが今日愛唱している童謡の黄金時代は大正中期の5,6年に過ぎないと述べています。その意味で斎藤佐次郎がいなかったら童謡の時代も、そのきらめきに満ちたものではなく、童話、童謡の普及につとめた斎藤佐次郎の生き方そのものが童謡史ではないかとも述べています。

娘と「赤い鳥」の展示を見ながら、娘が子供の時、カナリヤの歌の2番の「歌を忘れたカナリヤは背戸の小藪に埋けましょか」の「埋ける」の言葉に驚いていたことを想い出し笑い合いました。

日本美術史の専門家の息子には、いつか聞いてみようと想っていたことがあり、息子が30過ぎてから聞きましたが、絶対にそんなそぶりを見せない息子も童謡は嫌いでなかったと白状したことがありました。

雑司ヶ谷、夏目漱石墓地

雑司ヶ谷墓地は広大です。夏目漱石の墓地の案内があったので寄ってみました。ネットで検索すると雑司ヶ谷墓地には小泉八雲、泉鏡花、金田一京助、永井荷風、竹久夢二、サトウハチロー、東条英機など多くの著名人が埋葬されています。

都電で王子へ

娘は都内に住んでいますが、我々は浦和に帰るために最適な駅は、池袋か京浜東北腺の王子に出ることでした。
現存している唯一の都電荒川線が早稲田から王子経由三ノ輪まで走っているので、雑司ヶ谷駅から都電に乗りました。

何十年ぶりで都電に乗りましたが、狭い車内は満員で都電人気がうかがわれました。モータリーゼ-ションによって各地の路面電車の多くは廃止されてしまいましたが、旅に出ると、便利だし色々デザインが趣向された車両を見るのも楽しみです。札幌、函館、東急世田谷線、富山、京阪、長崎、熊本、鹿児島の路面電車に乗りましたが、路面電車は便利だし、街の風景を暖かみのあるものに変えてくれます。
家内は中学、高校一年まで都電で通学していたので懐かしそうです。

飛鳥山の桜

都電で飛鳥山で降りて、桜を見物することにしました。
私は桜の風景より、桜を楽しんでいる人々を見るのが好きです。

地元の人や桜見物の観光客を問わず桜を楽しむ人々は喜びに溢れ、全身にその気持ちが表れるからです。
桜の樹も花だけでは絵にならず、桜を楽しんでいる人々がいるからこそ、桜の風景も生きてきます。
桜は葉の芽出しより先に花を咲かせ、しかも枝の先々迄豊穣に彩ります。かって古代人たちが椿の花に命を感じ、やがて稲作が始まると田の水源の山の頂上にたわわに咲く山桜を見つけ、そこで田の豊作を願う祭りの山見(花見)の行事が始まって以来、桜の下で集い楽しむことは、私たち日本人の原点でした。

千年も2千年も3千年も時代は変わっても、私たちは皆、満開の桜の樹の下で、豊作を願い、健康を願って一年に一度の命の祭典を行って来ました。

飛鳥山の桜は、江戸川公園や見沼の桜より長続きしているようです。

飛鳥山の桜は八代将軍吉宗が江戸庶民の行楽のために桜を植樹し開放した我が国初めての公園です。ネットを見るとソメイヨシノが散ったとは、中人にサトサクラが咲くそうです。

まだ15時半頃ですが、これから夜桜目当てで人々が集まってくるのでしょう。

人々の賑やかな話し声が行きかい、とても楽しそうです。

飛鳥山に上がるモノレールに行列を作っています。歩いて登っても大したことが無いのに、東京都は優しいです。昔はレールの上を走るリフトみたいな簡易的なものだった印象がありました。

角館の桜

飛鳥山の桜に集う人々の画像を見ていたら、各地の桜とそれを楽しんでいる人々を想い出してしまいました。
撮影する際は、なるべく人々の顔が映らないように行いますが、それでも桜の季節には、桜を撮影しているつもりでも、つい人物が入ってしまいます。
おそらく人物が分けられないのは、桜と見物の人々たちが一体であるからでしょう。

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角館の桜の特徴は豪快な枝垂桜にあります。武家屋敷の通リいっぱいに広がります。


滝のように桜が降り注ぎ圧巻です。

津軽芦野公園の桜

芦野公園は五所河原から津軽鉄道に乗って行きます。津軽は相撲が盛んな場所で、桜が満開の季節、小学校、中学校、高校の相撲大会が開かれ青森県中から力士が集まります。桜満開の名所、芦野公園の桜の基、相撲大会に出場することは名誉なことなのでしょう。

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桜のトンネルの中を、今か今かと待っていた津軽鉄道の電車が到着しました。電車もとても晴れがましそうです。冬にはストーブ列車で有名です。

弘前城の桜

桜の季節になると弘前城の桜を想い出します。北国では。4月下旬から5月上旬にかけて、水仙、チューリップも水芭蕉も桜と同時に咲きます。津軽の人々は長い冬の間、この時期を待ち焦がれているのです。そして桜が終わると真っ白なリンゴの花が津軽平野を埋めます。

桜の花に集う人々の喜びに満ちた表情に気が付いたのは、この津軽の桜の旅からでした。以来桜の季節には、桜と人々を分けることができず、桜はいつも同じ人入りで撮るようになりました。

子供の頃鉄の玉の中で2台のオートバイが回転しながら疾走するサーカスを度肝を抜かれながら見ていました。津軽では未だやっていました。

熊本城の桜

この年、寒くて熊本城の桜の満開は遅れがちでした。3月下旬の日曜日、熊本城の二の丸公園ではよさこいの大会が開催されていました。演技を終えて満足そうに語りながら会場から戻る若者たちの満足そうな喜び溢れた顔がとても印象的でした。春を迎える喜びに満ち溢れていました。

庭で今のような春爛漫のチューリップの晴れがましい喜んだ姿を見ていると、熊本の若者たちの画像を想い出します。

醍醐寺の桜

真言宗醍醐派総本山の醍醐寺の秀吉の醍醐の花見で名高い桜名所です。京都での桜のNO1はやはり醍醐の桜でしょう。桜好きの秀吉のお気に入りの醍醐の枝垂桜や、日本三大五重塔と桜の対比は、桜名所の面目躍如する光景です。

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八坂神社の桜

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円山公や八坂神社一帯の桜は、人が大勢集まるために、桜自体より桜の風景にふさわしい名所です。

南禅寺の桜

臨済宗南禅寺派大本山の南禅寺の桜はソメイヨシノが少ないため、派手ではありませんが、山桜の美しさが際立ちます。南禅寺は桜よりむしろ紅葉の方が合うような気がします。

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仁和寺の桜

真言宗御室派大本山の仁和寺の桜は御室桜と言われる遅咲きの桜が有名です。ソメイヨシノの満開時には残念ながら咲いていません。

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天龍寺の桜

天龍寺の枝垂桜が圧巻です。借景も良くいつまで見ても、見飽きません。

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不発吉野千本桜

吉野は山桜が主体で標高が高いため、開花は遅く他の寺院と同時期では満開の桜は楽しめません。

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長谷寺の桜

真言宗豊山派の大本山、長谷寺は花の寺として名高く、牡丹が有名ですが、全山をピンクに染める桜も本当に見ごたえがあります。

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江戸川公園の桜

数年前に同期と行った際の江戸川公園の桜の花見客風景です。