桜回廊の最後の桜と見性院(信玄次女)の墓

雨が続いても中々散らない今シーズン最後の桜を愛でに、氷川女体神社経由で東浦和駅付近までの見沼桜回廊を辿ろうと、PCで桜回廊付近のマップを眺めていたら、見性院の墓が桜回廊の明の星女学院の近くにあることが分りました。

武田信玄の次女の見性院の墓は、旧浦和市内の旧大牧にあることは知っていて以前から行きたいと思っていましたが、有名人のお墓であってもわざわざ訪ねていく趣味もなく、旧大牧地区そのものが付近に顕著な目印もなく、車で行っても駐車場などの心配もあり、そんな条件が重なり、長い間そのままになっていました。
見性院の墓は、一般にはほとんど知られていませんが、見性院の名を知っている数少ない人にとって、顕著な歴史に乏しい浦和で数少ない史跡の一つです。

桜ウォークのブログを作成していたら、見性院についてあれこれ想いを馳せる内に、桜紀行はどちらかに行ってしまって歴史紀行になってしまいました。

見沼桜回廊

4月6日、

桜と名の花とハナズオウが重なりました。ハナズオウの漢名は花蘇枋で、中国原産の落葉高木で古くから文人たちに好まれてきました。今の季節見沼田んぼでは、花桃や桜が散った後、花色としてピンクの花が望まれますが、今の季節見沼田んぼではたくさん見かけます。

4月14日、春は変化の激しい季節、10日たらずで上の画像と下の画像では景色が全く異なります。土手の桜も緑に変わり、ピンクのハナズオウの花も終わり、ツツジが一杯に広がり、菜の花はもうすぐ終わりそうです。これからの季節見沼田んぼは緑一色になって行きます。


回廊の最後の桜

10日前の見沼氷川公園の枝垂桜です。今の季節、子供連れで公園に集う人は、この樹をバックにして必ず記念写真を撮ります。

今年は少しずつ散ったため、用水を埋めるほどの花筏は見られません。

東浦和駅に近ずくと明の星女子学園の桜が対岸から迫ってきますが、ピークも終わったので迫力はありません。
この先からスマホのグーグルマップで見性院の墓を検索し進みます。便利な時代になりました。

見性院の墓がある天台宗寺院、清泰寺

天台宗慈了山覚源院清泰寺です。平安初期に慈覚大師円仁が開山したと言われています。
この清泰寺に武田信玄の次女の見性院の墓があります。

しかし武田信玄の次女の見性院の墓と言っても、マニアックな歴史を好む人を除いて旧浦和市民のほとんどの人たちは、見性院の名も知らず、墓の存在も知らず、なぜ武田信玄の次女の墓が旧浦和にあるかその理由も知りません。

私が見性院と会津藩初代藩主保科正之の名を知ったのは、中村彰彦著「名君の碑」を読んでからでした。
中村彰彦の小説を初めて読んだのは30年前デビューしたての「鬼官兵衛烈風録」で、その後、氏の幕末会津藩を始めとした戊辰戦争の敗者の人たちを描いた小説を読んできました。中村彰彦氏は戊辰の敗者の会津藩士たちを描くに当たって、なぜあれほどまで新政府軍に頑強に抵抗したか、その源に辿り着いたのが「名君の碑」でした。

保科正之を藩主とする会津藩の誕生には、この浦和郊外の清泰寺に眠る武田信玄次女見性院、武田家の忠実な家臣保科氏、3代将軍家光が、からんだ壮大な歴史ドラマが繰り広げられたのです。

見性院とは


見性院の父親の武田信玄は、上杉謙信と同じように生涯戦に明け暮れた武略の人との印象が強い武将です。

しかし信玄は、快川和尚など高僧に学問を学び和歌や漢詩にも明るい文化人としての側面もありました。
信玄は正室三条夫人と側室油川夫人との間で、6人の女子を生み、戦国の世で女子は政略結婚に使用されましたが、信玄の女子たちもその例にもれませんでした。信玄はたいへんな子煩悩で生まれた女の子をことごとく大事に育てました。

長女の黄梅院は、小田原北条氏、駿河今川氏との三国同盟の証で北条氏に嫁ぎましたが、信玄が今川氏を攻め三国同盟が壊れて北条氏は、娘を残して黄梅院を甲府に送り返してしまい、悲嘆にくれた黄梅院はほどなく病死してしまいました。信玄は深く娘を哀れみ黄梅院となずけた一寺を建立しました。

次女の見性院(けんしょういん)は正室三条夫人との間に産まれ、14歳の時、穴山信君(梅雪)に嫁ぎました。
梅雪は信玄の甥であり、穴山氏は南北朝時代から続く甲斐源氏一門で信玄の武田宗家とは婚姻を繰り返してきた家柄です。

甲斐は山が主体の国で米が採れる平野は限られており、塩山、甲府、韮崎周辺と、山を隔てた甲斐南部富士川沿いの河内、そして大菩薩を越えた都留地方の郡内の3カ所に過ぎず、それぞれ河内には穴山氏、郡内には小山田氏が領していました。余談になりますが、富士川沿いの一番南に甲斐源氏一族の南部氏がいましたが、余りにも土地が狭く貧弱なため、南北朝時代に岩手に移住し南部氏となり、南部藩として幕末まで続きました。

穴山梅雪は信玄の戦では余り勲功は挙げていませんが、信玄の傍で戦闘に入ることなく信玄の背後をいつも守っていたと言われるほど信玄の信頼があつい武将だったようです。梅雪は河内地方の名領主として善政を施し、風雅に秀でて学識も深く文化的教養の高かった武人と言われています。見性院の母の三条夫人は藤原摂関家に次ぐ家系で、度々太政大臣に補され、国母を出した家柄の三条家の出身であり、娘たちにはしっかりとした教養を身につけさせていました。

余談になりますが、昨年秋大内義隆の最後の地となった長門の名刹大寧寺に左大臣三条公頼の墓がありました。左大臣三条公頼は三条夫人の父親で、三条家の荘園が大寧寺が位置する長門国深川にあり、三条公頼は大内氏に招かれて山口城に滞在していましたが、陶晴賢の反乱が勃発し、大内義隆を追って大寧寺に行く途中暴徒に襲われれ最期を遂げたのです。想わぬ場所で三条夫人の具体的な家系を知りました。

有名な武田家二十四将図の上半分ですが、信玄の左横に穴山梅雪、右横に信玄の弟の武田逍遥軒が描かれています。

穴山梅雪は信玄死後、長篠戦いで戦死した山県昌景の後を受けて、静岡清水市の江尻城の城主になり、領民に慕われるほどの善政を行い東海最前線の守備を行っていました。
そして天正10年(1582)武田滅亡の直前、武田家の救済と家名存続を条件に徳川方に降伏しました。一説には、武田家を継いだ諏訪御寮人の子、勝頼より自分の方が武田の本流意識があり、勝頼のやり方に不満を持っていたと言われています。梅雪の降伏は武田軍に衝撃を与え、その後まもなく武田勝頼は織田軍によって滅亡されました。

本能寺の変の際、梅雪は家康と共に堺にいましたが、急遽浜松に引き揚げるに当たり家康は海路を、梅雪は陸路を辿りましたが、その途中梅雪は土民の手にかかり非業の死を遂げてしまいました。


家康は、信玄に対して憧れと尊敬の念を持ち、敗れた武田家臣団を数多く召し抱えたばかりでなく、信玄の治世もそっくり幕府政治に応用しました。

その中で、家康は、梅雪の11歳になっていた嫡男勝千代に武田氏の名跡を継がせるという梅雪との約束を果たすべく、有泉氏など梅雪の重臣を補佐につけて武田氏の名跡を継がせました。しかし勝千代は16歳の時病死してしまいました。

さらに家康は、梅雪との約束を果たすべく、穴山氏ゆかりの秋山夫人に産ませた五男万千代の成人を待って、武田信吉と名乗らせ水戸25万国の藩主としましたが、信吉も21歳で病死してしまいました。

家康は、尊敬する信玄の縁者の梅雪と嫡子勝千代の若死と、度重なる不幸に見舞われ身を仏門に投じて冥福を祈る見性院を庇護するために、浦和の大牧村に500石の所領を与え、江戸城田安門内の比丘尼屋敷に住まわせました。


 

見性院の骨折りにより、武田、保科、徳川、会津と続く壮大なドラマが始まりました。

まずは会津藩について

会津藩は徳川300諸藩の中で、藩論は異にしながらもいざという時にはまとまりも良く、また藩校日新館を中心に、藩の子弟に対する教育レベルの高さは、300諸藩随一でした。

会津藩は元から存在した藩でなく、3代将軍家光の命により、会津藩初代藩主保科正之が、高遠藩をベースにして23万石の大藩として立藩したものです。

後に会津藩政と共に、4代将軍の幼君徳川家綱を補佐し、幕府国政において稀代の名君といわれた藩祖保科正之の精神や能力は、今回訪れた墓の主である武田信玄次女の見性院に養育された結果であると言われています。

見性院と保科正之の間にそれまで全く縁が無く、二人の出会いはまさしく歴史上の稀有なドラマでした。
このドラマの基本には、家康の武田信玄に対する尊敬があり、信玄古来の家臣ではありませんが、信玄の思想的影響を受け武田家臣団有数の猛将だった高遠藩主保科正敏、正直と続く保科正光の武田武士そのものの律儀な人格がありました。

武田信玄次女の見性院が養育した初代会津藩主保科正之は、2代目将軍徳川秀忠が乳母付侍女として仕えたお静に産ませた子でした。

お静は、秀吉によって滅ぼされた小田原北条家の家臣神尾家の次女でした。神尾家当主とお静の兄弟は、時の運に恵まれず牢人でしたが、お静は類まれなる美しく賢く気丈な女性であったいわれています。
秀忠の正室のお江の方は、信長の妹のお市と浅井長政の間に産まれた淀君の3姉妹の3女で、秀忠の世継ぎの家光を生んだため、江戸城では強大な権限を有していました。
お静は秀忠によって2度まで身ごもされましたが、嫉妬深いお江の方から暗殺の危険が迫ったお静は江戸城に居られず、城下の知り合いに身を寄せたのです。

通常でしたら、お静から初代会津藩主保科正之が生まれることは無く、産まれたとしても秀忠の強い意志がなければ、将軍家の家系に入ることなく抹殺されてしまいますが、この歴史ドラマでは保科正之が世に出るのを手助けした人々がいました。

北条家家臣神尾家当主、兄弟は静の姉と共にお静を助けました。そして正之の世に出ることを手助けしたのは、見性院と家臣、六女信松院(織田信長長男の許婚)旧武田家家臣、高遠藩主保科正光とその家臣団(家臣団は会津に移封後、多くは幕末まで存続しました。)そして老中土井利勝と3代将軍家光でした。


秀忠の子を宿し将来の見通しが全く無かったお静は、思い余って江戸城内で交流があり比丘尼屋敷に住む見性院に手紙にて相談したのです。
手紙を読んだ見性院は、即座に妹である信玄の六女信松尼をお静の元に遣わし、その結果お静は、信松尼と共に浦和の大牧村の見性院の領地に行き、そこで正之を無事出産しました。

出産は、直ちに見性院によって老中土井利勝に報告されその後、土井利勝は見性院に江戸城内田安比丘尼屋敷にて、生まれた男子の養育を依頼したのです。
こういう重大事に対して即座に判断し行動した見性院は、さすが信玄の子であり、普通の女人の行動ではありません。家康も憐れみだけで500石を与え田安門内の屋敷を与えた訳では無い聡明な女人だったと想います。


 
見性院は、正之の幼名幸松を、幸は甲と変え、松平と武田の橋渡しをする男子として、武田甲松殿と呼び、信玄の形見や国宝級の短刀を与え、武田武士団の気概を後世に伝え、武田の家風を継いでくれる子になるよう、自らの子として懸命に養育したといわれています。

見性院が養育した保科正之は、その後4代将軍家綱の補佐役となり、幕府の武断政治から文治政治に変更したためその後250年間にわたり内戦の無い平和な時代が続きました。

この250年間世界では、革命や植民地獲得競争に明け暮れた戦争の時代でしたが、我が国は軍事の時代から平和な時代に変化して、大名も軍事より学芸を貴び、藩校や寺子屋教育が盛んになり、世界一の識字率の国家が維持され諸芸が振興し、今日に続く名産物が各地に誕生しました。

見性院が幼児保科正之に伝えたかった武田武士団の気概や武田の家風は、どのようなものだったのか、少し触れて見たいと想います。

見性院は正之が7歳の時高遠に養子に行って別れた5年後の元和8年亡くなりました。葬送は見性院の家臣有泉重治が営み大牧村の清泰寺に葬られました。有泉重治は梅雪の家臣勝重(徳川旗本になる)の子でその子勝長は、正之と共に高遠に行き、後300石取りの会津藩士となります。勝長の弟は大牧村で見性院の所領の管理と霊廟の管理を行いました。

正之は清泰寺に見性院の霊廟を作りました。正之が保科の名のため固辞していた松平の姓と葵の紋が2代後の正容の時、許され、同時に見性院にも許されました。霊廟損傷後は葵紋付の門扉は墓地に移され、最後の会津藩主容保により倒壊したケヤキの墓標に変わり墓石が建てられました。

甲斐の山、南アルプス白根三山を望む夜叉神峠(06年12月)

山行きの帰途、初めて信玄に触れました。

06年12月、この年は雪山を行わないメンバーもいたため、雪山は春山にして、冬山には行かず、クラブの同期と南アルプス白根三山の展望台として有名な夜叉神峠に登り、桃の木鉱泉に泊まり翌日は甲府の武田信玄の城址の躑躅ケ崎館跡に行きました。

武田氏は人は城との言い伝えのもと城郭は築かず、本城は躑躅ケ崎館と屋敷跡で、現在は武田神社となっています。
今から17年前ですが、この頃は歴史深訪より登山の方に気が向いていたため、せっかく武田氏の本拠に行ったのに、宝物館も観ることなく躑躅ケ崎館跡跡の画像もほとんど撮っていませんでした。

甲府の駅から武田神社まで2㌔ほどの門前町を辿りましたが、甲府の駅から神社まで風林火山の幟が林立し、これらの風景は観光目的だけのものとは想えず、現代の今も信玄は地元では敬愛されていることが分りました。

余談になりますが、これに反し後日米沢に行った際、駅にも、上杉神社にも謙信の毘と龍の幟が1本ずつしかなく、博物館入り口にも1本も無かったので受付の人に、甲府での風林火山の幟が林立していて、米沢ではやらないのか?と質問をしたら、爺の馬鹿な質問に対して傷つけまいと・・・の様子を見て、他ではしているかも知れないが、そうしないのが上杉と言外に応えていることが分り、あの上杉特有の美学である独特の清涼感の秘密が分りました。

上杉謙信の居城は越後高田の春日山城で、その子景勝は豊臣五大老の1人として米沢120万石に転封しました。しかし現在なお米沢には謙信、景勝、鷹山の清廉とした家風が残っているような気がします。ただ甲府は武田氏滅亡後、幕府譜代大名の領地となったため、米沢ほど気風は残っていないかも知れません。でも地元では信玄を敬愛するに人後に落ちることはありません。

大菩薩峠登山の途中に訪れた武田氏ゆかりの寺院(09年11月)

信玄のことをもっと知りたくなりゆかりの寺院を訪ねました。

09年11月

信玄の墓がある乾徳山恵林寺

1582年武田氏滅亡直後、織田信長の大軍に包囲され、武田関係者の引き渡しの求めに応じなかった快川和尚に対し、寺を焼き討ちし全山灰燼と帰しました。この時炎上する山門楼上で快川和尚が唱えた有名な遺喝として「安禅必ずしも出水を須いず、心頭滅却すれば火自ら涼し」が掲げられています。

境内の隣にある宝物館を見て、実際に現地で歴史を見る、歴史探訪への興味がふつふつと湧いてきました。

今まで信玄はただの戦好きの武将だと思っていましたが、展示物から家康がそのまま継承した貨幣制度、水害を防ぐ信玄堤などなど信玄が行った領内の統治について目の当たりにしました。信玄は山深い耕地の少ない甲斐国でいかに善政を行っていたか良く判りました。家康は戦の手法だけでなく、信玄の政治家としての力量、そして教養迄尊敬していたことが分ります。

武田家出陣の儀式を行った裂石山雲峰寺

雲峰寺は大菩薩峠登山口にあります。登山を行っていなければ訪れる機会は無かったでしょう。

恵林寺の宝物館の係の方から、今日は雲峰寺の御住職はおられる日だとお聴きして雲峰寺に向かいました。夕方近くなり山上の雲峰寺に上ってご住職をお待ちしていたら、戻って来て宝物館を開けていただきました。

この雲峰寺宝物館には武田氏の家宝である「御旗」「諏訪神号旗」があり、ぜひ見たかったのです。宝物館でご住職からさまざまお話をお聴きしました。

「御旗」です。

日本最古とされる日の丸の旗、天喜4年(1056)に源頼義が後冷泉天皇から下腸され頼義の三男の新羅三郎義光から武田家に伝わったと言われています。

宝物殿には「御旗」「風林火山の孫子の旗」「諏訪神号旗」「馬標旗」が収められています。内部はもちろん撮影禁止です。武田勝頼が天目山栖雲寺に辿りつけず自刃した際、「楯無鎧」は穴を掘って埋め、「御旗」初め各旗は部下の武将が携えて、戦勝祈願の寺ここ雲峰寺まで逃れ、寺に隠したと言われています


 「御旗」と「楯無鎧」は、源義家の弟の新羅三郎義光以来、武田家代々伝わってきた源家正統の象徴でした。国宝で菅田天神社に収められている「楯無鎧」は、その重厚さや霊験から、矢や刀を防ぐのに楯は不要という意味で、新羅三郎義光から子孫の武田家に伝えられたと言われています。

孫氏の風林火山の旗 恵林寺の快川和尚の筆と言われています。

信玄の軍旗には「風林火山」と「諏訪神号旗」があることはあまりにも有名です。

改めて考えてみると孫子の兵法を軍旗に仕立てたこと自体が極めて思想的な行為です。戦いに対する「俺の考え方はこうだ」とばかり自己の考え方を軍旗にして掲げ、その旗の下に兵を結集させた信玄は極めて思想的であるとともに哲学的な人間と想います。

片や上杉謙信は自身、仏法の守護神である毘沙門天の生まれ変わりと信じ、「天に代わって邪な者に鉄槌を下す」ために毘沙門天の軍旗を掲げて戦ったことは余りにも有名です。
自分が天に代わるという考え方には、よこしまさが入る隙もありません。越後守護の上杉の名代を継ぎ、既に有名無実になった足利幕府の関東管領職に成りきって、鶴岡八幡宮で華やかに管領職就任式を行い、雪解けになると長躯三国峠を越えて小田原北条氏が治める関東に侵攻しましたが、義を尊ぶその行動は極めて思想的かつ哲学的です。

反面、家康の軍旗「欣求浄土」は、気持ちは判りますが、戦いの旗としては集団全員が気持ちを奮い立たせ勇ましくも、死の深淵を覗くような哲学的な言葉ではなく、即物的すぎるような気がします。後発の家康は先人たちを良く研究し、治世は成功しましたが、人物の哲学的な魅力という点では2人に比べると大分落ちるような気がします。

信玄と謙信に共通しているのは、神仏の信仰に厚く両者共出家したことで、世に人智を超えたものが存在すると信じていたことです。
信玄の名も謙信の名も出家した自身の戒名です。

2人の上洛の目的も古風で自身が幕府を開くのではなく、天皇の下に足利将軍職があって、自身はその執権として天下に号令をかける立場を目指しました。そこは信長と大きな違いでした。


比叡山を焼き討ちした信長から近世が始まるとしたら、武田の滅亡とは中世の終焉を告げるものだったのしょう。 
中世の修験寺院は叡山に代表されるように16谷3000坊とか、現在考えるよりずっと規模が大きく強大だったようです。当時叡山は武力もあり今日の東大と京大を合わせた位の学問の拠点でもありましたが、信長の焼き討ちによって多くの歴史的な経典や資料などが失われたと言われています。
この叡山の焼き討ちをきっかけとして、武力を備えた強大な修験寺院は力を失って、戦国大名に屈服して行ったと考えます。それは合理思想が優先する近世の始まりだったのでしょう。

信玄を描いた映画などで、出陣の際、戦勝祈願でこの「御旗」「楯無鎧」を上座に飾り、それを前にして信玄以下主だった家臣たちが「御旗、楯無、ご照覧あれ」と唱和するシーンが良く見られました。雲峰寺のご住職にお伺いしたら、この寺でその戦勝祈願の儀式を行ったそうです。

この思想は武蔵武士ひいては坂東武士の「名こそ惜しめ」の哲学が基本になっています。名誉を尊び、卑怯な振る舞いや裏切り行動において、何よりも自己の名が汚れることが最大の恥辱になることを恐れた哲学でした。

源平時代には戦の際には大音声で、自己の先祖、所在地と自己の戦歴など名乗ることが戦いの儀式で、元寇の役では蒙古勢が名乗りの最中に攻めて来た話は余りにも有名です。

「名こそ惜しめ」の哲学は更に発展して、名誉は自己のものだけでなく、先祖から続く家門の名誉であり、自己の卑怯な振る舞いによって、先祖の名まで汚すことを恐れ、戦いの前に家門の名誉を維持するために「ご先祖殿、御照覧あれ」と心に誓って戦いに臨みました。「御旗、楯無、ご照覧あれ」は、武田軍が源氏の先祖新羅三郎義光に対して「先祖の名を汚すような戦いは決してしない」と誓った儀式でした。

武田勝頼滅亡の地、天目山栖雲寺

天目山栖雲寺は臨済宗の寺院で、鎌倉時代の1348年業海本浄が開山し、業海が8年間修行した中国の天目山に似ていることから名付けたと言われています。

1582年、武田勝頼は武田ゆかりのここ、天目山栖雲寺を死地に求めましたが、道なかばで敵に阻まれここまでたどり着けず自刃しました。

栖雲寺には、南蛮渡来の赤いラシャの生地で作られた武田菱の赤旗や、信玄の重さ3kの鉄の軍配が納められています。公開はされていません。 

甲斐駒、仙丈岳登山の前日、高遠城を訪ねました。

高遠城主保科氏とは

高遠城は伊那谷から甲州方面に通じる街道の要衝にあり、地味豊かな伊那谷の年貢は南半分は飯田城主、北半分は高遠城主が徴収した、北伊那の中心の城でした。

見性院は養育した正之を世に出すために、武田氏家臣の高遠城主保科家の養子に出しました。

高遠城主保科氏とはどのような家系なのでしょうか?

保科正俊は、武田信玄に滅ぼされた高遠頼継の家老格で、信玄が高遠城を攻略した際高遠頼継と共に降伏し、その後高遠頼継は自害させられましたが、保科正俊は許されて信濃先方衆として120騎を与えられ武田家臣団に加わりました。

この保科正俊の名が知られるようになったのは、第1次川中島の合戦で、騎馬武者、徒歩武者500を従え戦いに臨みましたが、負傷した真田幸隆を助けるために大身槍を激しく振り回し敵を一歩も寄せ付けづ奮戦している姿を見た武田勢が【保科弾正を打たすな】と一斎に逆襲に転じ、この時以来武田軍団内で槍弾正の異名を取りました。

以来37回の合戦に参加し数々の武功をを挙げ、飯田城を預かり信玄、勝頼と2代にわたって仕えました。

その後正俊は65歳になり、家督を長子正直に譲って隠居し、三男の養子先で当主になった上野国箕輪城主内藤昌月の元に身を寄せていました。

その後病気療養中の正直に代わり現役復帰し、長篠の合戦に加わり、織田軍の侵攻時には正直と共に飯田城を守っていましたが、仁科五郎盛信が守る高遠城に入り織田勢を迎え撃ちましたが、正直が織田方の離反策にはめられ、和議と信じてニの丸を出た間に本丸との間を分断され、やむなく保科勢は城を落ちざるをえませんでした。

信長の死後、秀吉と家康は反目し、武田が滅んだ信州は不安定になり、天正13年(1585年)家康の要請で豊臣方の真田昌幸を打つべく兵2千を率いて保科正直、正光親子が上田城に向けて、高遠城を進発したのは槍弾正が既に75歳になった時でした。
しかし戦上手の真田攻めにてこずり、12月になっても親子は帰城できませんでした。ちょうどそのとき豊臣方に寝返った小笠原長時の息子貞慶は留守を狙って、75歳の槍弾正が守る高遠城を奪おうと5千の兵を率いて押し寄せて来たのです。

間者によって小笠原勢の侵攻を知った正俊は、大広間に家臣40人を集め意見を言わせましたが、大方城捨て論でまとまった後、家臣団に次のように叱咤しました。

「うぬらはすべてわしより年若き者どもなれば、定めて血気に逸り粗忽の論をたつるかと思いきや、この期に及んで城を捨てよとはまことにもって怯懦千万。敵と一戦も試みずにして城をひらけなどとは、近頃もって沙汰の限りじゃ。
わしは弓矢とって合戦に臨むことすでに数十年、齢はもはや八十に近けれど、敵に背をむけようなどとはゆめゆめ思わぬ。うぬらも武士(もののふ)の名を世に残したければ、あれは敵至る前に高遠を落ちたる者よと笑われぬよう名を惜しめ。

なに、勝ちを制する方略はわが胸中にあり、うぬらをむざむざと犬死にはさせぬ。かっては武田信玄公につかえて三十七度に及ぶ功名を挙げ、槍弾正の異名を取ったこのわしじゃ。わしが老いたかどうかをあげつらうのは、わがいくさぶりを見てのちといたせ。よいな!」

この獅子吼は40人の侍たちの恐怖心を消し去りわれしらず武者震いを覚えさせました。

それから5年後の天正18年8月、家康の江戸入りにあたり、槍弾正正俊の息子正直は下総多胡1万石に封ぜられましたが、正俊は三男のいる上州箕輪に行き87歳の大往生を遂げました。

正直は関ヶ原参戦などで家康に尽くし、高遠ニ万五千石に復帰その翌年60歳で亡くなりました。

後を継いだ正光は誠実な人柄で更に家康に尽くし信を受けました

一方、幸松(正之)は稀にみる利発な子に成長し、見性院はその将来を考え、時代が変わっても武田武士として臣従を忘れずに江戸登城の度に挨拶に来る保科正光に養子を依頼し将来を託したのです。

幸松は元和3年(1617)7歳で、見性院と別れ生母静とともに高遠に行きました。高遠藩保科家は2万5千石でしたが、幸松の養育のため5千石が加増され3万石となりました。

今まで6度訪れた会津若松城(14年10月)

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秀忠は生前、幸松を子であると公的には認めませんでしたが、正光の死後高遠藩を継いだ幸松(正之)に対し、将軍家を継いだ家光保科正之を事実上弟と認め、正之は高遠3万5千石から出羽最上20万石へ、そして会津23万石に転封し会津藩の始祖になりました。


保科正之は、会津藩主でありながら会津藩政は会津の名家老にまかせ、家光の側近として幕政を行いました。

江戸城天守跡(火災の後、保科正之によって再建しませんでした。)

3代将軍家光は正之に、自己の死に当たり11歳の4代目将軍家綱の補佐を頼みました。

秀忠、家光の時代は大名の改易が多く、国中に牢人が溢れていて政情が不安でした。家光は幕府権力で抑えていましたが、家綱の代ではその反動を最も恐れていたのでしょう。

正之は、幕府ナンバー2として家光の期待を期待を十分果たし、それまでの武断政治から文治政治に転換させました。

明暦3年(1657)幕府開始から55年経った4代将軍家綱の時、明暦大火または振袖火事と呼ばれる大火災が江戸の町を襲い、江戸市中の3分の2が消失して死者10万人を出しました。江戸城も天守、本丸、二の丸、三の丸すべてが焼け落ち西の丸のみが残りました。
この火災で正之は陣頭指揮を執り、将軍を江戸城に留め、江戸市内6カ所で一日千俵の炊き出しを7日間行い、家を失った江戸町民に16万両を支給しました。また参勤交代の大名を国元に返し米の高騰を防ぎました。

災害後、江戸の街の再建にかかり、広小路を設け、火災の際隅田川の対岸に逃げれるように両国橋をかけ、大名屋敷や旗本屋敷を江戸城から離れた外側に移動しました。

江戸城の本丸、二の丸、三の丸は再建しましたが、戦の無い時代天守は不要の考えから、天守の再建は行いませんでした。上の画像は土台だけが残る江戸城天守跡です。

正之は家老を通じて会津藩政に力を注ぎましたが、家光の臨終に際し4代将軍の家綱の補佐役を命じられ、20数年も会津に帰ることなく、稀代の名執政として幕閣を支え、三代続いた徳川の世を磐石にしたのです。

正之は学問好きで、会津藩の学問には朱子学に力を入れ、藩校日新館のさきがけとなる藩校を開設し、高遠藩の少年時代、近習として仕えた名家老田中三郎兵衛の元、子弟の教育に力を注ぎました。

そして自分の末期に国家老田中三郎兵衛に命じて、会津藩には15条の家訓を残しました。
天明4年の大飢饉後藩政緩みで借財に苦しんで会津藩に、この田中三郎兵衛の子孫の田中三郎兵衛玄宰が家老となって活躍し、藩財政を立て直すとともに、藩校日新館と什の幼年教育を確立し幕末の会津藩の士風の基礎を作りました。


戊辰戦争で新政府軍に頑強に抵抗した会津藩

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会津藩立藩に当たり稀代の名君といわれた藩祖保科正之は15条にわたる家訓を制定し、この家訓の精神が、250年間にわたって藩全体で熟成し、藩校日新館での士道教育と薩摩藩の郷中制度に似た、地域の什と言われる幼年教育を生み、幕末戊辰戦争における新政府軍に対する頑強な抵抗精神を生みました。若松城落城の折家老西郷頼母邸での頼母を除く婦女子21人の自刃や、白虎隊の悲劇もここから産まれました。

戊辰戦争で最後までに奮戦し自刃した藩士の中には、高遠藩以来続いた家臣が多かったのです。

会津最後の地、下北斗南藩跡(09年6月)

野辺地から陸奥湾沿いに北上しますが、荒涼とした海岸の1本路の道路がどこまでも続くます。時折り風力発電の大きな風車の近くを通過しますが、同じような風景がどこまでも続きます。途中六ヶ所村への分岐を過ぎると、横浜町の道の駅があり休む場所を見つけほっとします。

夕方遅くなり、やがて道路沿いにガソリンスタンドなどが見え始めると、それに連れて郊外店が現れ、街道沿いのどこにでもある風景となり、むつ市街に入ったことが判ります。ホテルには寄らず市街を抜けてまっすぐ斗南藩史跡に向かいます。

斗南藩は、会津藩が会津若松城落城後、明治2年1月に謹慎を解かれ、領地として猪苗代か南部藩領の北郡、三戸郡、ニ戸郡3万石が呈示されましたが、新天地を目指して移住し設立した藩です。
斗南とは北斗七星の南の地「北斗以南皆帝州」から名付けられました。

斗南藩領は七戸藩領を挟んで、南部は五戸から十和田湖周辺、北部は野辺地から下北半島一体で、藩庁は最初は五戸に置かれましたが、先発隊は5月に、雪解けを待った本隊は明治3年6月に、新潟から蒸気船に乗り1500名が大湊に上陸し、藩庁は田名部(むつ市)のこの地に置かれ、斗南ヶ丘と名付け市街を建設しました。

新政府の処置は後世言われる程過酷ではなく、この最果ての地に強制移住させた訳でなく、猪苗代と斗南の地と呈示し、会津藩が新天地開拓を選択したようです。

しかし下北と岩手北部に合わせて都合三万石の藩として成立しましたが、実質七千石にも満たない地に17,000人、4,300戸の藩士が大挙移住し、結果は悲惨でした。

野辺地から田名部までの道を走ると、日本中の風力発電の風車が集まっているかのごとく森の中に林立していますが、下北は海風が絶えず吹いて米作には全く適さないことは直ぐ解かります。

歴史小説家中村彰彦の会津藩公用方秋月悌次郎の儒者らしい高潔な生涯を描いた「落花は枝に還らずとも」の中で、斗南藩の名付けについて推測しています。

秋月悌次郎は薩会同盟を成し遂げた後、京都から北海道の会津藩領地である斜里の代官所に謎の左遷をさせらますが、失意の内に現地に赴任して5日目、オホーツクの空に輝く北斗七星を見て、「京から六百里の山河を隔ててまた仰ぐ七曜星がなおも光を注いでくれるのであれば、この秋月悌次郎もどこまでも悌次郎らしく歩んでゆかねばならぬ」と想いを込めて一気呵成に書いた詩の結びが「唐太以南皆帝州」でした。

斗南藩立藩に深く関与した広沢富次郎(広沢安任)は悌次郎と共に京都で公用方を務め、親しい間柄であり、広沢富次郎は悌次郎の「唐太以南皆帝州」の詩を当然知っており、新しいの藩の名付けに悌次郎の詩を引用し「北斗以南皆帝州」から名付けたと推測しています。

移住後直ぐに廃藩置県が行われ、斗南藩士たちも武士の身分は無くなり、他に移住したり、広沢安任のように牧畜を行ったり、軍人や教育者になったりしました。

会津藩末期の若き家老山川浩も余りにも貧しく、末の妹捨松を親族に養子に出しました。浩の弟山川健次郎は官費留学生として岩倉使節団に随行しアメリカに留学し、後に東京帝大総長になりました。山川家は一方11歳になった捨松を同じく女子だけのアメリカ留学生に応募させ、後津田塾女子大を創設した津田梅子らと共に、米国の女子高に留学しました。帰国後大山巌に望まれて夫人となり、その教養と語学力、洗練されたマナーで鹿鳴館の花となりました。

西南戦争にも旧会津藩士たちが、政府軍警視隊で多数加わりました。(田原坂12年3月)

田原坂

田原坂は戦略の要衝ですが、他にも道があるのになぜ田原坂で激戦が行われたかの理由は、この田原坂の道だけが砲隊を移動出来たからです。加藤清正もこの要衝に気づき、谷にわざと切り通し凹道をつくり防備に努めたと言われています。

熊本城を落とせず包囲していた薩軍は、政府軍が田原坂を越えて南下する戦況を見て、篠原、村田、桐野、別府がそれぞれ隊を率いて熊本を出発し高瀬奪還を目指し進撃しました。この時から約1か月間、3月20日に政府軍が田原坂を越えるまで、政府軍が1日当り32万発の弾薬を放ち、政府軍の死者2.400人を数える壮絶な戦いが田原坂で繰り広げられました。

      我は官軍我が敵は     天地入れざる朝敵ぞ
      敵の大将たるものは    古今無双の英雄で
      之に従う兵は       共に剽悍決死の士 
      鬼神に恥じぬ勇あるも   天の許さぬ反逆を
      起こせし者は昔より    栄えたためしあらざるぞ 
      敵の亡ぶるそれまでは   進めや進め諸共に
      玉ちる剣 抜き連れて   死ぬる覚悟で進むべし

この歌詞は明治15年に東京帝大教授外山正一が新体詩抄に発表した「抜刀隊の歌」です。外山は明治初期からアメリカに留学し南北戦争で発生した軍歌に興味を持ち、この「抜刀隊の歌」を発表しました。やがてこの詩をお雇いフランス人のシャルル・ルーに作曲を依頼し、明治18年発表されました。その後陸軍省により行進曲に編曲され陸軍分列行進曲として、今でも陸上自衛隊の観閲式の行進曲として使われています。有名な雨の神宮の学徒出陣式のニュースフィルムにはこの曲が残っています。

陸軍分列行進曲は軍艦マーチと共に世界に冠たる優れた行進曲となっています。

政府軍兵士は将校を除き士族が少なく、薩摩始め南九州の士族隊の白刀攻撃に悩まされていたので、政府軍はこれに対抗し、東京警視庁で士族で選抜された警視庁巡査抜刀隊900名を田原坂の戦線に投入しました。この警視隊には戊辰戦争を戦い抜いた佐川官兵衛はじめ旧会津藩士や旧奥羽列藩同盟の藩士たちが多数加わり薩軍と刃を交えました。(佐川官兵衛は阿蘇郡で戦死)

余談ですが西南戦争は西郷率いる薩摩軍だけでなく、南九州全体の旧藩士たちが参加し、政府軍が負ければ、明治新政府は転覆される危機でした。
戊辰戦争、各地の士族の乱、西南戦争と続いた一連の内戦は、その結果明治という近代を齎しましたが、鎌倉時代から綿々として続いた武士文化に代表される我が国固有の文化や風習が消えていくきっかけとなりました。

  







      

会津藩士の残像(熊本、19年11月)

熊本市に小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が、明治24年、嘉納治五郎に呼ばれて松江中学から旧制熊本五高の英語教授となり赴任した旧居が残されています。夏目漱石はハーンが移動後教授に就任しました。

旧居は昭和35年解体の危機にさらされましたが、熊本日日新聞社社長の呼びかけで五高の出身者に呼びかけ、昭和43年には市の有形文化財に指定され、旧居の一部を切り取り平成7年に解体復元されました。現在の旧居の位置は、市内の1等地にあり、熊本市や県がどれくらいハーンを大切にしているか良く判ります。

ハーンの旧居にはハーンの日本人に対する言葉が掲げられていました。
西洋と東洋が将来の競争において確かなことは、最も忍耐強く最も経済的で生活習慣の最も単純な者が勝ち残るだろうということである。コストの高い民族は結果的にことごとく消滅することになるだろう。自然は偉大な経済家である。自然は過ちを犯さない。生き残る最適者は自然と最高に共生できてわずかなものに満足できる者である。宇宙の法則とはこのようなものである。・・・

このハーンの旧居に五高の教授陣の写真があり、校長の嘉納治五郎の後ろ横にハーン(片目を失明しているため横向きが多い)と右後ろには髭の旧会津藩士秋月梯次郎が見えます。

秋月梯次郎は薩摩同盟締結後、その責任を取って旧会津藩公用方から北海道斜里の会津藩代官所に左遷させられ、かの地で斗南藩の名の元となった「北斗以南皆帝州」の詩を書き上げました。また若松城落城の際藩命を受けて降伏交渉を行い、戦後藩士から白い眼で見られました。


幕末から明治の動乱期に生きた旧会津藩士秋月梯次郎の儒者らしい古武士的で高潔な人格を、ラフカディオ・ハーンは神のような人と表現していました。ハーンから神のような人と表現された秋月梯次郎は旧会津藩が産んだ一人の典型的な人物だったのでしょう。

松本健一著「秋月梯次郎」に、昭和13年五高の学生寮習学寮の設立50周年に寮史が編纂され、そこに五高50年における代表的な教授が3人選びだされ、「三先生回顧録」が作られたとあります。「三先生」とは夏目漱石、ラフカディオ・ハーン、そして秋月梯次郎でした。

旧会津藩士について最後にもう一つ

上の画像は旧浦和市の中心街に位置する平安時代からの真言宗の名刹玉蔵院です。旧浦和村は調宮神社と玉蔵院の門前町として発展してきました。

ずっと昔、NHK大河ドラマで綾瀬はるか主演の「八重の桜」が放映されました。八重とは会津藩砲術師範の山本権八の三女で、砲術家の実兄山本覚馬と会津若松城の籠城戦で活躍しました。八重は、男装し当時世界最先端の騎兵向きに開発された小ぶりで連発式のスペンサー騎銃を扱い、狙撃に効果を挙げ、一説には新政府軍砲兵隊長大山巌を狙撃し負傷させたと言われています。
戊辰戦後、京都府顧問となっていた実兄山本覚馬を頼って上京し、兄の推薦により後の府立第1高女に就職し、兄の元に出入りしていた旧安中藩士で、幕末アメリカに密航しキリスト教を学んで帰国していた新島襄と結婚、2人で京都の既存宗教の保守勢力の圧力を跳ねて同志社英学校(後の同志社大学)を設立しました。

玉蔵院と旧会津藩士山本八重とどういう関係かというと、実は新島襄の母親の新島とみが、この近くにあった穀物問屋の娘でした。
30年ほど前図書館で「埼玉の女性たち」という本があり、読んでいたら、あの自由主義者の新島譲の母親が旧浦和宿の出身であることを知ったのです。その時、新島譲の自由な精神は、江戸時代天領で自治が認められてきた浦和宿の自由な空気を受けて育った新島とみが育んできた要素が強いのではと、密かに新島襄の秘密を知った感じを持ちました。

新島とみは14歳の時、江戸で武家奉公を始め、その後板倉藩家老家に腰元奉公した際、家老と親しくしていた江戸詰の安中藩士新島譲の祖父との縁で、新島襄の父親と結婚しました。町人の娘と武家との結婚は稀な時代、新島とみは、行儀作法や人柄など2人の老人の眼にかなった人だったのでしょう。或いは日本周辺が次第にあわただしくなり、激動する時代の予感を感じた2人の老人は、息子の嫁には武士の家系より何があっても自立する女子を求めたのかも知れません。新島とみは新島襄より長生きして、京都で陰で息子夫妻の活躍を助けたと言われています。
新島八重も、譲の死後日本赤十字社社員となり日清、日露戦争時の赤十字活動で活躍し皇族の女性以外初めて叙勲され、自立した女性のさきがけとなりました。

見沼田んぼの回廊の桜ウォークから、ついつい話が飛んでしまいました。桜ウォークが各地を訪ねた歴史紀行になってしまいましたが、掲載したそれぞれの地は会津藩をキーワードにして訪れた地でなく、それぞれ別な目的で訪れた地が会津藩をキーワードにして繋げて見たら、偶然繋がったに過ぎません。
歴史の地を訪れる楽しみは案外こんなことにあるのかも知れません。