瀬戸内紀行その3、江田島、呉

今回の旅の主要目的は、呉の大和ミュージアムとできれば江田島を訪れることと、大三島の大山祇神社とその宝物館、そして鞆の浦で、さらにできれば吉備を訪れることでした。大山祇神社と宝物館、そして吉備は、ずっと以前、息子から中々だよと聞いていたので長い間機会があったら訪れたいと想っていました。私の志向を知っている息子の「中々だよ」の表現は「とても良い」と同義語で、今まで外れはありません。


少し前に帰省した息子に、今回の旅行のプランを話し、ついでに私と違って軍事オタクでも全くない息子に大和ミュージアムについても聞いてみたら、それなりの所だよとの答えでしたので、益々行きたくなってしまいました。
実は、以前、大和ミュージアム刊の戦艦、巡洋艦、空母のシリーズ別の豪華本を図書館で借りて見ていましたが、どうしても手元に置いていたくなり、本の通販を始めたばかりのアマゾンから購入し、美しい写真をいつも眺めながら、気持ち的に大和ミューアムと近しい関係が続いていました。


また旧帝国海軍の書籍を見ると、呉、江田島、柱島、広島宇品などの地名が頻繁に出てきますが、埼玉育ちの私にとって広島近辺には土地勘が全くなく、広島と呉の距離も定かでなく、まして江田島や柱島の位置など想像がつきませんでした。
話題となったアニメ「この世界の片隅で」の舞台は呉と広島でしたが、時代背景は手に取るように分かるけれど、現地を見ていないため、もう一つ迫りくるものが足りませんでした。


広島の宇品港です。
宇品港には、陸軍運輸部の拠点が置かれ、戦前の陸軍のあらゆる海外出兵は、台湾出兵、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、上海事変、太平洋戦争まで、この宇品港から輸送船で出航しました。
父も、現役兵での台北一連隊の招集、昭和12年の第2次上海事変、そして昭和18年のビルマ戦線へと、この港に3度立ち輸送船で出航しました。
職業軍人でなく普通の市民であった父は、麻布連隊や本郷連隊で招集され、この港で日本の国土と別れを告げましたが、出航の際どんな気持ちだったのでしょうか? 84歳まで生きた父に、晩年聴くのを忘れてしまいました。

江田島は呉から遠回りして橋で繋がっています。江田島行の高速船ですが、乗客は私たちと単独行の若い人の単独行の3人だけです。約1時間に1本の定期運航ですから
大赤字になってしまうでしょう。ウクライナでのガソリン価格高騰に対する政府補助の上限が設定されましたが、自動車だけでなく多分漁船や舟の軽油まで適応したことは正解です。多分何もしなかったら運航停止にならざるを得ないでしょう。

途中に引き揚げ船の大規模検疫所が設けられていた似島を横に見て、一路江田島に向かいました。造船所が近づき江田島に着きました。
塩の流れとかいろいろありますが、黒潮が洗う太平洋に比べると、穏やかな湖のような瀬戸内の海を見ていると、我が国の歴史で瀬戸内海と琵琶湖が無かったら、相当歴史が変わっていたと想います。
なぜなら琵琶湖の存在は日本海沿岸と太平洋沿岸地域を繋げたし、瀬戸内の存在は堺が海外の貿易港になり、或いは蝦夷地の物産が容易に大阪に輸送されました。また瀬戸内の存在で西国での交通が容易になり、人々の往来も盛んに行われました。多分琵琶湖と瀬戸内がなかったら今日のように均一した文化は生じにくかったと想います。

ふるさと交流館です。江田島の海上自衛隊第1術科学校(旧海軍兵学校)の見学に、少し時間があるので交流館でコーヒーを飲みました。交流館の2階は旧海軍兵学校関連の展示があります。

この部屋には多くの人から寄贈された旧海軍兵学校の様々な写真が掲出されています。

この辺りの写真はかなり古く大正時代のものと思われます。上は装甲巡洋艦八雲です。写真はまだ石炭機関の時代の軍艦ばかりです。右下は卒業式後兵学校桟橋から内火艇で沖合に停泊する軍艦に乗り遠洋航海に出発する風景のようです。
兵学校の表桟橋から内火艇で出発するシーンが江田島名物でした。

海軍兵学校の有名な五省です。昭和7年時の校長によって制定され、今でも幹部候補生学校で夜の自習時間後、唱えられいます。
敗戦後米国海軍のウイリアム・マック中将が、この五省に感銘し翻訳しアナポリス海軍兵学校で教育に使用したと言われています。

意味は
至誠に悖(もと)るなかりしか(至誠に反することは無かったか)
言行に恥ずるなかりしか
気力に欠くるなかりしか
努力に憾(うら)みなかりしか(惜しみなく努力したか)
不精に亙(わた)るなかりしか(怠けることは無かったか)

この五省は皮肉にも、レイテ湾で謎の反転をした栗田中将の書です。
レイテ沖海戦は、マッカサーの米軍のフィリピン上陸に際し、なけなしの空母から編成した小沢中将の機動部隊が囮となって援護のハルゼーの強力な空母部隊をレイテ沖付近からおびき出し、その隙に栗田中将の大和を始めとした主力艦隊をレイテ湾に突入させ、上陸部隊を殲滅させる帝国海軍最後の乾坤一滴の作戦でした。
小沢艦隊はハルゼーの空母部隊を計画通りおびき寄せましたが、小沢艦隊の空母部隊は全滅してしまいました。この間空母部隊の援護の無いままに、狭いレイテ湾にひしめいていたマッカーサーの上陸部隊に栗田中将指揮の大和始め艦隊が迫り、大和から双眼鏡で米海軍の護衛空母から航空機が離陸するのを肉眼で確認する位置まで迫りましたが、敵空母接近中という謎の電報で、栗田中将はレイテ湾に突入することなく反転し帰国してしまいました。

戦後、レイテ謎の反転として多くの検証が行われましたが、本人は黙して語らず死去してしまいました。


旧海軍兵学校で働く下士官たちの休養所の海友舎跡です。

旧海軍兵学校は海軍士官を要請するための教育機関です。海軍士官の養成には船の航海、砲術、雷撃など主に兵科を学ぶための兵学校、機関を学ぶための機関学校、
総務経理を学ぶための経理学校の3つに分かれていました。江田島の学校は陸軍と異なり士官学校とは言わず兵学校と呼びました。帝国海軍がモデルにした英国もダートマス王立海軍兵学校、米国もアナポリス海軍兵学校と呼ばれ、世界3大海軍の士官養成所だったことから、世界の3大兵学校として尊敬を集めてきました。

旧帝国海軍の象徴だった江田島には現在海上自衛隊が引き継ぎ幹部候補生学校、第1術科学校が置かれています。
幹部候補生学校は防衛大学出身者と一般大学卒業者、防衛医大出身者、そして海上自衛隊から選抜された者が、海軍士官を目指し1年の教育を行っています。
第1術科学校は旧帝国海軍の兵科に当たる学校で、他の専門科の第2術科学校、第3術科学校と共に、専門の教育機関です。
幹部候補生教育が終わるとそれぞれ希望の術科学校に進みます。

現在江田島の海上自衛隊は、地図やPRでは、幹部候補生学校でなく、第1術科学校の名称で案内しています。

江田島は明治21年築地から江田島に移転し、当初は桟橋に係留した軍艦に寝泊まりして、陸上で教育を受けました。ですから裏側に当たる桟橋が表桟橋と呼ばれ、戦前は入校と卒業は桟橋から行われたと言われています。
戦前の海軍兵学校は旧制中学卒業後進学しましたから、4年制でしたが高校生と同じ、教育基本法では呼称は生徒です。今の自衛隊の士官養成の防衛大学、防衛医大は高校卒業が対象になっているため呼称は学生です。海軍兵学校では1号、2号、3号、4号生徒と呼ばれ、上級生にも○○生徒と呼びました。上図の学生館は生徒館と呼ばれていました。

第1術科学校(現在の施設の総称)では1日3回、1回1時間半を要して校内を案内してくれます。今回は11:30からの第1回案内に参加しました。
広島から市電、高速船、江田島路線バスを乗り継ぎやってきました。
売店や見学者のための待ち合わせ場所である江田島クラブです。

江田島クラブの前は第1術科学校庁舎です。

江田島クラブの1回にある売店と待ち合わせ場所です。各地の自衛隊施設には売店がありますが、この売店はかなり充実しています。

江田島を象徴する大講堂です。大正6年建築の戦前の石づくりの名建築の一つです。

こちらは正面です。中を案内していただきました。

正面奥は玉座です。壇の赤い絨毯からは卒業式での成績優秀者のみ上がることができます。玉座の上には知恵を表すフクロウが装着されています。

美しい意匠です。デザインは時代の背景と密接に関係すると言われていますが、大正期は美しい時代だったのでしょうか?

旧海軍兵学校の象徴だった赤レンガ館です。日清戦争の前年の明治26年海軍兵学校生徒館として建築されました。現在は幹部候補生学校庁舎です。

TVで建築の番組をみていたら赤レンガ建築はジョサイア・コンドルが設計した三菱1号館が明治27年でした。当時はロンドンも赤レンガ建築が流行っていたようで、丸の内は三菱2号館、3号館と赤レンガ建築が完成して、ミニロンドンの呈を成していたそうです。江田島の赤レンガ館は19世紀のヴィクトリア時代の流行様式を取り入れたようです。
帝国海軍が大英帝国海軍を学ぼうと必死になっていた時期の建造物でした。

英国製レンガを1枚1枚紙に包んで輸入したと言われています。

帝国海軍が大英帝国海軍から学んだ基本的な思想は2つあり、1つは見敵必戦、もう一つは指揮官先頭の原則だと言われています。
海の戦いは物理的な要素で勝敗が決定すると言われています。大艦は小艦に必ず勝ちますし、口径の大きい大砲の艦は小口径の艦に必ず勝つと言われています。しかし英国海軍の見敵必戦の思想は、敵を発見したら物理的に不利な場合でも、ひるむことなく戦いを挑みそこに勝機を見出すことで帆船時代の海戦から培われていた思想です。

指揮官先頭の原則は、帆船時代の英国艦隊は旗艦を先頭に単縦陣で航行し、後続艦は旗艦の後に弾雨の中でもひるまず続き、敵艦隊に次々と集中射撃を行って粉砕して来た戦法です。それまでの艦隊行動は横に5、6列に広がった横陣の体系が普通で、旗艦は先頭出なく中頃に位置しました。

日清、日露戦争では帝国海軍は、横陣の敵艦隊に向けて、旗艦を先頭にした一糸乱ぬ単縦陣の艦隊行動で大勝利を収めました。

戦史を読むと見敵必戦の思想を最も忠実に行ったのは米国海軍で、それに比べると栗田艦隊のレイテ湾突入のように、マッカ-サーの上陸軍を壊滅できたのに謎の反転を行い帰国してしまいました。このレイテ沖海戦で帝国海軍の西村艦隊の戦艦部隊が壊滅したのは、米国海軍の魚雷艇隊の勇敢な夜間攻撃でした。ケネディ大統領も太平洋戦争時、海軍中尉で魚雷艇の艇長の時、日本の駆逐艦に体当たりを行いました。

帝国海軍は兵と下士官、若手の将校は勇敢でしたが、将官には無能が多かったと米国海軍は評価しています。兵学校卒だけの狭い官僚組織が肥大化し、保身が優先した結果が先の大戦でした。海上自衛隊は幹部候補生学校の学生は防大卒だけでなく、米国海軍と同じように一般の大学卒者と海上自衛隊選抜者と混成にしたのは、旧軍の反省があったのだと想います。

昭和11年建築の教育参考館です。戦前約4万点の海軍関係の歴史資料が保存されていましたが、終戦時、一部を厳島神社と大山祇神社に奉納した以外は、全て焼却してしまいました。現在は返却された資料や奉納された資料のうち約1000点を展示しています。

広瀬中佐や佐久間艇長の遺書、各県出身の特攻隊の遺書など圧巻です。

開戦時真珠湾に突入した特殊潜航艇(甲標的)、海龍の展示です。

大和の46センチ主砲の砲弾です。最大射程は東京から沼津まで飛びます。

第1術科学校学生館(旧海軍兵学校西生徒館)です。この桜は何年前からあるのでしょうか。

旧帝国海軍の第2艦隊司令長官伊藤整一中将父子桜です。

大和の沖縄特攻で大和以下最後の水雷戦隊を率いた第2艦隊司令長官伊藤整一中将は、米国に駐在し、開戦直前軍令部次長に就任、スマートで温厚で家族思いの穏やかな性格で人望がありました。大和が特攻出撃後、宇垣纏第5艦隊司令長官は護衛戦闘機隊を出撃させましたが、その中に伊藤整一長官の長男叡中尉のゼロ戦も含まれていました。父親は海兵39期、長男は海兵72期でその後特攻で戦死してしまいました。
昭和20年4月7日の大和沈没によって、旧帝国海軍の組織的な艦隊行動は終焉しました。

東京杉並の長官の自宅は空襲で焼けましたが桜は残り根から新しい芽が育ち2本並んで花を咲かせ、父子桜と呼ばれるようになりました。この話を知った長官の出身地の福岡県みやま市の住民たちが、遺族から新しい枝を譲り受け、挿し木で苗に仕上げてここ旧科軍兵学校の庭に校長と共に植えました。

江田島の名物は卒業式の後、卒業生の1号生徒たちが、表桟橋から沖に停泊している遠洋航海の練習巡洋艦に乗り込むために内火艇で出発する際、在校生たちが、見送るシーンです。今も幹部候補生学校では、卒業生たちはこの桟橋から出発します。

この表桟橋も見学したかったのですが、訓練の邪魔になるので、見学者の近寄りは禁止されています。

私は中学1年の時から本格的な軍事オタクになりました。きっかけは小学校3年の時、大映映画、戦艦大和を見た時からでした。
父は長い間の出征で戦争の事は語ろうとしなかったし、日本にあのような巨大な戦艦があったことなど知らなかったのです。この映画は子供心に余りにも衝撃的で、1か月かけて紙芝居を作り担任の先生の許可を得て、授業中に上演しました。担任は中年の女性の先生でしたがよく許可してくれました。

また小学校高学年の時は朝鮮戦争たけなわで映画ニュースでも、戦争のニュースが多い時代でした。また当時北氷用で日本の漁船がソ連船に拿捕されるニュースが連日のように報じられて、子供心に胸を痛めていました。ちょうどその頃いとこから戦時中の少年雑誌を纏めて貰い、ほとんど学校で教わることが無い内容のため、むさぼるように読みました。その中で北氷用には帝国海軍の海防艦が遊弋していてソ連船は影を潜めていたことを知りました。

高校に入学してから、菊村到原作映画「ああ江田島」が上演されました。この映画は海軍兵学校を描いた映画で最初のものだったと想います。クラスメイトと2人で見に行きましたが、興奮する位感動しました。主演は記憶にありませんが本郷功次郎のデビュー作で小暮生徒の名で登場し、最後は回天に登場し特攻に行きました。教官には菅原謙次、その妹には二木多鶴子を覚えています。この映画で五省を始めとした兵学校に憧れました。才能がなく辞めて登山に転向しましたが、夏休み明けにボート部に入ったこともこの映画の影響でした。

中学校は義務教育で自由でしたが、学校生活に型の存在を感じることはありませんでした。高校は旧制浦和中学から引き継いだ学校で、校舎も机も旧制中学時代のものをそのまま使用したし、校風は極めて自由でしたが、旧制中学から引き継いだ型の取得を前提としていました。先生方も旧制中学からの継続している先生も多く、特に体育の先生の教育は旧制中学そのものでした。
進学校のため体育は遊びと想って気楽に入学したら、最初の授業から上半身は裸で、高等学校体操と行進の練習を徹底的に仕込まれました。球技は冬のサッカーとラクビーだけで、行進、高等学校体操、倒立、空中展開、マラソン、鉄棒、水泳、剣道、柔道など身体を強健にする型を重視した教育でした。
型の全く無い義務教育の中学から、型を基本とした高校に馴染むにつれて、型の魅力に惹かれるようになりました。一年生の新入生歓迎マラソンから、夏休み前の臨海学校、そして秋の体育祭と50㌔の競歩大会まで旧制中学以来の伝統的な型を徹底的に仕込まれました。
学校は生徒の自主性を重んじ、授業以外、行事、クラブ活動は徹底した自治で行われ、先生方は皆3時の就業時間を終えると帰宅してしまい、クラブ活動も含めて校内は生徒だけになりました。また進学校でありながら補習授業は一切なく、生徒を信用しそれぞれの個性を尊重してくれましたました。
クラスメイトと一緒に出会った映画「ああ江田島」は、まだ1学期の時で、母校の旧制中学からの伝統を型として学ぶ新鮮な時期だったのです。


数年前この映画をもう一度見たくて品ぞろえの良いビデオ屋で見つけ何十年ぶりで堪能しました。
その後クラス会で当時一緒に見たクラスメイトにビデオの件を話したら、彼も60年以上前に見たこの映画の内容を克明に覚えていました。

赤レンガ館の背後に聳える古鷹山です。海兵時代からこの山に鍛錬に登っており、今でも幹部候補生学校では日常的に登り、ピークで同期の桜をがなり立てるそうです。
海上自衛隊の将校になる人間は、今でも旧帝国海軍の伝統が叩き込まれています。

校庭で幹部候補生たちが教練していましたが、訓練の写真は禁止されています。

1時間半の見学ですが、瞬く間に時間が経ってしまいました。見学者は少数かと想いましたが結構人気があり20人ほどでした。近年は国防に関心があるのでしょう。数年前、長崎港で海上保安庁の巡視船の見学は、尖閣諸島の問題があるせいか、長蛇の列でした。
見学者の大半は呉から遠回りして車で来ていますが、少数の人はフェリーで呉に向かいます。

呉へ

呉に向かう高速船の乗客も少数でした。呉港は近く直ぐ着きます。

海上自衛隊呉基地です。戦前呉軍港は旧帝国海軍の最大の軍港で、連合艦隊の主力艦は呉軍港が手狭のため近くの柱島泊地に停泊していました。

現在の海上自衛隊は大湊、横須賀、舞鶴、佐世保、呉と5つの地方総監部が置かれ、総司令部は横須賀で、艦隊の比重は米海軍第7艦隊の基地である横須賀、佐世保であり、呉のウエイトは少ないようです。

横須賀、佐世保に基地を置く米国第7艦隊と岩国と沖縄に基地を置く海兵隊は、それぞれ米国以外の海外では最大の陣容です。特に第7艦隊は米国海軍最強の艦隊です。なぜ米国海軍と海兵隊が最大の基地を日本に置くか、その理由は、海洋国家米国は、太平洋戦争で米国海軍も海兵隊も死力を尽くして帝国海軍と戦ってきたからです。

西部劇や騎兵隊の映画で強い敵ほどリスペクトするのが米国人や英国人で、逆に敵に回したら手ごわい相手だからこそ、日本に基地を置きたがります。
よく我が国に米軍基地があるから米国に従属しているという人がいますが、軍事をまとまって勉強したら直ぐ分かることで、米国は、我が国を従属させる気はなく、敵にすると怖い国のため、いつも味方にしておきたい、パートナーでありたいと願っているのです。


またイラク戦争では、空爆で1か月間時間をつぶしながら、1か月間かけて、戦後ワルシャワ条約軍のソ連に対抗し、西独でNATO主力として、ソ連戦を研究して来た米国陸軍の最強の機甲部隊を中心とした第7軍団を移動しイラク正面に展開しました。イラク陸軍はソ連の軍事顧問団の基、ソ連製戦車で構成されていたため、様々な軍事評論家が、イラク侵攻には最低1か月かかると予想しましたが、米国第7軍団はイラク軍殲滅を3日間で行いました。
米国陸軍は最強の軍団をヨーロパ戦線で死力を尽くして戦ったドイツに駐留しているのです。米国陸軍は、英国とは血を分けた兄弟ですが、フランスとはともかく、ドイツとは永遠にパートナーとしていたいのです。


ウクライナ戦争でもNATO軍の主力はドイツ製レオパルド戦車です。ポーランドは第2次大戦でドイツ、ソ連双方に不信感を持っており、レオパルド戦車をウクライナに供与する代わりに韓国製戦車を発注しています。

各国は未だ第2次大戦の記憶を引きずっています。


呉海軍工廠の跡は現在ジャパン・マリン・ユナイテッドの造船所が稼働しています。
ジャパン・マリン・ユナイテッドは住友重機械の艦艇部門と石川島播磨の造船部門、それに日立造船と日本鋼管の造船部門が大同団結して成立した日本最大の造船企業です。

呉の街は平地が少ないので山裾に住宅が拡がっています。この世界の片隅でも丘のうえの住宅から、呉軍港の爆撃を目撃したのでしょう。
海上保安庁の基地もあります。

古い軍港の時代からの遺物なのでしょうか。歴史を感じます。

呉海軍工廠では潜水艦を多数建造しましたが、大型艦では戦艦大和、長門、空母では赤城、蒼龍、重巡では那智、最上、愛宕など他に数え切れないくらいの艦を建造しました。

呉地方総監部正面です。この敷地に帝国海軍呉鎮守府の建物が現存しています。

米軍の呉軍港への爆撃

昭和20年3月17日、米海軍機動部隊艦載機の攻撃を受ける呉海軍工廠と呉軍港。

左側がありますがA4コピーのためコピーがとれず割愛します。割愛した部分は呉軍港です。上の島は倉橋島で、遠くに柱島が見えます。画像の白い点は高射砲の弾幕です。

この後呉軍港は2回爆撃を受けました。

毎日新聞社昭和45年刊「日本の戦歴」より

昭和20年7月27日、2度目の呉軍港空爆。江田島で被ばくする重巡利根、この時重油は1滴もなく被弾航行すらも出来ませんでした。

右は昭和20年3月17日、軍港内で爆撃を受けて苦闘する戦艦榛名。マリアナ以来の勇者も敵機のもとではほどこすすべもありませんでした。

昭和20年、呉軍港内で横転した空母天城、最後の正規空母でしたが、戦うことなく空爆で沈没しました。

戦艦伊勢、後甲板を滑走路に変え航空戦艦となりました。呉港外で着底したまま終戦を迎えました。20年4月大和以下第2水雷戦隊は沖縄までの片道の燃料を積んで、最後の艦隊作戦を行いました。以後連合艦隊には重油が一滴もなく、米海軍空母部隊からの艦載機によって、ことごとく沈没してしまいました。

世界の海軍史上で、帝国海軍ほど完璧に壊滅した海軍はありません。米国海軍は日本本土上陸作戦において最大の障害となる軍艦を、機動部隊の艦載機で執拗に攻撃し壊滅させたのです。九州や呉周辺の執拗な艦載機の攻撃は、九州上陸作戦後東上するための、詳細な偵察行動の意味もあったのかも知れません。
関東では上陸予定地の相模湾、九十九里海岸も執拗な艦載機の攻撃を受けました。


呉軍港は華やかな帝国海軍の泊地でありながら、最後の墓標となりました。

大和ミュージアム刊「戦艦、巡洋戦艦写真集」より、大和の写真は何枚も残っていませんが、この画像は中学生の時に購入した福井静雄著「日本の軍艦」に掲載されていた公試運転の大和の画像で、昔から私が一番好きな大和の写真です。最大戦速27ノットで疾走する姿は極めて美しいです。

株エストセラーズ「日本の軍艦」より  福井静雄造船中佐撮影の呉海軍工廠での貴重な艤装工事の画像です。人家から見えないように巨大な壁が作られました。

呉桟橋前にある呉市営大和ミュージアムです。航空便を予約してから、大和ミュージアムを予定していた日が定休日と知り、落ち込みました。

こちら通称クジラ館、海上自衛隊史料館も同じく定休日でした。ふんだりけったりです。呉の街はこの2箇所以外は塀に囲まれた海上自衛隊の施設ばかりで観光向きではありません。バスも良く判らず、あまり観光向きの街ではないように感じました。

鉄道で早々と広島に向かいます。