初めての出雲大社紀行

昨年11月中旬に行った山陰旅行でしたが、山陰は産まれて初めて訪れた地でした。
今まで四国の愛媛と高知を除いて北海道から九州、四国までほぼ全国の県は訪れましたが、山陰地方は城崎までで、そこから先は行ったことはありませんでした。しかし山陰と言っても鳥取県の大半は抜けてしまいましたが。

日本全国が均一化しているとは言え、各地は首都圏と比べると気候、風土が異なります。
また家並みも主要都市の中心部では変わらないものの、都市を少し離れると大きく変化します。均一化されているのはチエーン店の小売業と車とガソリンスタンドだけで、駅舎も列車も田畑の中に点在する農家も里山の風景もそれぞれ少しずつ異なっています。
昔から人々は風景の違いと食べ物と地酒を求めて旅して来たのでしょう。

今まで主要な神社には訪れましたが、出雲大社には訪れる機会がありませんでした。出雲は個人旅行では企画と予約が面倒なため、ツアー旅行を探していましたが、大半のツアーはコースが好みでないため見送ってきました。
しかし今回出雲から石見銀山、萩・津和野の山陰を通しで回るツアーを見つけました。旅行者のツアーコンダクター曰く、このコースは初めての企画だそうです。

朝、羽田を発ち米子空港に着き、松江のローカル鉄道一畑電鉄の観光バスで一路出雲大社に向かいました。
バスは山陰自動車道を走り斐伊川を渡ると、いよいよ出雲に来たなと感じます。各地を旅した際、車窓から一瞬ですが大河を眺めることが楽しみなのです。全ての大河はその土地の歴史を作って来たからです。


TVの出雲大社の旅番組全てでこの斐伊川を語った番組を見た記憶はありませんが、この斐伊川こそ出雲の歴史を刻んだ母なる川なのです。
出雲神話は天照大神の弟スサノオ(素戔嗚)高天原からの降臨から始まり、その数代下の大国主神の物語が展開されます。そして天照大神に国譲りの際、大国主神の願いで出雲大社が建立されました。

神話ではスサノオは、高天原で乱暴狼藉を働いたため天照大神を天岩戸に隠れさせた騒動で、神々から高天原を追われてしまい、この斐伊川の上流の鳥髪に降り立ちました。
この時川に箸が流れて来たので上流に人がいると思い、更に川を遡りましたが、そこで娘を間にして老夫婦が泣いている姿に出会ったのです。不思議に思ったスサノオはその理由を尋ねると、老夫婦曰く、毎年山から高志の八岐大蛇(ヤマタノオロチ)がやってきて娘を食べてしまい、今年も娘を食べにやってくるのだと言います。

それを聞いたスサノオは、八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を退治しようと決め、娘を櫛に変えて自分の髪に刺し、老夫婦には強い酒を入れた桶を8個用意させ屋敷の周りに置きました。
そうして準備した後、八岐大蛇はやってきて酒を飲んで酔っ払い眠ってしまいました。それを待っていたスサノオは八岐大蛇を剣で退治しましたが、その尾から後の三種の神器の一つ、草薙の刀が出てきたため、後に天照大神に献上しました。

そうしてスサノオは助けた娘のクシナダヒメ(奇稲田姫)と結婚し出雲の須賀の地に宮を築きました。
記・紀や出雲風土記では、この後、大国主命の物語が延々と続きます。

出雲大社の神楽殿

神話は伝承を物語に整えまとめたものですが、伝承は全てが歴史の真実かと言うとそうでもなく、しかし物語全体が、全くの架空であるとも言えません。

神話で語られる現実にありえそうもない空想物語部分を、当時の想像上の現実世界に置き換えて見ると、その基本は歴史物語であると思えてきます。

世界の国々において、古代神話を持つ国は少なく、信じるか信じないかは別として、古代我が国が豊穣な神話を持っていたことに幸せを感じます。

英雄好きなヨーロッパにはワーグナーの壮大な楽劇「ニューベルンゲンの指輪」の基となったジ-グフリートの北欧神話や、ホメロスの「イリアスとオディセイア」の叙事詩があります。「ニューベルンゲンの指輪」は「指輪物語」となって様々映画などに活用されて、世界中の人々に楽しまれています。
「イリアスとオディセイア」は19世紀ドイツ人シュリーマンが実際に、イリアスの舞台となったトロイの遺跡を発掘して神話でなく歴史であることを証明しました。イリアスはトロイの木馬やトロイで度々映画化され、欧米人たちはアキレスやヘクトル、ヘレンなどを自分たちの祖先のごとく扱っています。
余談ですが英国海軍は主力巡洋艦にアキレスやアガメムノンの名を命名するぐらい古代の英雄に想いを馳せていました。


同じように出雲には壮大な叙事詩のごとく神話があり、しかも神話が事実であることを証明する巨大な神殿の柱が発見され、また昭和59年には荒神谷に埋められた358本もの銅剣が発見され、埋められた理由は明らかではないものの、出雲王朝が大和王朝に降伏して国譲りを行った事実を彷彿される遺跡にも事欠きません。

門脇禎二著「日本海域の古代史より」


私が出雲神話で俄然興味を抱いたのは八岐大蛇が、高志の八岐大蛇とされていることでした。
高志とは古代地名の越の国で現在の福井、富山のことです。古代、越の国には糸魚川に流れ込む姫川の我が国最大の翡翠の産地を持っていました。

翡翠は縄文時代から珍重され、奈良時代以前は当時最高の宝物でした。金銀より玉(ぎょく)を貴ぶ玉文化の中国でも翡翠は最高の玉として珍重されてきました。
弥生時代の我が国は、水田耕作も早くから行われ大陸や半島と近い海人族の日本海沿岸が先進地域であり、多くの国々が誕生していたと想像します。

越の国は翡翠で富を蓄えその力で近隣諸国を支配していたのでしょう。越から遠い出雲も支配し、越人たちは出雲人を使って奥出雲山地の鳥髪山で崖を崩し沢に流し砂鉄を採取し鉄を作っていたのでしょう。砂鉄を採取した後の土砂を含んだ沢は8本の川となって出雲平野に流れ込み、それらが堆積して水田を埋めたため、出雲の平野の人々は稲作が出来ないで困っていました。

八岐大蛇は砂鉄を採取する8本の川で、スサノオと結婚した奇稲田姫は出雲平野の稲作民の長者の娘と解釈すると、神話が歴史物語に変わってきます。

記紀では素戔嗚は新羅に天孫したと記していますが、新羅が出来たのはずっと後代のため、半島の東側に住む渡海して海人族が、地味豊かな出雲に上陸してきたのでしょうか。半島の東の後の新羅は日本海沿岸と近く、出雲や越や能登とは同じ海人族で交流があったのかも知れません。

我が国で北九州で稲作が始まったのは紀元前10世紀頃と言われていますが、素戔嗚の物語は年代は想像がつきませんが、越が砂鉄で製鉄を行っていたとすると、弥生時代初期の出来事と想像しますが、古代史をマニアックに探究しているわけでないので、出雲神話を歴史に置き換えて楽しんでいるだけの話です。

お腹が空いてきたのでせっかく出雲に来たのだから出雲蕎麦を味わおうと想いましたが、参道の商店街まで行く時間がないため、駐車場の近くの蕎麦屋さんを探しました。近くに蕎麦屋さんが3軒並んでいましたが、内2軒はおいしそうな店構えで、多くの人が並んでいました。仕方がないので誰も並んでいない大衆食堂風の手前の店で10割蕎麦を注文しましたが、これが絶品でした。

今までおいしい蕎麦は、同期の皆と食べた越前大野がNO1と思っていましたが、出雲蕎麦には驚きました。つゆの出しが抜群で、恐らく宍道湖のシジミや小魚などの出しを使った代々秘伝のつゆなのでしょうか。

実はそれまでシジミには全く興味が無かった私が、シジミ好きになった旅の出来事がありました。

津軽十三湊(とさみなと)のシジミ

津軽十三湊は、津軽の母なる川岩木川の河口の潟で、中世に津軽、道南を勢力においた安東水軍の根拠地でもあり日本海沿岸の最大の港でした。

北海道の物産はこの十三湊を経て、本州内陸や日本海沿岸を辿って瀬戸内まで運ばれました。しかし地震などにより地形が変わり潟の港は砂によって閉じられて、潟は湖となって港は消滅し、安東氏は北海道松前と秋田に分かれ移住したため、十三湊の城下町は砂に埋もれ廃墟になり幻の中世都市になってしまいました。

十三湊は宍道湖に匹敵するシジミの産地です。

しかし津軽半島の先端地区に位置するため、わざわざ観光として訪れる人も少なく、観光上の秘境です。

秋田から五能線の風景を楽しみ、十三湊に行くために五所河原の数少ないホテルに宿をとり、レンタカーを借りて途中亀ヶ岡の縄文遺跡を見て、何もない原野の道を一路十三湊を目指しました。途中稲荷社に寄り十三湊にようやく到着し、十三湊の橋を渡って中島にある資料館を見学し車に戻りました。
もうすでに昼はかなり過ぎていましたが、途中食事する場所も無く、十三湊の端に1軒だけある食堂を見つけました。2時間以上周りに食堂がないため、店内はビジネス客が多く入っていました。

私は、お腹の調子が悪く下痢気味で資料館のトイレにも入りましたが、この食堂の推しであるシジミラーメンを注文してからトイレに行きましたが、下痢気味なのにラーメンは食べる気はしなかったのですが、朝出てから出会った食堂はここだけで、帰りは金木まで多分食堂はないと考えられたため注文したのです。

トイレから出て見ると既にラーメンはテーブルに来ていました。シジミの身が入ったラーメンは面も汁も味が抜群で、そのおいしさをすっかり堪能しました。

食堂を出て再び車を走ららせていたら、家内からお腹の具合はどうなの?と問いかけられ、その時まですっかり下痢していたことを忘れていました。

以来、私はシジミのファンになり家でも時々シジミの味噌汁を楽しんでいます。この旅ではシジミの加工品をお土産にいくつか買いました。

出雲大社のシンボル、銅製の鳥居です。多くの参拝客で込み合っています。

拝殿の出雲大社独特のしめ縄です。しめ縄は最初の画像の神楽殿のものが一番大きく、全長13,6m、重量5,2トンあるそうです。しめ縄は島根県の飯南町で作られ、数年ごとにかけ替えられるそうです。

巨大なしめ縄です。最初にデザインした人は凄いです。

出雲大社の祭神、大国主大神は大穴牟遅神(オオナムチノカミ)、八千矛神(ヤチホコノカミ)大国主命(オオクニヌシミノコト)大物主命(オオモノヌシミノコト)大国魂神、大国主大神など多くの別名を持っています。

また出雲大社は中世杵築大社とも呼ばれ、大国主命が天照大神に国譲りの条件として壮大な神殿を建てたと言われています。

大国主命の別名、大物主命は三輪山の祭神であり出雲王朝が大和王朝の前に、ヤマトの地に王朝を開いていたことを意味しますが、どうもそんな単純なことでもないようです。
また大国主命の子は建御名方神(タケミナカタノカミ)と事代主神(コトシロヌシノカミ)と阿知須岐詑彦根神(アジスキタカヒコネノカミ)ですが、大国主命が国譲りの際、事代主神は同意しましたが、建御名方神は反対し、天照大神が派遣した建御雷神(タケミカズチ)と力比べを行って敗れ諏訪に逃れました。

昨年末に奈良葛城の古社を訪ねました。葛城地方は葛城・鴨氏の故郷ですが、弥生時代、金剛山麓に定住した鴨氏発祥の神社上鴨社の祭神は、古事記で大国主命の子とされている阿知須岐詑彦根神であり、鴨族が平野に降って水稲耕作を始めた地、下鴨社の祭神は同じく大国主命の子、事代主神(コトシロヌシノカミ)でした。

大和王朝の前に葛城王朝が存在したという説がありますが、古事記では葛城・鴨氏は単なる出雲王朝の子孫の位置づけで、葛城王朝の存在を感じさせる記述は微塵もありません。古事記の作者の意図もありそうなので、古代史の解釈をより複雑にしています。この辺りが神話から歴史を読み解く限界があるのでしょう。

本殿の階段の上から拝殿を振り返ります。出雲大社は神社にしては何もかも巨大です。

しかし伊勢神宮に並ぶほど人気の出雲大社は、不思議なことに出雲の国一宮ではないのです。島根県東部の熊野大社が一宮なのです。

地面にピンクの丸い輪の石がいくつか埋め込まれているのが見えます。これが旧本殿の柱跡です。この3本纏めて計3mの柱が9本林立し本殿を支えていたのです。

十九社と呼ばれる十九のスペースを刻んだ御社が東西2カ所あります。
ここは東十九社です。暦では旧暦10月は神無月ですが、出雲だけはこの時期、神有月と呼ばれています。この神有月には日本全国の神々が出雲に参集して逗留するので、全国は神が留守になる神無月と言われます。
この東十九社は神有月に参集した全国の神々の逗留所です。
こういう実際にあったような歴史的事実を秘めた物語も出雲の神秘性を高めています。

年1回、各地の神々が出雲に参集した言い伝えは、徳川幕府の参勤交代のしくみもこれらを応用したのでないかとふと想いました。
1昨年奈良の山辺の道で、未だ2%しか発掘していない巨大都市遺跡の纏向遺跡の説明パネルで、この遺跡から各地の土器が発見され、ここが崇神天皇が開設した大和王朝の最初の首都ではないかと記してあるのを読みました。
その時、当時から各地の長が都に参集するしくみがあったのかと驚きました。これを想うと神話は全て架空のものとは言い切れないと感じました。

出雲をツアーで訪れた人たちは、画像のように出雲のガイドさんの説明を真剣に聴いています。
人々は神社の長い参道を歩き(今回はバスの駐車場から横に入ったため参道は割愛しました)鳥居をくぐると同時に神様の霊威を肌に受けて、心は物語を受け入れてしまいます。
キリスト教会の建物も東の位置にある祭壇までの奥行きが深いことと共通しています。オリエンテ-ションという言葉は、祭壇に導くことから生まれた言葉です。
こうして神様を感じながら邪念なく心を受け入れることによって、心が清涼になり心の初期化が行われます。一度邪念を取り払い清涼になった身は、すっきりとしてさわやかになるのです。


巨大な本殿は塀とさまざまな社に囲まれて外から見えません。この千木が空に向かって林立している風景は、いかにも出雲大社だなと思います。

出雲大社の背後の八雲山を背にした素戔嗚社です。
小さな入り口の社を片側に寄せた典型的な大社造りの神社です。本殿を参拝した人たちが、この小さい素戔嗚社をお参りするので、50mほどの列を作りますが、参拝を終えた人たちは直ぐに引き返すわけでなく社の周りの空間をしきりに観察しています。
おそらく去りがたいのでしょう。関東では素戔嗚神は誰も意識しませんが、ここ出雲にくるととても人気があります。

素戔嗚が奇稲田姫を助けるために八岐大蛇と戦い、そして姫と一緒になり豊葦原の中つ国を共につくり、子孫の大国主命に繋げたという強くやさしく、しかも愛妻家として理想のイメージが女性たちを引き付けるのでしょうか。

八岐大蛇を退治した素戔嗚は出雲の須賀の地に家を建てましたがその地から雲が立ち上がったため和歌を詠みました。

八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を

我が国最初の和歌となった歌ですが、幾重にも垣根で囲まれた家に、また雲が立って家を隠している。その隠れ家の中で妻と一緒に楽しく暮らそうという意味で、八雲立つは出雲の枕詞になりました。

神話や物語の出雲を愛したラフカディオ・ハーン、和名小泉八雲はこの歌から名を採りました。アイリッシュのハーンは出雲の地が、物語好きな故郷アイルランドと似ていたことに親近感を憶えたのでしょう。

ハーンは松江から転じて熊本の五高の教授となりましたが、彼の熊本での住居跡の記念館を訪れたことがあります。
そこでハーンの書簡や文に接しましたが、彼は効率優先の西欧文明に侵されていく古い日本の文化に深い哀惜を持って警鐘を鳴らしていました。

熊本と言えば先日、熊本在住の異色の思想家渡辺京二氏が亡くなりました。
氏の著作「逝きし世の面影」は幕末から明治初期にかけて来日した外国人の眼で見た日本を、氏独特なジャンルに分類し現在との対比を行い、近代化によって世界的にも美しくも儚いひとつの文明が滅んだことを、哀惜を持って論じた著作です。
氏は中央の華やかな論壇に出てくることも無く、あまり知られてはいませんでしたが、氏の死を報じた新聞の記事を読むと、隠れたフアンが大勢いることが分りました。


出雲大社の空に林立している巨大な千木を見ていると、八雲立つの歌や、かっての巨大高層神殿を想うと、出雲大社は空を意識している神様だなと感じながら、その意味を解く鍵も持ち合わせていないため、急に八雲立つ出雲の歌から小泉八雲を想い出し幕末から明治の過ぎ去った出雲の国を想像しながら散策しました。

現代の私たちは、古代に遡り想像することは情報の幅に限度があり中々難しいのですが、19世紀ぐらいまでの社会なら、既に近代が始まっている時代のため想像しやすいのです。旅に出てふと古代から19世紀の小泉八雲に想いを馳せる、これも旅の醍醐味の一つです。



短い旅から戻るとTVやPCや新聞からの情報洪水の只中に戻ります。TVではニュース番組が拡大しバラエティ化し、芸人たちや、芸人化したジャーナリストのコメンテーターたちが論陣を張り、人々自ら考え無くさせています。情報メディアでも、新聞は事実プラス最低限のコメントを寄せて読者に考える余地を与えてくれますが、TVは映像と言葉で直に脳に迫ってきます。

帰宅して、再び情報の洪水の中に身を置くと、悠久の歴史を刻む出雲を想い出し、現実に受けている情報と私が出雲で感じて来た時間軸での情報のギャップに気が付きます。そうして毎日洪水のごとく浴びせられる情報が、人間社会の全てでないことに直ぐ気が付きます。

コロナ以前に、毎年夏5年間にわたって北アルプスの鏡平を起点に、笠ヶ岳や黒部五郎岳など長期縦走を行いましたが、下山後、いつも平湯のバス停に大勢の西欧人がバスを待っている風景に出会いました。

彼らに聞くとハイカーたちはロングトレイルの木曽街道を歩きに来たと話していました。おそらく贄川から始まる木曽十一宿を鳥居峠を越えて御嶽を遥拝しながら馬籠まで歩くのでしょう。彼らは若い人は少なく中年以降の人々で、国籍はオランダ、ドイツ、フランスなどさまざまでした。



ヨーロッパにも木曽よりもっと素晴らしいロングトレイルがあるのに、彼らがはるばる木曽にやって来たのは、彼らはヨーロッパのトレイルを歩いた上で、日本の主要街道の一つの木曽道の数え切れない人々が辿った歴史を感じるためにはるばるやって来たのでしょう。
彼らは現代社会に生きる上で、あえて景色の美しいだけのトレイルではなく、江戸の昔、殿様や侍、或いは町人たちが越えた本物の街道の歴史を感じながら歩こうと意図し来たのだと思います。
日本の主要街道は自動車道路に変貌してしまい、部分的には可能なものの、唯一木曽の中山道の旧道だけが歴史を体験しながら通しで歩けるロングトレイルなのです。

山岳には人の営みの歴史はないため、山道をたどることは人と自然との直接のかかわりを意識し、人間本来の原始の姿を感じながら五感を開放せざるを得ない喜びがありますが。
一方山の街道トレイルには人の歴史が濃厚に込められており、それにプラスして自然も降りかかります。街道を宿泊しながら歩く人々は現代文明から離れて一時代前の文明に生きた人々の営みを感じながら、自己の五感を開放します。

木曽のロングトレイルを歩くヨーロッパの人々は、過剰な情報に包み込まれ効率優先の近代文明から、一時離れ古道の歴史を感じながら自己解放をおこなっているのでしょう。

私の2代下の山仲間は金融ビジネスの定年後、2回別なルートで1回約30日かけてスペインの巡礼路サンティァゴ・デ・コンポステーラを歩いています。彼は四国巡礼路や伊勢神宮からの熊野古道も歩いています。



出雲はまた大国主命と因幡の白兎の神話の地です。

大国主命が座す本殿は西を向いています。この本殿の前の塀の外には遥拝所が設けられており、人々はここで改めて参拝します。

西十九社です。江戸時代の境内図では、東西十九社は銅鳥居の外の参道の左右にありました。

訪れた日が丁度各地の神々が出雲を去る第1回目の神去り祭りが行われる日に当たりました。午後4時から開始のため係の人たちは準備に余念がありません。多分神々たちは稲佐の浜から船に乗って帰るため、日が暮れた夕に浜まで送りの行列が歩むのでしょう。幻想的なお祭りです。

境内に宝物館がありました。時間があるので入りました。ツアー旅行では博物館に行く時間がありません。出雲大社の入り口には県立出雲古代史博物館がありますが、最初からあきらめています。幸い国立博物館で行われた出雲と大和展で主な宝物は見ました。

宝物館は撮影禁止のため、出雲。大和展の図録を利用させていただき、一部紹介します。
最初は弥生時代前1,2世紀の銅剣と翡翠の勾玉です。家内は勾玉を見て胎児をデフォルメしているのでは言いました。
確かに翡翠の勾玉が古代最高の宝物である理由は、大地のエネルギーが凝縮したような翡翠の勾玉の持つ恒久的な生命観であり、医療も無く短命な古代人はパワーを自ら身に着けることに腐心したと想います。
縄文時代は、自然の食料が豊富な我が国では、旬の食物しか食べずそれによって旬の生命力を得ていたと言われています。

荒神谷遺跡に埋められていた358本の銅剣です。出雲と大和展では実際358本の銅剣が展示され圧倒的な迫力で迫ってきました。
昭和59年に発見されましたが、それまで我が国で発見された銅剣の総数は300本で、358本の銅剣が1か所に埋められた事実は尋常ではありません。銅剣をなぜ埋めたか理由は分かりませんが、その姿は尋常でなく、穴を掘って廃棄せざる得なかった出雲王朝滅亡の悲哀を感じます。

平安時代の漢詩人の源為憲が当時の建物の高さを、兄弟に例えて「雲太、和二、京三」と述べたことは余りにも有名です。
出雲大社の本殿が高さが長男のごとく一番で、2番目は奈良の大仏殿、次は平安京の大極殿としています。
出雲大社の本殿は柱9本に支えられ現在の高さの2倍、10階建てビルより高い48mだったと言われています。近年本殿工事の際、3本まとめて計3mになる柱が発見され、大林組の調査で神殿の高さが図のように推定されました。

バスは出雲大社を出て神々たちが上陸する稲佐の浜を通りました。今宵この浜で神去り祭が行われ神々が見送られます。

出雲は現実離れしたおとぎ話のような稀有な地です。先端工業国の我が国にこのようなお祀りを不思議に思わず夢中になって行っている場所があることが、未来世界にとっても、とても貴重に想われるのです。人は経済合理主義だけでは生きられないと改めて思うのです。