石州瓦の家並み、足立美術館、玉造温泉紀行

出雲大社を出てからまた東に戻ります。出雲大社は島根県の中部に位置していますが、今宵の宿は松江近郊の玉造温泉のため東に戻るのです.

今回ツアーの主要目的が出雲大社でありいろいろ回って午後遅く神様を参拝するのは、参拝に対しふさわしい態度でないことと、名湯玉造温泉の宿泊や足立美術館も主要目的の一つだったため、苦労してコースを企画したのでしょう。

遠くに宍道湖を望みながらバスは走ります。水田は刈り取りが遠に終わったのに青々としています。青々としているのは麦の苗が伸びて来ています。
埼玉北部はウドンが名物ですが、いわゆる稲の裏作に麦を栽培する2毛作を行っているのでしょう。


同じ田んぼで夏に米、冬に麦の2毛作は、鎌倉時代西日本一帯で始まったといわれており、関東はそれより遅く南北朝時代から行われるようになりました。
ただ2毛作では肥料が2倍必要なため、下肥が容易に手に入る人口の多い地域でしか不可能で、過疎な山地では2毛作はできませんでした。

いつも想うに戦国時代、織田と秀吉の畿内や西日本の戦いで、城を取り囲む籠城戦や調略戦が多かったのは、灌漑設備の整った2毛作の田を荒らしたくなかったためと考えます。
それに反して上杉、武田の信濃や関東の戦いで徹底した騎馬戦が行われたのは、畑作、水稲耕作など耕作地の状況が異なるためでないかと思います。

山陰地方の景色を眺めていると、平野に直ぐに山が迫っており、この宍道湖の畔は平野が広くても良いのに、左右から山裾が降りて来ています。
山陰の人々は、狭い平野を少しでも無駄にすることなく山の際まで田んぼにし、関東平野のように個々に家が散在しているのではなく、固まって小さな集落を形成し、田を少しでも広く活用しています。

旅の楽しみは農地と農家の風景を眺めることも、大きな要素です。
ヨーロッパもそうです。ドイツやフランスの田園地帯は、日本のように農地の中に農家が点在するのではなく集落が教会を中心にしてまとまって存在しています。こういう形式になったのは様々歴史的な要素があったと想いますが、先進工業国ほど美しい田園風景を持ち、また先進工業国ほど、農産物の輸出ランキングの上位を占めています。
世界の先進工業国の中で日本だけが極端に農産物の輸出額が少ないのです。

やはり明治の岩倉使節団が2年近くの視察の中で、欧米諸国の工業国としての半分しか見てきてなく、工業を支え国家の民意を安定させている農業国の側面を見てこなかったつけが来ています。
近年このことに気が付き政府はここ1,2年農産物の輸出振興に力を入れて効果を挙げていますが、まだ全体統計を左右するするほどの数値ではありません。



石州瓦の家並み

律令時代、島根県は東に出雲国、西に石見国に分かれていました。
石州瓦は旧石見国の江津市を中心に太田、浜田、益田各市で生産が行われている瓦で、石見地方の海岸近くの山の粘土質の土を原料に、出雲地方で産出する鉄を含んだ石を釉薬に使用しているため、独特の赤い瓦で知られています。


石州瓦は、焼成温度が1200℃と高く、釉薬も耐久性があり100年は持つとも言われています。
塩害にも強く耐寒性もあり寒冷な豪雪地帯の日本海沿岸ではよく使われており、黒の釉薬瓦と共に、山陰地方はほとんど石州瓦の家並みが続いています。

また石州瓦が普及した側面には、日本海を航行する北前船の存在がありました。当時の舟は安定させるために船底に重量物を積載するのが常でした。そうしたメリットもあり石州瓦は、日本海沿岸から瀬戸内にかけて普及したのです。

我が国の三大瓦産地は愛知県産の三州瓦、淡路島産の淡路瓦と石州瓦ですが、この内三州瓦の生産量が最も多く、3つの産地の瓦で我が国の瓦のシェアの80%にもなるそうです。

旅に出ると瓦屋根の美しい家並みに出会います。関東の家並みには瓦の風景は少なくなりましたが、伊奈谷から信州、北陸、丹後地方を旅すると黒い瓦の美しい家並みに出会いホッとします。今回の山陰旅行のツアー参加者たちが、一番印象深かったのは多分石州瓦の家並みだったと想います。

暮れに奈良を旅して、改めて屋根を意識して見ていたら、郊外の家並みは9割以上は瓦屋根でした。古都は瓦が良く似合います。瓦は日本の原風景だと改めて気付きました。

戦国中国地方の覇者、尼子氏の月山富田城址(がっさんとだじょう)

美しい麦の穂の水田の彼方に、戦国時代、中国地方11カ国の覇者となった尼子氏の月山富田城址が見えてきました。
右端の稜線に木が生えて居る山が城址です。城址はツアーコースでなく、コンダクターの簡単な説明だけでしたが、ツアーの参加者たちは尼子氏と言っても誰も知らず、ほとんど関心も払われませんでした。

私は九州は別として、戦国尼子氏と毛利氏、大内氏の抗争やその後の秀吉の中国攻めなど土地勘も無いためかあまり興味がなく、本棚の戦国関連で西日本は目を通したことは無く帰宅してから改めて調べて見たのです。

尼子氏の出自は、室町時代若狭、近江、出雲など6か国守護の有名なバサラ大名の宇陀源氏佐々木道誉氏の子孫佐々木京極氏の一族です。
代々近江の尼子荘で尼子氏を名乗っていましたが、京極氏に従って、守護代として出雲に転任してからその地で勢力を拡大、尼子経久の代に守護京極政高を追放して戦国大名になりました。

尼子経久は10年かけて出雲大社の遷宮による改築を行い名実ともに出雲守護の地位を確立し、周辺諸国に侵攻を開始し、中国地方の覇者大内氏と抗争を続けました。
尼子晴久の代になると出雲、隠岐、因幡、伯耆、美作、備前、備中、備後の8か国の守護に任ぜられ、更に播磨、安芸の一部、石見にも侵攻し実質11か国も領有し、文字通り中国地方の覇者になりました。

吉川弘文館 日本史地図帳より

律令時代制定された国名は、江戸時代には略して州と呼ぶことが多いです。
たとえば萩藩は周防、長門の2か国で構成されており防長2州と呼ばれますが、長門を略して長州藩と呼ばれました。
石州瓦の産地石見国は石州、出雲は雲州、因幡は因州、伯耆は伯州、丹後、丹波は不明、播磨は播州赤穂浪士というように呼ばれました。美作は作州、備前、備中、備後は不明、広島の安芸国は芸州と呼ばれました。

河出書房新社「図録日本の歴史、島根県の歴史より」

山口に本拠を置く大内氏は室町幕府における朝鮮や明との対外交渉の一翼を担い、周防、長門、石見、安芸、備後、に加えて九州の豊前、筑前を領し、戦国時代初期には西国随一の戦国大名となりました。
その後室町幕府の管領細川氏と争って明との交易を独占し、キリスト教の布教も許し、京の応仁の乱を逃れた文化人たちが集まり、山口には独特の大内文化が生まれたのです。

一方、広島安芸国の山間部の吉田郡山城に本拠を置いていた毛利氏は、出自は鎌倉幕府の名事務官僚大江広元の子孫が相模の毛利荘を領したことから始まり、地頭となって安芸国に移住し国人として存続していました。


戦国は入ると毛利氏は、尼子氏と大内氏の間で少しずつ勢力を広げ、尼子氏の臣従から離れ大内氏側に着きました。怒った尼子氏は毛利氏の吉田郡山城を攻めましたが、大内氏の応援を受けた毛利氏に撃退されてしまいました。


一方大内氏は尼子氏を追撃し出雲まで遠征しましたが、逆に尼子氏に敗れてしまいました。以来大内氏の当主義隆は文芸や遊興に耽るようになり、部下の陶隆房の謀反により自害し大内氏は滅びましたが、陶隆房による大内氏の傀儡政権が存続しましたが、毛利氏との有名な厳島の合戦で、大内氏、陶氏共々滅んでしまいました。

大内氏との抗争に勝利した毛利氏は、中国地方の覇権賭けて尼子氏の本拠月山富田城の攻略を始めました。
毛利勢は35、000の軍勢で城を包囲しましたが、10、000の尼子勢は山間の間道から密かに糧食を補給し、2年にもわたる籠城戦を行いました。しかしさしもの尼子氏も一族の助命を条件に降伏し名門尼子氏は滅びました。

この尼子氏の滅亡によって、毛利氏は大内氏や尼子氏が果たせなかった中国地方全土と北九州の覇者になったのです。

ちなみに、大内氏の拠点山口城、毛利氏の拠点吉田郡山城、尼子氏の拠点月山富田城は全て、山陰、山陽の内陸にありました。しかし大内氏、尼子氏が滅亡後、毛利氏は毛利水軍を充実させ、信長の石山攻めを邪魔したように、瀬戸内を支配に置きました。

足立美術館

足立美術館は、大阪の実業家足立氏が生前、故郷に設立した美術館で、手入れが行き届いた整形庭園が外国人に評価が高いです。
横山大観のコレクションで有名ですが、魯山人のコレクションも素晴らしいです。

古代からの名湯、玉造温泉

国造、神吉詞願ひに、朝廷に参向ふ時、御浴の忌の里なり。故、忌部といふ。即ち、川の辺に湯出づ。出湯の在るところ、海陸を兼ねたり。よりて、男も女も、老いたるもわかきも、或いは道につらなり、或いは海中を浜に沿いて、日に集いて市を成し、みだれまがいてうたげす。
一たび濯げば、形容端正しく、再び浴すれば、万の病ことごとくいゆ。古より今にいたるまで験を得ずというところなし。故、俗人、神の湯といふ。

出雲風土記に描かれた玉造温泉の記述です。出雲国造が毎年朝廷に挨拶に行く際、必ず玉造の湯で沐浴し参上したと言われています。


玉造の名は、この付近の花仙山で良質の瑠璃が採掘され、この地の人々がこれに従事していたことから名づけられました。
瑠璃は翡翠と同じく勾玉に加工されました。
三種の神器の勾玉は櫛明玉命(クシアカルダマノミコト)によってこの地で作られたと言われ、玉造湯神社は櫛明玉命を祀っています。

玉造温泉は玉湯川の両岸に和風旅館が並び、温泉街特有の歓楽街の無い落ち着いた風情を見せています。

家内が宿の中庭の奥に素敵な日本家屋を見つけました。宿の係の人に聞くと戦後間もない昭和23年11月、昭和天皇が山陰地方行幸の際、お泊りになられた宿とのことでした。この建物は戦前皇族が、玉造温泉にお泊りになられる際利用されました。

昭和天皇は終戦の翌年の昭和21年2月の神奈川県と東京都、3月の群馬県、埼玉県、6月の千葉県と静岡県から順次日本全県の行幸を行い、21年度には愛知県、岐阜県、茨城県が終えられました。
翌年の昭和22年の6月には京都府、大阪府、和歌山県、兵庫県、に行かれ、8月には福島県、宮城県、岩手県、青森県、秋田県、山形県、9月には栃木県、10月には長野県、新潟県、山梨県、福井県、石川県、富山県、そして11月には鳥取県、島根県を回られ11月29日に松江市にまえられ玉造温泉に宿泊されたのです。
この時の行幸は更に続き12月に山口県、広島県、岡山県を回られました。
昭和24年5月から6月にかけて九州全県、昭和25年3月は四国県、11月には京都府、滋賀県、奈良県、三重県を行幸され、昭和29年8月には北海道を回られました。沖縄県には昭和62年国体で行幸が予定されていましたが、突然の御病気になり中止されました。

昭和天皇の行幸は敗戦直後の空襲のがれきが片付いた半年後に始まりました。当時は新幹線も無く道路事情も悪い中、日程を見るとかなり強行軍の行幸だったと想います。

陛下御自身も敗戦から立ち上がる国民の激励と共に戦争責任のお気持ちもあったのでしょうか、終戦後短期間に日本全国を行幸されたことは、時の経過と共に忘れ去られて行きますが、このことは世界歴史の中で例がなく歴史の中で静かに語り継がれて行くでしょう。

昭和天皇の戦後行幸については、当時私は幼児のため知りえず、その後そういう出来事があったことを知りましたが、概略は知りえませんでした。しかし旅に出て、玉造温泉の離れの日本家屋に接し、思いがけず戦後行幸の歴史に触れられたことに感慨を受けています。

玉造温泉にはいたるところにオブジェがあります。シックすぎて古い温泉の風景に溶け込んでしまいますが、それはそれでとても素晴らしい景観を作っています。

出雲の旅は終えましたが、松江にも行かなかったし、宍道湖の夕陽を見ることも無かったし、安来の鉄に接することも出来ませんでした。
足立美術館より、すぐそばの月山富田城址に登って見たかったし、ツアー旅行の限界を感じた出雲でした。しかし余り欲を張ってもいけないので、厳選すれば一度美しい城下町の松江だけは行く必要があると思っています。