大航海時代の歴史に残る石見銀山紀行

石見銀山は2007年に世界遺産に登録されました。世界遺産登録までには長い間の地元大森町の地味な保存活動が行われていました。
石見銀山は他の観光地のように風光明媚な場所でなく、山陰地方の何の変哲もない山間の貧弱な道路の終点にある鉱山遺跡と、それに関連した江戸時代以来の街というより村の風景が保存されているだけです。

16世紀石見銀山が発見され、30日間という時間をかけた灰吹き法の精錬によって高品位な銀が生産されました。それが世界商品になり16世紀の大航海時代、スペインのペルーとメキシコの銀山と共に、世界の銀の流通の約三分の一を石見銀山の銀が占めたと言われています。

しかし石見銀山には鉱山とそれにまつわる遺跡があるだけで、この山間の小さな銀山が大航海時代の世界と繋がっていたという実感がなく、世界遺産としての物語性の乏しさを感じました。風光明媚な物見遊山の観光地のイメージの全くない銀山を前にして、以前世界遺産に制定された富岡製糸場も同じようだったことを想い出しました。
富岡製糸場も製糸工場がいかに近代的な遺産だったか矮小的な説明だけで、当時日本のシルクが世界とどのように繋がっていたか、シルクは現在の自動車産業と同じくらいの蚕種業、蚕農家、製糸業の裾野が広い複合産業であったことや、群馬や長野、埼玉の山地の街道は全て蚕種のシルクロードであったことなど、日本のシルクの世界遺産という印象を感じることはありませんでした。

帰宅して改めて大航海時代の石見銀山の位置付けをおさらいしてみました。石見銀山の価値は、山陰の山間の鄙びた小さな鉱山跡だけではないはずだったからです。富岡製糸場が世界遺産になった意義も、単なるレンガの工場跡では無かったはずでした。

幕末の開国は、米国捕鯨船の薪炭の供給の要望もありますが、当時シルクが世界商品だったか故に生じたのだと思います。
上質のシルクは舞踏会の華で、病気の多い中国の蚕種と異なって、欧米は日本の病気の無い高品質の蚕種(かいこの卵)と生糸を欲しがっていましたが、日本が開国していないため手に入らなず、そのため我が国は開国を迫られたと考えています。まさか諸外国もシルクが欲しいから開国せよとは言えなかったでしょう。開国は幕府と仲の良いフランスも強力に要求していた事項でした。

それが故に開国と同時に、開港した港に捕鯨船が殺到し訳でなく、開港と同時に生糸の集積地八王子から横浜まで街道が通じ、鉄道も他の路線に先駆けて高崎線が敷かれたことは歴史が証明しています。

石見銀山の銀は、幕末のシルクと同じように、世界が日本に求めた我が国初の世界商品でした。

石見銀山の銀によって、東アジアの片隅で、ひっそりと朝鮮や中国と交易していただけの我が国に、世界が注目し一次産品の銀や銅や硫黄の世界的な大輸出国となりました。


石見銀山の銀によって我が国は大航海時代の只中に突入し、キリスト教と鉄砲が導入されて直ぐ国産化が行われ、瞬く間に安土桃山時代には鉄砲の数と優秀な刀剣を保持した武士を始めとする戦闘人員の数と15万人を渡海させる水軍力を持つ、世界最大の軍事国家になり、世界の強国スペインアジアの拠点マニラを脅かすようになったのです。


しかし徳川幕府の文治政策により、勃興した帝国主義に巻き込まれず270間の平和を維持したのです。

オランダ海軍、平戸オランダ館の絵画、17年秋撮影

改めて日本史における石見銀山の位置はとてつもなく大きいものだったと想います。
当時の鉱山労働は過酷でした。幕府の手厚い保護にもかかわらず、鉱夫の寿命は平均30歳だったと言われています。
鉱山で若くして亡くなられた鉱夫たちは、自分たちが掘った銀によって、好むと好まざるにもかかわらす我が国が大航海時代の只中に突入して行った事実は誰も知りません。

先日第168回目の芥川賞、直木賞が発表されました。直木賞は千早茜さんの「しろがねの葉」が選ばれました。
受賞時の解説では、戦国末期の石見銀山を舞台に、30歳で亡くなった鉱夫3人と結婚を繰り返した女性の生涯を描いたとありました。この解説を読みながらあの山間の家々が点在する石見銀山を想い出し、とんでもなく良い場所を題材にしたなと想いました。
小説は余り読みませんが、機会があったら読んでみたいと思っています。


16世紀まで世界の海の交易は中東・インド・東南アジア・中国が中心で、ヨーロッパと日本は登場していませんでした。

中東~インド~東南アジア交易の主役、インドム・スリム商人のダウ船

山川出販社 世界史図録ヒストリカより

ダウ船の特徴は1本マストの大きな三角帆で、この三角帆はモンスーンを受けて走るのに適し、逆風でも進めました。材料はココヤシやチークです。

東南アジア~南シナ海の交易の主役、中国のジャンク

講談社パノラマ世界の歴史より

南シナ海、東シナ海で活躍した中国の帆船。竹の棒を何本も通し蛇腹状の帆に発展しました。松や杉の竜骨を持ち、多数の隔壁で仕切り強度を増しています。中国で発明された羅針盤を利用して航海を行いました。

インド、東南アジア、中国の海の道は弥生時代からありました。

紀元前後、日本が未だ弥生時代の頃、インド洋、南シナ海のモンスーンが発見されこれに乗れば、帆を張った船の航海が楽になることを知り、日本の古墳時代にはインド、東南アジア、中国との交易がインド商人によって活発に交易が行われました。


インド洋と南シナ海のモンスーンは、10月半ばから4月半ばまでは北東風が絶え間なく吹き、これに乗ると南シナ海では中国沿岸から東南アジアやマラッカへ、またマラッカからベンガル湾を容易に横断出来てインドに達し、アラビア海を横断し容易に紅海に入れます。
逆に4月後半から10月前半には南西風が規則的に吹くため、逆の航海が容易で、この海域を一年がかりで交易船が航行するようになりました。


紀元8世紀頃からムスリム商人たちがインド、東南アジア、中国に進出してから、本格的な世界商品が産まれました。
アラビア商人はマラッカに東西の物産の集積地を設け、交易に要する移動日数を短縮しました。それは東南アジア産の胡椒、香辛料、香料を中心に、インドから東南アジア・中国へは綿織物、中国から東南アジア、インドへは陶磁器、絹で、これらが19世紀まで世界商品でした。

ヨーロッパでは肉食のため胡椒や香辛料が特に需要があり、また中国の陶磁器やシルクも欲していましたが、海上、陸上共にムスリム商人に交易ルートを抑えられており、ヨーロッパの特産品は毛織物ですが、需要は多くなく銀で高価な代価で支払っていました。

ポルトガル、スペインの大西洋、太平洋航路の発見による大航海時代の始まり

大西洋やインド洋に乗り出したポルトガルのカラベル船 積載量が多く貿易船に向いていました。講談社パノラマ世界の歴史より

スペインとポルトガルは、地中海交易をジェノバやベネチアのイタリー商人とオスマントルコに庇護されたムスリム商人に抑えられていたため、未知の大洋である大西洋に乗り出し、新しく発見した島々は子午線で分割するという勝手な協定を結びました。

ポルトガル人バスコ・ダ・ガマは、ムスリム商人の独占ルートの紅海を通らず、大西洋を南下し希望峰を回り、直接インドへの航路を切り開きました。インドからは胡椒や香料のモルッカ諸島は直ぐ眼の前でした。

スペインはコロンブスの航海等でアメリカ大陸を発見し、自身の分割地域のペルー帝国とアステカ帝国を滅ぼし、ペルーとメキシコの銀山を手に入れました。そしてマゼランの世界周航によって太平洋を発見し、その後苦労してメキシコからマニラまでの航路を発見し、そこを拠点に中国から東南アジアの中継貿易の決済にメキシコやペルー銀を使用したのです。

特に中国は貨幣鋳造で銀を必要としていたため、陶磁器や絹の決済は銀で行われました、陶磁器や絹は東南アジアの胡椒や香料と共に最も人気のある世界商品のため、アラビア商人に代わって中継貿易を行ったスペインはフィリッピンを植民地とし中継貿易で莫大な利益を挙げました。


ポルトガルは勿論の事、スペインもアジアで高品位な銀が手に入ったらこれほど都合の良いことはありません。

こうして大内氏が採掘し大内氏の領土博多で積み出された石見銀山の銀によって、我が国が大航海時代の只中に参加することになったのです。

こうしてスペイン、ポルトガルに続いてオランダや英国がアジアに進出し東アジア会社を設立しました。その後ポルトガルはスペインに併合されてしまいましたが、英国は海の覇権争いでスペインの無敵艦隊を破り、スペインから独立したオランダは英国との英蘭戦争で敗れ、世界の海の覇権は英国のものとなったのです。

ポルトガルの宣教師ティセラが作成した日本図で、石見銀山が表示しています。

帝国書院 図説日本史通覧より

マルコ・ポーロは東方見聞録で日本を黄金の国ジパングと表現しました。
マルコ・ポーロは13世紀の元の時代の人でしたが、当時元は空前の世界帝国を築きユーラシア大陸の大半は元の領土で陸上の東西交易路を支配していましたが、地中海から紅海、インド洋から東南アジアのルートはムスリム商人が、東南アジアと中国を結ぶ海路は中国によって昔から開かれていて、マルコ・ボーロがベネチアへの帰還も元が管理していた海のルートを使用しました。

マルコ・ポーロはただ風説を聞いただけで著書に表しましたが、実際当時の日本には東南アジアのスパイスやインドの綿織物、中国の絹織物、陶磁器など、対外的に魅力的な産出品がなく、世界交易、とりわけアジアの交易の埒外に置かれていたのです。

ヨーロッパのキリスト教国の人々は、イスラム国家や商人に地中海から紅海、インド洋を抑えられ、東南アジアで産する胡椒などのスパイスを巨額な代価を支払っていました。キリスト教国はエルサレム奪還のため十字軍の狂気じみた遠征を行っても、当時のイスラム国家は軍事力、経済力、文明度、文化度、何一つ取ってもヨーロッパのキリスト教国よりレベルが上で、ヨーロッパ諸国はいつも敗退し、まして交易のために地中海、紅海、インド洋に船団を乗り出すことなど、考えられませんでした。

インドと東南アジアと混同した情報しかなかった、マルコ・ポーロの時代から300年後の当時のヨーロッパ人にとってジパングの黄金伝説は、実際は半信半疑だったと想いますが、夢のような物語でした。ジェノバ人のコロンブスがスペイン国王にアジアへの新航路を提案したのも、ジパングの黄金伝説は重要な目的1つになったと想います。

石見銀山の銀を求めて、オランダは5隻の船団を組み、2年がかりでやっと1隻だけが日本に辿り着きました。

コロンブスの300年後、ヨーロッパで流通していたいくつかの日本図と石見銀山の存在によって、スペイン、ポルトガルに独占されていたアジア交易に参入すべく、スペインから独立直後の新興国家オランダが、5隻の船団を組んで日本を目指して来ました。

平戸オランダ館のリーフデ号の模型、17年秋撮影

オランダ共和国リーフデ号(武装商船)300トンは1600年3月16日に豊後国(大分県)臼杵湾に漂着しました。
と日本史教科書に記述されていますが、私は漂着でなく、2年間かけて大西洋と太平洋をの2大洋を横切ってようやく、戦国島津氏と九州を2分した大友宗麟の拠点であった臼杵に到着したのだと考えています。一説にはリーフデ号は石見銀山が記載された日本図を所持していたと言われています。


リーフデ号には船長クワッケルナック他後に家康の外交顧問となった英国人の一等航海士ウイリアム・アダムスと、後に江戸八重洲と地名の語源となったオランダ人ヤン・ヨーステンが乗り込んでいました。

2年前リーフデ号はホープ号を旗艦として5隻の船団を組み、日本を目指して母校オランダのロッテルダムを出航しました。しかし悪天のマゼラン海峡をやっとのことで通過後船団は離散し、太平洋に入りチリ沖でリーフデ号とホープ号と合流しましたが、太平洋航海中ホープ号は沈没してしまいました。たった1隻となったリーフデ号の乗組員は出航時110名でしたが、臼杵湾に到着した際は24名に減り、到着後の生存者は14人になってしまいました。

2年かけて日本にやって来たオランダ船隊のリーフデ号ですが、臼杵湾に到着した時は、時代が変わってしまいました。彼らがヨーロッパで得た当時の情報は、九州に君臨する交易熱心な大名は、島津氏と大友宗麟が双璧でしたが、大友氏は島津氏に敗れ大友宗麟も死去し、九州は秀吉が侵攻しましたが、秀吉も死去し関ヶ原開戦前夜だったのです。家康はプロテスタント国家に興味を持ちウイリアム・アダムスたちと謁見し、やがて幕臣として採用したのです。

船長クワッケルナックは帰国を望みましたが幕府が許可を出さず、5年後に許可がおり平戸藩主松浦鎮信の支援で、できたばかりのマレー半島のバタニにあるオランダ商館に辿り着きましたがその地で亡くなりました。

しかしウイリアムアダムス(三浦按針)のアドバイスなどもあり、幕府はカトリック教国のスペインとポルトガルを締め出し、出島で270年間オランダが幕府の眼となりました。

臼杵城のフランキ、15年春撮影

臼杵城祉には青銅のフランキ砲(仏狼機)が展示しています。大友宗麟がポルトガルから輸入した我が国最初の大砲で、その威力から「国崩し」と名付けられ、島津軍の臼杵城籠城戦に使用し、島津軍を驚かせました。


一族で筑紫も領有していた大友宗麟はキリシタン大名でもあり、海外交易に特に熱心で、ヨーロッパ人にとって島津氏の貿易港坊津と共に大友宗麟の臼杵や、松浦氏の平戸は、ヨーロッパまでその名が知られた港でした。

家康は大阪冬の陣の際、フランキ砲(仏狼機)を購入し、大阪城の天守閣を狙わせ、その破壊力で淀の方を恐怖に陥れ、和平のきっかけとなったと言われています。

石見銀山を歩く

石見銀山は1528年、大内氏が領有していた博多の豪商神谷寿禎が、中国、朝鮮の主要な輸出品の銅を探して石見地方の海岸を航行していた際に、山に光る場所を見つけ銀山の存在を知り、博多から技術者を送り込み、朝鮮から伝来したと言われる灰吹き法の技術を用いて銀精錬を開始したことが始まりです。


1550年代に大内氏が滅亡すると、尼子氏が石見銀山に侵入し、支配が5年にわたって続きましたが、1561年に毛利氏が鉱山に侵入し手支配権を持ちました。
毛利氏は温泉津など海からの銀の搬出ルートと、銀山を維持するための物資の搬入のため内陸に街道も整備しました。

関ヶ原に勝利した家康は、甲州金山で実績のあった武田家臣大久保長安を石見銀山奉行に任じ、銀山に投資を行い幕末に銀が枯渇するまで繁栄させました。

山間の細い谷間の石見銀山には、江戸初期の最盛期には大森村に20万人が鉱山に従事して暮らしていたと言われています。

石見銀山は、バスの駐車場と案内所がある場所を中心として、古い町並みが続く鉱山管理部門のエリアと、鉱山のエリアに分かれています。案内パンフは以前ブログにアップした際、廃棄してしまったので地図は掲載できません。


石見銀山では鉱山を間歩と呼びますが、観光のメイン龍源寺間歩まで、バスの駐車場から40分、往復1時間半近くを要し、案内マップでは150分2時間半です。ツアーの石見銀山の予定時間は1時間半のため、街エリアと鉱山エリアは両方は無理です。ツアーの参加者たちの中で三分の二は街散策だけで鉱山には行けませんでした。

また世界遺産センターは別な離れた場所にあるため、残念ながら資料を手に入れて学ぶことはできませんでした。

歩き出して直ぐ大森小学校開校150周年の横幕を見つけました。

明治5年(1872)最初の学制発布により小学校尋常科という名の学校が設置されました。その3年後の明治8年には、全国24,000校の現在並みの小学校が設置されました。これらは江戸期から続いていた寺子屋や私塾、郷学校が主体となり、多くは職を失った支族階級が開校しました。

大森小学校は開校150周年とすると明治5年の学制発布と同時に開校したと想像され、それ以前から続いていた郷学校がそのまま新制小学校に移管したと思われます。ということは大森地区は江戸期を通して教育程度の高かった地域と想像します。

古い映画に出てくるような山の分校スタイルの校舎が印象的です。大森地区は世界遺産に登録してから、若い人たちの移住が増えているようです。先日たまたまNHKの移住というドキュメンタリー番組に大森地区の若い家族が登場していました。

下河原灰吹屋跡です。銀を精錬は灰吹き法で行われていました。掘った鉱石を石臼でくだいて小さくし、水を入れた半切の中でザルを使って鏈(あらがね)と土石を分離します。次に鏈を釜に入れて焼き、硫黄分を取って鈹(かわ)にします。次に南蛮絞りと呼ばれる鈹(かわ)に鉛を加えて作った合金を、灰の上で加熱します。加熱すると鉛は灰に吸収されて最後に銀だけが残ります。


石見銀山の灰吹きは海岸から集めた松葉灰を使用し何度も焼き、最後に槙で焼いておおよそ30日焼きを続け純度の高い銀に精錬したのです。このように手間暇かけた純度の高い石見銀は、外国では人気がありました。

多分、前の広場で小さなたくさんの穴を掘り灰吹きを行っていたのでしょう。

石見銀山は鉱毒や、精錬に鉛を使うことから若い鉱夫たちは、30歳ぐらいで寿命を終えました。彼らを供養するために、狭い地域の割には、あちこち寺があります。

この極楽寺も彼らを供養する寺です。

鉱山への道すがらの家々

銀山への道に点在する家々は、古いけれど石州瓦にしっかりと守られていました。自然と一体となった家々が、美しく感じるのは、屋根のとい以外、家の建材がすべて自然素材からできていて、また庭もキチンと整理され、都会で見るようなゴミバケツなどプラスチック製品が外に置かれてないからでしょうか。

間歩(まぶ)への道、美しい樹々の姿

バスから眺める山陰地方の山地の樹木は杉や常緑樹が多く単純な風景でしたが、この石見銀山の谷の道を歩くと、落葉広葉樹も結構多く美しい風景を構成しています。
私は荒々しい樹々の風景も好きですが、女性は京都のような箱庭の風景を好みます。家内は大感激で辺りの樹々を眺めていたら直ぐに鉱山に着いてしまいました。

福神山間歩

この間歩は特殊な間歩で、入り口から直ぐに下降し、坑道は清水川の下をくぐって横断し伸びているそうです。

石見銀山は幕府直営の御直山と鉱山主が鉱山師に任せて請負う自分山から成り立っていました。江戸幕府は小さな政府を標榜していたので、代官制度の直轄地の業務は様々な請負に任せていました。
鉱山師の高橋家の家です。鉱山師は現場の組頭として鉱山主との折衝を行っていました。

石見銀山最大の龍源寺間歩の入り口

石見銀山には無数の間歩が山中駆け巡っていますが、この龍源寺間歩が最大です。長いため途中から観光用に坑道が掘られ短縮しています。
銀山は幕府直営の御直山してこの龍源寺間歩、大久保間間歩、釜屋間歩が最大でした。

構内の灯かりはさざえに油を入れて灯していました。枝分かれした坑道や空気の取入れ坑道もあり複雑です。

木製のポンプで大勢の鉱夫が、水を上に挙げています。動力がないため人海戦術です。

河出書房新社、図説島根県の歴史によると、山師の配下で1箇所の坑道の中で実際に仕事をする人間は、1)銀を掘る下財(銀堀)3~4人、2)運搬人、手子(2~3人)柄山負(2~3人)が組を作って5交代制で作業に従事していました。

坑道は高さ4尺、幅3尺で、サザエの殻に菜種油を入れ燈芯に火を点けて燈としていました。鉱夫たちは、滴り落ちる水滴と湧水の中での重労働で湿気と「けだえ」と言われる鉱害病のため、平均30歳の短命に終わるものが大半だったと言われています。

銀山奉行は下財に一日当たり米2合5勺を給付し、鉱害病患者には大豆4升、こうじ2升、塩2升の救済制度を設けました。

また坑道内の喚起ののために、農業に使用する唐箕を10台設置し薬草の蒸気を坑内に吹き込みました。また梅肉入りのマスクの着用や相撲や陽光浴などを行い、鉱害病を予防しました。

江戸時代の鉱山の絵巻物です。観光用に広げた坑道に展示しています。

右の梯子を見ると坑道の過酷さが良く判ります。

左は観光用に掘られた坑道の出口です。右は廃坑になった坑道の入り口ですが、当時の鉱山の過酷さを物語っています。

佐毘売(さひめ)神社です。佐毘売とは出雲国引神話に登場する三瓶山の古名です。祭神は金山彦命で大内氏が勧請したと言われていますが、それ以前は分かりません。龍源寺間歩の入り口近くに位置し鉱夫や里人の信仰が厚い神社だったと言われています。

山の上の堂々たる古社の風格に満ちており、登って参拝したかったのですが、時間が無いので諦めました。

石見銀山の家並みは、観光用に伝統的景観地区の復元した住宅と異なり、味わいに満ちています。

豊栄神社、龍造寺間歩に行く途中この豊栄神社(とよさかじんじゃ)の前を通り、灯篭に第三大隊と刻まれているのを見つけ、陸軍の演習の際、寄贈したのかなと想いましたが旧陸軍ではそのような習慣は聞いたことが無かったので、ひっとしたら寄贈したのは長州藩の奇兵隊かも知れないと想いました。

勇力中隊という刻銘は、旧陸軍にはなく、奇兵隊はあらゆる職業の若者を徴募し、相撲取り隊もあったので、多分力士隊の寄贈だったのでしょう。旧会津軍にも力士隊はありました。

帰宅して調べると、この寺は元々曹洞宗の洞春山長安寺という寺院で、もともと毛利元春が尼子氏から石見銀山を奪った際、山城の山吹城内に自分の木像を安置し、後に長安寺を建立して木像を移したと言われています。
慶応2年第2次長州戦争がの際、長州藩の奇兵隊が石見銀山に侵入し、この長安寺に元就公の木像が祀られていたことに驚き、隊士172名の氏名を刻印した灯篭を奉納したものです。隊が駐屯している間に石工に頼んで奉納したか、頼んで移動したかわかりませんが、多分当時石見銀山は人口も多く、注文に応えられる程度機能は有していたのでしょう。後に元就公の神号をとって豊栄神社となりました。

まさか石見銀山で長州の奇兵隊遺跡に遭遇するとは思いませんでした。

石見銀山の日常風景。怖い鶏に睨まれました。どこの家もみな石州瓦を使用しています。このお宅の瓦は恵比寿大黒様入りです。