谷川温泉、真田三城(小川城、名胡桃城、沼田城)散策

6月4日、5日と山の会のOB会で谷川温泉に行きました。
当日谷川に登った人や佐渡の金北山に登って来た人や、翌日谷川に登る人、車で北陸まで行く人など様々でした。
私は新井兄の車に同乗させて貰って行きましたが、翌日の行動を事前にしっかり打ち合わせしなかったため、彼は谷川に登るつもりで登山靴を持ってきましたが、私は登るつもりはなかったのでスニーカーで出かけました。ということで何回も行っているため、谷川登山や一ノ倉沢見物も止め、ホテルで見た水上の観光パンフレットに掲載されていた名胡桃城址と沼田城址を見学しながら帰宅することになりました。

真田氏と小田原北条氏の名胡桃城を巡る争いは、秀吉の小田原征伐のきっかけとなる大事件に発展しました。名胡桃城の名は歴史好きな人の間では有名ですし、私も何となく勇ましそうな山城に興味がありましたが、今まで訪れる機会はありませんでした。

今回、名胡桃城址に立ち、利根川流域の雄大な景色を眺めていたら、信濃の山間の真田郷に本拠を置く真田氏が、なぜあれほど北上州の利根吾妻2郡の領有と真田城(名胡桃、沼田)にこだわったのか私なりに良く判りました。
私は戦国武将では信玄のフアンで、どちらかと言えば真田氏は信濃先方衆として信玄の下でどんどん勢力を広げて行く姿に興味がありました。更に池波正太郎の真田太平記も何回も読みました、
帰宅してから真田氏を回想する内、どんどんイメージが膨らみ、今まで長野を旅した際、訪れた真田ゆかりの地まで想い出し結果的には長い紀行になってしまいました。


たまたま思い付きで訪ねた城が、現地に行って資料を手に入れ風景を視ることでイメージが具体化し大収穫でした。これも新井兄のお陰でした。

谷川温泉は、谷川の帰りに寄った日帰り湯がありますが、この檜の宿は部屋数を限定したこじんまりとした良い宿でした。食事も創作料理でなかなか楽しめました。

部屋の窓から爼嵓と幕岩尾根、オジカ沢上部が望まれます。

新緑の美しい季節で、沢沿いの道を辿りたくなりますが、道からホテルを見上げた位置に露天風呂があるため、散策はしずらいでしょう。
この道を辿って谷川岳の東面のヴァリエーションルートのオジカ沢、ヒツゴー沢、幕岩尾根に向かいます。

西上州に真田氏登場までの前史

戦国時代、群馬県は埼玉県と同じく、鎌倉時代から戦国時代にかけて他の関東諸国の栃木県、茨城県、千葉県が2,3の有力大名の支配下でまとまったことに反し、最終的には小田原北条氏の傘下になりましたが、中小領主が互いに合従連衡を繰り返してきた群雄割拠の地でした。

埼玉県は、神奈川県と同じく鎌倉幕府成立の母体となった武蔵、相模武士団の発祥の地で、幕府成立後、幕府親衛隊の位置づけで平家の威光の強い西日本各地の地頭として散らばったため、成田氏や猪俣党藤田氏を除いては、地元では中小の国人領主として推移し、群馬県と同じ群雄割拠の地の地となりました。

古墳時代、群馬県は毛野国と言われ、毛野氏が群馬県、栃木県をまたにかけて東国の一大勢力を築き、その力は武蔵にも及び巨大古墳をいくつも築きました。律令時代になると巨大な毛野国は、今日の群馬県の上野国と栃木県の下野国に分国されました。
やがて群馬県は利根川を挟んで、自然に東上州と西上州に分かれ、東上州は赤城山、西上州は榛名山というように信仰が2分し、巨大な赤城山の裾野の東上州は、渡良瀬川の流域の地域の下野国と一体となり発展しました。

                       22年6月群馬かみつけの里古墳群

特に古代東山道がの通リ道が、東上州の発展の背景になっていた事は間違いありません。

古代東山道は、碓氷峠から坂本を経て野後(安中)の駅を経て利根川を渡り東上州の総社に国府が置かれました。更に東進し下野国の新田を経て足利から下野国府の栃木市から奥州に向かっていたことが、沿線に新田荘や佐貫荘などのたくさんの荘園が生まれ、これらを管理する豪族たちがやがて新田氏や足利氏など大きな武士団に成長して行きました。
やがて鎌倉、室町と時代は変り、子孫たちが有力な武士団となったり或いは新たな武士団が出現し、彼らは南北朝時代の終わりには、室町幕府の関東管領山内上杉氏を支える有力武将として各地に城を築き地域に君臨しました。

一方、かって古墳時代巨大な古墳が林立していた西上州は、目立った荘園もなく中小の領主層が、守護の指示を受けて統治を行って来ました。関東の戦国時代初期には、関東管領山内上杉憲房は、藤岡の上野平井城に本拠を置き、総社城の長尾氏、厩橋の長尾氏、箕輪城の長野氏などの重臣を従え、ほぼ上野一国を領有しその勢力は北武蔵、或いは内山峠を越えて佐久地方まで及んでいました。

日本の戦国時代は、室町時代中期に、関東から始まりました。
主に下野、下総を統治していた足利将軍家の古河公方と、北武蔵と上野を領有した関東管領の山内上杉家、相模、武蔵を領有した扇谷上杉家の三つ巴の戦いから戦国時代が始まり、この50年後に新たに伊豆、南相模を手にした小田原北条氏が、関東を北上し扇谷上杉氏を圧迫、房総を席巻した後古河公方も配下に入れました。
やがて北条対両上杉の戦いの河越夜戦で扇谷、山内両上杉に勝利し、その結果扇谷上杉氏が滅亡してしまいました。
今川氏の一族?で関東では全くのよそ者だった小田原北条氏が、坂東武者の守護神の鶴岡八幡宮を修復して頼朝以来の関東の武将たちを心腹させた結果、上野を含めて関東は山内上杉氏対小田原北条氏の戦いとなったのです。

一方、山国で耕地の乏しい武田氏は信玄の父信虎の時代に、新たな耕地を求めて、諏訪氏、村上氏と連合し海野氏、真田氏など中小武士団が群雄割拠している小県地方に侵攻し、海野平の合戦で海野氏を滅亡させ、真田氏を上州に追い払ってしまいました。
この結果真田幸村の祖父真田幸隆は、上州箕輪城の長野業政のもとに身を寄せ真田郷復帰の夢を描いていました。箕輪城主長野業政は山内上杉憲政の重臣で内山峠や碓氷峠から高崎まで50以上の支城のネットワークを組み、佐久の大井氏や内山の笠原氏からの応援要請を受け、その都度信州に兵を進めていた上州一の有力武将でした。

真田郷の真田本城

                           19年11月真田の里、真田本城跡(松尾城)

真田氏は、古代滋野氏の一族との説がありますがそれは定かではありません。なぜなら木曽義仲が挙兵した際、それを従った信濃武士の名が平家物語や源平盛衰記に記されており、滋野一族の海野、根津、望月、小室、矢沢、依田氏などの名はありますが真田の名がありません。多分小県地方北部の真田郷を開拓した海野氏の一族が後に真田を名乗りましたが、義仲に従った武将として記録されるような名のある武士団ではなく、恐らく海野氏の郎党として参加する程度の土豪だったと思われます。

古代牧の管理者であった滋野一族は海野氏、望月氏、根津氏に分かれ、塩田平や海野平、佐久平など千曲川流域の弥生時代から米作の盛んな小県郡や佐久郡を領有していましたが、真田氏の本拠の真田郷は四阿山から菅平を経て上田で千曲川と合流する神川流域に沿った山間の小さな耕作地で、多分米もたくさん収穫できず養える譜代の武将も少なく親族中心の土豪程度の武将だったと思われます。多分真田氏は支流の神川流域でなく、大河の千曲川流域に領地を持つことが夢だったのでしょう。

上の画像は真田郷にある真田本城祉です。
恐らく村上、諏訪、武田連合軍と滋野一族との海野平の合戦時にはこの真田本城は築かれてなく、砦的な真田館のみだったと想います。海野平の合戦で海野氏の嫡男は戦死し、真田幸隆の弟の矢沢綱頼は村上義清に降伏し、棟梁の海野棟綱はその後行方不明になり真田幸隆は戦わず真田館を引き払い一族は上州箕輪城に亡命しました。

真田本城は、後に武田信玄に帰属し真田郷に帰還した真田幸隆が縄張りを行った完璧な山城で、おそらく真田郷で戦うことなく村上、武田、諏訪連合軍に敗退し密かに鳥居峠を越えて上州に逃げた無念が込められているように感じます。

                                同上

山城は赤松に覆われ、頂上で赤松の間に一陣の風が吹き、太郎良兄と思わず「松風さわぐ 丘の上 古城よ独り何偲ぶ 栄華の夢を胸に追い ああ仰げば侘し天守閣」を口ずさんでしまいました。この三橋美智也の歌の古城とシュチエーションは異なりますが、誰も訪れない孤独な山城に吹く一陣の松風が、今でも記憶に残っています。

この真田本城は真田幸隆が由緒ある塩田城主になっても、そこに移らず本拠にしていた城ですが、真田氏は一族の出身地にかなり拘っています。

真田郷の真田館跡

                               19年7月真田の里、真田館跡


真田郷の本拠地真田館跡です。20代の頃、菅平のスキーの帰りに通りましたが、真田郷には何もなかったような気がします。その後家内とも菅平に行きましたがその時も同じだったような気がします。

真田郷の奥深く菩提寺長谷寺

                         19年11月 真田長谷寺

真田山種🈷院長谷寺は真田郷の奥遥かな地にある真田氏の菩提寺です。幸隆が建立しましたが、この寺院の形状を見ると小さな砦という雰囲気です。用心深い幸隆は真田郷を追われても、最後の拠点となるようこの寺院を建立したのではと想います。
寺院には幸隆、昌幸夫妻の墓があります。昌幸は紀州九度山で死去しましたが遺骨はここまで運んだのでしょう。

                             19年11月砥石城跡

私は戦国の戦いの中で、村上義清と信玄が小県、佐久領郡の領有を争って激戦を繰り返した戦いが大好きです。村上義清との死闘では、信玄が生涯唯一戦いで負傷した上田原の戦いがあり、ここで信玄の片腕の家老板垣信方を失い、砥石崩れと呼ばれる信玄のもう1つの大敗戦は、更に片腕の家老の甘利虎泰を失う凄まじい戦いでした。多分この一族であり先代以来の宿老を失っていなければその後の信玄の戦略は変わっていたと想います。
武田氏を危機に陥れた猛将村上義清の旗印は、瀬戸内の村上水軍の旗印と同じで、両者系図が繋がっているという説もありますが定かではありません。

水田の乏しい山国の信玄も、古代から豊穣な小県、佐久郡に侵攻したことによって、佐久平に影響力を持つ上州の山内上杉氏との抗争がはじまりました。北条氏と武田氏の圧迫を受けて最後の関東管領上杉憲政は、越後に逃げて上杉謙信の関東進出を誘発し、砥石城の戦いで敗れた村上義清も謙信を頼ったことから5度に亙る川中島決戦が生じました。もし信玄が名誉だけで領土的野心のない謙信と同盟を結んでいたら、謙信を室町幕府の将軍に担ぎ、信玄が執権になって、信長の覇権も、秀吉の天下統一も、家康の幕府開設も無かったでしょう。
各地には目立たないけれど歴史の転換点になった地があります。砥石城はまさにその一つで、私が歴史小説家で会ったら村上義清を書いてみたいです。

信玄が大敗北した砥石城を調略に寄って信玄のものになったのは、真田幸隆の功績でした。信濃先方衆の1人として土豪に過ぎなかった真田幸隆が、信玄の覚え目出度く信濃先方衆の主力として川中島の諸城の調略に乗り出したのもこの調略成功したためでした。その意味で砥石城調略は真田家10万石一番のターニングポイントだと想います。


砥石城は元々真田氏が築いた山城で、今は上田城があるため北国街道の睨みの城と言えませんが、上田城が無かったころは小県郡に睨みを聞かせる唯一の山城でした。
村上氏は武田、諏訪と連合して小県郡や佐久郡に侵攻し、海野、真田氏を小県郡から追い払い、この難攻不落の砥石城を手に入れました。村上氏にとっては砥石城は本拠の葛尾城と塩田城を結ぶ中間点にあり、小県郡全体に睨みを聞かせる点では、この城を除いては小県郡を攻略したことにならなかったのです。

武田信玄の初陣は小海線沿線の海野口城攻略でした。いわゆる甲府から最も近い信濃国でした。以来信濃国の諏訪、高遠、伊奈地方、塩尻、小県郡、佐久郡、松本平、川中島からの北信濃と攻略を続けて来ましたが、川中島の上杉謙信との戦いを除いて、最大の苦杯を飲まされた戦いは、村上義清との小県、佐久郡の戦いで、次に山内上杉氏の重臣の西上州箕輪城主長野業政の攻略がありこれには10年を要しました。

その後、上州で浪々の身であった真田幸隆が真田郷奪還の条件で、新たに信玄に臣従を近いました。真田幸隆は村上傘下になった弟の矢沢綱頼に凋落を行い無血で砥石城を奪還し、信玄から本領への帰還を安堵されたのです。この砥石城の調略によって信玄から幸隆は信濃先方衆として徴用され川中島の戦いでは、信濃衆の調略に益々腕を振るいました。

更に幸隆は真田郷から上州北部への最短ルートとして、鳥居峠から西上州への攻略を図り、後に真田氏として重要拠点となる斎藤越前入道の岩櫃城を攻略し、信玄から城将を任ぜられ、武田氏の西上野の吾妻郡の領国化が図られました。

しかし真田幸隆には3人の男子がいましたが、長男信綱と次男昌輝は長篠の合戦で戦死し、勝頼の小姓・側近として仕えていた昌幸が真田本家を継ぎました。

ここまでが真田前史で、ここから真田昌幸、信幸(信之)、幸村の真田父子のいわゆる真田太平記が始まるのです。

真田氏と西上州のかかわりの前史、真田幸隆の時代

信濃から西上野に至る4つのルート

            16年11月碓氷峠越え                                       15年10月神津牧場

京から関東へ、すなわち信州からから上州に入るメインルートは東山道の碓氷峠越えですが、次にメインになるのは内山峠を越えて上州に入るルートです。
碓氷峠越えは尾根上を歩くので人家が少ないため、中世以降は内山峠沿線に多くの集落が生まれ、それぞれの集落付近に中小豪族が山城を構え、内山峠越えの上州から信州へのルートは活況を呈しました。
この内山峠から高崎付近の中小武士団をまとめ、鉄壁のネットワークを作ったのは箕輪城を本拠とする山内上杉氏の重臣長野業政で、10年かかって信玄に滅ぼされるまでは、西上州に君臨していたのです。

さらにもう一つは、先に触れた真田氏が開拓したルートで、真田郷から鳥居峠を越えて西上州に入り現在の草津に行く長野原線のルートで途中真田氏の岩櫃城があり渋川に出るルートです。また途中、中之条からロマンチック街道を通り直接沼田に出るルートがあり、真田氏は上田城、岩櫃城、沼田城の3大主要城を結ぶルートとして活用していたと想います。

山地のルートに真田氏がいかに敏感であったか、実感したことがありました。それは沼田から尾瀬沼の畔を桧枝岐まで幻の国道と言われる沼田会津街道を歩いた時、沼田城主信之は会津の上杉景勝の尾瀬越えの侵攻を阻止するため戸倉に関所を設けたことを知りました。米沢に入封した景勝は尾瀬を越えてまで上野に侵攻しようなどとは思わず、信之の用心深さに驚きました。最も戊辰戦争では会津軍が尾瀬沼手前に駐屯しましたが。

                         22年6月群馬箕輪城

箕輪城は上州の堅城です。関東に入封した家康は真っ先に井伊直正を箕輪城主とし、高崎を上野国の中心に添えました。

                          同上

高崎郊外の箕輪城は山内上杉憲政の重臣長野業政の居城で、上杉憲政が上州平井城(藤崗)に置いており、利根川以西の西上州は長野業政と鉄壁の布陣で、しばしば信玄が侵攻していた佐久の大井氏や内山の笠原氏に上州勢を応援に出していました。
しかし関東を北上していた小田原北条氏の交戦で、配下の武将が北条方に寝返りが続き、自らも危なくなったため、越後の守護代長尾景虎の元に逃げて、越後守護の上杉の名跡と関東管領職を長尾景虎(上杉謙信)に譲ってしまいました。

その中でも箕輪城主長野業政は、上杉方で孤軍奮闘していました。

信玄は北条氏と今川氏と三国同盟を結び、上杉氏に対抗したのです。そうして信玄は北条氏康の了解の下、25000の軍勢で西上州に侵攻し、長野氏の支城を次々と攻略し、箕輪本城を包囲し陥落させました。真田幸隆は、以前城主の長野業政の客分だったため、箕輪城の攻略には参加せず上野北部の吾妻郡の岩櫃城攻略を行いました。

北上野の真田三城、真田昌幸、真田信之(信幸)幸村父子の時代

越後と上野の間には谷川連峰が聳え、利根川と赤谷川の合流点で、清水峠からの街道と三国峠からの街道は合流しますが、小川城はこの合流点の内側、名胡桃城は合流点の外側、そして沼田城はそのやや下流の片品川、薄根川が利根川に合流する広い盆地の河岸段丘の上に築かれています。

清水峠も三国峠も完全な高山の山の峠のため、街道としての機能は少なく、北からの侵入者も無くそのため北上野は、戦国の世になっても無風地帯だったように思われます。従って鎌倉時代以来の地元の名族沼田氏が、北上野に沼田城を築いたのは1532年と遅く、信玄の初陣の海ノ口城攻略の頃でした。
三国峠は恐らく上杉謙信の関東侵攻による大部隊の通過によって、街道の整備が行われて、それまで無風な地域であった沼田周辺が戦略上重要な位置に変わったのだと想います。

信玄亡き後、勝頼の側近の真田昌幸が、父の時代から北上州担当であったことから、真田氏に命じられ、幸隆の弟の矢沢頼綱を総大将として沼田城攻略を行いました。この頃は謙信も亡くなり、その跡目相続で北条氏康の子影虎と武田氏の応援を受けた景勝との争いで、武田氏と北条氏は関東制覇を巡って激烈な戦いになっていました。

上野で北条氏と戦うべく勝頼の名で北上野の吾妻郡を攻略した昌幸はいよいよ北上野の核心部利根郡に侵攻し、最初に小川城を守る小川可遊斎を味方につけ侵攻の足掛かりとしました。


現在の小川城は、城址のど真ん中を国道17号線が横切っていますが、利根川の河岸段丘に建設した城址です。

空堀を挟んで目の前に本廓が望まれます。

多分この小川城を拠点に名胡桃城の整備、建築を図ったのだと想います。戦国の城普請は領民を使って行いますが、真田昌幸にとって利根郡は未だ未知の土地のため、小川氏の領民の応援を受けて普請を行ったのでしょう。
戦国時代の武士は戦士であり土木建築士であったりマルチな能力が求められます。

名胡桃城

昔から必ずと言っても良いほど真田戦記には名胡桃城の名が登場してきました。

名胡桃城は福島の霊山や吾妻の岩櫃城のように、麓から聳える岩山の堅固な城郭のイメージがありました。
しかし実際に名胡桃城を訪ねてみると、小川城と同じく利根川の河岸段丘の台地の上に築かれた平城で、城郭機能としてのささ郭、本郭、二の郭、三の廓以外の外郭を構成するスペースが広く、城主や家臣団たちが生活しやすい環境です。

信玄は海ノ口城攻略の初陣から、死するまでの37年間に72回の戦を行いました。信玄の戦ですから小規模な小競り合いではなく、1万人以上を動員した平原の大会戦や攻城戦の皆大規模なもので、決戦の場合は野宿と想いますが侵攻の拠点となる城は大兵力が長期間居住できる施設が必要です。

名胡桃城は駐車場となっている般若郭と小さな谷を隔てて、尾根上にささ郭、本郭、二の郭、三の郭と連結して配置した連郭式縄張りと呼ばれる山城です。

名胡桃城には、旧カフェを利用したみなかみ市直営の観光案内所がありました。名胡桃城関連のパンフでも頂こうと入ったら、びっくり。上田城、松代城、岩櫃城の真田氏に関するパンフまで揃っていました。もちろん名胡桃城もありました。

しかも名胡桃城を案内して頂ける職員もおられました。

みなかみ町教育委員会、観光商工課、みなかみ町歴史ガイドの会編、名胡桃城址パンフより

名胡桃館は室町時代沼田氏の一族の名胡桃氏が、現在の名胡桃城址の駐車場である般若郭に居館を築いたことが始まりと言われています。
謙信や信玄亡き後、同盟から敵対と変わった北条氏を北上野利根郡から駆逐するために勝頼の命を受けた真田昌幸が、吾妻郡の拠点の岩櫃城主矢沢頼綱を将として、北条氏の北上野の拠点の沼田城の攻略を開始しました。
1579年、最初に小川城の沼田氏の一族小川可遊斎を味方につけ、隣の同じ沼田氏一族の名胡桃氏が居住する名胡桃館を攻略し、その隣に沼田城攻略の前進基地として名胡桃城を建設しました。

名胡桃城馬出を望みます。馬出は城の入り口虎口を直接防御せずに、虎口の前面に馬が出撃できるような郭を設けます。郭の形は半円と角の両方ありますが、騎馬戦を得意とした東日本の戦いで良く見られ、特に武田氏や北条氏の築城で良く見られました。

大阪冬の陣の真田丸は、真田幸村が武田氏の兵法で学んだ馬出を大規模に構築したものと言われています。

名胡桃城の大々的な発掘調査は、平成になって始められたそうで、現在でも続けられています。

大正13年に本郭に建てられた徳富蘇峰揮毫の碑です。確か徳富蘇峰は明治初期のキリスト者の熊本バンドの一員で、上州沼田とどんな関係があるのか1瞬不思議に想えましたが、ガイドの方に徳富蘇峰と名胡桃城の関係を聴き忘れてしまったので、昭和43年作成した名胡桃城保存会の会長の手記がネット検索をしていたら見つかりました。


保存会の会長は旧制沼田中学の2年生の時、校長の先導で生徒全員が名胡桃城址にやってきて感銘を受け、やがて寄付集めから土地の買収まで城址保存に力を注ぎました。
城址の碑の揮毫は当代一の文豪徳富蘇峰にダメ元と想いお願いしたら、氏は丁度日本国民史の豊臣秀吉の項を執筆していたため、奇遇と感じ二つ返事で引き受けてくれたそうです。氏の揮毫は巨大なためそれに合う石を探しました。ガイドの人は、近くの山を振り返り、大きな橇をつくり8合目から引いてきたとの事でした。

頼山陽に傾倒し日本歴史の造詣が深かった旧制沼田中学の校長の導きで、歴史の中と桑畑に埋もれた地元の古城の歴史に感銘を受けた若者がやがて多くの人々を動かし、郷土の歴史を眼に見える城址という形で再現しました。更に天下の文豪の徳富蘇峰がその意気に打たれ、その事績ができるだけ世に残るように大きな字で揮毫したのです。徳富蘇峰は明治初期のキリストの熊本バンドの一員でしたが、西欧文化に馴染めない熊本を後にして、メンバー全員で京都に移動、そこで知り合った新島襄の同志社に参加しました。

名胡桃城の発掘保存には地元の中学生が、先生の話を聞いて感銘を受けたことから始まったとガイドさんからお聞きしましたので、やはり書物でなく現地に来ると地元ならではの発見があるものだと改めて想いました。

名胡桃城のささの郭の先端から、河岸段丘の対岸を眺めました。
多くの人たちがそうであるように、私は山上から大河の流域を眺めることが大好きです。二本松城から阿武隈川の流れも好きでしたが、ここではより間近に利根川の流域を望めます。悠々と流れる大河の流域の田畑やうねった道、そして軒を重ねる様に建つ家々、そこにはこの地で暮らす数多くの人々の営みが見えます。そこで暮らす数多くの人々それぞれに、感情があり感覚があり思考があり、時に災害や些細な出来事に遭遇し喜怒哀楽を重ねながらそれでも日々穏やかに何年も、何十年も、何百年も暮らして、やがては悠久の歴史の中に組み込まれて、川と一緒に流れて行く、そんな風景が大河の流域では出会えるのです。

対岸の山の麓までの距離は遠く、こちらの河岸段丘の高さは、恐らく下から見たら名胡桃城は堂々たる山城の形をしているのでしょう。この幅の広さと河岸段丘の深さが坂東太郎の上流の凄さを物語ってくれるのです。

この風景を視る前は、ガイドさんにこの辺りの年貢は何で納めているのかお聴きしようと想いましたが、この風景を視て私自身瞬間納得し、逆にガイドさんにこの辺りのお米はおいしいでしょうと質問したら、ガイドさんから我が意を得たりと答えが返ってきました。この利根郡のお米は山向こうの魚沼産に負けないと。
更に私は、利根郡の方が寒暖の差が激しいから魚沼産以上でしょうと質問したら、ガイドさんは川場米はお米の相場を遥かに超えた位置づけにあると話してくれました。

同時にこの地形を見て、信濃国の山間の土豪出身の真田氏がなぜ利根郡の沼田郡に拘ったのか?その謎が全て解った気がしました。

戦国時代米は貫で表示されました。まさにお金です、領土の石高が多ければ多くの兵を養えます。山国の武田氏は乏しい米の代わりに金山を持ちました。伊達氏も東北の金山を、常陸の佐竹氏も八溝金山で戦もせず秀吉に喜ばれました。上杉氏は米沢に移封しても佐渡金山は離しませんでした。尼子氏と大内氏、毛利氏の抗争は石見銀山の所有が影の原因でした。もう一つ軍資金調達の方法は海外交易と塩田開発そして産業の振興でした。

畿内や西日本の戦は調略戦が多いのは、水田を壊さないためです。反面東日本の戦は、水田が少なく畑地や台地が多いため騎馬による大会戦が多く、死傷者も甚大でした。
関東の激烈な戦の経験のない秀吉は、坂東武士たちとの戦を恐れ、天下平定のための北条氏攻略は最後に残し、25万の大軍で水軍まで動員して小田原を攻めました。関東の攻城には、秀吉陣営最強の上杉、前田、真田の北国軍を編成し松井田城、鉢形城、武蔵松山城、岩槻城、八王子城と1箇所ずつ落城させました。しかし三成が水攻めで挑んだ忍城攻略には手こずり小田原落城後まで残りました。関東の諸城は調略は効かず、大半が本丸までの攻防戦となり多くの将兵が討ち死にしました。


ガイドさんはまた対岸の三角の山に、戦国時代小さな金山があり、そこに1人のキリシタンが潜入し、多くの鉱夫や家族に布教しこの地にキリシタンが増えたという地元ならではの小さな歴史を語ってくれました。
金山があったというのも初耳ですが、武田氏の甲州金山は有名で、武田氏の元で働いた真田氏は信之が沼田城主になって金山を探したのでしょう、真田氏の抜け目のなさと、隠れた郷土の歴史に改めて想いを馳せました。

沼田城

名胡桃館を手に入れ隣に名胡桃城を築き、沼田城攻略の前進基地とした翌年の天正8年(1580)に真田昌幸は戦わずして北条氏の城代藤田信吉が守る沼田城を手に入れました。

この沼田城を手に入れたことから真田氏の運命は大きく変わりました。

それが真田氏の歴史にとって良いことだったのか、悪い事だったのか良く判りません。
真田昌幸が沼田城攻略を行う前直前から、北上野利根郡の沼田城の位置づけが大きく変わってしまい、沼田城が以前に比べるとその戦略的重要性が大きく変化してしまいました。1つは謙信の関東侵攻によって三国峠が越後と関東を結ぶ重要な交通ルートになり、北上野の交通の要衝としての沼田城が脚光を浴びた事。2つ目は信玄によって西上野の戦略的要衝の箕輪城が滅び長野氏も滅亡したこと。そして国府が存在した東上野の厩橋城の長尾氏もいなくなり、城そのものの存在が低下したこと。この2点によって上野における沼田城の存在が比較にならぬほど増大したことです。更に小田原北条氏は上野攻略に当たっては、信玄の息のかかった箕輪城や謙信の居城であった厩橋城には目もくれず、沼田城代は武州鉢形城の城代の猪俣党藤田氏の支族を宛て、小田原北条氏の最前線の城としたのです。

このような情勢の中で真田郷の小さな無名の土豪で、信玄の信濃先方衆として少し名が知られるようになった真田昌幸が、沼田城を攻略して北上野利根郡を手に入れたことから、武田信玄、勝頼、織田信長、秀吉、滝川一益、徳川家康、北条氏直、上杉景勝など戦国を代表する武将たちと直接もまれながら、家名を存続させた真田氏3代が、歴史ドラマの豊穣な物語となって歴史に残りました。
いわば野球で言えば、高校県大会の無名選手が、いきなりプロのオールスター戦に出場してきて、レギュラーを張るレベルかも知れません。

真田幸隆が世に出るきっかけとなった信玄の信濃先方衆で、長男次男を長篠戦いで戦死させるほど忠勤に励み、その信用で3男昌幸は勝頼の小姓となり、先方衆から勝頼の側近となりました。しかし武田氏の滅亡により昌幸、信之、幸村の真田親子は、列強の間で抹殺されないように、うまみな同盟政策と反抗を繰り返しました。


武田氏の滅亡

織田信長と徳川家康は武田氏を滅亡させた時から信濃国は信長の関東管領軍の滝川一益が侵攻し小県、佐久両郡を領有し沼田城を本拠としました。主の居なくなった真田昌幸は信長に降伏し滝川一益の与力を命ぜられ岩櫃城を本拠として一益を助けました。

信長の死によって信濃国の争奪戦が始まる

これもたった3か月後に信長が本能寺で倒れたため、武田亡き後信濃国は、家康、北条氏直、上杉景勝の3つ巴の抗争の場となり、北条氏直が北上野に侵攻し神流川の合戦で滝川一益を破り、一益は沼田城を退去し尾張に逃げ帰りました。真田昌幸はこの間、小県や佐久の旧武田家臣たちとよしみを結び、彼らの支持で岩櫃城から小県の砥石城に入り、更に主の居ない沼田城に叔父の矢沢頼綱を奪還し、岩櫃城には子の信幸(信之)を城主にして上野方面の守備を囲めました。

真田氏、北条氏直に付き直ぐに家康に鞍替えする

信濃国をうかがう上杉景勝はたびたび川中島に侵入してきましたが、千曲川を守る意味で家康から上田城の建設を命じられました。家康は秀吉と小牧・長久手の戦いの後、和議を結んで撤兵しましたが、北条氏直と和解も行いました。氏直の和解の条件は真田氏の沼田領を北条氏に引き渡すことでしたが、真田昌幸はこれを頑なに拒否しました。

家康との抗争、第1次上田合戦

真田昌幸は家康との抗争を決意し、2男の幸村を上杉景勝の人質として差し出し景勝に従属しました。
沼田領を放そうとしない昌幸に対し、家康と北条氏直は部下に命じて7000の兵力で上田城を攻めましたが、昌幸は2000の兵力で撃退し1300人の損害を与えました。

真田氏の秀吉臣従

天正13年(1585)上杉の人質だった幸村を秀吉の人質に差出し、天正15年には駿府で家康と会見後大阪で秀吉に謁見し、秀吉家臣となりました。

秀吉の沼田領の裁定

秀吉は全国の大名に戦いを止めて上洛するよう命じましたが、北条氏直は上洛の条件として吾妻、利根郡の領有を要求しました。これに対し昌幸は沼田城を渡しても名胡桃城は渡せないとの訴えで、部下2人に現地調査を命じ、おおよそ利根川を境に東を北条領、西を真田領とする裁定を下しました。

その結果沼田城には武州鉢形城主北条氏邦の重臣の猪俣邦憲が城代として入場し、名胡桃城には昌幸の家臣鈴木主水が城代として入りました。

これで1件落着と思ったところ沼田城代猪俣邦憲が名胡桃城を不法に攻略するという事件が起きました。

秀吉の小田原北条攻め

この北条氏の行為に激怒した秀吉は、25万の大軍を持って小田原攻めを敢行しました。真田氏は上杉景勝軍、前田利家軍と共に最強の北国軍を編成し、松井田城、鉢形城、松山城、八王子城など北条最強の諸城を次々と落城させ、小田原城は陥落し北条氏は滅び天下は統一されました。

初代沼田藩2万7千石藩主真田信幸

北条氏滅亡後、秀吉から真田氏は信濃2郡と北上野2郡を安堵され、その結果、昌幸は沼田城には長男の信幸(信之)を利根郡の領主として配し、自身は上田城に移りました。
秀吉は関東を家康に与えたため、沼田城の信幸は家康の家臣となり、天正18年(1590)に沼田藩2万7千石の初代沼田藩主となりました。

信幸は長い戦乱で疲弊していた沼田領内の復興に努め、年貢の減免、田畑の開拓、町割りを行い、五層の天守閣や櫓、門などを建設し、近世城郭として整備を行い、城下町沼田の基礎をつくりました。

第2大沼田城主真田信吉時代の城下町です。青が掘、紫が武家屋敷、緑が町屋、黄色が社寺です。かなり急速に城下町の整備を行いました。

旧沼田藩士の子息久米民之助は私財を投じ荒れ果てた城址を購入し、現在の公園の西半分を中心に造営工事を行い沼田町に寄贈しました。地方文化の興隆にはこのような人が存在していたのです。

明治31年村役場に建てられ、昭和58年城址に再建された鐘楼、城鐘は2代藩主真田信吉が鋳造しました。

河岸段丘の台地に作られた沼田城から利根川を望みます。下からは見上げるほど高い沼田城だったと想います。先に絵図があります。

鐘楼の下は遊歩道になっています。右は利根英霊とありますが、護国神社の事でしょう。いろいろな人がいるため市営公園には護国神社を名乗れないのでしょうか。

沼田初代城主真田信之は家康に見込まれ、徳川四天王の1人本田忠勝の娘小松姫と婚姻しました。小松姫は家康の養女になりそこから信之と婚姻しました。関ヶ原の戦いの直前、信之と昌幸、幸村と東西別々な軍につくことになり、その話し合いを終わって上田への帰り道に、嫁の顔を見ようと昌幸、幸村は沼田城を訪ねましたが、小松姫は夫の留守を理由に、父であっても何人も城内に入れぬと気丈にふるまい拒絶した逸話が残っています。

今回の真田の城巡りは谷川温泉で、水上町の観光案内パンフを眺めながら突然思いついたことで、同行してしてくれた山の会の新井兄には感謝です。でも新井兄も歴史好きで結構楽しそうでした。
現代社会は実体のない空虚な情報が飛び交いますが、歴史というのは解釈は別として事実の積み重ねであり、実際に残っているものを見るという実在の確認作業です。歴史の楽しみとは実態の在るものに直接触れる楽しみがあるのです。

関ヶ原以後破却された上田城

真田昌幸の居城であった上田城は、関ヶ原の合戦に向かう徳川秀忠軍を堰き止め、秀忠軍が関ヶ原に到着した時は、既に戦いは終わっていました。
昌幸に恥をかかされた秀忠は、長い間これを根に持ち、沼田城主であった信之にも警戒の念は消しませんでした。

関ヶ原で西軍についた昌幸、幸村父子は高野山の麓の九度山に蟄居させられ、昌幸が築城した上田城は破却されました。
沼田城主真田信之は、父領を引き継ぎ沼田3万石を含む9万5千石の上田藩主になりましたが、居城は沼田城でした。

                          21年10月上田城跡

上田城に行くと、城内には真田神社まであり、真田一色であたかも戦国真田氏から明治まで真田氏の居城であったかのように見えますが、実際上田城は、昌幸が現在の位置に城を築きましたが、関ヶ原合戦後破却され、現在の上田城は佐久から上田に移封した仙石氏が新たに城を築きました。仙石氏は3代続き、その後松平氏が明治2年まで上田藩主として存続したのです。

明治になり多くの城がそうであったように上田城も民間に払い下げられ上田城の象徴であった櫓2基は太郎山麓の上田遊郭に移築されてしまいました。
明治新政府の廃物稀釈と廃城令は、日本中の多くの文化財を破壊してしまい、日本史に汚点を残しました。

明治まで続いた真田氏の松代城

松代藩は元和8年(1625)真田信之が上田藩から松代藩に移封し沼田領と合わせて13万石となります。しかし沼田領は信之の長男の藩主信吉が死去し、相続が2系統となり内紛が生じたため、沼田領は沼田藩3万石として松代藩領から独立しました。沼田藩はその後、暴風雨で破損した江戸の両国橋架け替え工事の木材の調達を請け負いましたが、調達が極度に遅れたため5代で改易となりました。


しかし真田氏本流の松代藩は10万石として明治まで続きました。

13年6月松代城跡

松代藩真田家は10代存続し明治まで松代藩10万石を維持し、信濃国唯一の大藩として幕末の偉人佐久間象山などの人物を生みました。
大名家の存続は、医療の発達していなかった時代、長子相続は少なく次男3男、或いは孫の存続もあり、それでも存続平均4代と言われており、大半の大名家は養子で家の存続を図りました。

信之入封後明治まで10代存続した松代真田家も、7代、8代、10代と幕府の重鎮の大名家から養子を迎え存続したのです。
たとえば7代藩主幸専は彦根藩主井伊直幸の四男で六代藩主幸弘の養子となり家督を継ぎました。
8代藩主幸貫は白河藩主松平定信の次男で七代藩主幸専の養子になり家督を継ぎました。
最後の松代藩10代藩主幸民は宇和島藩伊達宗城の長男で、9代藩主幸教が病弱のため養子に迎えられ17歳で藩主になりました。

谷川温泉の翌日、名胡桃城と沼田城を訪ねたことから、過去何回かの旅で訪れた真田郷や長谷寺、砥石城、上田城、松代城など真田史跡が想い出され、思いのほか真田氏に関わり合ってしまいました。幸隆、昌幸、信之、幸村兄弟の真田3代の物語は、波乱に富んだ物語です。今回は幸村の大阪冬の陣、夏の陣には触れませんでしたが、それを入れなくても、物語は壮大です。


真田郷は、千曲川流域と違って、四阿山から千曲川に注ぐ神川の小さな流域にあり、多くの人は養えない地形です。多分真田郷時代の動員兵力も親族合わせて2、300人レベルの、軍隊で言えば中隊レベルの土豪に過ぎなかったと思われます。


古代から信州の数少ない豊穣な地である小県郡や佐久郡のメイン地域は、千曲川に沿った旧東山道沿線に当初上田に信濃国府が設けられ、また付近には鎌倉北条氏の塩田平がありましたが、真田郷はこれらのエリアに比べると米作には適さない地であることは判ります。しかし真田郷には上州渋川に抜ける鳥居峠という秘密の峠道がありました。

米に恵まれなかった真田氏には譜代の家臣団も出来ないため動員兵力は少なく、第1次上田合戦でも一族合わせて1500人、軍隊で言えば指揮官は中佐レベルの1個大隊程度でした。第2次上田合戦では信之の沼田藩勢は東軍に付きましたが、西軍の昌幸、幸村の動員兵力は2,000人で、これでも連隊規模に達していません。これに対し秀忠軍は35,000人でこれは師団規模でした。

私の独断ですが、双方とも德川軍との戦いでの勝利ですが、真田昌幸の戦術が際立っていたこともありますが、多分、織田、徳川、秀吉の尾張、美濃、畿内の戦いと、武田、上杉、北条などの東日本の戦いのレベルが違い過ぎたのだと想っています。我が国の戦史では関東と九州の戦いが際立っていたことは疑いもありません。

山間の小さな土豪に過ぎなかった真田氏が、松代10万石で明治まで存続したのは、幸隆、昌幸、信之、幸村兄弟の真田3代の人物と能力の賜物です。また7代井伊家、8代松平定信、10代伊達宗城の名族たちが真田家に養子を出したのは、江戸期を通じて真田伝説が語られていた結果だったのでしょう。