青田を眺めるバイクコース

見沼田んぼは私にさまざまなことを教えてくれるきっかけになった場所です。
神様のことも、古代の歴史の事も、自然のことも、農業の事も全て見沼田んぼを基本に置いて考えてきました。

5月に瀬戸内旅行の最後に岡山の吉備の里に行きました。吉備の古代発掘センターの展示を見ていたら吉備は石器時代、縄文時代、弥生時代、古墳時代、鎌倉時代、江戸時代の各時代の歴史が1箇所で見られる稀有な地であることが解りました。
それを見ながら改めて、見沼田んぼも縄文海進時代、弥生時代、古墳時代、奈良時代、平安時代、鎌倉時代、戦国時代、江戸時代と古社があるお陰で、各時代が見られる稀有な地であることに気づきました。

このように先史時代からの歴史の想像力が湧き出る地に、日々接して暮らせる幸せを感じます。

早朝バイクに乗り最初に訪れる場所は氷川女体神社です。ここでお参りを済ませ、後は一気にベダルを漕いで見沼を1周します。
交通安全祈願のためにお参りする訳ではありませんが、今まで幾多の人がお参りしたであろう古社の崇高な神々しさに心を寄せたいと想っているからです。
神社は5時半になると灯明が点けられ、毎朝ボランティアの人たちが掃除にやってきます。今朝は5時過ぎだったので境内はひっそりしています。

浦和所沢線の越谷に抜ける新見沼大橋です。この橋は未だ人力で有料を続けています。機械化していないのは事情があるためでしょうか、それはそれで目くじらを立てる必要もないでしょう。
この橋はゆるい傾斜が続くことと必ず風を受けますが、路面が安定していることと、通行人が少なく前方が見渡せるため全力で走行するため息が弾みます。こうやって止まって写真を撮るなど皆無です。

芝川を渡ります。

見沼大橋は自転車も1回20円の有料で料金箱に入れます。10回の回数券があるため小銭を探さなくてもスムーズに料金を払えます。
自転車と歩行者は同じ路肩を走りますが、歩行者はウオ-キングとジョキングの人たちだけですが、自転車料金を払っているので彼らに遠慮せず通行できるため気が楽です。

橋を渡り終えたら、橋の下に下って、いよいよ東縁の代用水の畔のヘルシーロードを走ります。土手のヘルシーロードは歩行者と自転車と混在ですが、大した近道にもならないのにたまに車も通行してきます。

ヘルシーロードはある区間、遊歩道になっているため、この区間は自動車道路を走ります。新見沼大橋は有料のため、この道が122号や東北道への抜け道になっていて信号も少ないため車は思い切り飛ばします。早朝は車も少ない反面、この先に前方が見えにくいカーブがあり、対向車が膨らんでくるため、それに対応する車が路肩に凄いスピードで寄せてくるため恐怖の時が続きます。多分車もあおり煽られながら走行するため、カーブでバイクが路肩を走っているのを気づくと、彼らもハンドル操作が必至だと想います。ですからバイクは後方の点灯ランプが有効で、バックミラーで後方からやってくる車を確認し、多少首を振って追い抜き車に気が付いているよというサインを送り、運転手を安心させます。

見沼自然公園の縁を走行します。いつも寄りたいのですが、走行を中断するとトレーニングにならないので、我慢してそのまま走り続けます。

公園にはベンチが少なく昼間は苦労しているひとが多いのに、公園の前の土手の上にだれも休まない休憩所をつくるなんて、行政のやることは腑に落ちません。

ヘルシーロードは見沼自然公園から県道214号線を渡る際は難所です。県道214号はバス道路でもあり見沼を横断する道路としては、最大の交通量があります。しかしこの214号線を横断するために、右方面はカーブしていて見通しが悪くミラーもありません。従って道路を渡る際、右方面の確認はエンジン音で感知するしかありません。このカーブの危険さを知っている心優しい路線バスや大型トラックの運転手さんは止まってくれることもありますが、大半の車はこんな所自転車で横断しやがってという雰囲気ですが、私が後続車を抱えている運転手だったら止まるでしょうか。むしろ止まることによって追突のリスクを背負う事にもなります。
これからも相手に期待せず、車が完全に来ない時に渡るしかありません。

若い時はこの程度の道路の横断は何の気にもなりませんでしたが、歳を取ると動作が鈍くなるため安全第1になるのです。

大昔、我が国が車社会に突入した時代、当時伝統的に歩行者やサイクル走行を尊重するヨーロッパは、識者の間では自転車化社会と呼ばれ成熟化社会の象徴でした。30年前、ドイツでは街の中心に車の侵入をさせず市内への交通はトラムで行っている街がありました。その旅でドイツのアウトバーンを走った際、3車線の道で前方3㌔先が工事で2車線になるという標識が現れたとたん、内側の車線には通らず全て2車線走行になり驚きました。また大型トラックは3車線の内側車線専門で決して中車線に走行しません。中車線は平均170㌔でそれに耐える性能の車や運転手しか走らず、外車線は200㌔以上で走ります。我が国のように中車線をマイペースで走る車や大型トラックも無く、横入りや頻繁な車線変更など皆無です。それと比べると我が国は馬車の時代を経験していないためか、車のマナーでは今なお成熟国家に程遠い状況だと想います。

江戸時代の見沼干拓以来の加田屋新田です。
見沼田んぼすべてがそうですが,給排水システムが実に良く出来ています。中には休耕田が多く、ほとんど使われていない溜枡も見かけます。

見事な加田屋新田の青田です。
30代の頃東海道新幹線で良く出張に出かけました。東海道メガロポリスは完成していて、名古屋を過ぎるとミニ開発が進行し車窓から見る風景は、水田が破壊され資材置き場や廃棄物置き場など見苦しい風景が続きました。しかしその風景も6月から7月になると一変し見事な青田の美しい緑の風景に変わりました。

東北新幹線ができると、車窓の風景は東海道新幹線と比べようもないほど見事な緑に包まれていました。特に水田の風景はあぜ道の畔もきちんとかたずけられていて、東海道新幹線の車窓から見る水田の端にドラム缶や廃棄物が放置されているような見苦しい風景は皆無でした。その光景は雪国は水田の周りには廃棄物を放置しないルールがあるかのようでした。おそらく寒冷地で稲作を行うことは大変で、水田は聖なる地の感覚があったのでしょうか、昨秋山陰を旅して見た水田も東北地方と同じように、水田の周りにはキチンと片付けられていました。

我が国の水田の美しさはもっと誇っても良いと想います。

加田屋弁天です。

見沼弁財天です。

七里総合公園の手前から左折し見沼代用水東縁から分かれます。また見沼田んぼの縁を左折し「ホタルの森」にそって進みます。通勤時間帯はこのカーブが多い抜け道も恐怖の道に変化しますが、早朝のためほとんど通行する車はなく安心して走れます。

見沼田んぼの複雑なことは、田んぼの真ん中に島のような台地が広がっていることです。右の森の奥は台地です。

NPO法人が行っているどろんこ田んぼです。

右にさいたま市営の広大な大宮霊園の裏口があります。

さいたま市片柳コミュニティセンターとさいたま市片柳図書館の前を通ります。旧大宮片柳地区の旧片柳村は明治22年13ケ村が合併し一番大きな村の名片柳村となり、旧大宮市に合併したのは1955年、戦後10年経ってからの、独立した歴史ある大きな村でした。ですからここに図書館やコミュニティセンターが存在するの歴史的にも当然なことです。

江戸時代の片柳村の実力は熊野神社や旧片柳村を散策していて江戸時代の参拝記念の碑が多い事でした。三峰講、御岳講、伊勢講などのたくさんの参拝記念碑を見ると、片柳村と周辺の人々は競って旅に出ていたことが解ります。また片柳村には筆塚があります。筆塚は片柳村の名主の守屋巌松斎を顕彰した塚ですが、巌松斎は正風遠州流華道、書道の師範で日光御成街道や中山道沿いに数百の門弟を抱えていたと記されています。そのような教養人を名主に持つという事は、天領片柳村が豊かな農村文化の地であったことを物語っています。また村内には名刹も多く寺に寄進していた農家の豊かな背景もあるのでしょう。

私たちは小学高時代、江戸時代は封建時代で、士農工商でありながら農家は虐げられてきてお米も満足に食べられないと教わりました。しかし中年以降になって、江戸時代の研究が進み、天領、旗本領と藩領の租税の率が異なり、天領、旗本領は惣村としての自治も認められ緩やかな税率で、豊かな時代を贈りました。藩政も過酷な藩と緩やかな藩があり富国強兵を目指した藩ほど過酷でしたが、東北諸藩は飢饉のときは税の免除を行い、商人から借り入れでしのぎました。東北地方で身売りが生じたのは、藩というバッファーが無くなり直接税を納めるようになった富国強兵の明治新政府からでした。
歴史を常識的に紐解けばすぐわかることで、家康は関東入府に当たり、善政を施した北条氏の地の反乱を恐れ、天領、旗本領では旧武士の村三役による大幅な自治を行い善政を行いました。江戸城普請でも石垣工事には島津氏は3000隻の船を要して伊豆から江戸に運びましたが、埼玉の農民には動員令はかかりませんでした。

見沼の干拓でも幕府は2万両も出したのに、恩恵受けた農家の新田買取額はたったの2,100両で完全な持ち出しでしたが、新たに5000石が収穫され、それが未来併合生ずるという投資計算で成り立たせていました。

見沼田んぼに戻ってきました。

芝川の風景です。

昔だったらここで一服でしたが、今はここでポカリを飲んで一息です。家を出てちょうど1時間です。