北アルプス双六山行、3日目

今回鏡平山荘に来るのは4年ぶり4回目です。ということは初めて鏡平山荘を訪れたのは8年前でした。この鏡平山荘では実にいろいろな事に出会いました。

16年8月、鏡平山荘→双六、三俣蓮華岳、黒部五郎岳、太郎平縦走

50年ぶりに登った鏡平までの小池新道の整備の素晴らしさに感動し、山荘の責任者にお礼を申し上げる際、現れたのが大沢支配人でした。小池新道の整備の素晴らしさを山の会OB会の機関紙に寄稿しました。
山行はOB有志山行ということで私と島田、新井の役員会メンバーに加えて太郎良兄が参加しました。

                                          黒部五郎岳

黒部五郎カール
北ノ俣岳

4泊5日の日程で、当時は夜行バスで新穂高に行きました。鏡平山荘から双六、三俣蓮華岳を経由して黒部五郎小屋に宿泊、翌日は誰もいない黒部五郎岳を登頂し、誰もいない北の俣岳で都の西北と早稲田の栄光を歌いました。太郎平に泊まり、下山して大山村の宿に泊まり、町の小さな博物館で、大山の出身者播隆上人と長次郎を偲びました。

17年7月、鏡平山荘→笠ヶ岳→双六→三俣蓮華→雲ノ平→烏帽子岳→大町(後半台風襲来のため中止)

今年もOB有志山行として1週間にわたる長大な縦走を計画しました。メンバーは私と島田兄、新井兄、太郎良兄に加えて新たに吉田さん、佐久間兄、後藤兄が加わりました。ただし島田には所用で最初から参加できず、笠が終わって双六小屋で合流し後半を同行する予定でした。
仕事を済ませた大沢支配人と親しく談笑しました。メンバーは皆お酒が好きで話が大いに盛り上がりました。

                            大沢支配人を囲んで

                    抜戸岳目指して秩父沢源頭をゆく

                         笠ヶ岳ピーク

学生時代北アルプスで登り残した山は北は朝日岳、雪倉岳と南は笠ヶ岳でした。笠ヶ岳は巨大な山で、いくら歩いても笠ヶ岳山荘には着けませんでした。
入山前から台風が発生していましたが、大沢支配人は米国製の最新気象予報ソフトを導入しており、その情報では北アルプス中部を直撃することが確実になりました。笠ヶ岳山荘で縦走継続か中止か悩みましたが、奥の雲ノ平方面に入り込んだら脱出が容易でないので、双六まで行かず思い切って前半で中止し笠新道を下ることに決定しました。夜行で双六小屋に入山するため、家を出る寸前の島田兄にTELして、入山を断念して頂きました。彼は1週間分の昼食のレーションを用意しザックにパッキングし、いざ出発の時に無理やり断念して頂きました。その後ある場所で台風時雲ノ平から下山した人と話す機会がありましたが、あの時の下山の決断は正解でした。しかし島田兄には今でも申し訳なく想っています。

18年8月、鏡平山荘→双六小屋→三俣蓮華→雲ノ平→烏帽子→大町(鏡平で中止)

この年のOB有志山行は昨年台風で果たせなかった雲ノ平から烏帽子の縦走を計画しました。メンバーは昨年のメンバーに太郎良兄に代わって上原兄が加わりました。

ところが。

鏡平山荘に着いたら何を飲むかそれぞれ登りながら考えています。

この年のパーティが7人と最大でした。ここまでは明日からの縦走に備えて元気いっぱいでした。

大沢支配人と

        縦走を中止して急遽下山し上高地に向かう。秩父沢にて                                       

夕食が終わりくつろいでいた時、山の会OB会事務局の名達兄からメールが入り、10代下のOB仲間の高野君が、ワサビ沢から明神岳S字状ルンゼ下降中行方不明となった連絡が入りました。高野君は単独で上高地の日本山岳会の山岳研究所に数日間宿泊して、毎日奥又白や前穂周辺に出かけ、その日は明神方面に出かけS字状ルンゼを下降しようとしたが増水して下れないのでそのままビバークするとの連絡が山岳研究所のMさん宛に入りました。翌朝Mさんが高野君にTELしても連絡がないので、山岳会幹部と長野県警、そして以前宿泊した山の会OBに連絡したとの事でした。事務局の名達君はOBから連絡があり、役員会メンバーにメールしたとの事でした。

高野君はかっては我が国を代表するクライマーで多くの名だたる先鋭的なクライマーとも交友があり、今回の山行は昔よく通った地を訪れるセンチメンタルジャーニーではないかと言っている人もいました私たちは山行を中止し明日は下山し上高地に回るように決めました

上高地に入ると日本山岳会の山岳研究所Yさんと山岳会副会長の2人が到着していて、警察はヘリで捜索しているとの事でした。皆でS字状ルンゼを少し登り、副会長はドローンを飛ばして捜索しました。
翌日奥さんと娘婿のご家族が到着しました。警察からの捜索連絡を待ちました。
翌日朝、私だけが残りメンバーは帰宅し、入れ替わり高野君の友人が到着し、彼のことをいろいろお聴きしました。翌日は日本山岳会のYさんとご家族と共に松本警察を訪れ、3日間で捜索は終了するが、穂高に出動の際は、ヘリで現場周辺を確認する旨のお話を頂きました。

第2次捜索

遭難現場が一般登山道でなく捜索困難な場所であり、ご家族の要請で専門のクライマー集団に捜索を依頼し、毎日の捜索の打ち合わせと確認に、私と倉川兄、それに高野君の御兄弟が上高地に再度集合し、5日間の捜索を行いました。

5日間の捜索し結果が出ませんでしたが、その3日後県警ヘリがワサビ沢右股で高野君を発見し収容しました。

19年8月、鏡平山荘→双六→三俣山荘→雲ノ平→鷲羽岳→双六→鏡平(悪天中2名が鷲羽往復)

今回は烏帽子岳まで行かず鏡平から雲ノ平往復の山行を企画しました。メンバーは私と島田、新井兄、吉田さん、そして佐久間、上原兄の6名です。

この鏡平の山行にはいろいろあるもので、出発前夜翌朝出発に備えて就寝しようとしたら斎藤代表からTELあり現役学生が秩父の沢で遭難死の連絡を受けました。
私はOB会の役員を退いていたので、副代表の新井、島田両兄を現地に行って貰い、有志山行は私と吉田さん、上原、佐久間両兄でい行くことになりました。

           大沢支配人を囲んで、 上原兄はこの後病気のため亡くなりました。彼によっては最後の山行になりました。

急きょ参加者が4名になりましたが、今年も鏡平山荘では大沢支配人が待っていて頂いて、他の登山者たちも加わり楽しい談笑のひと時を過ごしました。

                    この年初めて朝立ちでワサビ平小屋に泊まりました。

今年は夜行バスでなく、朝立ちでワサビ平小屋に宿を取りました。通夜、葬式の日取りが決まったので、それに合わせて吉田さんと下山することになり、上原、佐久間両兄には予定通り奥まで縦走することとしましたが大雨が予想されるため、雲の平は断念し雨の中の鷲羽往復に留めました。

                    鷲羽岳ピーク、上原兄と佐久間兄

18年、19年とこの山行に参加した上原兄はその後突然病気で帰らぬ人となってしまいました。彼の最後の思い出の中に計画通リ行かなかった鏡平山行が存在していたことでしょう。合掌。

吉田さんと新穂高から上高地に回り、管理人のMさんのお手を煩わして日本山岳会上高地山研に宿泊し、翌日ワサビ沢で高野君の慰霊を行いました。着いた時は明神最南峰とワサビ沢は雲に覆われていましたが、直ぐに雲が移動し美しいワサビ沢が姿を現しました。

以上16年から19年までの、改まって今までの鏡平山荘を起点とした山旅を振り返ってみました。私の70代の夏山の大半を使用した山行でしたが、様々な要因が重なり山行自体としては不満足な結果になりました。しかし計画通リ山が登れたからと言って良しとはなりませんし。歳を重ねると様々な出来事が生じますが、それらを一切避けけ一直線で進むことはできません。それが生きることなのです。

笠ヶ岳山行の時、長い抜戸岳の稜線を前後しながら歩いていた中年の2人パーティの人たちが、小屋の前から笠ヶ岳登頂を終えて戻ってきた私に話しかけてきました。その内容は、長い抜戸岳の稜線を我々と同じように疲れ切って笠ヶ岳の小屋に着いたら、ビールを飲んだりして休みもせず、直ぐに揃いのTシャツに着替え、1列になって颯爽と笠ヶ岳のピークを目指した一糸乱れぬ行動は、歳を取ってもさすが大学の山のクラブで鍛えて来た人たちは凄いとの、予期せぬ賞賛の言葉でした。

この一連の山行で良かったことは、世代はバラバラでしたが、学生時代間接的に同じ釜の飯を食べ、共通したしきたりの下で自然に行動できたことでした。お互い歳を重ね、日常我がままな暮らしを送っていたにもかかわらず、山行という共通の趣味の作業に参加し、年寄りにとって過酷な山で、昔のしきたりのもと、ごく自然に数日間を送れたことでした。後半の2回の山行に参加した後、病気で亡くなられた上原兄も、山の風景も印象的だったかも知れませんが、最晩年にかって青春を分かち合った昔の仲間たちと、昔のしきたりの基で行動できたことでは無かったかと思うのです。このことは社会人になって企業での日々では決して得られぬ体験だったからだと想います。

あれから4年、今回の双六山行の3日目です。

午後から不安定な天気の予報ですが、朝は絶好の日和です。ゆっくり支度して6時半に出発します。

正面に槍ヶ岳に向かう西鎌尾根の樅沢岳が聳えています。

多くの登山者は朝飯を弁当にして5時前に出発してしまいます。我々の他はもう小屋に残っていません。

小屋をバックにグングン高度を上げていきます。

稜線に向けて登るにつれてジャンダルム飛騨尾根、涸沢岳西尾根が迫ってきます。

弓折乗越に着きました。ここから笠ヶ岳は長かったことを想い出します。

双六岳から弓折岳の稜線は多少起伏はありますが、北アルプスでは珍しいなだらかな稜線です。前方に双六岳が見えてきます。

弓折乗越から双六小屋までが、北アルプス屈指のお花畑が広がります。お花畑は蒲田川左俣が多く、画像の双六谷側は少ないです。双六谷側は日本海側からの季節風にさらされるため花が育ちにくいのです。

双六小屋が見えてきました。高尾山では見えたらすぐ着きますが、北アルプスは見えてから長くおおよそ感覚では5倍以上時間を要します。その理由は山のスケールにありますが、登山道も岩が多く歩行に倍以上かかりますし、画像では眼に見えない登りや下りがあります。
学生時代剣沢から槍への縦走の初日、

弓折乗越から双六小屋までは北ア有数のお花畑が広がります。

ハクサンフウロ(白山風炉)フウロソウ科       シナノキンバイ(信濃金梅)キンポウゲ科

ハクサンチドリ (白山千鳥)ラン科       チングルマ(稚児車)バラ科

  タテヤマリンドウ(立山竜胆)リンドウ科      キヌガサソウ(衣笠草9 ユリ科

オンタデ(御蓼)タデ科       オタカラコウ(雄宝香)キク科

ハクサンシャクナゲ (白山石楠花) ツツジ科      ミヤマクロユリ(深山黒百合)ユリ科

シナノオトギリ(信濃弟切)オトギリソウ科   ツマトリソウ(端取草) サクラソウ科

                       

 ミヤマダイモンジソウ(深山大文字草)ユキノシタ科  コバイケイソウ(小梅蕙草9 ユリ科

双六小屋に到着しました。ワサビ平小屋、鏡平山荘、双六小屋、黒部五郎小屋は同じ小池グループの山小屋です。双六小屋は水が豊富です。以前三俣蓮華岳の途中、中道の雪渓で双六小屋の水源を見つけました。かなりの距離からおいしい雪渓の水を引いていて、双六小屋に泊まらない登山者にも無料で水を供給しています。

少し早いのですが鏡平山荘で頼んだ弁当を食べます。双六小屋は昼食のメニューが豊富なため、ここで昼食を注文すればと想いました。

昼食を食べ始めるとガスが出て来て、双六岳を隠したと想ったら急に気温が下がってきて雨がポツリ、ポツリと降ってきました。
双六岳は近いですが、景色も楽しめず、往復に2時間以上かり雨に濡れるのも嫌なため、下山することに決めました。我々にはピークを踏んだら目的達成するというモチベーションは皆無になりました。

帰り道、稜線のお花畑もガスで暗くなってきました。鏡平や弓折の稜線は白いカラマツソウが多い所です。お花畑はシナノキンバイとかミヤマキンポウゲなど黄色い小花が群生すると華やかですが、今まで白馬などに比べて、弓折の高山植物が有名で無かったのは、華やかさに欠けていたこともあるのでしょう。

弓折乗越に戻ってきました。行きの晴天したと大分気分が異なります。

雨雲の下降と競争して下ります。遠くに鏡平山荘が見えてきました。
鏡平山荘に到着すると同時に滝のような雨が降ってきました。稜線では多くの人が濡れたのでしょう。双六岳ピストンを中止にして正解でした。

梅雨が明けても連日午後には必ず雨が降ります。初日は夕方になって夜中まで大雨でした。昨日も夕食前に強い雨が降ってきました。2500mを超える高山は晴れの時の方が少ないので、いつも雨を覚悟していなければなりません。小雨程度でしたらかえって涼しくなりますが、風を伴った強い雨は要注意です。学生時代は熱量もあり、現在のゴアの雨具と異なって安いビニール雨具しかなく、何を着ても濡れるため台風時を除いては雨天でも行動しました。頭を濡らすと全身が濡れたような錯覚に陥るため頭だけは濡らさず、重荷以外は傘を使用しました。毛のセーターは雨をはじくため雨天の際、私は好んでセーターを雨具代わりに着ていました。

現代の登山者たちは1泊2日とか2泊3日とか観光ツアー並みに予定を建て、雨天でも予定通り行動します。雨天の時は山小屋の乾燥室がスキー宿以上に混雑します。スポーツ登山でも訓練登山でなく、山は逃げず自らいつでも予定は変更可能なのに困ったことです。

数年前7月に大雪山塊緑岳からトムラウシの縦走を全期間天幕泊で出かけました。緑岳の登りでは強風で先行した登山者たちが下山してきましたが、最後に北大山岳部パーティが下山して来たので私たちも諦め下山しました。そして移動しトムラウシに向かいました。直前にツアーパーティの大量遭難がありましたが、トムラウシは長い登りで大岩がゴロゴロしていて、登ったり下ったり強風で雨天の場合、疲れ切っていたら寒さに耐えきれず自分でも死ぬなと思いました。
トムラウシの遭難事故調査報告書は読売新聞OBで山の会OB会の数代下の仲間が遭難事故究明委員会のメンバーで執筆していたため、事前に詠みましたが、読んだだけでは実感が湧きませんでしたが、実際に現場を歩き同じようなシュチエーションの基、行動ししていたら、若い時だったらまだしも今の自分では自信がありません。

冒険家だったらともかく、家でぬくぬくと快適さを求めて生きている私のような老人にとって、晴天時山で行動すること自体過酷であり、増して荒天下では、たとえ想像可能な過酷さを経験をしていたとしても、全て想像を絶する過酷な事態になるような気がします。