北アルプス双六山行、2日目

前夜熟睡し朝を迎えました。本日は鏡平山荘までなので6時半と遅く出発しました。ワサビ平小屋に宿泊する登山者は、通常双六山荘まであがるため、皆出発は早く、小屋から出発は我々が最後でした。

梅雨が完全に明けて猛暑が続きます。ただ上空の気流が不安定なため、連日午後は霧ないし雨の予報が出ています。

通いなれた蒲田川左俣の道を辿ります。正面は弓折岳です。鏡平山荘に行く小池新道は正面の谷でなく、弓折岳の山腹に伸びた弓折尾根を辿ります。

ここまでが砂防工事の林道でここから登山道の小池新道が始まります。正面の稜線は西鎌尾根の樅沢岳で右の尾根は中崎尾根です。

小池新道は鏡平山荘のスタッフの努力で長年にわたり整備され、大岩がゴロゴロしていますが、歩きやすい登山道です。

このように古い神社の参道のように石が敷き詰められています。バール1本で岩を移動し並べるのは熟練作業です。

秩父沢に来ました。この秩父沢は大雨が続くと増水します。秩父沢の名は戦前昭和天皇の弟君である山好きな秩父宮が笠ヶ岳に登山した際、名づけられました。
背後に西穂高から奥穂高の稜線がくっきりと見えます。中央右から独標、チャンピオンピーク、ピラミッドピーク、西穂高岳、間ノ岳、長い畳岩の稜線を辿ると
ジャンダルム、ロバの耳、馬の背を経て奥穂高に着きます。

ここ秩父沢の水は一番おいしいです。2リッターの水筒にたっぷりと補給します。

秩父沢から本格的な登りになります。高尾山あたりだと秩父沢まで位の登りと時間を要すると、1つのピークに着きますが、アルプスは目標の地までこの5倍の労力と時間を要するのです。

いつもは地形に合わせて休憩しますが、この急な登りでは30分刻みで短い休憩を取ります。昔は小屋どまりだと装備は雨具以外要らないと想いましたが、歳をとると山小屋で快適に過ごすための衣類や、薬関係、筋肉ケア関係、嗜好品、酒のつまみなどでザックの重量が増加してきます。私は水が好きなのでポカリスエットの粉末を多量水筒に入れます。

気温がどんどん高くなるため、休みと水分の補給を行います。北海道のトムラウシや前回の山行まで3㍑のハイドレーションシステムを使用していましたが、水を入れるのが面倒なので、今回は少年たちがスポーツで使う2㍑の保温水筒とペットボトルを使用しました。少し重量がありますが、スポーツ用の保温水筒は、飲みやすいし何時までも冷水が保てるのでgoodでした。それと身体が要求し欠かせないのは甘味より梅干です。2つずつ食べるため山行期間中の全量をこの日1日で消化してしまいました。

小池新道の登りは、秩父沢を過ぎると、顕著な休み場所にイタドリヶ原、シシウドヶ原の2箇所があります。両方とも眺望が良い場所ですが樹林の下でないので、照らされます。イタドリヶ原は知らないうちに過ぎてしまいました。

高校時代山行記を読むとやたらにイタドリが出てきました。イタドリは夏山の登りの「草いきれ」を代表する野草だったのでしょう。当時のわたしにとってイタドリが生えている場所は真夏のカンカン照りの急登でバテる場所のイメージがありました。
山は狭い世界ですから1人がイタドリの名を出すと、他の人はその草を知らなくてもイタドリの名を出し描写することが良くあります。あの時代はイタドリが流行っていたのでしょう。鏡平に来るようになって地図にイタドリヶ原の名が記されていることに気付き、高校時代以来古い山仲間と再会したような気分になりました。実は私はイタドリがどんな草か知りませんが、おそらくイタドリのを出して紀行をしたためた人も、どんな草か知らなかったのでしょう。殊更花が美しいわけでも無くイタドリの姿を知ったとしても何の役にも立ちませんが、茎や新芽が食用になりイタドリ(虎杖)の名の通り本草では大事な野草だったのでしょう。

登り始めてから既に水を2㍑は飲んでいます。それがラクダのコブみたいにお腹を膨らませています。学生時代水は飲み過ぎるとバテルから余り飲むな言われていました。50㌔の荷を担いだ縦走でも行動中は2㍑の水筒が空になることはありませんでしたが、天場に着くと一気に2㍑ていどの水をそれこそ馬みたいに飲んでいた記憶があります。現在は熱中症にならないため、水分はこまめに補給しましょうと言われています。

今は皆スマホですが、30代の頃通勤途中の電車では皆スポーツ紙や週刊誌、単行本などを読んでいました。私も現代やポストを愛読していて毎週購入して読んでいましたが、その中に栄養学の先生のサラリーマン昼食診断なるページがありました。1人のサラリーマンの6日間の昼食を批評するのですが、昼食に蕎麦やウドンを食べると決まって栄養不足と評されました。それから10年後かそれ以降か憶えていませんが、今度は肉類は栄養採り過ぎで、蕎麦やウドンを推奨していました。

私の記憶にある間でも、水の接種は正反対になったし、栄養吸収も正反対になりました。今考えて見ると私が30代の頃の食事は米とパンが主体ですが、小麦粉は国産で、自然飼料で育てた家畜の肉が大半で油もパーム油でなく国産菜種油が主流で、薬剤を無理に使わない栽培の野菜を使い、家内は食品購入の際、国産か海外か原産地のラベルを見ないで購入できた時代でした。

それでも各時代、国産、海外共に食料調達が変化しましたが、それらがこのお腹の中に納まって、この年まで元気でいられることは、人間には順応性が備わっているため、草々目くじらを立てて生きる必要もないかもしれません。

シシウドヶ原の手前の木立で休憩したので、このコース最大の眺望ポイントのシシウドヶ原は通過しました。照らされて暑いので誰もここで休んでいません。

シシウドヶ原から短い登りで、待ちに待った池塘のある場所に来ました。ここに後500mの小屋で描いた手書きのサインがありました。
通常写真に取られる際は、複式呼吸でお腹をへこませますが、この写真は無防備にお腹の醜さを露出しています。多分バテテいて、居づまいを整える余裕が無かったのでしょう。この画像は掲載を迷いましたが、この場所の画像の無いと行程のストーリーが描けないためあえて掲載しました。

立山靭草(タテヤマウツボグサ)シソ科  信濃金梅(シナノキンバイ) キンポウゲ科

丸葉岳蕗(マルバダケフキ) キク科  落葉松草(カラマツソウ)?

車百合(クルマユリ)ユリ科  稚児車(チングルマ)の綿毛

絶好の天気の鏡池です。北穂高から槍まで良く望めます。

中央が槍で右に大バミ岳、中岳、南岳と続きキレットから北穂高岳と続きます。私たちが卒業して3年後、3月の春山で奥野兄がリーダーとなり記録の少ない抜戸岳南尾根からこの鏡平の上の弓折岳の稜線から双六に至り西鎌尾根から槍に縦走しました。今回参加の新井兄はこの春山に新人として参加し、新穂高から鏡池の向こうに見える中崎尾根を登り、西鎌尾根から槍に至りました。槍から上級生がキレットを通過し北穂高岳攻撃を計画しましたが、天候悪化で中止し、西鎌尾根上部で事故もあったことから全員で中崎尾根を新穂高温泉にくだりました。この長い雪山に参加した新井兄は感慨深そうです。
槍ヶ岳周辺は私たちが4年の最後の冬山で、前年の3月南アルプスの全山縦走を成功した後、北アルプスに場所を転じ横尾尾根から槍ヶ岳の登頂を行いました。この冬山で他大学山岳部がキレットで滑落し、搬出の応援を受け2名がキレットの底まで行きました。
翌年の春山は中崎尾根からと燕岳から表銀からのパーティと合流する計画でしたが、天候の問題もあり失敗しましたが、翌年の冬山は燕岳から槍ヶ岳を縦走し横尾尾根を下りました。
こうして積雪期の槍周辺で経験を積んだので、私の卒業の2年後抜戸岳南尾根から槍ヶ岳まで長駆縦走が行われたのです。

4年ぶりの鏡平山荘です。残念ながら親しくしていただいた大沢支配人は定年で退職してしまいました。この山荘で過去4回お世話になりここを起点に山行を行っていたため、何やら大沢支配人がいないととても寂しい気がしてきました。

登りながら夢見ていたかき氷です。100円上がって600円になってしまいました。 コロナ後山小屋の料金は個室で15,500円と旅館並みになりました。

おかずの数は少し増えました。ワサビ平の小屋で気付いたことですが、食事の際熱くおいしいお茶が用意されていました。普通の山小屋ではぬるいほうじ茶が多いのですが、小屋の女性従業員にお聞きしたら、小池山荘グループの方針で、宿泊客にはおいしいお茶を用意しようとしているとの事でした。
歳を取ってお茶の味が分かるようになり、朝、昼、晩と3度おいしい緑茶を飲むようになりましたが、これには大助かりでした。いつもなら仕事を終えた大沢支配人と談笑するのですが、皆寂しそうです。

改めて今回の山行で鏡平は最後だなという気になってきました。