縄文・弥生時代の歴史考(3度目の国立歴史民俗博物館訪門から)

国立歴史民俗博物館の弥生時代の展示です。中学時代に習った弥生時代は、水田での稲作が始まっていたけれど、縄文時代と同じ竪穴式住居で男女とも原始人の象徴だったターザンのようなおかっぱの髪型で、ズタブクロのような衣類をまとい田を耕していたイメージがありました。

その後、次々と考古学上の新しい発掘がなされ弥生時代のイメージが一新しています。私にとって縄文時代に比べて大して興味が湧かなかった弥生時代のイメージを一新させてくれたものは、2016年に訪れた佐賀の吉野ケ里遺跡でした。吉野ケ里遺跡は、私に弥生時代当時の風景を強烈にイメージさせてくれたのです。

亀ヶ岡や三内丸山の縄文時代遺跡が、私たちの精神文化のルーツを示してくれるのと同様、吉野ケ里の弥生遺跡は、我が国での数々の基本的な特徴や生活文化のルーツを示してくれました。

私は権力の変遷や制度的な変遷の歴史より民俗学的な歴史を好みます。国立歴史民俗博物館はビジュアルを重視した私たち民俗歴史学の宝庫です。
野田の肥後さんと1昨年に続いて3度目の博物館の訪問を行いました。肥後さんは縄文好きなため今回は先史時代のコーナーだけで終わりましたが、次回は古代、中世とまた行くことになりそうです。

国立歴史民俗博物館は、予算もあり人材もそろっていて我が国の考古学をリードしています。著作権や美術品保護のため撮影禁止を行っている美術館はともかく、何の秘密も無いのにただ撮影禁止の公立の博物館が大半の中で、国立歴史民俗博物館一部を除き撮影はOKのため、帰宅して画像を見ながら再度細かく楽しむことができるのです。

今回、以前行った縄文、弥生遺跡や博物館も想い出して寄り道したため、縄文・弥生歴史考は想ったより長くなってしまいました。

佐賀・吉野ケ里弥生遺跡より(2016年11月)

吉野ケ里遺跡 織機

私はガーデニングを始めたことから、それまでと違って私なりに歴史認識が少し深まったように想います。
それは植物の栽培を知り、気候と植物、水利、土壌と食物への理解が、一層深まったことです。その根底には、我が国の気候風土を考えた時、温帯に位置しているにかかわらず、夏は熱帯と変わらない気候となるアジアモンスーン地帯に位置していることが肌で知った事でした。

夏の高温多湿が雑草の繁茂を呼び、雑草対策のため主食を畑で作る小麦でなく、田に水を張り雑草を防ぐ水田耕作の稲を選択した事を必然だったと認識していました。
更には高温多湿の環境は、雑草だけでなく樹々の成長も早く、先史時代から我が国は東アジア随一の木材産出国であったことも認識しました。
日本列島において木材が豊富な事は、建築材料や燃料が豊富でもあり、豊富な燃料が世界最古の土器文化を生みました。また山から流れる急な川は砂鉄の宝庫でもあり、木材を高温になるまで燃やし砂鉄から鉄を作ることも、環境としては東アジア随一でした。更には豊富な大木と鉄と古来から綱文化が存在し、これらが組み合わさったら当然造船も可能であると想像をもしていました。

しかし、我が国の高温多湿の気候は、鉄や木製品が発掘品として残らず、考古学では鉄生産と舟については学説が固まっていません。5,6世紀になるまで製鉄跡が発見されないため、鉄は半島から輸入していたという事が、学説の主流です。
しかし吉野ケ里遺跡は、従来の遺跡や博物館に比べて大胆に弥生時代の状況を見せてくれ私の弥生時代のイメージは一気に広がったのです。

吉野ケ里遺跡の弥生人たちの繊維の展示にも驚かされました。草木染のカラフルな糸を織機で織った展示や、現在と同じスダレやゴザやタタミなど室内の調度品の展示に出会い驚愕しました。王族でなく弥生時代の普通の人々が、ただ食を得て暮らすだけでなく個人が装う文化を身に着け始めていた事に対して驚いたのです。

思い起こせば、昭和40年代後半の日米繊維交渉の結果、繊維輸出国から凋落するまで我が国は世界最大の繊維生産国でした。そして繊維生産は途上国としてのOEMでなく大半が独自ブランドの繊維生産国でした。
戦国時代の石見銀山の銀と同じく、かって我が国の幕末明治時代、シルクが世界商品でした。江戸時代からの我が国の高品質のシルクを英仏蘭米が求めた結果、開国を迫られ開国と同時に世界商品になりました。その後シルクに引き続いて綿、化繊が日米戦交渉で破れるまで世界商品として君臨したのです。
律令時代、東日本の山間部は水田が乏しいため年貢は米でなく絹を使用していました。以来関東の山間部の農家は副業で蚕を飼っていたとありますが、副業でなく正業でした。シルクは蚕種と製糸が資本が必要ですが、蚕を飼育して繭の生産は資本が必要でないため、個別の農家が正業として従事していました。

吉野ケ里遺跡の繊維の展示に接し、我が国の世界商品だった繊維製品のルーツが弥生時代から始まっていたことに驚きました。
繊維製品と同じく、少し前を振り返ってみると、製鉄量は世界をリードしていたし、今でも高品質の鉄や特殊鋼は世界一です。砂鉄からできた鉄は鍛造技術によって世界一の日本刀になり中世から戦国時代、大量に中国に輸出されていました。造船は少し前では量で世界をリードしていましたし、戦前は世界3位の海軍国で、商船隊と漁船隊は世界を席巻していたのです。こうした伝統は一朝一夕には生まれません。江戸時代までの我が国の鉄は全て砂鉄から製造していたし、江戸期は河川交通も含めて内航海運が盛んで、物流は陸の街道より舟運が主体でした。また秀吉による朝鮮の役で、各大名は日清戦争と同じ15万人の兵力を渡海させるだけの船舶を保持していたのです。

こうしたルーツは全て弥生時代に生まれていたような気がして、私が日本の歴史の中で弥生時代に惹かれる要素となっているのです。

吉野ケ里遺跡、繊維と草木染

先史時代とは旧石器、縄文、弥生、古墳時代を指しますが、私は高校で日本史は選択しませんでしたが、中学時代の先史時代の区分は、恐らく戦前の学説通リ石器時代、縄文式の時代、弥生式時代、古墳時代と区別されていて、縄文時代と弥生時代はそれぞれ縄文式土器と弥生式土器を使用していた時代区分でした。

従って各年代は土器の発見された年代から決められ、縄文時代は紀元前15世紀から、弥生時代は紀元前2世紀から2世紀の約400年間、古墳時代は3世紀から6世紀の飛鳥時代までとされていて、大陸や半島から稲作が伝えられた弥生時代は水田耕作開始時代であり約400年間で我が国全体に広がり、古墳時代に入ったと言われていました。

ということで、弥生時代は大陸や半島からから稲作に従事する人たちが列島にやってきて、全国に稲作が拡がり、それまで狩猟採集を行っていた縄文時代の人々が山に追いやられたという進歩と経済効率だけの歴史観が根底にありました。
狩猟採集の暮らしの中で土偶や繊細な火炎土器など縄文土器を制作し精神を重視した縄文時代から、列島は水稲耕作集団の定住文化が主流になり、村ができて国となりやがて国同士が争い、勝利した権力者が動員をかけて大型古墳を築造する権力集中の歴史となりました。この弱肉強食と経済効率に立脚した歴史解釈は、我が国の歴史にも、ヨーロッパや中国など大陸の歴史を踏まえて史観が組み立てられていました。

しかし2003年に、国立歴史博物館の炭素測定チームが、九州北部の弥生式土器に付着していた炭化物や水田沿いの水路に打込まれた杭を測定した結果、九州北部の水田耕作が紀元前10世紀、環濠集落の出現は紀元前9世紀中頃との調査結果が発表されました。
この出来事は、今まで紀元前2世紀から400年間と言われていた弥生時代が、紀元前10世紀まで一気に早まり、従って弥生時代もたった400年間から1200年間という長期の時代になりました。

この発見は、それまでの稲作民が半島から日本列島にやってきて400年という短い期間で、縄文人を駆逐し日本中稲作を浸透して行ったという歴史観を根底から覆ました。日本列島に初めて稲作が伝搬してから1200年の長い時間を経て、水田稲作を中心として自然と向き合う縄文の精神文化と融合し、熟成し、神を祀り、祭りを創始し、村の共同体の組織を作って行った時代が弥生時代でした。
また環濠集落が紀元前9世紀中頃に誕生したとの発見は、水田稲作が家族個人の行為でないことも証明しています。また三内丸山遺跡の発掘から、縄文時代も家族単位で暮らしていた時代でなく、共同体の組織が芽生えていたことが解りました。

結論として1200年にもわたる長い弥生時代が、我が国の基礎となり、精神の分野でも、組織体制の分野でも、生活文化の分野でも、豊かな自然に包まれた豊穣の時代であるとの認識を得ました。

数年前の12月、古社を訪ねながら三輪山から山辺の道を北上している時、巨大な箸墓古墳の手前に、纏向遺跡を表示したパネルがありました。纏向遺跡は3世後半のヤマトの初期王朝の首都と想われる巨大都市遺跡です。纏向遺跡の発掘は未だ遺跡全体の15%程度と言われており、この遺跡の全貌が解れば、弥生時代の最後がどのような時代だったか解明されるでしょう。弥生時代は1200年間という、平安時代から今日までと同じ長い期間ですが、どのような変遷を経て纏向遺跡に至ったのか、まだ研究が進んでいません。発掘によってこの辺りが解明されるのは100年近く要するのでしょうか?

                              

                           

国立歴史民俗博物館、先史時代コーナー

国立歴史民俗博物館

土地勘の全く無い千葉県ですが、同じ県内でも野田から佐倉までは以外に遠いです。

日本列島の東日本の植生は大半が針葉樹林帯で、西日本の温帯地域を除いて植物を食料として利用できませんでした。
アムール川流域から北海道にやってきたマンモスは津軽海峡は氷が薄く渡ることはできず、北海道止まりでした。本州は中国大陸に生息していたナウマンゾウが、日本列島にも渡って来て各地を闊歩していました。考古学者の藤森栄一氏は講談社学術文庫古道の中で、ナウマンゾウの群れを追って大陸からやってきた旧石器時代の人々は、石器では仕留めることが難しいため、送りオオカミのように像の墓場まで追い込んで、老衰を迎える像を集団で仕留めたとあります。野尻湖はその像の墓場の1つです。旧跡時代の人々は最寒冷期のため植物の利用はできませんでしたが、肉の保存は容易なためできるだけ大きな動物を狙ったのでしょう。

私たちが今でもゾウに哀感を感じるのは、私たちが生存のためナウマンゾウにお世話になった深い記憶がDNAとしてこの時代から引き継がれているのかも知れません。

帝国書院・図説日本史通覧から転載させていただきました。

国立歴史民俗博物館には、日本人のルーツの展示はありません。多分日本人のルーツは多岐に研究されており、定説としてまとまっていないことがあるかも知れません。

我が国の旧石器時代の24,000年前から18.000年前は氷河時代の最寒冷期に当たり、現在より年平均気温は6~7度低く、海面は現在に比べると120m低かったため、北海道や樺太は大陸と地続きでした。また中国大陸は朝鮮半島と一体で対馬海峡も現在に比べると極めて狭い状態でした。

25、000年前、旧石器時代の終わり頃細石刃文化が、日本列島に広がりました。細石刃は細かな矢じりに使われるほか、木や動物の角、骨と組み合わせて様々な刃物が作られ、動物の狩猟や解体に大きな役割を果たし、動物の口や刃と違って手の機能を大幅に広げたのです。

黒曜石は割ると現在のカミソリのような薄さになる石です。黒曜石は旧石器時代後期の30,000年前から縄文時代、弥生時代中期まで石器の材料として使われてきました。北海道の遠軽町白滝が最大の産地ですが、信州和田峠と伊豆諸島の神津島が有名です。神津島産の黒曜石が2万年前の相模の旧石器時代遺跡で発見されていますが、2万年前どのように海を渡って来たか謎ですが、改めて考えて見ると2万年前は最寒氷期で今より120m海面が低かったため、神津島は陸続きであったかも知れず、丸木舟で海を渡ったのかも知れません。いずれ謎です。

旭川市博物館の黒曜石 (2010年7月)

斬新な旭川市博物館

2013年7月に大雪山登山の際、旭川市の博物館と陸上自衛隊第7師団の博物館を訪れました。旭川市は軍都として森林の中に切り開かれた人工都市で、軍の歴史そのものが旭川市の歴史になっています。
この時旭川市博物館も訪れましたが、旭川市博物館は展示が斬新な博物館で、ここで日本最大の黒曜石の産地遠軽町白滝産の黒曜石と出会いました。ここで見た黒曜石の展示で、黒曜石の刃物としての特性が分かり、縄文時代のイメージが一気に膨らみました。

旭川市博物館の黒曜石展示

ここで出会った黒曜石に衝撃を受けました。今まで黒曜石の名は知っていましたが、それがどのように加工され、どのような道具に使われたのか、展示を見て初めて理解できました。黒曜石は割って行けば薄い刃のようになり、また端を磨いて行けばナイフにもなります。
細石刃に続いて石皿、土器と続く道具、用具の発明は、暮らしに大きな革命をもたらしました。

国立歴史民俗博物館

人間は火を使うことを覚えたのは170万年~20万年前と、いろいろ説があります。

蒸すことから始めた料理。火を焚いた熱い石の上に、葉でくるんだ食物を乗せ蒸して調理しました。また熱い石の上に食べ物を載せて焼くこともありました。
土器は16,000千年前から使われ出してきたと言われていますが、寒氷期が終わりようやく人間らしい営みが出来つつあったことを示しています。

青森、三内丸山縄文遺跡(2019年6月)

三内丸山遺跡は5,500年前の縄文遺跡で、6,000年前の温暖化による縄文海進によって、3,900年~2、200年前、海辺に作られた集落です。約1,500年続いたとされていますが、海退期が進み海辺から離れたため消滅しまったか、縄文晩期の寒氷期の厳しさで消滅してしまったのかも知れません。

森浩一氏は、我が国では、縄文時代既に縄類にツナ、ナワ、ヒモ、イトの区別がなされていて、舟づくりや航海に必要不可欠な存在の縄類は、主役の舟に対して既に重要な脇役を果たしていたと述べています。

縄文時代から縄類を用途別に区別した伝統は、しめ縄、横綱、組紐など、結びの概念と共に神聖なものとして、その後にも引き継がれ、我が国独自の文化になっています。

縄文時代は鉄器が無かったため、石器で切ったり、焦がして穴を開けたり、くさびで割ったりしていました。
その時代あれば楽だっただろうにと想う道具が、次の時代には必ず誕生しました。縄文時代は鉄器、弥生時代は馬、古墳時代は文字と連絡手段、宗教、などなどでしょうか。

土器やザルなどの容器は、生活に一大革命をもたらしました。海、山の産物を土器に入れて煮る食文化は、現在の鍋文化に行き継がれているのでしょう。

海と山が入り組んでいる我が国土の特性から、縄文人は山と海の民の両面を持ち、どちらかというと陸の狩猟より、海での漁労に長けていたことが判ります。北アルプスでの猟師によるカモシカ猟の記録を見ると、猟の時期は足跡が見つけやすく下草が埋まる雪の早春が最大の狩猟シーズンで、雪の上のため獲った獲物の移動は楽でした。三内丸山遺跡は、うさぎなどの小動物の狩猟が多かったようです。反面春から秋は海が安定する漁労が多かったと考えられます。
食料の豊富な縄文人は、腹を満たすことより、旬の食物を摂取して植物から生気を貰うことに主眼を置いていたようです。
サケは秋になると、産卵のために大挙して川を遡行しますが、食物が自ら人間の餌になるため遡行する地域は、世界中そう多くはありません。日本列島は世界一食に恵まれていた地域です。
百獣の王ライオンが草原で獲物が得られず、1か月以上も食せず痩せていく様を映像で見ますが、実際は縄文の人々にとって食料調達は一大事業だった筈です。

縄文時代の丸木舟、千葉検見川で発見されました。

船の科学館・日本の舟和船編によると、この丸木舟は全長6.2m、幅43㎝、深さ28㎝で、材料は榧(かや)で木材を火で焼いて石器で彫って作りました。別資料では約5100年前の舟で、我が国で最古の丸木舟は鳥取で約5,500年前の舟が発見されており、画像の丸木舟は我が国で発見された数少ない舟で、2番目に古いものです。

この船は深さ30㎝未満で、波の荒い海での航行は難しいですが、頑丈で復元性に優れ、森林資源の豊富な我が国では、岩礁の多い海や河では近世まで相当数使われていました。船材は日本海岸では杉、太平洋岸では榧が使われていましたが、後に楠が多かったようです。

古墳時代の舟の埴輪

高温多湿な我が国では鉄製品や木製品は腐食が早く大半が残りません。船の遺跡は僅かな丸木舟が残っているだけで、大陸から海を航行した準構造船については弥生時代の土器に描かれた絵か古墳時代の埴輪の舟で想像する以外にありません。



山形県立博物館の国宝縄文の女神(2012年6月)

2012年、山仲間とこの少し前から登山だけでなく、街道の歴史ある峠を越えてみようと、中山道和田峠、塩尻峠、中山道木曽鳥居峠、中山道旧碓氷峠など、歩いて峠を越えました。

その一環として芭蕉が通った奥の細道の羽前街道の名刀切峠を越え、最上川の大石田河岸から山形に旅をしました。山形盆地から米沢へは芭蕉からイザベラ・バードに変え、山形市内の明治初期の古い建築物を見学しました。

山形県立博物館では、縄文時代の強烈な印象を私に与えた2つの展示物に出会いました。

その1つが国宝縄文の女神です。4500年前の縄文中期に作られたこの像は高さ45㎝ほどの土偶で、よく見る土偶と異なって8頭身の現代にもつながるフォルムです。

舟形町で発見され、大英博物館に貸し出し大反響を得てこともあり、後に国宝に指定されました。

この縄文の女神に出会った時、震えが生じました。4500年前の狩猟採集の縄文時代、食物を確保が困難な縄文人の日々の暮らしの中で、どうしてこのような見事なフォルムの像が作られたのか。

この像を見ると現代人の我々は、自然と真向に向き合っていた縄文時代の人の美意識には到底かなわないし、むしろ現代人の美意識は退化すらしているのではないかと想いました。

山形県立博物館の縄文の漆塗り

山形県立博物館の漆の壺

遠くからこの壺が眼に入り、ぶどうの蔓で編んだ容器かなと思い近づいてみたら漆塗りの土器でした。4,500年前このような漆塗りの土器が、作られていた事にも
縄文の女神像と共に衝撃を受けました。現代にも続く我が国の漆器文化が、4500年前の縄文時代に既に芸術レベルで使われていたことに驚いたのです。

漆器が日常の器で会った例に触れますが、幕末ロシアのゴロブニーン少佐が北方領土上陸で捉えられ、松前に護送される体験記が日本幽囚記として3巻岩波で出版されています。日本幽囚記はヨーロッパでベストセラーになり、ペリーも来日前読んでいたと言われています。この中でゴロブニーン少佐の長い護送中、或いは抑留中の3度の飯は全て白米で副食と漆器の椀の味噌汁だったと書いています。米の取れない北海道で、また本州から生活用具を全て舟で運ばないと使用できない北海道で、毎日白米食で、漆器を日常雑器のように使用していたようです。

漆器は前段階の木地文化が前提となります。木を加工する文化が芸術製品にまで高められさらに蒔絵技法もとうじょうしますが、広葉樹の固い木が前提で、加工技術のもとになる良質の鉄素材、鍛造技術、精密な刃物製造技術、さらに流通組織、総合的に組み合わさってこそ漆器文化は成り立ちます。戦前化学塗料の耐久性が信用されない時代船のキャビンのドアなど漆で塗られていたと聞いたことがあります。

 平凡社・日本の自然3,日本の海より

我が国の近海は様々な海流が流れています。一番強い海流は暖流の黒潮で日本列島の太平洋岸を北に流れ、福島から宮城沖で太平洋を東に進む本流と北に向かう分流に分かれます。この黒潮に乗って大航海時代スペインはフィリピンから金華山沖に北上し、そこから真っすぐメキシコに向かう航路を完成させました。伊達藩の支倉常長はこの航路を使用してメキシコからスペインに渡りました。

また日本列島の太平洋岸の北から寒流の親潮が南下し、黒潮と親潮がぶつかる金華山沖や三陸沖は世界屈指の漁場になっています。

また黒潮は九州で対馬暖流と別れ北上し、北海道や津軽海峡を渡り三陸沖まで達しています。また日本海には大陸から半島沿いにリマン海流が南下しています。
海にはこのように海の街道というべき海流が流れており、海流に乗れば移動は容易でした。

東アジアの水田稲作の拡散・紀元前11世紀

紀元前10世紀後半に九州北部に水田耕作が伝搬してから、関東に伝わるまで約700年かかりました。縄文の海退期の日本列島は、海沿いに平野が広がり、人口が少なく気候温暖で、夏の高温多湿の気候が植物を繁茂し、魚の種類も豊富で動植物採集が容易でした。大陸沿岸の海洋民は半島経由で一族揃ってフロンティアであった日本列島に移住して来て、川を遡り山間の扇状地を見つけて水田稲作を始めたのだと想います。

宮本常一によれば、アジアやヨーロッパの農業を比べると、ブタや牛、馬を家畜化していないのは日本だけだという記述でした。理由は牛や馬は、大麦や小麦が大好物で、せっかく実った畠を荒らしてしまうからだという説です。その点水田は牛や馬が荒らさないので安心だということです。これは園芸をやれば判ることで、我が国は高温多湿で、農業は雑草取りが一大作業で、その点水田は畑に比べると雑草も遥かに少ないと思っていましたが、牛や馬が畠を荒らすことまで考えませんでした。日本人は弥生時代に今日の姿を選択してしまいました。

改めて基本的なことを考えて見ると、水田稲作を伝搬した人々の大半は、元々江南の稲作と漁労の航海民族で航海に強い伝統を持った人々だったのかも知れません。米を主食にしていない騎馬民族が日本列島に移住してくるはずはないし、大陸北部や半島北部の麦作民も高温多湿な日本列島移住には興味はないと想います。稲作の伝播は縄文人たちが稲作に転換したこともあったかも知れませんが、多くは稲作と漁労に長け航海に強い民族が、移住して来たと考える方が早いのかなと想います。

環濠集落・紀元前9世紀

歴博の展示によれば、北九州の環濠集落の出現は、水田稲作の伝搬が紀元前10世紀後半からまもなく、紀元前9世紀の早い時期に出現していたことがわかります。
このことから推測すると、日本列島で水田稲作を始めた人々は、1家族ずつの個人の集団でなく、一族単位の移住だとも考えられます。
それには2,3人しか乗れない小さな丸木舟で半島経由で日本列島に来たとは考えられません。

多分大陸江南地方の航海民が、高温多湿の水田稲作にふさわしい地を求めて集団で何年、何十年も、何百年もかけて移動して、半島南部に居住したと考えられます。集団移動はフロンティアを目指した西部の幌馬車隊のようにコンボイを組んで行ったとも考えられます。ほとんど人がいない日本列島に移住は困難でしたが、魅力的だったかも知れません。
半島南部に移住した集団は、高温多湿な日本列島を目指し対馬海峡を渡り、そこに森林資源国と急峻な水量豊富な豊富な川を見出しそこかしこに砂金を見出しました。
そして日本列島に産する豊富な木材と半島南部で産出する鉄鉱石を使用した鉄で、やや大型の準構造船をつくったのかも知れません。

騎兵隊の砦のような吉野ケ里遺跡

吉野ケ里遺跡は弥生時代700年継続しましたが3世紀の後半に姿を消してしまいました。遺跡は3世紀後半の復元を目的としています。

吉野ケ里遺跡の丸太のゲートや、ハリウッド映画が描く騎兵隊の砦のような柵に対面した時、正直言うと先史時代からこんなに木を使用していたと思いませんでした。木の加工には鉄が必要ですが、鉄の活用を含めて「やはり、日本は昔から木の国だった。」という想いを一層強く持ちました。そして遺跡の見学を終えて公園を後にした時の、私にとっての吉野ケ里遺跡の印象はこの一言で記することができました。

日本列島は、無尽蔵の燃料大国だった。それは当然、鉄づくりも早くから行われていたと想像できる

アジアモンスーン地帯に位置する我が国は、山と森の国で、樹木が短期間に復元し、落葉の自然循環で水と肥沃な土壌を産んでくれます。燃やしても直ぐ復元できる森林資源は、現代の産油国に負けない位の無尽蔵の燃料を大量に産み、土を高熱で焼くことが可能なために、世界最古の土器文明と鍋文明を生みました。


また一方で、火山国である我が国は地質が豊かで、古来鉱物資源に恵まれていました。急流が多い山間の川は、容易に砂鉄の選別が可能で、ふいごさえあれば何日でも燃やし続けられる木の燃料がいくらでもありました。鉄鉱石も採集できましたが、それを探すより日本中の川のどこにでもある砂鉄を選別した方がコストが低い筈でした。

鉄は土に還ってしまうため鉄生産の遺跡は少ないため、考古学者や歴史家の通説では、我が国の本格的な鉄生産は5~6世紀にならないと始まらず、それまでは全て半島から輸入していたと言われていますが、果たしてそうでしょうか? また当時現在のような国家が未発達の時代、半島南部と北部九州は海洋民の一体の地域で、輸入などの概念は無かったと想います。

中国地方の山陰山地は古来から製鉄が盛んな地域です。スサノオのヤマタノオロチ退治の伝説(越の国の製鉄の先住民)は紀元前2世紀の物語と想定できますが、糸魚川の翡翠を産出し、強大な力を持った越の集団は紀元前2世紀に、出雲に進出して製鉄を行って下流に砂を流して、出雲住民の水田稲作を妨害していました。半島南部からやって来たスサノオはこれを聞いて越の製鉄集団を滅ぼして、稲作の姫を娶りました。

現在の吉野ケ里遺跡を見ると、海とは程遠い内陸にあるように感じますが、筑後川を下れば直ぐ海に出られる場所に位置しています。恐らく有明海から筑後川を遡り、背振り山塊からの水利の良い台地に集落を築いたのだと想います。幕末最強の佐賀海軍の根拠地三重津は、海岸でなく筑後川の支流の早津江川畔にあり、かなりの内陸に位置し、佐賀城からそれほど離れた場所ではありません。九州は海洋国家ですから、絶えず海を意識しながら集落や城や河岸を造ったのでしょう

鋳鉄から始まった鉄器文化・紀元前4世紀

木が豊富な我が国は、古代は造船の盛んな海洋国家だった。

吉野ケ里遺跡を見た時、これだけの木を使う文化には、我が国の鉄生産は5~6世紀からという通説に反して、鉄の生産がかなり早くから行われていたと推察できます。そう考えないと無理が生じてきます。中国で鉄の加工は鋳造で発展しましたが、我が国では後世、日本刀の伝統があるように、鋳造よりも鍛造技術が発展したように想います。


記紀でスサノオノミコトは、船は杉と楠で作り、棺は槇を使用し、宮殿は檜で作れと教えました。杉や楠の大木は、樹脂を含み水に強く船材に適しています。宇佐神宮のご神木は楠でした。豊富な燃料は大量の鉄の生産を可能にし、豊富な杉や楠の森林は、大量の船の建造を可能にしました。

それはまた、大陸や半島の国と異なって、森林資源が豊富で大量の船の建造が可能な我が国は、先史時代から海を活動の拠点とする海洋国だったと考えられるのです。


縄文期は、海進が進んでいたため海岸に平野が少なく、山と谷と海は隣接しており、狩猟採集や漁労が主体でした。稲作が始まったのは、海進が終わって海岸に陸地が現れてからでしたが、海岸は洪水にさらされるため、海洋民は川を遡り、水利の良い盆地や扇状地を見つけて定住したのではと考えます。古代人はいずれの時代も木と格闘し、木を利用しながら生活の場を広げて来たように想うのです。


半島における九州北部の土器の発見場所と鉄鉱石採掘坑・紀元前2世紀


上図の赤い点は九州北部の土器が発掘された場所です。紀元前2世紀の蔚山達川遺跡は鉄鉱石採鉱坑です。

半島の主な鉄の産地は、半島最南部の洛東江流域の後の新羅や加耶諸国です。加耶諸国の一部は後に任那と呼ばれた倭人が住む地域です。先史時代、国が生ずる前は洛東江流域に住む海洋民と北九州、対馬、壱岐の倭と呼ばれた海洋民は一体で、半島南部で産出した鉄は貨幣としても使われ、楽浪郡や九州に持ち込まれましたが、やがて本格的な稲作や灌漑作業が拡大すると、鉄の需要が高まり、半島南部だけの生産では追いつかず、森林豊富な日本各地でも砂鉄を原料として、5,6世紀を待たずして生産するようになったと考えます。

中国山地ではタタラはフイゴで風を送らなくて風が強い尾根上に作られ、野タタラと言われる製法で作っていたと言われています。燃料の木を伐採した跡にタタラをつくれば膨大な燃料の移送もなくなり、上流での砂鉄採取も容易です。野タタラの発見は困難ですが、日本刀を作る訳でないので、素人考えでは簡単な鍛鉄位は出来たと想います。

明治新政府の欧米に見習った近代化政策は、近代技術は全て海外から導入し、教育、芸術、産業育成など全てにおいて、江戸期までの文化を否定し、精神面だけは古来からのものを強調したことです。その結果最大の失敗は江戸時代を成り立たせていた農業を軽視し、富国強兵のため資源を重工業化に集中させたことです。
現在の国立大学の農学部、畜産学部と理工科の数を比較するだけでも直ぐ分かります。重工業化と共に農業(果樹、野菜)畜産の研究を行っていたならば、満州まで開拓団を送る必要は無かったと考えます。

つい繰り返し触れてしまいますが、古代製鉄についても同様です。歴史家の間でも、鉄は文明が進んだ地でないと作れないという固定観念があり、我が国で製鉄が始まったのは5世紀に入ってからというのが通説です。羊の革袋のフィゴが文明国だけでしか作れなかったのでしょうか。ヒッタイトはじめ大陸や半島の乾燥地帯は、地中に鉄や木製品が残りますが、我が国の雨の多い 高温多湿の環境では、考古学で実証できるものは残りにくいのです。鉄器は遺跡として発見されないからと言って、製鉄は行なわれていなかったとは、考古学で断定しても、歴史学では断定はできないと想うのです。

確かに刺青をして海に潜って魚ばかり獲る暮らしでは、鉄は要りません。魏志倭人伝ばかり読んでいては、古代への想像力、ひいては現代の私たちのことも語れません。

素人ながら俯瞰すると、我が国は中国に比べて、鋳造(鋳物)より、刃物などの鍛造技術が発達して、明代には刀や銃の輸出も行われました。今でもジエットエンジンやロケット、船舶や重電発電機のタービンの羽根など最先端の鍛造技術でつくる特殊鋼は世界をリードしています。金属の鋳造技術は、実用品より銅鐸や仏像などで発達し、東大寺の大仏鋳造や寺院の鐘づくりに発展したのです。

紀元1,2世紀の漢帝国

代表的な古代帝国にローマと中国が挙げられますが、双方とも当時において政治制度、軍事、産業、社会インフラ、文化など周辺の国々と比べて群を抜いて際立っていました。古代ローマ帝国の統治は寛容で、ローマ帝国の占領地ではローマの文化を受け入れれば、あらゆる宗教の自由を認め、30年間の軍務につけばローマ市民になれました。
こうして古代ローマ帝国は未開の地にローマを結ぶ恒久的な街道をつくり近代都市を作りました。水の無い都市でも山から水道を引き、娯楽のためにコロシアムや浴場をつくり、多くの産業を起こしました。原語は共通のラテン語を用いて域内のコミユニケーションに努めました。
こうして古代ローマ帝国は未開の地をローマ化しローマの文明と文化を浸透して行きました。ローマ崩壊後ローマの本拠地イタリーだけが文化を継承したわけでなく、ローマ化した地域もその文化を継承しました。ビザンチンの東ローマ帝国は、ローマ帝国崩壊後も1,000年も継続したのです。

古代ローマ帝国は、寛容で偉大な文化を保持し、特にローマ法の存在は古代国家の存在を遥かに越え、皇帝などヘッドが変わっても国家の体制は不変であるという近代国家礎を確立していたため、近代西欧世界の英、仏、伊、そして米国までもローマ帝国をバックボーンとしてローマ国家の継承者を任じており、ギリシャ文明と文化がギリシャのものだけでないのと同じく、ローマ文明と文化は広く近代西欧世界全体に共有されています。

かっての英国の知識人や政治家はラテン語を解しギボンのローマ帝国興亡史は必読でした。チャーチルの伝記ではいかにパブリックスクールでラテン語取得に苦労したか書かれていますし、アメリカ人に至ってはローマへの尊敬をあからさまに表現していました。余談ですがマッカサー将軍は、その自伝の中でフィリピン総督時からローマを研究し、自らカエサルの再来と信じていました。日本占領政策もガリア遠征のカエサルをイメージし、本国から若い優秀な人材を導入し民主体の理想的な占領政策を目指しました。パットンもローマの将軍の心酔者で映画パットン戦車軍団ではローマの将軍の詩を口ずさみ、自分が蛮族からのヨーロッパの解放者になり切っていました。いずれも古代ローマ帝国文化の知性と寛大さに魅力を感じていたのです。

ヨーロッパでは現在のヨーロッパでもローマ化した地域とそうでない地域と明確に明確に分かれています。西欧と東欧の区別も根本的にはローマ化した地域としなかった地域の相違であり、アイルランドと英国の紛争も、アイルランドの方がローマ化とキリスト教の伝播が先だったことが根底にあります。

東アジアでは1,2世紀、漢帝国が先進国として政治制度、軍事、産業、都市の発生、社会インフラ、文化など圧倒的に突出した存在でした。
漢帝国は北方の騎馬民族の侵入には対峙しましたが、危害を加えない周辺の小国家には寛大で、自ら漢帝国の冊封体制に自ら組み込まれれば、将軍国家として認知を受けました。九州の少国家も使節を送りました。

近代ヨーロッパの人々がが古代ギリシャとローマに教養の範としていたと同じく、江戸時代まで我が国人々の教養の基本は中国文化でした。武家の子弟教育は四書五経を学ぶことが基本で、村や町の子供は大半が寺子屋に通い論語を学び、識字率が100%近い社会でした。多くの人々の眼に触れる山川草木の風景は、中国から発展した水墨画の視点で眺め、山水の名所の風景は全て○○峡など山水画のイメージで名づけられていました。

しかし残念ながら漢帝国の文化、文明が、ヨーロッパにおける古代ローマ文化・文明のように、日本を初めアジア全体に継承されなかった理由は不明です。これを理解するためにはかなり勉強が必要です。

半島のローマ化・漢帝国、楽浪郡の設置、紀元1・2世紀

漢帝国は、紀元前1世紀から半島北部に4郡の直轄領を置き、その代表的な郡が楽浪郡で、東方における中華文明の出先機関であり、いわゆるローマ化の拠点でした。
しかし漢帝国のローマ化した地域は、古代ローマに比べると比較にならないほど狭い地域で終わりました。また楽浪郡が、古代ローマ帝国自らインフラ整備しローマ化した形式でなく、役人だけを派遣し投資なしに統治した地かも知れません。楽浪郡は後に滅ぼされましたが、多分後者の形式だったのでしょう。


楽浪郡は303年に高句麗に滅ぼされるまで約400年続きました。楽浪郡の設置でローマ化された地域は後の高句麗であり、漢人が頻繁に往来した地域は馬韓、後の百済と任那でした。辰韓(後の新羅)と弁韓(後の任那)も2世紀後半以降は楽浪郡の文明の影響を強く持ちました。馬韓南部と弁韓は後に任那と呼ばれ倭国と関係の深い地域でしたが、半島ローマ化の拠点楽浪郡までは距離があり、中華文明が自動的に入手出来る環境では無かったため、楽浪郡から技術を身に着けた人が移住して導入していたことと想います。
紀元後の弥生時代はさらに楽浪郡から積極的に文化、文明を導入を図る過程で、技術を身に着けた人々が、フロンティアを求めて一族単位で移住したこともあるかも知れません。


日本語の言語学者大野晋氏は、弥生時代に初めて日本に出現した水田耕作に関する単語で、畑(ハタ)田んぼ(タンボ)畔(ウネ)畝(アゼ)稲(イネ)米(コメ)糠(ヌカ)、餅(モチ)、搗く(ツク)など、南インドで消えかかっているタミル語の関連を指摘しています。中国西南部で発生した古代タミル語が南インドに渡り、インド・アーリア語に侵食されて死滅したのかも知れません。いずれにしても大野晋氏は言語は文明に付いて行くことから、中国は日本に侵攻したわけでないのに、文明の優越性によって、現在の日本語の語彙の半分は中国語で占めているとし、同様アメリカ文明の先進性によって現代日本語では、圧倒的にカタカナ語が増加していると指摘しています。中国西南部で発生した水田稲作文明にはタミル語が関係していたのかも知れません。これは定かでありませんが、人類生存の基本となる畑作文明と水田稲作文明の2つの巨大文明の発祥には、ソフトと共にそれを伝える言語も共に伝播したのかも知れません。
この辺りの歴史は信長とか秀吉とか家康の歴史より、想像するだけでも、遥かにスケールや後世に対する影響という点で大きく、それ故いっそう縄文から弥生時代に惹かれます。

縄文時代、弥生時代の人口については講談社学術文庫鬼頭宏著「人口から読む日本の歴史」が参考になりますが、縄文時代の人口は後期で160万、晩期で寒冷化によって75千人まで減少しましたがこの数字は遺跡数でカウントしたものです。そして稲作が軌道に乗った弥生時代の終わりには59万人に増加しました。この数字は集落跡をカウントした結果の数字ですが、鬼頭氏の推定では倭人伝に記載された29か国の人口180万に加えて東日本の狩猟採集民40万を加えて220万人だったと推定しています。

ちなみに縄文時代の人々は短命で20代で半数が死に、50代まで生きることは困難でした。また女性の方が出産のため早死にだったそうです。縄文の土偶は無事出産の願いを込めたものでしょう。

縄文や、弥生時代を考える時、いつもアメリカ西部のフロンティア時代の西部劇を想い出します。子供の頃から西部劇は大好きで、戦争映画と共にことごとく映画を見ていました。
初めて吉野ケ里遺跡の環濠集落を見た時は、これは騎兵隊の砦だと想ったし、弥生時代、半島から海を渡って入植することは、北西への道や、幌馬車隊を想い出し、未開地での働き手については、OK牧場の決闘を想い出します。この映画はワイアットアープの3兄弟と盟友のドク・ホリディの4人と牧場主のクラントン一家6人の戦いで、西部で最も名高い決闘の史実でした。未開の地では男兄弟が3人揃えば近郊に知られた存在になり、クラントン一家のように6人も男兄弟がいれば史実に残ります。弥生時代という我が国のフロンティアの時代を想像するに、こんな馬鹿な事も考えています。

弥生時代を想像する楽しみには、学者の著作を越えた想像の楽しみが拡がります。


漢文化の受け皿になった九州北部の国々

楽浪郡からの漢文化の受け皿は九州北部の国々が請け負いました。楽浪郡や半島南部で漢文化を身に着けて日本列島に移住してきた人々は、九州北部に定住するのではなく、フロンティアを求めて瀬戸内海を経由して続々と本州各地の川を遡り、或いは日本海側を北上し、水田稲作の適地を求めて船で移動したのではと想います。

博物館を訪ねた時は必ず図録を購入します。図録はその場でしか手に入らず一期一会の世界です。博物館の学芸員が研究の成果である図録は、単なる商業出版物ではありません。
国立歴史民俗博物館の図録コーナーは各地の博物館の図録を揃えており、ほとんどすべてがその地に行かないと手に入らないものです。

ここで伊都国歴史博物館の図録を購入しました。弥生時代伊都国は対外交渉の窓口の役割を果たしてきた小国家で、現在の糸島市です。内容は船の歴史とモンゴル襲来が主で、資料の少ない和船のについての解説は中々興味深い内容でした。私は船が好きで、帝国海軍関係以外の船の歴史、帆船、和船、客船など結構揃えていますが我が国の先史時代の舟に関する資料は本当に少なく謎のままです。

自宅から野田まで車で行くより東武線川間駅で待ち合わせて、肥後さんの車で佐倉に向かいますが、肥後さん宅に寄ってから行きました。
最近肥後さんは2,000㎡の農地を購入し、今まで借りていた農地の果樹園を移設し、果樹園を作るのだと張り切っています。薔薇だけだと物足りなくなったようです。

肥後さんは私と3歳若いですが、その歳で2000㎡の果樹園をつくるとは、パワーに溢れています。

肥後さんも歴史好きで明治維新の評価について一致しますが、近年肥後さんは八ヶ岳の縄文遺跡を見てから縄文時代に興味を持ち、車で三内丸山遺跡や北海道に出かけて、アイヌ民族にも興味を抱いています。
そんな肥後さんとは佐倉の歴博は何度行っても飽きない楽しい場所なのです。

肥後さんに代わって野田ガーデニングクラブの会長になられた小布施さん宅を訪問しました。
小布施さんは薔薇の名手で、オープンガーデンの際は、いつも庭の見事さと工夫と美しさに感銘を受けています。
薔薇庭、特にクライマーやランブラー、或いはシュラブ系の薔薇を愛好している庭は、9月初が最悪になります。夏の終わりは猛烈に枝が伸びてしまいます。
我が家も8月に剪定しても1か月経つとジャングルになってしまいますが、この時期他の人の薔薇庭を見る機会が無く、自分の庭だけがジャングルだと想っていましたが、あの名手の小布施さんも我が家と同じなので安心しました。

この画像を掲載すると怒られますが、名手でも夏の終わりにジャングルになってしまう例です。

こちらは5月のオープンガーデンの際の小布施さんの庭です。