北茨城の海を眺める自然旅1、初めて降りた日立駅

10月11日、12日、秋雨前線でぐずつく天気が続く中、2週間先天気で様子を見ながら、この日の晴天を確信して宿を予約しました。
今回は生まれて初めての北茨城の旅で、北茨城の海を見るのが目的だったため旅行予定日の天気に敏感でした。

今まで関東では、行った事の無い地はほとんどありませんが、茨城県の南部はともかく水戸以北の北茨城には足を踏み入れたことはありませんでした。
今回、北茨城に行きたかった最大の目的は、野口雨情の故郷の海を見たかったことと、ついでに岡倉天心の六角堂を見たかったことでした。

浦和に住んでいると群馬県や栃木県は大宮から高崎線、東北線1本で行けるため、子供の頃から行く機会がありましたが、常磐線沿線の茨城県は、埼玉からの鉄道が無く、常磐線はいったん上野まで行かないと乗れないため、中々行く機会が無く、特に北部の茨城と福島の境が不明だったのです。従ってこの辺りの歴史は幻のように感じていました。

7,8年ほど前、戊辰戦跡の白河城祉と棚倉城祉、更に陸奥一宮の馬場都々古和気神社と八槻都々古別神社を訪ね、棚倉街道を白河から南下していた時、途中に久慈川の標識を見つけました。久慈川といえば常陸の川で、福島県になぜ久慈川が流れているのか不思議に思いました。川が流れているところには必ず街道が走っています。その時初めて常陸国と陸奥の白河や会津が繋がっており、第1級の古社と思われる陸奥国一宮の2つの神社が、なぜ棚倉にあるかが、実感として分りました。陸奥国一宮の2つの神社は、ヤマト王権の軍勢が常陸から陸奥へ侵攻する関門に位置していたようでした。

それまでヤマトから陸奥へ侵攻ルートは、東山道から白河が起点だと認識していましたが、東海道の三浦から海を渡って、安房、上総、下総、常陸経由で北上する道が山で突き当たる茨城県と福島県、すなわち常陸国と陸奥国の境は、漠然とした霧に包まれ良く判判らなかったのです。
その後古代になり、陸奥国の入り口には3つの関が設けられました。出羽鶴岡の念珠の関(ねずのせき)白河関、そして勿来関です。勿来関は常陸国と陸奥国の境にあることは何となく知っていましたが、具体的にどこにあるか漠然とした霧に包まれていました。

今回の北茨城の旅は、今まで私が漠然と霧に包まれていた地域に初めて足を踏み入れる旅となりました。1泊2日の短い旅でしたが、長い間未知の地域だったため心躍る旅でした。特に海の歌に鋭い感性を示していた野口雨情が生まれた時からどんな海を見ながら育ったのか、山は大体想像がつきますが海無し県で育った私が、雨情が育った海を見ることが最大の目的でした。

棚倉の陸奥国一宮の八槻都々古別神社の神門の扁額 16年10月

中世の歴史ではいつも不思議に感じていることがありました。それは茨城から遠く離れた会津の地を、福島北部の伊達氏出身で米沢城に本拠を構えていた伊達氏と常陸の佐竹氏とが互いの勢力を争っていた事でした。

中世の会津盆地は米どころで、奥州藤原氏を滅ぼした頼朝は、三浦氏の一族の佐原氏に会津統治を任せその一族の蘆名氏が400年間領有してきました。しかしかねてより会津を狙っていた伊達氏が会津に侵攻し蘆名氏を追い出してしまいました。蘆名氏は後ろ盾で親族の常陸の佐竹氏を頼って佐竹氏の本拠常陸太田城に逃げのびました。私たちは常陸守護の佐竹氏の本拠は水戸と思っていますが、それは常陸国を統一した戦国時代のことで、それまでは出身地の佐竹郷が位置する常陸太田が本拠でした。

常陸太田は常陸国の北部に当たり、陸奥国との国境に聳える八溝山の金山の豊富な金で、陸奥南部を狙い伊達氏と抗争を繰り返してきました。八溝金山の金は黄金好きな秀吉に特に喜ばれ佐竹氏は秀吉に篤く用いられました。しかし佐竹氏は秀吉の縁や伊達氏との抗争のため、家康の関ヶ原への参戦を行わなかったため、関ヶ原合戦後、家康に領地没収され秋田に移封されてまいました。この時、京都にいた佐竹氏は水戸城に寄ることなく、直接秋田に行かされた過酷なものでした。家康は自ら源氏を名乗り、源氏の血を引く大名を篤く遇しましたが、義家の父親の源頼家の地を引く佐竹氏に過酷な扱いを講じたのは、関ヶ原合戦前余程寝首をかかれるのではないかと恐れていた証です。

秋田に移封された佐竹氏は角館に蘆名氏の佐竹北家を置き旧蘆名氏の家臣団がそのまま、現在の有名な武家屋敷を守っています。一方八溝金山での鉱山技術は秋田に行っても、活用され小坂銅山の大々的な開発を始め鉱山国として秋田の名を高めました。

茨城北部は、福島県の棚倉や郡山に向かう久慈川沿いに水郡線(郡山ー水戸)が通る奥久慈街道と、海岸沿いにいわきに向かう常磐線と陸前浜街道が走る6号線と常磐高速道が扇形に広がっています。その間には阿武隈山地があるため、交通網が無く自家用車でしか連絡できません。当初は海岸線の磯原と水郡線沿いの袋田滝でも繋げようと想いましたが、自家用車かレンタカー以外不可能なため水郡線からその先はまたの機会として、今回は北茨城だけに留めようと考えました。

北茨城の磯原の野口雨情生家と五浦海岸の六角堂や岡倉天心の美術館だけでしたら、歩道の有無は分かりませんが、ロングトレイルをウォーキングするのも悪くないと想いましたが、地図を見たら勿来の関も直ぐ隣のいわき市の山中にあるため、鉄道だけでやはりレンタカーを使用しないと無理だと分かりました。そのためレンタカーを調べていく内、日立がトヨタレンタカー営業所の北限であることが判り、産まれて初めて日立の駅に降りることになったのです。

初めての日立駅

特急ひたちは上野から1時間半で日立に到着します。常磐線の特急は空いていると想いましたが、浦和駅で特急券の購入の際、意外に混んでいることが判りました。常磐線特急ひたちは品川発で、上野から乗車したら満席になりました。水戸までノンストップで、水戸、勝田で大半の乗客が降り、日立で降りるとそこから先は全くまばらでした。
生まれて初めて日立の駅に降りましたが、かっての日立製作所の我が国を代表する企業城下町が、GMばりの経営の選択と集中を行った結果、多くの優秀な子会社や家電から撤退し、町も寂しくなったことなど予想していました。しかしホームは寂しいホームでしたが、階段を上がると、新しいコンコースが拡がっていて、しかも目前に太平洋の海が見えました。

上の展望のデッキ横に海の見えるカフェがありました。ちょうど昼時だったので昼食を採りましたが、ハンバーグランチもとてもおいしくこの店を選んで正解でした。

日立市立郷土歴史館

駅の観光案内所?で北茨城の地図を求めたら、そこは日立市の観光案内所のため、北茨城市が管轄の北茨城の観光地図はありませんでした。事前にネットで北茨城市の観光案内マップをダウンロードしましたが、印刷すると小さくて見えないため現地調達に切り替えたのです。
ご親切にも係の人は、わざわざ奥から1枚だけ残った地図を探してきていただきました。係の人に日立市の歴史を訪ねたら日立市郷土博物館と郊外の日立オリジンパークを紹介されました。日立市郷土博物館はこれから走る国道6号線沿いにあるため、寄ることし、日立オリジンパークは翌日時間が有ったら帰途寄ることにしました。

駅前のトヨタレンタリースで予約したアクアを借りて、郷土博物館にやってきました。


入館すると直ぐに実物大の日立鉱山の採掘現場の模型がありました。右は機関銃のような削岩機の数々です。

日立鉱山は明治38年(1905)小坂鉱山を退任した久原房之介が、鉱毒水問題で経営不振だった赤沢銅山を買収し日立鉱山として創業したものです。しかし鉱山は銅の清廉に伴って発生する亜硫酸ガスによって煙害問題が生じましたが、世界一の高い煙突を建造し、更に毎日気象によって溶鉱炉の操業を調整したため煙害問題は解決し、日立鉱山は、足尾、別子、小坂と並ぶ日本4大銅山に発展しました。塩害で荒れた山には塩害に強いオオシマザクラを植えた結果、今ではサクラの町に変わっています。

日立製作所は、日立鉱山の電気機械修理工場が始まりでした。久原房之介に請われて小平浪平が、明治39年(1906)に日立鉱山に入社し、工作課長として鉱山の外国製の電気機械の修理を行っていましたが、明治43年(1910)に国産の5馬力モーターを開発し、翌年本格設備を備えた4,000坪の電気製品製造工場が完成しました。大正9年(1920)に小平浪平が初代社長とした株式会社日立製作所が発足し、世界の日立の前身が誕生しました。

日立鉱山で使用するため、日立鉱山内の電気機械修理工場の小平浪平たちによって初めて開発された5馬力モーターの実物です。

子供心に日立の名は日立モートルの名で、モーターの日立の名が響き渡っていた記憶があります。昔の洗濯機に出会いました。生家は商売をやっていたため近所の電気店との付き合いで電気製品の導入は早く、少年時代、東芝の炊飯器から始まって次々と電気製品の導入に出会いました。当時電気店はメーカーブランド系列化が進行していて、東芝が多かったような気がします。多分洗濯機は東芝で、手回しの絞り器が珍しく遊んだ記憶があります。最初の冷蔵庫は多分日立だったと想います。
結婚した時、家電で意識したのは日立のモーターで、冷蔵庫は最初から日立ブランドに決めて購入しました。お陰で長寿で17年間も休まずモーターが回転してくれました。その後のブランドは記憶にありませんが、今、使用している冷蔵庫を先ほど家内に確認したら、大型冷蔵庫は日立でもう11年目です。小型冷蔵庫は6年目で三菱電機製です。両方とも家内が選択しましたが、冷蔵庫はモーターが命なので、どちらも重電メーカー製でした。

中井川俊洋写真展「日立鉱山に生きた人々」

郷土博物館の企画展示では写真家中井川俊洋の「日立鉱山に生きた人々」展が開催されていました。中井川俊洋氏は日立市出身で、大学の卒業制作のテーマとして昭和56年に閉山する日立鉱山の様子を撮り始めたことから、写真家としての人生を歩み始めました。氏は大学卒業後も就職せず、閉山後の人々の姿を追って全国の日立系列鉱山、アフリカの鉱山、新しい職場や、職業訓練所など訪ねて写真を撮り続けました。

映像と異なって静止している写真の迫力に圧倒されました。日立鉱山に生きた人々の写真に接していると、現在私たちが映像に慣れきっている情況の中で、モノクロームの静止画像のドキュメンタリーな迫力に改めてメディアとして感銘を受けました。
私の学生時代は岡村昭彦を初め世界の報道写真家のベトナム戦争のドキュメンタリー画像が、毎号岩波の世界を賑わしていました。当時TVで流れていたドキュメンタリー番組の映像は、静止画写真のドキュメンタリー手法を基本に作られていたような気がします。
展示会の写真を見ていると、ふと学生時代に戻った気がしていました。現在はユーチューブを初め映像全盛の世界ですが、饒舌すぎてドキュメンタリーとしての感銘を受けなくなっています。場面を写真家の感性で鋭く切り取っていたあの時代の方が、遥かに事実としての画像の重みがありました。とても良いものを見させて頂いた写真展でした。

大正時代の日立鉱山の風景

日立市郷土博物館内で、鉱山の1910~40年代の日立鉱山の風景がはがき集として販売されています。その中から下記2枚を掲載させて頂きました。

大正時代の日立鉱山と日立製作所の風景

同じく日立市郷土博物館内で日立の絵はがき紀行集が販売されています。その中から下記6枚を掲載させていただきました。

日立鉱山の全景、右は日立鉱山電車です。

日立製作所山手工場の全景

昭和15年の日立市内繁華街、右は昭和14年助川駅(現在の日立駅)の風景。

ちなみに助川駅の名は律令時代の官道の駅名です。