見沼の紅葉

見沼田んぼが美しく輝くのは、梅、桃が咲く早春からさまざまな色の花木が咲き始め、やがて付近を圧するような桜回廊が出現し、やがて見沼田んぼ全体が新緑に覆われます。しかし青田を除いて夏から秋は単調になりますが、初秋になると空には美しい雲の競演が繰り広げられます。そして霜が降り遅い初冬の紅葉の季節が始まります。

私のPCのハードディスクの画像記録を見ると、見沼の画像は圧倒的に春が多く、初秋の雲を除いて夏から秋まではカメラを持参してウォーキングすることはなく、従ってほとんどありません。

しかし晩秋から初冬の季節になると再び画像の数が多くなります。見沼の紅葉の景色は、風景の美しさでは春の見沼の風景に比べると見るべき点が乏しいですが、それなりの風情があります。しかし例外は見沼自然公園でいつの季節も見ごたえがあります。

初冬の夜明けは遅く6時過ぎになります。旭日が登る寸前に大地が赤く染まります。山のご来光もそうですが、旭日が登るこの瞬間がとても好きです。多分鳥たちも私以上に好きで、この瞬間から一斉に行動を起こします。

森が少ない見沼全体の紅葉は大したことはありませんが、部分的には美しい紅葉も見られます。
学生時代年間100日近く山に入ってきましたが、紅葉と新緑のピークには中々出会うことは少なく、このピークに出会うのは結局山中に住む以外不可能だなと思っていました。紅葉のピークは比較的長く1日で終わることはありませんが、新葉が芽吹く瞬間の新緑のピークはたった1日だと想っています。いずれも陽の光が主力で、荒天が去った翌朝の早朝が決め手になります。

私の紅葉の記憶では、小学校の修学旅行での奥日光湯元での紅葉と、大学1年の新雪の北アルプス白馬からの下山中天狗原下で出会った新雪、針葉樹、紅葉の広葉樹から構成されたいわゆる三段構えの紅葉に加えて、10数年前の火打山、八甲田山、そして昨年の安達太良山がベストでした。

見沼田んぼの数少ないススキです。山陰の旅を終えたばかりですが、旅先ではススキばかり見ていました。ススキがセイバンモロコシ(西播蜀黍)に侵されていないとホッとしていました。
山陰でも北茨城でもススキは健在で、まだススキがセイバンモロコシに駆逐されているのは見沼周辺の現象だけなのでしょうか?

これは別な日の画像です。霜に覆われた大地を旭日が照らし始めました。

霜に覆われた美しい畑です。

憎らしいセイバンモロコシ(西播蜀黍)でも旭日を浴びると美しくなりますが、秩序の無いその姿は雑草そのもので、ススキのような風情は全く感じません。牧野富太郎は雑草という植物は無いと言っていましたが、植物学での分類上雑草という分類は無いのは事実ですが、一般的に雑草という植物は無いと言い切る事は、あまりにきれいごと過ぎると想います。

旭日を浴びて水鳥が出航を開始しました。この鳥たちは夏はどこで越したのかとふと想いました。

そう思った瞬間、前方の樹々の梢の上に、鳥の大集団が突然現れました。

それらは渡り鳥の集団でした。遠いシベリアの地から、真冬の寒さを避けて飛来した渡り鳥の集団です。

昨夜は見沼のどこかで羽を休めたののか、今日は見沼のどこかで越冬地を見つけるのか、大集団で空を舞っています。

昨秋、同じ時期、山陰を旅しましたが、早朝の萩城を散歩していた時、渡り鳥の集団が飛来して城の堀に着水しようとしていましたが、近くの電柱の上に猛禽類が2羽待機していました。さすが長州の地だなと想いました。それに比べて見沼は猛禽類は見当たりません。

渡り鳥たちは夏の間シベリアで子育てして来たのでしょう。雛はシベリアで生まれて秋には成鳥になりました。若鳥たちは親鳥の後を懸命に付いて海を渡ってきました。
多分途中で脱落し海に沈んだ鳥も数多いと想います。鳥の世界も生存が激しいです。

渡り鳥と言えば子供たちがTVで観ていたどらえもんの「のび太ツバメ」を思い出します。非力なのび太はどらえもんの助けを借りながら、ジャイアンやスネオ、しずかちゃんたちの後を泣きながら海を渡っていたシーンを思い出します。子供たちは自分がのび太に重ね合わせて観ていたような気がします。

1昨年11月、さいたま市立病院の7階に1か月間入院していた時、目の前の手が届きそうな近くに渡り鳥の集団が舞っていました。飛んでいる鳥を、初めて間地かに見た瞬間で、まるでプラネットアースの映像を見ているようでした。

市立病院の裏手に美しい黄葉の大銀杏があります。先日南青山で毎年2回定例で行われている上の年代のOBたちとの小さな飲み会に行って来ました。表参道の銀杏並木とイルミネーションは有名ですが、昨日のニュースで今が黄葉の盛りと報道されていました。バカな私はイルミネーシヨンが点灯しているかと想い、表参道を歩くべくわざわざ原宿でおりて参道を歩きましたが、銀杏は黄葉に向かって茂っており、イルミネーションは落葉したら点灯するとの事でした。

学生時代の東京の11月末は銀杏の黄葉の季節でした。神宮前でも早稲田でも美しい黄葉でいっぱいでした。11月末の勤労感謝の日の前後1週間は富士山の雪上訓練合宿の時期と重なり、銀杏の黄葉は余り見ることはできなかったけれど、もし私が小説家で学生時代の小説を書こうとしたら、必ず東京の黄葉の季節を背景にするでしょう。

紅葉の見沼自然公園

11月に入り寒くなったためクロスバイクに乗るのは止めていましたが、いつものコースの見沼自然公園の紅葉が気になり、昨日家内と車で出かけてみました。

小春日和の暖かい日曜日の午前中、静かな公園を散策しました。小春日和は、昔から米国東海岸ではインディアンサマーと呼ばれていますが、四季がはっきりとした地域で使用される贅沢な言葉と想います。

先日神戸の六甲山で見事な紅葉を見てきた後のため、まだ網膜に紅葉が残っており、見沼自然公園の紅葉をプラスすると今年の紅葉はこれでOKという気分になりました。

この地で夏を過ごしたか、シベリアから渡って来たか、初夏に比べると水鳥の数が多いように感じます。

見沼自然公園は広葉樹が多いわけではなく、紅葉だけでの目的では物足りなさもありますが、トータルで考えるとなかなかの風情です。

広葉樹の小道です。日曜日ですがとても空いています。住宅地から離れているため、別所沼公園に比べると圧倒的に人が少ないです。少し離れた川口の郊外に広大な川口自然公園があるため川口市内の若い家族連れはそちらの方に行くため、見沼自然公園は車の運転可能な年配者が中心です。

見沼自然公園は沼地を埋め立てて造ったいわゆる親水公園のため、中心の池は湧き水でしょうか、とても美しい水辺です。
子供の頃は別所沼公園で育ち、晩年は見沼田んぼと見沼自然公園を友にしています。都市生活を享受しながらいつでも散策できる美しい自然の野があることに幸せを感じています。

見沼田んぼでウォーキングで行きかう人たちに一言声をかけると、誰もが見沼の豊かな自然を賛美します。

歳を重ねるということは、未来はだんだん少なくなってきて、今、現在と過ぎ去った昔の日々のウエイトが高くなってきます。

従って日々頭をよぎることは、先の事より、圧倒的に今現在の事、そしてふとしたきっかけでチャネルを切り替えると、次から次へと子供の頃の思い出や昔の想い出が頭をよぎってくるのです。
人間の思考は上手くできているもので、人間必ず誰しも持っている過ぎ去った昔の辛かった出来事や哀しい出来事は、時間の経過と共に、自身が悲劇の主人公となって客観的な甘美な想い出に変わるのです。この人間だけに備わった映像装置は実に偉大です。
こういう不思議な現象は、大きな脳が存在し長寿が約束できる人間に与えられた生物学的な特徴と想っています。うつになって命を絶つ若者には、人間には時間という大きな特権が与えられていることを知らせたくなります。

公園と言えばそんなことでまた子供の頃の話になってしまいます。

私は子供の時、特に自然を好きだと思っていませんでしたが、子供の時の遊びは屋外が大半でした。遊び場は家の周りだけでなく、当時の子供の遊びの半径は今よりずっと広く半径2kmに及びました。

小学校までが1kmでしたが、通常の行動範囲は2kmで、小学生時代当時は子供用自転車は無く、大人の自転車はサドルが高くお尻が届かないため、三角乗りという片足を車体の中に入れて自転車を斜めに倒しながらペダルを漕ぎました。遊び仲間全員が自転車を持っていなかったため移動は全て徒歩でした。

現在の浦和市街の西は荒川まで市街地になり、子供の頃から比較すると人口は5倍近くなっています。旧浦和は荒川の右岸に位置する鴻巣、北本、桶川、上尾、大宮と続く大宮台地の突端にあり古代では大地の周辺は海でした。この大宮台地の突端の中山道から西の地域は鹿島台と呼ばれていました。母校の旧制浦和中学は戦前に現在の北浦和の地に移転しましたが、旧制中学時代は鹿島台にあり、高校の校歌の一番には、武蔵野の鹿島台、荒川、富士山などの言葉が出て来て当時の様子が偲ばれます。当時、鹿島台にわずかな距離で隣接していた浦和中学と埼玉師範の生徒のからみを物語にした佐藤紅禄の小説「ああ玉杯に花受けて」がベストセラーになりましたが、生家はこの近くに位置していましたので、小説の舞台は手に取るように分かりました。
またサッカーは埼玉師範で始まり、ライバルの浦和中学に伝染し、昭和30年代から浦高、浦和市立、浦和西、浦和南が、静岡勢と全国制覇を競い、サーカーの街浦和が生まれました。

生家の西の半径500m先からは、田んぼ、畑、丘、林、小川が拡がる田園地帯で、1km先には別所沼がありました。
この別所沼は何の変哲もない大きな沼で、浦和の鹿島台台地直下に広がったネス湖のような不気味な沼で、沼に落ちたら助からないという底なし沼の伝説がありました。

ここにもやがてボート乗り場ができましたが、中学1年の時嵐の日を選んで乱暴な級友2人で度胸試しという事で、無人の沼にボートをこぎ出しました。小さな沼なのに嵐で木の葉のように揺れましたが、それだけでは満足できずお互いに中腰になって左右に揺らしましたが、怖いけれどお互い止めようと云うわけにいかず、我慢して恐怖のどん底で頑張りましたが、底なし沼の恐怖でおののいた記憶が残っています。

この別所沼は、かっては浦和の芸術のメッカであったと言われています。
関東大震災の後、東京での被災者の受け皿として田園調布と浦和の西側の鹿島台台地に住宅地が造成されました。元々中山道の下から数えた方が早いほど人口の少ない宿場町浦和が、明治になり県都となって、県庁、郡役所、警察署、裁判所、中学校、師範学校、官舎など続々建設され行政の人工都市になりましたが、人口が少なく、駅周辺も広大な土地が開いていました。


この頃東京から移住した人々は主に陸軍軍人家庭と画家が多く、別所沼を望む鹿島台に住居を構えました。明治の行政都市の浦和の街は、行政施設や学校など洋風建築が多く、画家たちにとって洋画の材料としては豊富で、しかも底なし沼の別所沼周辺を湖に見た立てて風景を描きました。
また郊外や街中も武蔵野の面影を残す木も多く、平安時代の古刹玉蔵院や律令時代からの古社調宮神社や商業臭の少ない街並みはおっとりとし、郊外には別所沼初め武蔵野の風景が広がっており、画材には事欠かなかった地でもありました。浦和に移住した画家は相当数にも及び、彼らの子弟たちが旧制浦和中学に入り、後に日展審査員長の高田誠画伯を中心とした浦高画壇を構成したり、或いは浦和画壇として画壇に大きな位置を占めました。

以上の事は、50歳を過ぎてふるさと浦和が気になって調べて分かったことで、それまではあまり知りませんでした。
しかし子供の時から浦和に本格的な画材店が2店あり不思議に思っていたことや、媒酌人をお願いした高校の恩師が定年後陶芸家になり、訪問した世語りで、私たちが工芸で教えを受けた人間国宝の増田光男先生から手ほどきを受けた事、同じく人間国宝の内藤四郎氏のご子息の日本画家の内藤五浪氏が恩師の教え子であったことから個人的に浦高美術のことを知りました。

浦和が文教都市であることは昔から言われていましたが、市民の間で西の鎌倉、東の浦和と言われていましたが、歴史の無い浦和がなぜ文学の鎌倉と対比させている理由を私を含めて浦和のほとんどの住民は知りませんでした。


余談ですが、またかって浦和は中央線沿線のコーヒー文化に対して、世田谷と共に紅茶の消費量の多い紅茶文化の街であったことは、20代の頃のリプトン紅茶の資料で知りました。中学生の時、家庭科の先生がケーキ屋さんにお嫁に行ったぐらい浦和の街にはケーキ屋さんが多く、これは紅茶文化と関連しているでしょう。陸軍軍人と画家たちが紅茶を愛好していたわけでもありませんが、コーヒー文化の街で無かったことは良く判ります。

浦和に移住した画家たちは浦和を写生した多くの絵を残していて、特に子供の頃親しんだ別所沼の絵がたくさん残っています。私の小学校は別所沼と地続きの約800m北に位置し、学校ではよく付近を写生しましたが、この辺りの風景は、農家と村岡牧場以外顕著な建物が無い中、農家の屋敷林や林の緑を描く以外に無く、それが今でも緑を見る私の風景の原点になったような気がします。毎年年末に年賀状のため1日だけ水彩の絵筆をにぎりますが、樹々の表現や緑の色の出し方は、小学校時代の方が上手だった気がします。

私は幸運なことに一流の画家たちが親しんだ別所沼の風景を視て育ちました。芸術への興味は、このように遠く回り巡って影響を受けるのでしょう。

見沼自然公園もやがて使い込んで円熟した雰囲気になって行くのでしょう。各地を旅していつも感じていることですが、公園はハードが全てでなく、ハード半分にその公園に親しんでいる住民の人々が半分で、その公園の総体の雰囲気を決定します。

まだ見沼自然公園はハードの雰囲気はありますが、利用する人たちの雰囲気は未知です。むしろ隣の川口自然公園の方が先行しているような感じがします。