奈良古寺の旅その3、聖徳太子から始まった仏教国家の流れ、聖武天皇と頼朝のこと

昨年末に行った奈良古寺と古社の旅で、光明皇后ゆかりの海龍王寺と大和国分尼寺だった法華寺を訪れました。
光明皇后ゆかりの寺院の紀行を書くに当たって、光明皇后の夫である聖武天皇について触れないわけに行きませんが、聖武天皇が目指した華厳世界と東大寺については、11年前東大寺を訪問した際、当時の私のHPの寺院巡礼の紀行文を改めて読み返したら、その時と何ら考え方が変わっていないため、当時の紀行をそのまま掲載しました。

光明皇后は藤原不比等の娘、光明子で、皇室以外から初めて皇后になった人です。
光明皇后は我が国の基礎をつくった稀代の政治家である藤原不比等の子光明子で、聖武天皇の母も同じく不比等の子、宮子であったことから、光明皇后と聖武天皇は幼馴染で養育されてきました。今回の奈良古寺の旅で光明皇后ゆかりの寺院は、当時、いずれも平城宮に隣接した東側の藤原不比等の屋敷跡に建立されていました。

我が国が仏教を基本として、東アジアの近代国家として歩んだ歴史は、古都奈良において、聖徳太子の飛鳥寺と法隆寺、天武天皇の薬師寺、藤原不比等と光明皇后の興福寺、聖武天皇の東大寺に見ることができます。
古都の大伽藍を眺めていると、平城京は平安京に遷都した時から1200年にも及ぶ長い期間、時間が全く止まっている印象がありました。

これらの大伽藍を眺めていると、飛鳥から平城京の奈良時代、当時の為政者たちが、なぜ、現代の建築に匹敵する大伽藍を建立したのか、その意味が解ってくるような気がします。

20年10月薬師寺、高校の修学旅行以来、近鉄の静かな駅から境内に入ると突然大伽藍が眼の前に現れます。

我が国の仏教は、国家建設のための統治イデオロギーと、仏教に伴った普遍的な近代技術(山門、伽藍、塀、高層塔建築技術、仏像鋳造技術、仏具制作技術、木工調度品制作技術、紙すき、筆、硯など文具、袈裟、作務衣、足袋、草履など製造技術、食事と調理器具)さらに仏教経典の持つ知的技術(書、哲学、教育、訓練)など総合技術導入目的で導入されました。

仏教を国家の基本的な宗教とする決断は聖徳太子によってなされ、聖武天皇の華厳世界実現の意思によって、その象徴の東大寺が生まれ、戒のシステムも導入され、仏教の総合的近代技術は国分寺、国分尼寺建立によって全国津々浦々に浸透して行きました。
現在でも中東ドバイで天をつくような高層建造物が建てられていますが、高層かつ巨大構造物は何時の時代にも近代化の象徴だったのでしょう。


通常の歴史解釈と大きく異なって、私なりに我が国に過去3回の大きな近代化の歴史があったと独断で仮定すると、1回目は飛鳥寺の建立から全国の国分寺、国分尼寺の建立、2回目は頼朝に鎌倉幕府開設によって古代国家と決別がなされ封建国家が誕生したこと、3回目は封建制の大政奉還から現在までがそれに当たります。1回目と2回目は仏教がその主要な役割を果たしましたが、3回目は法のシステムと議会制度、そして何回かの産業革命が行われ、現在新たな産業革命が進行し始めています。

過去を振り返ると律令体制は天武天皇、藤原不比等が大きな役割を果たしましたが、仏教の導入から3回目の封建制の大政奉還までは、聖徳太子、聖武天皇、源頼朝が大きな役割を果たしたと想います。

13年12月東大寺中門


現在、TVなどで我が国の歴史物語は、読み物的な歴史解釈がもてはやされていますが、、読み物的な観点から見ると、英雄的な要素が少ない聖武天皇や頼朝は歴史上の人物としては、不人気のトップにあります。
聖武天皇は藤原4兄弟の間で、独自の判断をできずオロオロ動いている印象が強調されて、近代国家へのイデオロギーとして華厳世界確立に向けて行った数々の事績は全く評価されていません。頼朝は肉親の義経を討伐した猜疑心の塊の人物の筆頭として評価され、彼が我が国をエジプトやインカ帝国のように祭事こそが政治であった古代国家から、封建制と法を基本とした近代国家に変えた事績は隠れてしまっています。

11年前、高校の修学旅行以来の巨大な東大寺大仏殿に接してから、東大寺の意味とその後の歴史を考えてきました。
そして更に数年前法隆寺や薬師寺、唐招提寺を訪れて、聖徳太子と聖武天皇の時代の鎮護国家としての仏教の意味が改めて確認できたように想いました。更に最澄や空海の登場の意味も改めて確認し、三井寺や聖護院で修験道に至る山岳仏教の流れを知り、さらに比叡山の全塔を訪問することによって鎌倉仏教の出現の意味も分かりました。。

    

聖武天皇が目指した華厳世界国家の象徴東大寺

13年12月東大寺大仏殿

東大寺は華厳経を具現化した寺院です。仏教導入期に平城京を中心に栄えた華厳宗、法相宗など南都六宗と言われる仏教の教義は難しく、特に華厳宗と法相宗の唯識は極めて哲学的で、現生利益や死後極楽に導く仏教の立場に立つと極めて理解しにくいです。

華厳経に深く帰依した聖武天皇は、聖徳太子の意思を受け継いで、仏教国家を目指し、国家の在り方の基本に仏教の華厳世界の実現を意図し、その根本理念を表現するため東大寺を建立しその象徴として巨大な廬舎那仏を作りました。
更にまた全国に華厳世界の根本理念を広げるために、国分寺、国分尼寺を建立し人々に伝道すべき僧と尼を養成しました。更に、私度僧が氾濫していた時代、正しい僧の在り方を確立するため、我が国に無かった戒のシステムの導入に鑑真を招き東大寺に戒壇を設置、光明皇后と共に自ら受戒したのです。そして全国3カ所に戒壇寺を設置、国家公務員としての僧を輩出したのです。

華厳世界とは

13年12月、東大寺廬舎那仏

聖武天皇が目指した華厳世界の国家像とは、基本は唯心に立脚し、小さな事のみに物事を集約するのではなく、華厳の壮大な宇宙観のもとに個の存在を尊重し、個と個の調和と共生を目指すことでした。

すなわち華厳とは、美しい色の華を繋いで作った花輪のような厳飾(かざり)を意味します。華厳世界の中心となる廬舎那仏(太陽)は蓮華蔵世界海の中心に座して、その台座は1000の蓮の花弁を持ち、そのそれぞれが100憶の世界を持っているとされています。廬舎那仏は1000の釈迦仏を化現し、そのそれぞれが100憶の釈迦仏を現わして世界を説法するという大宇宙を描く極めてスケールの大きい教えです。

廬舎那仏が中心に座す蓮華蔵世界海を大宇宙にたとえれば、世界海は無限の小宇宙から成り立って、一切のものは互いに関わり合い調和と融和の中に生きて、その中に存在するものはどんな小さなものであっても、それ自体は絶対の存在であり、一塵といえども動かすことはできないと説いています。

華厳経の基本は三界(欲界、色界、無色界)唯心で、空の概念と共通しています。三界唯心とは、全てのものは客観的に存在するものでなく、心がそう感じるから存在するものであり、従って三界は心の現われであるために、常に心を中心に考えると言えます。華厳思想の大きな宇宙観に立脚し、小さな事のみに物事を集約するのではなく、自らを広大な宇宙の中での一塵として位置づけして物事を捉えます。また華厳世界は何の妨げの無い「無碍」の世界であり、人と人が通い合い調和して共生する世界がつくることができます。

聖武天皇は長屋王の乱や、全国民の3割が亡くなったと言われる2度に亙る天然痘の流行後、各地に宮を移動した後平城京に戻り、華厳世界によって鎮護国家を行うべく、東大寺大仏建立の詔の発布前に、全国に国分寺の建立の詔を発しました。

全国67ケ国、国分寺、国分尼寺の建立

全国に国分寺、国分尼寺の建立の詔は、天正13年(741)発布されました。
総国分寺は東大寺として、以下の国に建立を命じました。いずれも七重塔を持つ寺院建築で、国府と共に国の中心に置かれました。
各国分寺は僧20人、尼寺には尼僧10人を配しました。


畿内5ケ国、大和、山城、河内、和泉、摂津、 
東海道15ケ国、伊賀、伊勢、志摩、尾張、三河、遠江、駿河、伊豆、甲斐、相模、武蔵、安房、上総、下総、常陸
東山道、8ケ国、近江、美濃、飛騨、信濃、上野、下野、陸奥、出羽、  
北陸道、7ケ国、若狭、越前、加賀、能登、越中、越後、佐渡
山陰道、8ケ国、丹波、丹後、但馬、因幡、伯耆、出雲、石見、隠岐 
山陽道、8ケ国、播磨、美作、備前、備中、備後、安芸、周防、長門
南海道、6ケ国、紀伊、淡路、阿波、讃岐、伊予、土佐
西海道、9ケ国、筑前、筑後、豊前、豊後、肥前、肥後、日向、大隅、薩摩、
島分寺、2島  壱岐、対馬

 

信濃国分寺、国分尼寺跡


天武天皇の大宝律令によって、我が国は東アジアの諸国家と同じく律令国家が誕生し、畿内と七道それぞれに国と国府が設置されました。そして七道毎に都と国府を結ぶ大道が作られ官人たちが旅の馬を乗り返る各駅が設置されました。

首都も、唐に倣って飛鳥から広大な藤原京が建設され移転しましたが、直ぐに10万都市の平城京が作られ、中央集権化が促進されました。

全国67ケ所の国分寺、国分尼寺の建立は一大国家事業だったと想います。歴史には詳細は残っていませんが、地震大国の我が国において当時の最先端技術だった柔構造の七重塔を始め最新建築技術の寺院を、全国67ケ所に一斉に建築するためには、各地にその技術背景と人材、材料調達、建築背景がどうだったのか想いを馳せます。

歴史を振り返ると、寺院は建築だけでなく各地の産業全般に渡って大きく貢献してきました。寺院建築では板葺屋根から瓦屋根、山門、塀の構造、大広間の建築、間仕切りなどがあり、仏像鋳造技術、仏具制作技術、木工調度品制作技術、紙すき、筆、硯など文具、袈裟、作務衣、足袋、草履など製造技術、食事と調理器具、般若湯製造、などなど我が国における各地の産業に寺院の果たした役割は果てしなく大きかったと思います。

従って全国67ケ所の国分寺、国分尼寺の建立は、我が国の近代化において、幕末から明治の近代化事業に匹敵する出来事だったと想います。しかし全国67ケ所の国分寺、国分尼寺は律令制度の崩壊に従って、維持が出来なくなり古代幹線道と共に消えてしまい、現在その跡が確認される場所は多くありません。

寺院建築は瓦の製造工房から始まります。それまで我が国の建造物の屋根材は板葺きでしたが、寺院建築の導入から公共の建築物の屋根は瓦に変わりました。

国分寺、国分尼寺の模型です。上田の国分寺、国分尼寺は信越線をまたいで存在していました。

備中国分寺、国分尼寺跡

23年4月、吉備備中国分寺

数少ない国分寺、国分尼寺跡の備中国分寺跡です。国分寺跡には現在寺院が建てられていますが規模は小さく、国分尼寺跡は丘の杜のなかです。


飛鳥寺建築から始まった我が国の近代化事業、そのスピードは明治維新以上です。

20年10月飛鳥

飛鳥の建築物は半島の渡来人の指導で作られました。それまで我が国の建築物の屋根は全て板葺きで、瓦は初めて飛鳥で焼かれました。

瓦などの出土物、高松山古墳の壁画、キトラ古墳の天文図を見ていると、とてもエキゾチックで、我が国の自然に根差した土俗的とも言える湿潤な感性とは異なった、大陸や半島の乾いた感性を感じます。飛鳥は漢の楽浪郡によってローマ化した百済や高句麗からの渡来文化の地でした。

歴史の流れを見ると、我が国は百済に軍事援助する代わりに、百済に伝わった大陸の先進文明と共に人材導入を行なって、技術者を増やし近代化を進めました。更に中国が統一され隋になると、直接、先進文明の導入を図りました。

 こうして、初めて渡来人によって飛鳥寺が建てられましたが、この180年後に聖武天皇の指示で全国に国分寺と国分尼寺が作られました。瓦一つない仏像の作り方も判らない当時の技術環境から、たった180年で人も材料づくりも出来るようになって、東大寺を作り大佛も作り、国毎に国分寺と国分尼寺を作りました。当然同時につくられた国府の建築もありました。

180年間の期間を現代に置き換えて見ると、大政奉還や鳥羽伏見の戦いから現代までが180年間ですから、飛鳥、奈良時代は明治維新以上に近代化のスピードが速かったと考えます。

飛鳥にやってきて初めてそのことに気が付きました。


仏教国家は聖徳太子によって始まり、聖武天皇によって完成した。

20年10月法隆寺

仏教は、経典、書、仏像、寺院建築など普遍性のある総合文明でした。聖徳太子は、従来の天皇家と各豪族の氏神信仰が国家統治の基本だった宗教を、普遍性のある仏教を導入し、近代国家の象徴として憲法、首都、経典、塔と仏像を中心とする寺院を整備し東アジアでの先進国入りを目指しました、

更に漢の帯方郡設置でローマ化した半島経由でなく、最先端の文明を大陸から直接採り入れようと試み、初めて遣隋使を送りましたが、その後隋が滅び、唐が出現すると毎回600人もの官吏や僧を遣唐使船によって唐に送り、大陸の近代文明を取り入れ近代国家を建設したのです。

前項で触れたように、初めて渡来人の力を借りて飛鳥寺を建立してから、たった180年の内に、聖徳太子の17条憲法の発布、仏教国家の建設、天武天皇の大宝律令の制定と近代都市の藤原京の制定、そして平城京の移転、聖武天皇の全国、国分寺、国分尼寺の建立と矢継ぎ早に近代化を推進しました。

180年という年数は鳥羽伏見の戦いから現代まで180日間ですから、当時の仏教を基本とした近代国家の歩みが、かなりのスピードだったことが判ります。

皇室と仏教の関係は幕末まで続き、天皇は寺院に埋葬され、皇室のメンバーが僧となった寺院は門跡寺院として現在でも高い格を誇っています。鳥羽伏見の戦いで薩摩、長州が一夜にして官軍になったのは、岩倉具視が門跡寺院の仁和寺の菊のご紋章が入った緞子から錦旗を作り、幕府軍に対して掲げたため、これを見た多くの佐幕藩が賊軍になることを恐れ恭順したため、幕軍が敗走したと言われています。

 

東大寺の流れ、聖武天皇から源頼朝へ、行基から重源へ(安部文殊院にて)

21年12月安部文殊院、安部家の氏寺でもある安部文殊院は唐の高級官僚で唐で亡くなった安部真備や安倍晴明を祀っています。

以下は数年前安部文殊院訪問後、私のHPの寺院巡礼の項に書いた紀行文です。考えも変わっていないのでそのまま転載しました。

安部文殊院 快慶 国宝渡海文殊群像 鎌倉時代
文殊菩薩は悟りに至る重要な要素である般若=智慧の象徴の仏様です。
華厳経には善財童子が登場します。
善財童子が仏教に目覚め文殊菩薩の弟子になりました。菩薩は善財童子に自身が教えた53人の善知識者の元を訪ね、その教えの中から仏の教えを体得するように指示しました。
そして全ての善知識者の元を訪ね終え悟りを得た善財童子は再び文殊菩薩の元に帰りました。
この渡海文殊群像に接していると、インドから標高5000mのパミール高原を越え、シルクロードの西域諸国を経て長安に至り、そこから我が国に伝わった仏教の伝来の道が蘇ってきます。

渡海文殊菩薩群像を拝観しながら、華厳経の物語を仏像群に表現するには、仏師の快慶だけでは無理で、背後にプロモートした人がいるに違いないと想い、帰宅してから安部文殊院で購入した図録を読んだところ、東大寺再建の立役者の重源が安部文殊院に深くかかわっていたことを知りました。

重源は東大寺大仏殿建立の総責任者であった行基の信奉者であり、行基の姿に文殊菩薩を見ていたといわれています。
行基は民衆に対して仏教の布教活動を行いながら、病人や貧民の救済にあたり、没後文殊菩薩の化身と崇められ行基菩薩と呼ばれ篤く信奉されてきました。奈良時代創始された文殊会は行基の活動を引き継いだものとみられます。

重源は東大寺大仏殿の再興を締めくくる総供養の御仏として、兵火で焼かれ再建中の安部文殊院の文殊菩薩の造仏を企て、快慶に制作を依頼したのです。
東大寺別格本山であり東大寺別院だった安部文殊院はまた阿弥陀如来を本尊として、大和における阿弥陀信仰の根本道場でした。
文殊信仰と共に熱烈な阿弥陀如来の浄土信仰者の重源は、東大寺仁王像を造立した快慶に依頼し、東大寺別院の関係にあった安部文殊院に、東大寺総供養日に合わせて、日本最大の渡海文殊群の開眼法要を行う計画でした。

13年10月東大寺南大門金剛力士像、運慶、快慶作

重源は、平重衡に焼かれた後の鎌倉期の大仏再興に当たり、聖武天皇の「廬舎那仏造顕の証」の「一枝の草、一掴みの土」の請願に倣い「尺布寸鉄、一木半銭」の奉加を請い勧進を呼びかけました。

西行が重源の依頼で、69歳の時、頼朝と藤原秀衡に東大寺大仏再建の勧請を行ったことや、加賀の安宅の関で弁慶がとっさに白紙の勧進帳を読んでも怪しまれなかったことは、大仏再建は日本国中の誰もが合意するほど大切な事業であったことでした。

奈良東大寺では今でも毎年恒例のお水取りの修二会では、過去帳読踊の中で造営の大施主として、一段声高く頼朝の名が読み上げられるそうです。頼朝は重源の東大寺再興の大施主でした。多分頼朝は東大寺大仏は、聖武天皇が華厳国家を目指した象徴的な大仏で、東大寺が数ある寺院の中で我が国における仏教の基本寺院だったことを知っており、幕府の守護神として八幡宮を勧請するとともに、国家の基本となる仏教の寺院は聖武天皇が目指した華厳世界の東大寺と考えていたと想います。

時の権力者頼朝が東大寺再建に熱心だったことから、仏教興隆の機運が生まれ、鎌倉仏教が花開き我が国において一挙に仏教が普及しましたが、このことは大仏再建が背景にありそれが契機となったと思います。

巨大な大仏殿は聖武天皇の圧政の象徴的な存在として通常認識されていますが、聖武天皇の行った天平の事業が、天皇自らの権力欲や支配力ではなく、我が国に本気で華厳世界を齎すために行った事業と改めて解釈すれば、その高貴な精神は、その後の長い歴史の中で、その都度必要とされて形になって現れて来たように感じます。
大仏再建とは単なる大仏を鋳造することでなく、聖武天皇の華厳信仰が形となって蘇えることであり、芸術面では天平仏師の流れが鎌倉仏師に引き継がれ、現在の私たちはごく普通に、高度な芸術を鑑賞することが出来るのです。また大仏再建の気分の高まりを背景に鎌倉仏教が大いに盛んになり、仏教信仰が庶民の間に普及した結果、江戸時代の寺受け制度によって、葬式仏教の形ですが、今日まで仏教が深く浸透して行きました。

20年11月熊野古道

源平の戦い以前の時代、熊野詣に白河上皇が9回、鳥羽上皇が10回、清盛や頼朝と絡んだ後白河上皇は34回、後鳥羽上皇は28回も行なっていました。天皇を退いても院政を行なっている最高権力者が、一年の内約1か月以上を要して輿に乗り1,000人ほどの行列で熊野詣を行なっていた当時の国家は、まるでインカ帝国や古代エジプトのファラオが君臨する時代、祀りだけで政治を行う古代国家そのものであり、まして叡山の僧兵の直訴によって天皇の勅令も曲げられ、横暴を取り締まる事も出来ない無法国家そのものでした。

鎌倉幕府成立以前、我が国は古代国家そのもので、しかも無法国家そのものだったという前提に立つと、頼朝が日本の歴史に果たした役割に対して、大きな評価ができると考えています。

21年11月鶴岡八幡宮

形骸化した中央集権の郡県制から守護地頭による封建国家の樹立、訴訟制による法治国家へと、約800年前に、西欧諸国と同じ時期、封建制国家が世界に先駆けて誕生しました。封建制国家はまだ近代国家とも言えないまでも、古代国家からの脱皮が図られたと考えます。

封建制というと、つい4,50年前までは封建的という用語が古い体制の象徴のように言われてきました。今でも古い映画を見ると、日常会話の中で古さを非難する時に封建的!という言葉が使われています。これは明治新政府が江戸幕府の封建制国家を革命によって中央集権制度いわゆる郡県制に変えたからで、封建制は古さの象徴の用語とされていました。

封建制は中央政府が各地の豪族に領地を委任する制度で、委任する側と委任を受ける側に共通のモラルが必要でした。中世西欧国家にはキリスト教を背景とした騎士道が芽生え、我が国には武士の台頭によって武士道が生まれました。世界の歴史で封建制が確立したのは西欧諸国と日本だけで、両者ともにモラルと法と訴訟制度が存在しました。我が国で初めて封建制を施行し国家運営を行ったのは頼朝の鎌倉幕府でした。頼朝の封建制を支えたのは頼朝と共に幕府樹立に活動した関東の御家人でした。

平安時代末期は律令制度が崩れ、私的開発領主が個人で田畑を開拓しその一部を都の貴族に荘園として寄進し、武士団として武力を蓄えて勢力を拡大していました。その武士団の本拠は関東であり、武士道の原点となった何よりも卑怯な振る舞いを恥じ、一族の名誉を重んじる「名を惜しめ」の思想を具現化した集団で、戦国時代のようにモラルも無い弱肉強食でなく一定の秩序で活動していました。
頼朝はこの共通したモラルを基本として各地に御家人である関東の武士団を派遣して守護、地頭として封地を統治する西欧国家と同じく封建制基本にした鎌倉幕府を開設したのです。いわゆる各地に常備軍を備えた国家でした。西欧国家の野蛮な常備軍は十字軍となって数度のエルサレム遠征を行い、その結果北ヨーロッパに近代をもたらしました。

鎌倉幕府の守護、地頭の常備軍は承久の乱で朝廷軍に勝利し、鎌倉幕府を盤石にした結果、元の2度に亙る来寇を撃退し侵略を諦めさせました。もしこの時平安時代が未だ続いていたなら、公家衆たちの総意で多分降伏し西日本は元に割譲していたでしょう。しかし東日本は武士団が統合して抵抗をつづけた筈です。



現在国連に加入している国々やオリンピックで国旗を掲げて入場する国々のほとんどは、西欧とアメリカを除けば、19世紀までは古代国家のままでした。古代国家とは法がないか、あっても勝手に法を曲げることができる専制国家ですが、これらの国々は20世紀に入って外部の刺激を受け、自ら古代国家から近代国家への革命が行なわれ、更に2次大戦後民族解放運動によって植民地からの開放という形でようやく近代国家が誕生したのです。

頼朝は我が国の歴史や成り立ちを良く勉強していたと想われます。聖武天皇が目指した中央集権の華厳国家を基礎となる律令制が形骸化した結果、何を基本にして国家を樹立するのか、坂東武士のモラルを基礎とした分権性の国づくりを目指していたように想います。 長らく温めて来た自分の国家像を実現するための最大の敵は後白河上皇であり、調子に乗って後白河上皇の意のままになっている単純な戦好きの少年の義経が、自分の国家像実現のための障害になり、とても許せなかったのでしょう。

後白河上皇は、生きている内は頼朝に征夷大将軍を授けなかったと言われていますが、それでも頼朝は、後白河上皇の7回忌の法要では、鶴岡八幡宮、伊豆山権現、箱根権現、慈光寺などの僧侶多数を上洛させ法要を行なったとされています。