奈良古寺の旅その4、光明皇后ゆかりの海龍王寺、法華寺

首都圏や関東の人たちにとって、奈良の古寺の中でも海龍王寺と法華寺を知る人は相当マニアックな人だと想います。実は私もこの2寺の存在は知りませんでしたが、いずれも光明皇后が関係していた寺院と知り、多分センスの良い寺院に違いないと興味が湧いてきたのです。

今まで京都と奈良で特に印象に残った寺院はいくつかありました。寺院には法隆寺や東大寺や薬師寺のように当時の国家に直結する官寺と、創建当時は官寺や氏寺だったものが、やがて保護者がいなくなり規模を縮小して特定宗派の寺院になって行ったもの様々あります。
特に奈良は元興寺や西大寺、新薬師寺など、かっては本堂、金堂、講堂、東西五重塔を要する大型寺院でしたが、都が平安京に移って国家の保護が受けられなり規模を縮小した寺院が数多くあります。
これら規模を縮小しつつ1200年生き続けてきた寺院の中でも、私は新薬師寺と秋篠寺と、そして成り立ちは異なりますが当麻寺の3つの寺院を特に気に入っています。

当麻寺と秋篠寺は五木寛之が古寺巡礼の奈良編で五木自身が恰好を付けず素直な気持ちで書いているように、当麻曼荼羅を織った中将姫像や秋篠寺の伎芸天は、いかにも作家五木好みの仏像です。

海龍王寺と法華寺紀行の前に、昨年このブログで記した秋篠寺は割愛し、新薬師寺と当麻寺について触れたいと想います。今回も前置きが長くなってしまいました。

光明皇后が建立した新薬師寺の想い出

13年12月新薬師寺、本堂


この紀行は11年前HPに記したもので、この後から数多くの寺院を訪れましたが、この時受けた新薬師寺の印象はほとんど変わっていません。新薬師寺は私の古寺に対する概念をすっかり変えた寺院でした。この旅では東大寺や興福寺、元興寺など奈良の古寺を訪れましたが、東大寺の廬舎那仏では聖武天皇の存在を強く感じ、合わせてこの新薬師寺と正倉院をつくった光明皇后の存在を意識しました。

学生時代大学に会津八一記念館がありましたが、新薬師寺で歌碑を見るまで、何をした人なんだろうと想っていた恥ずかしい記憶もありました。当時会津八一の記念館は図書館の隣の一等地にありました。多分学生時代の岳友も歌に興味が無かったら会津八一の名を知らないと想います。知らないという事は恥ずかしい事ではなく、必要になったら知れば良いことも解りました。
多分新薬師寺を訪れなかったら、光明皇后の存在は名前だけを知り、会津八一も、十二神将も知らないで今日まで来ており、多分海龍王寺や法華寺も訪れることは無かったでしょう。

奈良の住宅街の細い路地を回った所に、新薬師寺はありました。拝観料を払って山門の中に入ると、上図の本堂がひっそりと建っていました。本堂の中には薬師如来を囲んで十二体の神将が取り囲み恐ろしい顔で辺りを睥睨していました。それぞれの神将の前には蝋燭が置かれ、僅かなお賽銭で蝋燭を灯すことができます。天平時代に建てられた本堂や仏像すべてが国宝で、静かな堂内には声も立てず3~4人の参拝者がいるだけでした。

新薬師寺の周りも、本堂の中も、或いは古都奈良の街の一部も、目まぐるしく効率だけで動く現代社会とは、別次元に存在する全くの異空間は、目くるめく天平の時代から何も変わらず華厳の精神世界に存在しているかのようでした。そこはまた現代社会のオアシスのような感じがしたのです。
新薬師寺の庭にあった会津八一の歌碑も、現代社会とほど遠くに存在する、美しくも素朴な精神世界でした。

この新薬師寺の訪問時にはたった2枚の写真しか写していません。もちろん仏像は撮影禁止ですが、山門も外の建物も会津八一の歌碑も全て撮り忘れてしまったほど、この新薬師寺の美しい世界に惹きこまれ没頭してしまいました。

新薬師寺は天平19年(747)に聖武天皇の病気平癒を祈願して光明皇后によって創建されました。建立時は七塔伽藍と東西二基の塔が並ぶ大寺でしたが、平安期に落雷や台風で主な建物を失い鎌倉時代に明恵上人によって再興されたのです。

この時の新薬師寺の訪問によって、今までその名だけで気に留めなかった光明皇后の存在を知りました。

今でも住宅街の真ん中にある寺院の薬師如来と十二神将の姿が眼に浮かびます。


奈良盆地で遠くに二上山を見ると当麻寺を思い出します。

20年10月当麻寺参道

飛鳥から近鉄線で当麻寺で降り、当麻寺までの長い参道を辿ります。この参道の面した街並みの美しいことに驚きました。画像でも分かるように美しく掃き清められていて落葉の季節なのに落葉など見当たりません。この参道の美しさは特筆に値します。一軒一軒がそれぞれ異なるデザインで、長い間の習慣で細かな場所まで神経をはらしているのが分かります。
あまりに美しいため駅から当麻寺への入り口までの長い参道は、飽きずに楽しみながら歩みました。
おそらくこの参道に面した家々は、当麻寺の信者の人々が住んでいるのでしょう。多分千年以上も毎朝家の前を掃き清めて来たのでしょうか。花の季節には往来が多いと思われるのに猥雑さが微塵も感じられず、寺院と参道の家々が一体となった美しい光景は、他では見られない古都奈良の独特の風景です。



二上山

背後の二上山が迫る当麻寺です。春と秋のお彼岸には二上山の2つのピークの間の鞍部に陽が沈むそうです。
奈良盆地は東の三輪山から陽が登り、西の二上山に陽が沈みますが、古都奈良の人々は、この二上山に夕陽が沈む姿を見て、二上山があたかも浄土への入り口であるかのごとく想い、山の彼方に浄土の存在を夢見ていたのでしょう。
当麻寺の創建は聖徳太子の弟の麻呂子親王が推古20年(612)に河内に創建した万法蔵院を、70年ほど後の天武10年(681)に孫の当麻国見が夢のお告げによって現在地に移した古刹です。本堂に祀られた当麻曼荼羅は藤原氏の娘中将姫が織ったとされ、平安時代から信仰を集め現在では当麻寺の本尊となっています。
当麻寺は平家の南都侵攻によって消失してしまいましたが、浄土教徒の働きかけにより頼朝の寄進で再建されました。

こうして当麻寺は頼朝によって真言宗系の寺院が再建され、同時に浄土宗総本山知恩院の誓阿が当麻寺に奥の院を開いたことから浄土宗の大和本山となり、現在は真言宗と浄土宗寺院が共同で運営しており、新薬師寺や秋篠寺と異なって大きな規模を保持しています。しかしこのような歴史を経た当麻寺は、寺院周辺に住む信者の人たちにとってお上の寺院でなく我らが寺院という気持ちがあるのでしょうか。あの美しい参道の街並みは、信者たちと歩んできた当麻寺の歴史を物語っているような気がします。

近年の京都の観光名所になっている寺院前の茶店の味など思い出すと、古都奈良の寺院と街の美しさが際立ってきます。



国宝三重塔

私が当麻寺を好きになったのは、参道の家並みの美しさに加え、国宝の本堂や金堂、三重塔が林立しているのにかかわらず、大寺に珍しく重厚な重々しいく人を寄せ付けない雰囲気と異なって、境内の中の雰囲気がとてもアットホームだったことです。
私と家内が訪れた時は、秋の午後遅くで参拝者もいなかったので、本堂の受付の人に応えられる質問では無いと分かっていても、参道の家並みが美しい理由を尋ねました。重々しい雰囲気の大寺だったらとても発することが許されない質問でしたが、そんな馬鹿な質問にも事務的にならず首をかしげて真剣に考えてくれました。

本堂の当麻曼荼羅と中将姫像を拝観してから、塔頭の一つ西南院の庭に入りました。この庭は牡丹で名高く季節は秋でしたが、薔薇好きの特技で花の咲いていない季節、樹の手入れを見て花がが想像できるため、美しい牡丹を想像しながら、水琴窟が完璧に響く裏庭の山上から、東西2つの三重塔を眺めました。手前は国宝でこの端正な三重塔と西南院の塔頭の屋根のバランスが極めて美しく、白鳳、天平の人々の美意識に心が打たれました。

西塔付近で清掃をしていた若いご住職に結構長い間お話させていただく機会がありました。若いご住職もフレンドリーな方で私の馬鹿な質問にも答えて頂きました。大寺では説明員のボランティアの人たちに質問しても、誰でも知っている決まり切った答えしか返らないことが多く、若いご住職とお話できた機会はとても楽しく感じました。
当麻寺のお寺の雰囲気は、なぜか旅先の寺院でなく、いつもお墓参りに伺う私の地元の成就院のようなアットホームな雰囲気を感じました。私の地元の成就院のご住職は大正大学の仏教学部長を務められ、密教の最高賞を受賞され我が国を代表する真言宗の学僧ですが、そのことを檀家の誰にも語ることなく、ご自身の権威をできるだけ隠しておられ、また奥様や副住職と永年お付き合いをさせて頂く中で、寺院という存在がとてもアットホームに感じています。当麻寺にはそんな雰囲気を感じ忘れられない寺院の1つになりました。


    

光明皇后宮内寺院だった海龍王寺

海龍王寺のパンフによると、海龍王寺の前身は和銅3年(710)、平城京に都が移された時、藤原不比等が平城宮に隣接して邸宅を構えるにあたり、付近一帯を治めている土師氏から土地を譲り受けた際、土師氏ゆかりの寺院がありましたが、寺院をとり壊さなかったため、邸宅の北東隅に残りました。
養老4年(720)藤原不比等が亡くなり、娘の光明皇后が邸宅を相続したことから邸宅は皇后が起居する皇后宮となり、北東隅の寺院は皇后宮内寺院になりました。

天平3年(731)留学僧として唐に渡っていた玄昉の帰国を控え、最新の仏教、仏法を皇后自ら学びたく皇后宮内寺院の伽藍を整えて、玄昉の帰国を待ちました。

天平6年(734)唐を出発した玄昉は東シナ海で暴風雨に遭遇し、海龍王経を一心に唱えたことで九死に1生を得て種子島に漂着し、翌年平城京に戻ってきました。

聖武天皇と光明皇后は最新の仏教、仏法を学び鎮護国家の基礎となる仏教政策も学んできた玄昉から、いつでも自由に意見を求めるために内裏に近く自身が起居する皇后宮内にある隅寺を海龍王寺と名を変え玄昉を住持に任ぜました。

玄昉は唐の洛陽宮にならい海龍王寺を平城宮内道場と定め、伽藍の拡充やる経典の充実を図りました。また玄昉は密教にも通じていた事から、聖武天皇、光明皇后、生母の宮子のために祈願祈祷を修したことで、天皇家とのかかわりが深くなり、宮邸寺院として天皇家を支えて行きました。

平安京に都が遷ると平城京の衰退に並ぶように、海龍王寺も衰退していきますが、鎌倉時代に入ると真言律宗の宗祖である叡尊によって伽藍の復興が進められ戒律の道場として栄える様になりました。真言律宗の総本山西大寺との関係が深く、真言律宗でも筆頭格に寺院でしたが、応仁の乱の影響を受け江戸時代まで衰退が進みました。

江戸時代幕府から100石に知行を受け伽藍の維持や管理を行って来ましたが、明治の廃仏毀釈の際、東金堂が失われ荒廃が一挙に進みましたが昭和40年から堂宇の解体修理が進み現在に至っています。

本堂、江戸時代寛文年間に再建されました。奈良時代の仏道の様式を伝えています。

いかめしい感じの全くない柔らかな雰囲気の本堂です。気持ちがほっこりとしてきます。和尚さんが顔を覗かせるような小寺の魅力があふれています。

光明皇后ゆかりの歴史ある寺院だけに重文の数々の仏像や経典があります。十一面観世音(鎌倉時代)文殊菩薩(鎌倉時代)、あるいは同じ真言律宗の総本山の西大寺愛染堂で見た愛染明王などが見られます。
元寇の際、西大寺の愛染堂で、真言律宗の宗祖である叡尊によって戦勝の祈願が行われたことを、1昨年西大寺を訪れて知りました。叡村は石清水八幡宮でも祈願したと言われており、行基以来の名僧の誉れ高い叡尊ならではの説話が残るのでしょう。
元寇についての最近の研究では、元軍は台風の神風が吹き船が沈没し撤退したと言われていましたが、実際は鎌倉武士団の大弓が元軍に比べて射程が長く楯をも貫く強力な兵器だったため、アウトレンジ戦法で元軍得意の陸戦でに大打撃を与え撤退させたと言われています。
愛染明王は弓を保持しており、愛染明王に勝利を祈願したことは、我が日本軍の大弓が強力であり、事前に諜報活動で兵器の比較を行っていたのでしょうか?謎ですが、北条時宗も賢いから事前に半島で、元軍の戦法などを調べていたのかも知れません。

奈良時代以来の重文西金堂です。昭和40年に解体復元しました。落ち着いた美しいたたずまいです。光明皇后はとてもセンスが良い人だと想います。

奈良時代の国宝五重小塔です。当時の様式を忠実に表現しています。

寺院のホームページによると、光明皇后の皇后宮の寺院であったため、スペースの関係で東西五重塔は建築できなかったため、代わりに東西金堂内に東西五重塔を設置したと記しています。

鎌倉時代の経堂です。重文です。

自然な美しい小道です。

法華寺(大和国分尼寺)

法華寺は海龍王寺の直ぐ近くに位置し、海龍王寺と共に平城宮の東の藤原不比等の屋敷跡に建てられました。
聖武天皇の発布で全国に国分寺と国分尼寺が建立されましたが、大和国の国分寺は東大寺であり総国分寺と呼ばれていました。それによって法華寺も大和国総国分尼寺と呼ばれていました。

海龍王寺から住宅街の間の道を辿ると、突然目の前に瀟洒な法華寺が現れました。住宅街の中に予告なく突然、寺が現れるのも奈良の特徴です。新薬師寺もそうでした。秋篠寺はタクシーで行ったので突然という感じはしませんでしたが、徒歩で行ったら突然住宅街に中に現れたという気がしたでしょう。

手入れの行き届いた植栽と格調高い2つの門、そして優雅な塀、極めて瀟洒な寺院です。

門は南門と赤門の2つあり、南門は重文で通常は赤門を使用します。

門を入ると目の前に大型の鐘楼が鎮座しています。南門と共に桃山時代に建築された優美な意匠です。

鐘楼を眺めていたら横を松と花束を抱えたご婦人が、見知らぬ観光客の我々に奈良独特の雅な言葉で挨拶されて行きました。
松の枝と花束を抱えていたご婦人を見て、この日は昨年末のクリスマスの日だったので寺の奥で正月用の花を販売しているのかと思い、受付の係の人に尋ねたら、生け花の教室の日であることが判りました。

それから奥に歩いて行くと松と花束を抱えたまた別なご婦人が、雅な挨拶ですれ違って行きました。この独特の挨拶が京都と微妙に異なっていることに気づきました。



鐘楼の脇を本堂に向かいます。この法華寺の雰囲気はどうしてこんなに瀟洒なのだろうかと想いながら、境内を辿りましたが、まぎれもなくこの法華寺が尼寺であることに気が付きました。

本堂です。法華寺は正式には法華滅罪之寺と言い、総国分尼寺として女人成仏の根本道場の役割を担いました。
東西両塔、金堂、講堂、食堂など壮大な伽藍は延暦元年(782)頃、光明皇后が亡くなられた後完成しました。

都が平安京に移ると奈良は次第に廃れ、他の寺院と同じく堂宇も荒れてしまいました。しかし鎌倉時代東大寺を再建した重源が、法華堂の金堂などの修復を行いました。

次いで中期には真言律宗の西大寺の叡尊が、金堂などの諸堂を再興し、多くの尼僧に快を授け戒律復興に尽力しましたが、室町時代兵火や地震で伽藍は再び消失してしまいました。
海龍王寺に続いて法華寺でも叡尊の名が出て来ます。叡尊は衰退した西大寺を拠点に、堕落した真言宗の僧を、聖武天皇と鑑真の時代の戒を重視した仏教と聖武天皇、光明皇后、行基の時代の貧しい人々を救済する仏教に復活させるため、厳しい戒律を重視した真言律宗を打ち立てました。叡尊は親鸞と同時代の人で、その人格とパワーは並外れた人物だったようですが、方や親鸞が鎌倉新仏教の浄土真宗を創始者になり、叡尊は古き仏教の原点に戻って戒律重視の真言律宗を打ち立てました。

法華寺の宗派も海龍王寺と同じく真言律宗でしたが、近年離脱して光明宗となりました。

現在の伽藍は豊臣秀頼の母、淀君が発願し片桐且元を奉行にして、本堂、鐘楼、南門など今日ある伽藍を再建したのです。

本堂は淀君の寄進により再興され、一部に天平や鎌倉時代の古材を使用しています。天平建築の面影を残しながら桃山建築の特色を活かした伽藍です。

本尊は国宝十一面観音菩薩立像で光明皇后をモデルにしていると言われています。他に国宝維摩古寺座像、国宝阿弥陀三尊及び童子画像、重文の釈迦如来像などが本堂に鎮座しています。

再建された池に浮かぶ護摩堂です。

有名な光明皇后の「我自ら千人の垢を去らん」と始めた庶民に開かれた浴室(からふろ)でこの建物は明和3年(1766)に再建されました。内部は薬草を用いて蒸し風呂を焚くように設計されています。寺院では昭和初期まで尼僧に使用されていました。

この建物は昭和46年に月ヶ瀬村から移築した建物で光月亭と呼ばれ休み所に使用されています。

法華寺の端には薬草園があります。

法華寺がなぜ稀に見る瀟洒な寺院だったのか、紀行を書きながら法華寺のHPを見てその謎が分かりました。

法華寺は後水尾天皇の皇女が入寺されてから尼門跡寺院となりました。先代の門跡は昭和14年15歳で入寺されてから昭和の終わり頃まで御簾越しにお話されるなど皇室文化が守られてきたとHPで触れています。
門跡尼寺ならではの誇りと品格が受け継がれて、法華寺境内には独特な瀟洒な雰囲気が漂っているのでしょう。そしてまた生け花教室を終えて花を抱えて挨拶する信者のご婦人たちの姿にも、長い伝統を持つ古都の雅な雰囲気を感じたのでしょうか。

法華寺のHPにより、法華寺は後水尾天皇の皇女が入寺されてから尼門跡寺院となったとありました。
ここで法華寺のHPとは関係がありませんが、後水尾天皇についての私の僅かな知識を思い出されてきます。

後水尾天皇と父親の後陽成天皇の時代は秀吉から家康に天下が変わる時代で、秀吉も家康も積極的に皇室に関わり合って来た時代でした。家康は後陽成天皇の後継問題に積極的に介入し後水尾天皇を擁立し、秀忠も娘の和子を入内させたのです。後水尾天皇は和子と睦まじく過ごしましたが、家光の時代になると従来の天皇のしきたりであった「紫の法衣」の授与にも介入し、天皇家の法衣授与の権限を取り上げてしまいました。このことにより後水尾天皇は幕府に無断で譲位してしまいました。
清和源氏の始祖清和天皇は譲位後丹後の水尾で仏道に励み陵が設けられたことから水尾帝と呼ばれていました。後水尾天皇は家康が自称した清和源氏の始祖である水尾帝を名乗ることから、徳川家に抵抗していたと言われています。

後水尾天皇は、美術、詩歌、書に明るい当代きっての文化人でした。譲位後幕府のお金を使って桂離宮と共に我が国を代表する名園修学院離宮を造営したり、本阿弥光悦や多く芸術家を援助しいわゆる寛永文化の中心人物となりました。また後水尾天皇は生け花の前身の立花も愛好し池坊によって立花の形式が定まりました。

法華寺の瀟洒な雰囲気は、光明皇后の想いを引きながらも、稀に見る審美眼の持ち主だった後水尾天皇の薫陶を受けた皇女が入寺されたことと無縁でないような気がしてきました。雅な奈良言葉で私たちに挨拶をされていかれた生け花教室のご婦人たちの印象も、池坊で確立した立花を愛好した後水尾天皇以来の伝統が脈打っているのかもしれません。

私たち首都圏や関東人にとって、奈良の古寺でも知る人も少ない海龍王寺、法華寺ですが、特に法華寺には光明皇后、鎌倉時代の叡尊、桃山末期の淀君、徳川初期の後水尾天皇など、1200年にも亙ってさまざまな人によって文化が保たれて来ました。何ら事前知識を持つことなく訪れた法華寺ですが、脚を踏み入れてみると数多くの印象を感じました。淀君が尼寺の法華寺にかなり寄進したことは初耳で恐らく自身の運命を予見していたかも知れません。また今回、西大寺では得ることの無かった鎌倉時代の巨人叡尊の名を知りました。今まで重源の偉大さは感じていましたが、叡尊について少し調べてみようと想います。また法華寺には後水尾天皇の影も感じました。

歴史の人物の名は、紙やPC画面の中に残るだけですが、文化は建築物や仏像や画に明確に残ることを、改めて後水尾天皇を想いながら感じました。