早春賦

3月7日、今週になって雨の日や雪の日が続き、真冬に逆戻りしてしまいました。
雪が止み、さて春の暖かさが来るかと思ったら、気温は低くないけれど強い北風ばかりが吹く日々が続いています。


今朝、夜明けが早まった朝6時に家を飛び出し、いつものようにウォーキングに出かけました。

土手の上のいつものコースを辿り始めると、出かける前には気が付かなった冷たい北風がもろに当たってきました。携帯の天気予報の温度を見て、厚いダウンをやや薄いウエアに変えて飛び出しましたが、多分体感温度は氷点下だったと想います。

早春賦が大好きです。毎年この季節、この文語体の美しい詩を口ずさみながら、ウォーキングをすることが愚犬が元気だった頃からの習慣でした。
もし365日の中で早春賦の朝を1日選べと言われたら、間違いなく今朝だと想いました。

見沼田んぼの早春賦

昨年、同じ季節見沼田んぼに梅を見に行った際、撮影し久しぶりに水彩画に仕上げました。水彩画に一部アクリル絵の具も使用したため少し色が鮮やかになってしまいましたが、春を望んでいた心が、彩色に自然に現れてしまったのだろうと想っています。写真画像を掲載するつもりでしたが、恥を忍んで春への気持ちが籠っている水彩画を掲載しました。

安曇野の早春賦碑近くの土手道

早春賦といえば、昨年5月の初め念願の安曇野の早春賦の碑を訪れました。

早春賦は吉丸一昌の詩の名曲ですが、明治時代、東京音楽学校教授の吉丸が大町中学の校歌を依頼され、そのイメージを得るために安曇野に訪れ、1913年に発表されました。
曲は同じ東京音楽学校教授でオルガニストの中田章で、「雪の降る街」や「夏の想い出」の作曲家中田義直は彼の息子です。

景色という点では、安曇野は北アルプスの常念岳から北のアルプス連峰の眺望以外何もありません。ただ北アルプスの懐深く流れて来た梓川や高瀬川が名を変えて、やがて川中島で千曲川と合流するまでの犀川の流れと、北アルプス山麓の扇状地で伏流水となっていた小河川が犀川に注ぐ清流な水の流れの魅力だけです。


吉丸一昌の早春賦の碑は、画像のように穂高川の土手道にあります。この場所は大糸線の穂高駅から遠く離れているために、自家用車かレンタカー、或いはレンタサイクルでしか行けません。

白馬から大糸線の本数が少なく、穂高駅に着いたらお昼になってしまいました。観光案内所でおいしいお蕎麦屋さんを紹介して貰い、観光にはレンタサイクルを勧められました。
穂高駅から穂高神社、早春賦の碑、大王わさび農場、隣町のホテルと、どう行こうかと思案していたら、レンタサイクル屋さんで詳しい地図を基に親切な説明を受け、しかも隣町のホテルまで回収しに来てくれるとのことでした。とてもラッキーでした。

それにしてもIR大糸線の大町以北のダイヤは壊滅的で、白馬と松本を鉄道で繋いで動く旅行者は皆無になってしまうでしょう。事実白馬のタクシーの運転手さんの話では、車が運転できない人は白馬から大町の病院にも行けなくなったと言っていました。
懐かしの大糸線の変わりようを目の当たりにしました。白馬周辺は冬季の外国人のスキーリゾートだけの地に変化しています。彼らは長野からバスで白馬に行くのでJR大糸線とは無関係です。

見知らぬ地でレンタサイクルを走らすのは未体験での楽しさがありました。レンタサイクル店自製の地図は歩道のある幹線以外は、車の少ない道ばかり誘導しているのでとても快適でした。

安曇野の早春賦碑

早春賦碑の背後には、遠く古代安曇族の本拠穂高神社と北アルプスが横たわります。残雪の一番良い季節に訪れましたがあいにく雲に覆われています。
早春賦は安曇野の何処で詠まれたのか不明ですが、多分3月のアルプス下ろしの北西風が吹き北アルプスを望む土手の上が良いとの事で選定されたと想います。
3月初旬の耳や手先がちぎれそうな寒風吹きつけるこの土手が、早春賦にとてもふさわしい場所です。

今は亡き文語体に憧れています。
文語体は江戸時代までの書き言葉でしたが、明治の言文一致運動によって文章も口語体が使われるようになり、戦後は完全に消滅してしまいました。
しかし文語体の多くは美しい日本語で書かれ,その詩の多くは韻を踏み格調高く感じます。

早春賦は早春の歌という意味です。早春賦という言葉は、単なる早春の歌と表現するより、早春の風景が一段と深くスケールの大きな印象を与えます。
漢詩のもたらす効用でしょうか。

早春賦  吉丸一昌詞、中田章曲

1,春は名のみの 風の寒さや
  谷の鶯 歌は思えど
  時にあらずと 声も立てず
  時にあらずと 声も立てず

2,氷解け去り 葦は角ぐむ
  さては時ぞと 思うあやにく
  今日もきのうも 雪の空
  今日もきのうも 雪の空

3,春と聞かねば知らでありしも
  聞けば急がるる 胸の思を
  いかにせよとの この頃か
  いかにせよとの この頃か

吉丸一昌の故郷、豊後臼杵と、彼の作詞翻訳唱歌「故郷を離るる歌」

臼杵城址

明治の小学校教育の中で一早く、日本音階の代わりに西洋音階での西洋音楽教育が取り入れられましたが、まだ西洋音楽の作曲家が育たないため、西洋での民謡や賛美歌に翻訳の歌詞を付けた曲が小学唱歌や中学唱歌として多数生まれました。その翻訳の詩には多く文語体が用いられました。

蛍の光、庭の千草、故郷の空、故郷の人々、灯台守、埴生の宿、旅愁、故郷の廃家、ローレライ、追憶、冬の星座、家路など誰もが知っている唱歌はみなスコットランドやアイルランド、イングランド、ドイツ民謡やアメリカのフォスターの曲に翻訳詩をつけたものです。

吉丸一昌の翻訳唱歌にはフォスターの曲に訳詩をつけた「夕の鐘」とドイツ民謡に訳詩をつけた「故郷を離るる歌」があります。

豊後臼杵藩士の子弟だった吉丸一昌は大分中学から旧制熊本五高から東京帝大に進みますが、臼杵から大分へ故郷を離れ、熊本から東京へと九州を離れました。

「故郷を離るる歌」はドイツ民謡の翻訳と言われていますが、ドイツ民謡の原詩を知らないので何とも言えませんが、臼杵の街の風景を想い出すと、詩は翻訳でなく吉丸のオリジナルのような気がします。

園の小百合、撫子、垣根の千草
今日は汝を眺むる最終(おわり)の日なり
思えば涙、膝をひたす さらば故郷
さらば故郷 さらば故郷 故郷さらば



つくし摘みし岡辺よ 社(やしろ)の森よ
小鮒つりし小川よ 柳の土手よ
別るる我を憐れ(あわれ)と見よさらば故郷
さらば故郷 さらば故郷 故郷さらば



此処に立ちて さらばと 別れを告げん
山の影の故郷 静かに眠れ
夕日は落ちて たそがれたり さらば故郷
さらば故郷 さらば故郷 故郷さらば

吉丸一昌が学んだ熊本旧制五高記念館

旧制五高は以前から気になっていましたが、熊本地震で倒壊の恐れがあったため長い間休館でした。

五高には小泉八雲が松江から赴任していたし、夏目漱石もいるし、何よりも会津武士道の本流を辿った秋月悌次郎が人生最後の仕事として勤務していました。熊本の小泉八雲記念館には2度ほど行き、そこでの五高における彼らの位置づけを知りました。

今回早春賦の吉丸一昌を調べたら、彼が五高出身者であると初めて知り、彼の詩人としての生き方の原点が五高にあり、背後に小泉八雲や高潔な儒者秋月悌ニ郎の影が見えました。

旧五高記念館、熊本大学内

教育県でもある熊本市に、明治4年熊本英学校、同じ明治4年に熊本医学校(現熊本大学医学部)明治18年私立熊本薬学校(現熊本大学薬学部)が設立されました。

そして明治20年全国5ブロックに分け九州が第5ブロックとなり、福岡、佐賀、長崎と激しい名乗りがあり、第五高等中学校が、熊本に設立され後に第五高等学校となりました。

旧制高校は、一高(東京)、二高(仙台、)三高(京都)、四高(金沢)、五高(熊本)と5ブロックに分け設立しましたがその後、六高(岡山)七高(鹿児島)、八高(名古屋)の順序で設立されました。

大正期に入り、旧制高校は以後ナンバースクールではなく、大正8年、新潟、松本、山口、松江と続き、我が町の旧制浦和高等学校は大正10年に設立されました。旧制高校はすべての県庁所在地に設立された訳でなく、浦和の町も旧制高校が存在したことで、文教都市として市民の間で大きな誇りがありました。

旧制高校を並べてみると新潟と浦和以外はいずれも歴史ある城下町です。人工的な開港都市新潟を除いては、仙台、金沢、熊本、京都、松本、山口、松江、浦和と文化イメージの高い都市が並んでいます。旧制高校生たちは寮祭では寮歌を唄いながら無礼講でそれぞれの街を練り歩き、街の人たちもそれを支持していました。それだけ旧制高校の学府としての存在は大きかったのです。


当時の高等教育機関で旧帝国大学は北海道、東北、東京、名古屋、京都、大阪、九州の7帝大でしたが、旧制高校と旧帝大と在籍人員は同じのため旧制高校を卒業すれば、旧帝大に全員合格できたため、旧制高校では受験勉強の心配がなく、いわゆるリベラルアーツの拠点として3年間深い教養を磨くことが出来ました。

卒業生池田隼人元首相寄贈の大太鼓

旧五高記念館

旧制高校の寮歌では一高と三高が有名ですが、仙台二高の「天は東北」、金沢四高の「北の都に秋たけて」、五高の「武夫原頭に草萌えて」、鹿児島七高の「北辰斜めに指すところ」、など文語体の優れた詩が多いです。
旧制高校の学生たちはみな、俗世間に紛れる前の一瞬の3年間、高踏的な教養に触れていました。高校の恩師は私に良く一高の寮歌の一節の「栄華の巷低く見て」を引用しながら旧制高校の学生の思想を話してくれました。

明治38年五高寮歌 武夫原頭に 草萌えて

武夫原頭に 草萌えて 花の香甘く夢に入り
龍田の山に 秋逝いて 雁が音遠き 月影に
高くそびゆる 三寮の 歴史やうつる十四年

それ西海の 一聖地 濁世の波をとはにせき 
健児が胸に 青春の 意気や溢るる 五高魂
その剛健の 質なりて 玲瓏てらす 人の道

以下略

多くの偉人が学んだ教室

旧五高記念館

五高出身者は政治家、法曹家、学者、企業社長、文芸家など多岐にわたり特に池田隼人、佐藤栄作の2人の首相を輩出しました。
また私たちが知っている文芸家の名を挙げると寺田寅彦、下村湖人、萩原朔太郎、梅崎春生、木下順二、中野考次が挙げられます。

吉丸一昌は大分中学で東京帝大出身と知っていましたが、このブログをしたためる際、気になって調べてみたら旧制五高の出身者であることがわかり、東京帝大を出て府立3中の教師になってから、五高時代の恩師湯原元一が東京音楽学校(現東京芸大)校長になって、吉丸一昌を国語、倫理教授に招聘し生徒監も就任したことが解りました。

その後東京音楽学校教授の立場で尋常小学唱歌編集委員会歌詞担当主任になったことから作詞家としての仕事も行うようになって、「早春賦」や「故郷を離るる歌」が誕生したのです。しかし旧五高ネットで主な卒業生の中に吉丸一昌の名はありませんでした。

吉丸は東京帝大国文科に在学中、下宿先で私塾を開き、多分地元地からの苦学生と生活を共にしその面倒を見ており、卒業後府立3中教師になると私財を投じて夜学校をつくり、無私の人生を歩みましたが、豪放磊落な性格で大酒飲みだったため40歳を過ぎたばかりで早死にしてしまいました。

私が長い間、吉丸の「早春賦」や「故郷を離るる」の美しい文語体の高潔な詩に惹かれてきたのは、彼の無私の精神の高潔な人格が詩に反映しているのだなと改めて気付きました。

吉丸一昌が教えを受けた豊富な五高教授陣

旧五高記念館展示より

吉丸一昌が五高に在学した当時校長は東京帝大出身で講道館柔道の創始者嘉納治五郎でした。
この時代は五高教授には夏目漱石、小泉八雲に加えて、剛毅木訥の五高の精神的支柱を築いた儒学者で公用方だった元会津藩士秋月悌次郎や後の東京音楽学校校長や東京高等女子師範の校長になった元佐賀藩士の子弟湯原元一が在籍していました。

吉丸一昌は剣道に熱中していましたが、多分儒者の秋月悌次郎に影響を受け、後に東京音楽大学教授になったのは湯原元一の誘いからでした。多分吉丸は高潔な素養が育まれた旧下級藩士の教育を受けてきたため、これらの教授の教えを受けて更に高潔な人格が磨かれたのだと想います。

松本健一著「秋月悌次郎」に、五高の学生寮である習学寮の設立50年の昭和13年に「習学寮」史が編まれ、そこに五高50年における代表的な教授3人が選びだされ、「三先生」という回顧録が作られたとあります。
その3人の先生とは、夏目漱石、ラフカディオ・ハーン、そして秋月悌次郎でした。

熊本県立博物館展示より

ハーンは、松江中学では英語を教えながら怪談など文学作品の著作をしたためていましたが、熊本五高では学生たちがより年長で我が国を率いていく人材ばかりだったので、著作の傍ら自身の文明論も学生たちに強く語っていました。

熊本市内中心部に熊本財界人たちが整備した小泉八雲旧居記念館にハーンの下記の言葉が展示されています。

西洋と東洋が将来の競争において確かなことは、最も忍耐強く、最も経済的で、生活習慣の最も単純な者が、勝ち残るだろうということである。
コストの高い民族は結果的にことごとく消滅することになるだろう。自然は偉大な経済家である。
自然は過ちを犯さない。生き残る最適者は自然と最高に共生できてわずかなものに満足できる者である。宇宙の法則とはこのようなものである。・・・・

「日本の場合は危険な可能性があるように思う。それは古来の素朴で健康な、自然な、節制心のある正直な生き方を放棄する危険である。
私は日本がその素朴さを保持する限りは強固であるだろうと思う。
私は九州スピリットと言われているものが何であるか考えて来た。生活様式の素朴さと生活の誠実さは、古くから熊本の美徳だったと聞いている。
もしそうであるなら、日本の偉大な将来は生活の中で簡易、善良、素朴なものを愛し、不必要な贅沢と浪費を憎むあの九州スピリットとか熊本スピリットといったものを、これからも大切に守っていけるかどうかによると考えている。」

ハーンから「神のような人」と言われた儒者秋月悌次郎(胤永)

小泉八雲記念館展示より

ハーンは「秋月を神のような人」と慕っていました。

以前、中村彰彦著会津藩公用方秋月悌次郎の生涯を描いた「落花は枝に還らずとも」 上下2巻を読み、幕末から明治の動乱期に生きた秋月悌次郎の儒者らしい高潔な人生に感銘を受けました。
秋月悌次郎の生涯は、会津藩士という敗者の歴史の中で、時代に翻弄されながらも、自己の生き方を貫き最後は赴任先の五高の同僚のラフカディオ・ハーンから神のような人と形容されました。


 著作を読みながら悌次郎の生涯の中で歴史に翻弄され大きな4つの転機を知りました。

 1つ目は容保の京都守護職時代、悌次郎は公用方として薩摩藩と連合し、長州藩を御所から遠ざけたため蛤御門の変が生じました。

 2つ目は会津藩の秘密裏に薩長同盟が結ばれ、悌治郎はその責任を取らされ、遠く蝦夷地の知床を回って船でしか行けない斜里の代官所に左遷されました。
そして赴任地でオホーツクの空に輝く北斗七星を見て、「京から600里の山河を隔ててまた仰ぐ七曜星がなおも光を注ぐのであれば、どこまでも悌次郎らしく歩んでいかなければならぬ」という想いを込めて一気呵成に書いた詩の結びが「唐太以南皆定帝州」でした。唐太とは樺太のことで、樺太にはロシア侵略に備えてかって会津藩兵1千人が越冬しました。
後に公用方の同僚広沢安任が、下北半島の会津藩新移封地に斗南藩と命名したのも、悌次郎のこの詩からでした。

 3つ目は会津若松城落城の際、かって公用方だったことから藩命を受けて降伏交渉を行ないましたが、戦後藩士から白い目で見られたこと。

 4つ目は晩年五高の教授になって、静かに世を終えた事。

維新史には公用方として1の薩合同盟に秋月悌次郎は 必ず登場しますが、2,3,4は全く知られていません。

小泉八雲記念館

清貧の思想を書いたドイツ文学者の中野考次も五高の出身者です。
小泉八雲記念館でハーンの言葉を見た時、中野考次の心の中にハーンの思想がしっかりと植え付けられているような気がしました。

中野考次と初めて出会ったのは、30数年前愚犬を飼い始める際、当時映画にもなり話題になった「ハラスのいた日々」を読んだ時でした。
その後「清貧の思想」が発売され大いに話題を呼びましたが、この著作を読まない人に「清貧の思想」という題名が誤解され理解されなかったように想いました。

「清貧の思想」では、西行、兼好、光悦、芭蕉、池大雅、良寛などの日本の古典を引きながら、我が国には、現世の富貴や栄達を追及するのでなく、それ以外にひたすら心の世界を重んじる文化の伝統があり、現世での生存は簡素にし心を風雅の世界に遊ばせることを、人間としての最も高尚な生き方とする文化の伝統があったと語っていました。


この本が出版された当時バブルが崩壊し、これを機に世の中の経済第一主義の価値観が、心の豊かさを目指す価値観に転換するのではないかと期待していました。
しかしその後逆に小泉政権の郵政民営化のワンイシュ政治と、全て解決するような構造改革の掛け声をスタートに、派遣社員制度により雇用が流動化され、経済成長を目指しましたが、他国に比べて経済成長は実現せず、不調に終わった期間を失われた10年と言われたものが、結局30年間大した成長せず逆に失われた30年になってしまいました。

政府を初め、産業界も声高にグローバル経済に基づく経済成長を唱えていたにかかわらず、この間我が国の経済成長率は、欧米や中国そして途上国に比して一番低いままに終わって終わってしまったのです。
原因は産業、農業の空洞化でした。30年前世界をリードしてきた産業が、国内市場では負けていないのに経済のグローバル化の旗印の下に、生産コストに過剰反応した結果、雇用を放棄し自ら国内生産の空洞化を進め、国内市場をも海外製品に明け渡してしまいました。

かって我が国の産業は、質の高い競争が行われた国内市場でイノベーションが行われ、そこで産まれた商品が海外市場で評価され、高いイメージを獲得し国際競争力を維持してきました。しかし国内産業は空洞化しイノベーションも行なわれず、結果生産年齢人口の平均賃金は30年前と全く同じに終わり、昨年からようやく官民の賃上げの合意ができて動き始めています。

国内生産の空洞化によって経済規模は減少し、外国産食品の輸入によって耕作放棄地が増え農業もまた経済規模が減少しました。輸出ドライブをいくらかけても経済の分母がどんどん縮小されれば、経済成長なんて夢の世界です。経済数値の根幹は複雑な方程式で成り立っているわけでありません。単なる足し算、引き算の世界です。

近年の観光客は、我が国の美しい自然の風景と伝統的な風景、そして我が国の食、宿泊サービス、交通インフラ、などなど求めて来日しています。いわゆる心の文化消費は経済消費に変わりインバウンド消費を盛り立て経済成長に貢献しています。

しかし観光だけでは飯は食えません。産業、農業の空洞化は著しく地方の人口減少を呼びました。地方再生は何よりも雇用の確保が前提です。

近年政府は失われた30年の反省から先端半導体工業の再建、スタートアップ企業や先端工業の補助、農業の再開発など積極的に取り組んでします。

もし30数年前、産業の空洞化を最低限に留め、心の豊かさを醸成する産業に力を注いでいたら現在の経済数値は相当変わっていた筈です。

トランプの言動は世界を揺るがしていますが、今トランプが米国でやろうとしていることは、少数の人間が携わる金融に過剰に頼ることなく、多くの雇用を生む国内産業や工業の再建です。




北風が吹き抜くウォーキングしながら早春賦を想い、さらに作詞者の吉丸一昌から彼の人格形成が行われた旧制五高まで話が及んでしまいました。これもエッセイですね。