北アルプス双六岳山行初日

はじめに、夏山の最大の魅力

一年の中で夏の高山は特別です。近年は天候不順で梅雨明けがはっきりしませんが、昔から山は梅雨明け10日と言われ、梅雨明け後の10日以内の高山は別天地になります。若い時はこの梅雨明け10日は、北アルプスで言えば残雪が豊富で、お花畑に高山植物が咲き乱れているイメージを持ち、高校、大学と夏合宿のスタートは梅雨明け日を予測して(例年ほぼ決まっている)行って来ました。

40代は山に登っていましたが、50代はガーデニングに興味を憶え、犬も飼い出したために山から遠ざかっていましが、50代の終わり頃から犬も亡くなったため、大学時代の同期の仲間に声をかけ、登山を再開し月1回のペースで登り始めました。

その頃はまだ仕事も継続していたため休日しか休めませんでしたが、新たに制定された7月の3連休は毎年白馬山塊に行きました。この頃から梅雨明けが不順になり、年によっては梅雨末期の豪雨に引っかかりましたが、逆に山で梅雨明けを体験することができました。

実際に山中で集中豪雨が終り梅雨明けした朝を体験すると、今まで言われていた高山での梅雨明け10日が唯の天候の意味でないことが解ったのです。
梅雨明け10日、白馬山塊の3000m近い稜線では、輝かしい独特の雰囲気があります。

1年でたった2週間しか咲かない高山植物、おそらく3~4日の命の内に花の蜜を求めて飛ぶ昆虫、稜線の雪に耐えてやっと芽吹いた這松の新芽とそれを求めて谷から登る猿たち、ヒナを連れて数少ないコケモモを求めて追い求める雷鳥親子、これを狙う猛禽類など、3,000mの稜線には梅雨明け10日の短い期間、春と夏が同時に訪れ、たった2週間の短い期間に、植物、花、虫、小動物がそのいのちの全てを燃焼させる、いのちを全開した祭典が繰り広げられていることに気が付き、学生時代の若き私たちもこの短い夏に、いのちの全てを燃焼させて祭典に参加していたことが解りました。

学生時代山で良く歌った歌の1つに法政大学山岳部部歌のエーデルワイスの歌がありました。春と夏の1,2番ですが、夏の北アルプスの気分をよく表現していました。

1、雪は消えねど春はきざしぬ   風は和みて陽は暖かし
  氷河のほとりを滑りていけば  岩陰に咲くアルペンブルーメン
  紫匂う都をあとに山にあこがる 若人の群れ

2,エーデルワイスの花ほほえみて 鋭き岩角金色に照り
  山は目覚めぬ夏の朝風     乱雲おさまり夕空晴れぬ
  命のザイルにわが身を託し   思わず仰ぐアルペングリュ-エン

                 

双六小屋を望む、中央は鷲羽岳、昔はどこから登ってもこの風景に出会うのは3~4日を要しました。

    

高校時代の初めての夏山合宿(ここから私の登山が始まりました)

山行の前、用事がありバスで北浦和駅に向かっていた時、車窓から高いフェンスで覆われた出身高校の校庭の奥の体育館がちらと見えました。その時突然高校2年の夏を想い出してしまいました。その年が私が登山を開始した初めてのワンゲルの夏合宿だったのです。

その夏合宿はワンゲル同好会設立の初めての夏合宿で、2年と1年に顧問の先生を加えた初心者ばかりのパーティで、体育館の中2階の部室に昼に集結し天幕や炊事道具、燃料、食料など共同装備を分配し、夜行列車に乗るために大宮駅に向かいました。改めて想い出してみると、幾度となく夏山を繰り返しあの時以来63年経ちましたが、今回が最後になるであろう夏山双六山行を迎えたのです。

ワンゲル発足当時、私たちはお金を出し合って購入した天幕1張しかなかったため、つてを頼って各大学のワンゲル部の指導を仰ぎ、合わせてワンゲル部の山小屋を利用させていただきました。当時高校ワンゲル部はまだ珍しかったため、ワンゲル活動の門を叩いて来た私たち高校生にとても優しく、各大学ワンゲル部はテントの貸し出しや小屋の使用、そして合わせて指導する部員の派遣を行ってくれました。あの時代は社会全体が今ほど細分化してせちがらくなく、それぞれ大きな目標を目指して動いている時代でした。

ワンゲル創立後初めての5月の合宿は明治大学ワンゲル部の草津の小屋をお借りし部員も派遣していただきました。そして最初の夏合宿は、慶応大学ワンゲル部の浅貝(苗場)の小屋を利用させていただくことになりました。当時、浅貝集落は国道17号が三国トンネルを超えて新潟に入る越後最奥の集落で秘境中の秘境と言われていましたが、実際に訪れてみると苗場スキー場が建設予定で山中にガソリンスタンドまで出来ていました。
そして冬は、八ヶ岳白樺尾根にある上智大のソフィァヒュッテをお借りしました。この時も上智ワンゲル部員が3人来てくれました。

早朝吾妻線中ノ城駅に降り立った不揃いの林檎たちです。

初めての夏合宿の行程は前夜発3泊4日で、初日中ノ条から四万温泉に行き、そこから赤沢林道(林道とは名ばかりの切り開かれていない藪山道)を辿り赤沢峠を越えて法師温泉に幕営し、2日目は法師温泉から三国峠を越えて浅貝の慶大ワンゲル小屋に宿泊、3日目は三国山登山を行い、最終日は越後湯沢に出て帰校しました。事前にトレーニングを行いましたが、初めて天幕や炊事道具、食料、水など重いキスリングを担ぐものが大半で、赤沢峠の登りでは数人が完全にバテテ動けず元気の良いものが荷物を担いで2往復したりして散々な山行でした。慶大ワンゲル部の人たちは親切で3人が小屋に滞在してくれて、指導していただきました。

パーテイの中で元気な4人です。

高校ワンゲルの創立

私たちが設立した県立浦和高校ワンダーフォ-ゲル同好会は、その後部に昇格し約40年間有力な部として継続しましたが、20年ほど前、新入部員がゼロになり山岳部に吸収されてしまいました。元はと言えば山岳部と別に新たにワンゲルの理念のもと設立したクラブでしたが、残念ながら消滅してしまいましたが、1年生の後半からの私の高校時代の活動の想い出は、全てワンゲルに直結するため簡単に振り返ってみました。

高校1年の晩秋に山に行きたくなり、クラスメイトと初めて山小屋に泊まり雲取山に登りました。山頂で霧氷を照らすご来光の美しさに出会った時、それまで自分の意思が決まらず弓道部、ボート部と運動部を転部してきましたが、山こそが自分の目指していた活動であり、自分の体力や運動能力の適性に合っていることを知りました。そして山から帰って直ぐに雲取山行の相談に乗ってくれた、クラスメイトを通して山岳部入部を打診しましたが、最大の行事である夏合宿も経験せず1年も終わりに近い事で入部を断られてしまいました。

仕方がないので個人で山に登ろうと道具など揃え始めていた時に、1年の終わりの入試期間中の休みに、クラスメイトたちと初めて中里にスキーに行き、そこで浦和第1女子高の山岳部の連中と知り合い連日楽しく過ごした結果、学校に戻り自分たちも何かクラブを作って、彼女たちと交流しなければ行けないなと話し合っていました。ちょうどそんな時、一緒にボート部を辞めた友人から、大学には山岳部と別にワンダーフォーゲル活動というものがあり、クラブ化について調べているという耳寄りな話を受け、即座にその話に乗り、スキーに行った仲間に声をかけました。

学校へのクラブ設立申請や渉外は得意な友人が、実際の活動の企画面や装備面は私が担当し、山岳部があるからと難色を示していた学校当局も折れ2年の新学期に、運動部でなく文化部としてワンダーフォーゲル同好会として正式に許可され、体育館の中2階に部室を得て正式にスタートしました。事前に声をかけたクラスメイトの他に創部を発表すると、高校生活を単なる大学受験の場として終わらせたくないと考える人間も数多く参加し、1年生も数人入会し総勢20数人の大所帯になりました。

明治大学ワンダーフォ-ゲル部の草津小屋

当時、東京の主要大学にはワンゲル部が存在していましたが、高校では早大学院と新宿、戸山など都立高校の一部でしかワンゲル部は存在していませんでした。ワンダーフォ-ゲル活動は戦前ドイツで始まった若者の野外活動ですが、平原のドイツと異なって我が国は70%以上が山地で、当然活動の主体は山地になってしまいます。
山岳部があるのになぜワンゲルが必要なのか、学校当局も判断が難しかったのでしょう。大学では山岳部とワンゲルの相違はピッケルとアイゼンを使う積雪期登山をやるかどうか岩登りを行うかどうかでしたが、大学での山岳部とワンゲルの活動範囲と活動目的はスケールは大きく、誰でもその相違は明確に判断できました。しかし高校では山岳部自体が岩登りは禁止されていたし、高校山岳部の積雪期登山も大学山岳部のレベルから遥かにスケールは小さいため、山岳部とワンゲルの相違を判断することは難しかったでしょう。

上智大学ソフィァヒュッテ

ややもすると高校の運動系の部活は上下関係が厳しいですが、もともと浦和高校は自由な雰囲気の学校で、私たち初代も、自分たちがやりたいことをクラブ化したため、下級生に自分たちの考えを押し付けることは極力排し、下級生は自分たちで考え行動するように努めました。

白馬で北アルプスの洗礼を受ける

ワンゲル発足後ワンゲル活動の理念について、一枚岩でなく様々な志向の皆と議論するのも楽しかったものの、一方では私の場合はアルピニズム的な登山をしようと仲間づくりのためで始めたワンゲルのため、ワンゲル合宿とは別に、最初から本格的な登山を志向していました。

我が国での本格的な登山、いわゆるアルピニズムは北や南のアルプス登山を前提とし積雪期の困難な登山や難しい山稜や岩壁の登山を意味していました。北アルプスは夏でも残雪が残り、森林限界は低く稜線は岩と這松に覆われています。雪渓のほとりには高山植物が咲き乱れ、その風景はアイヌが北海道の大雪やトムラウシで評したように神々が遊ぶ庭という表現がぴったりで、まさに現代の天上の風景が広がります。

本格的な登山を志すためにどこの山で洗礼を受けるかがとても重要になるのです。ワンゲルの夏合宿の直前、ワンゲルの仲間野知、川枝兄と3人と往復夜行1泊で白馬岳に行きました。初めて天幕や炊事道具、食料、燃料、寝袋を背負い、長い大雪渓をあえぎながら登りましたが、猛烈な夕立に合い根ぶかっぴらの汚い避難小屋に泊まり、翌朝山頂を往復しました。


      大雪渓 右は白馬岳直下国境稜線、黒部側に聳える旭岳

 稜線下のお花畑 右は杓子岳

標高を上げるにつれ杓子岳が見事な山容を現わしてきます。空、山、岩、草、雲、雪すべてが光り輝き、夢にまで見たアルプスの絶嶺に立てた喜びが全身を包んできました。
この翌年の3年の時は、ワンゲルの下級生の楊君と共に天幕を担いで待望の穂高に行きました。

ワンゲルを開始してからの2年間は、通常のワンゲル活動の他、アルピニズムを志向する仲間たちとザイルを購入して天覧山や日和田山でトレーニングし、3月の武甲山のウノ岩尾根を登りました。

山の会の現役学生のザイルトレーニングで何回も天覧山に行きましたが、ピーク直下にある大ハングを見て良く高校生の時、あんなところを何回も下ったなと想いました。若い時は怖いもの知らずです。


前夜河原で雑魚寝して、晩秋の丹沢の水無川本谷も登りました。丹沢水無川本谷は2年3年計8名で行きましたが、最後F8の20mの大滝まで、全ての滝を全員で完登しました。

山岳部のクラスメイトも仲間に加わり、卒業山行として3月に八ヶ岳縦走を行いました。コースは渋の湯→高見石→中山→黒百合平→天狗岳→夏沢峠→硫黄岳→横岳→赤岳→阿弥陀岳→硫黄岳→夏沢峠→本澤温泉→松原湖
この年八ヶ岳は大雪に見舞われバスは渋の湯のはるか前から歩かされました。前半は風雪が続き樹林帯の稜線でのワカンでのラッセル、黒百合平で1日停滞後、天候が回復し、後半は春の陽光の中、ピッケル、アイゼンを使用した急峻な岩稜歩きで不都合は感じませんでした。

天狗岳にて

ワンゲルの後輩と登った2年後の剱岳

大学のクラブの山とは別に高校ワンゲルの仲間とも登山を続けて来ました。大学入学した年にワンゲル仲間の飯島兄と、高校のワンゲルの3年生藤井君、楊君を誘って剱岳に行きました。この山行は岩登りやピッケル使用が禁じられているワンゲルの現役を誘って、八つ峰の縦走と下降は連日ピッケルを使用して長次郎谷をグリセードで下りました。これらは高校山岳部のレベルを超えた山行でしたが、ワンゲル現役の楊君はワンゲル部の会報に山行記録を掲載しましたが、別山乗越までの紀行で留めていました。

     劔本峰           長次郎の頭                      八つ峰7峰

天狗平の小屋、当時は黒部アルペンルートが開設してなく、劔沢には美女平、天狗平小屋、弥陀ヶ原、地獄谷、雷鳥坂、別山乗越の長大なルートでした。

     平蔵谷源頭と剱岳本峯南壁  剣沢の天場にて、父親のパイプをくゆらしています。

     クレオパトラ・ニードル 右は三の窓の頭

この劔山行は私の夏山の思い出の中でもベスト1に位置した山行でした。
もし人に青春の絶頂があるとするならば、この山行こそがその時だったように
想います。

気の合った仲間と、北アルプスの粋を現わす剱岳、固い花崗岩の岩場、残雪が岩肌迄埋め尽くす長次郎谷をグリセードで飛ばす。夜にはソ連の人工衛星まで見える満点の星空、まさに夢の空間とひと時でした。

同行した楊君は若くして病で亡くなってしまいました。この劔岳の写真は写真部も兼任していた藤井君が撮影したものです。楊君のお葬式が終わって剱岳の話題が出て、撮影した当の本人がこの時の写真を持っていないという事で、初めてアルバムからスキャニングして画像を送りました。
その頃、登山は中断していて、薔薇のHPは作成していましたが、自分でスキャニングしたデジタル画像を見ていたら、これを基にして過去の山歴を振り返るHPが作れるなと想い山のHPづくりを始めたのです。

ハクサンイチゲの群落の剣沢天場にて、当時は高山植物の群落でもロープは無く、誰でも寝転がることができました。

大学1年山の会夏合宿、北アルプス横断

大学では山のクラブをどう選択するか悩みました。高校ワンゲルの仲間とも登りたかったし、当時の山岳装備は重いため個人では岩登りは可能ですが、長期にわたる北アルプスでの本格的な積雪期登山は山岳団体に入らないと不可能でした。
高校時代明治、慶応、上智のワンゲル部の指導も受けており、大学ワンゲル部に親しみを感じていたのでワンゲル活動を大学で完結したい想いも強くありました。その結果早稲田大学ワンダーフォーゲル部に入部しましたが、早稲田ワンゲル部は体育局に所属し、運動部ですから日課として日々のトレーニングが必須でした。約1か月新人トレーニングを実施し、5月中旬の新人歓迎山行も近かずいて来て、早稲田のワンゲル活動の全貌が解ってきました。早稲田ワンゲル部は、今まで指導を受けた大学に比べてその活動のスケールは群を抜いていましたが、私が行いたい積雪期登山についてマネージャーにお聞きしたら、スキーを使用した積雪期登山は行うが、ピッケル、アイゼンを使用した登山は行わないとの事でした。新人歓迎山行に参加したら性格上辞めることはできないので思い切って退部届を出しました。

そうして振り出しに戻り、学内で山のクラブを探しました。高校時代の仲間とも登りたいので、少数精鋭のクラブでなく比較的時間的な制約が少なく、しかも様々な山での踏破の実力があり、本格的な積雪期登山が行えることが条件で、早稲田大学山の会に入会しました。山の会当時創会10年目で創立初期に山の会から早稲田大学探検部が分かれましたが、アンデスなど海外遠征に熱心なクラブでした。

私が入会時は会員が多く、最初の夏合宿は北アルプスの雲の平に集中ということで、劔、白馬、槍北鎌、東沢、笠ヶ岳など北ア全域を踏破する10パーティに分けて行われ
私は5人の少人数の横断パーティに参加しました。この横断パーティは尾根を縦走するのではなく、北アルプスを真横に横断することで、未開の沢あり、切り開かれたばかりの登山者が登らない尾根ありの田部重治的な初期の北アルプスの探検時代を彷彿される山旅の魅力的なコースでした。

中房温泉→東沢乗越→高瀬川→湯俣→湯俣尾根→真砂岳→水晶岳→赤牛岳ピストン→雲ノ平→黒部川→薬師沢遡行→太郎兵衛平→薬師岳ピストン→折立→有峰

東沢乗越から高瀬川の下りの沢は当時も酷いですが、今は地図にも道はありません。湯俣尾根は切り開かれたばかりの急な尾根道ですが、当時も今も利用する人はいません。赤牛岳は台風襲来のため中止になりました。2度と行けない場所のため今でも残念に想います。雲ノ平は本当の秘境で小屋も無く、登山者も無く、もちろん木道などはありません。黒部川は当時は橋も無くロープを張って横断しました。薬師沢遡行は楽しく途中の幕営地で豪快な焚火を行いました。今は許されません。薬師岳は1時間足らずで登り、帰りは35分で下りました。現在のトレールランより早いです。当時は折立から有峰までバスが無く、埃の舞う自動車道を延々と下りました。

原始の北アルプスが残っていたこの山行は、今でも記憶の底に厚く残っています。

高校ワンゲルの仲間たちはその後、先鋭的な社会人山岳会、大学山岳部、大学ワンゲル部、大学ハイキング部などそれぞれ自己の山を求めて、よりスケールの大きい世界に身を投じて行きました。

野口五郎岳の隣の真砂岳から見る赤牛岳、五色が原、スゴ乗越、鬼、獅子、竜王、雄山の立山の稜線と劔岳を望みます。

湯俣岳のピークです。この60年間で一体何人ぐらいの人がこのピークを踏んだのでしょうか?多分もの好きな人は多くないから少数だと想います。右は鷲羽ピークです。

夏合宿後半、雲ノ平をから黒部川を目指します。前方は北ノ俣岳の稜線でしょうか。

薬師岳のピークです。薬師ピークでパイプをくゆらすために持ってきて、記念写真を撮って貰いました。
ここまではそんな余裕はありませんでした。

本題の双六山行の初日です。

私にとって最後のまとまった夏の山行の紀行の前に、高校、大学とそれぞれ最初の夏合宿を想い出してしまいました。

前置きが長くなりましたが、いよいよ今年の夏の紀行に入ります。

            新宿バスタ 右は平湯温泉

新宿バスタに7時45分集結して、8時15分発の高山行の高速バスに乗ります。信州と飛騨を結ぶ安房峠が開通してから、飛騨はぐっと近くなりました。
平湯から上高地迄バスが何本もでていますので、近年は宿泊施設が少なく高価な上高地を避けて平湯や奥飛騨に泊まり上高地観光を行う人が多くなりました。

平湯からバスを乗り換えて1時間弱で新穂高温泉バスターミナルに到着します。この奥に西穂手前に行くケーブルの駅があります。ここで入山届を出しいざ出発です。

今回の山行は早稲田大学山の会OB会有志山行という事で、コロナ禍と私の病気入院が重なり3年間中断し、4年ぶりの山行です。
同行者は趣味人ばかりです。左からサブリーダーを務め山行のバスや山小屋の手配や予約を全て行ってくれた島田兄、島田は潜り700回を数えるダイビングの達人で一年に数回フィリッピンの海に潜りに行きます。島田兄と同期で私より5代下の新井兄、新井兄は多趣味で地域稲門会や熊谷高校同窓会の役員も兼任し多忙です。そして私と、隣は84歳の吉田さんで
創造美術展で何回も受賞している陶芸の大家で、創造美術界陶芸部関東支部長の重責を担っています。今は退いていますが4人とも山の会OB会の役員をしていました。


新穂高温泉から通い慣れた林道を辿ります。今宵の山小屋は林道の奥のワサビ平小屋です。

アジサイに似たオオカメノキの花が咲いています。オオカメノキは6月の屏風岩下の涸沢への谷を白一色に埋めます。オオカメノキは別名ムシカリと言われ葉に虫が巣くうために名づけられました。秋には真っ赤な実をつけ、映画剱岳点の記でも重要なモチーフとして描かれました。

蒲田川の左俣谷の林道には風穴が何カ所かあります。岩の間から本当に涼しい風が吹いてきて汗を乾かしてくれるのです。

いつもは最初にこの大石で1本を取りますが、暑いため風穴で1本取りこの大石は2本目です。あと軽く1本でワサビ平小屋に到着するでしょう。

笠新道の下り口に着きました。泣きそうな顔した単独登山者が降りてきました。この笠新道は数年前台風襲来のため予定になかったこの笠新道を下りました。大岩や木の根が乱立する長く急な下りで、登山者泣かせの道です。


ワサビ平小屋に着きました。昔は小屋の前に天然の小さなワサビ田あったため名づけられました。コロナ禍で休んでいた間にすっかりとリニューアルされていました。

コロナ対策で収容人数が少なくなりましたが値上げされました。この山小屋では11,000円、上の鏡平山荘では個室料金は15,500円となり旅館並みの料金になりました。料金が上がった分だけ部屋は画像のようにパーテ-ションで仕切られ揺ったりと寝れるようになりました。