クロスバイク走行中、浦高古河マラソンに出会う

文化の日を挟んだ3連休も気温が高い好天の日が続きました。今まで夏の山行が終わると、トレーニングに使用したクロスバイクは物置に入れたままで、翌年初夏の季節になると慌てて取り出し夏山に備えました。しかし今年は秋になっても、車での通勤客の少ない日曜日の天気の良い朝には乗ろうと心がけています。
コースはいつもの通リ、氷川女体神社から見沼大橋、そして見沼用水の東縁を通って大好きな見沼自然公園の際を通ります。自然公園に寄るか寄らないかはその時の気分次第です。今朝は少し寄ってから、加田屋新田沿いをのんびり走り、七里自然公園手前に差し掛かった時、前方の岩槻に向かう道を高校生らしき集団が走っているのが見えました。
交差点にくると、集団でマラソンを行っている高校生たちは、もしや今でも毎年文化の日近辺で行われている浦高の伝統行事である古河マラソンではないかと閃きました。

古河マラソンはフルマラソンより長い50㌔を走る行事です。戦前の旧制中学時代の伝統行事でしたが、多分体力錬成の軍事色の強い行事の印象のため、戦後永らく中止にされていましたが、私が高校入学した年の秋に再開された思い出深い行事でした。
私たちの時代は「強歩大会」と呼ばれ全長44㌔で関門が6個あり、目標の古河に到達する生徒は7~8割で、栗橋で多くが断念しました。
現在は、ほぼ全員が古河まで走り、行事名も「強歩大会」から「古河マラソン」に変更されています。

よく、昔の若者の方が根性があり、今の若者は「柔」になったと言われていますが、古河まで走り抜く今の彼らの方が、我々の時代に比べると遥かに根性や体力があるような気がします。
栄養学では昔の生徒と、今の生徒を比較したデータは無いでしょうが、大谷選手や大リーガーで活躍している日本人投手を想うと、日本の若者には肉食人種に劣らない基礎体力が備わっているように想います。

バイクを土手の上に置いてスマホを持って道路を渡り、交差点警備を行っている生徒のお母さん方らしい人たちに、伺ったらやはり古河マラソンだそうです。
現在は、全校一斉に走ったら道路に溢れるため3年生、2年生、1年生と少し時間をずらせて出発しているそうです。パンツのカラーは3年生が緑、2年生が赤、1年生は青ですが、私がバイクを置いている間に3年生は通り過ぎて行ってしまいました。
2年生もスマホのカメラを用意している間にあっという間に通り過ぎて行ってしまいました。マラソンだから早いです。

古河マラソンのコースは北浦和の学校から、茨城県古河の小学校まで50㌔を全員で走る浦高の伝統行事です。今は交通が激しくルートは変わっていると想いますが、岩槻、久喜、鷺宮、栗橋、古河のルートだと想います。現在はどの道路も歩道が完備しているわけでもなく、交通量が異常に多いため運営は大変だと想います。


この交差点は北浦和の学校をでてからほぼ4㌔ぐらいでしょうか。みな元気です。

高校生を見ていると自分もかって、こんな若々しい時代があったのだと感慨深いです。

これからの人生、いろいろな事が待ち構えていますが、今の屈託ない自信に満ちた姿で向かって欲しいと想います。

若い彼らに声を出して応援しましたが、過行く彼らに、心の中で再度エールを送ります。

交通警備の運営旗を見せて貰いましたが、浦和高等学校の頭に埼玉県立の文字はありません。近年ネットなどに出る浦高は埼玉県立浦和高校と表示されていますが、改めて思い出してみると昔から県立の名は付けていないことに気が付きました。私たちの時代、浦和の高校には、県立浦和第1女子高、県立浦和西高、浦和市立高校、新設の浦和市立南高がありましたが、(一女を除いて、いずれもサッカーの全国高校選手権の歴代の優勝校です。)浦和の住人は皆、それぞれ、浦高、一女、西高、市立、南高と呼んで親しんでいたので、浦高はあえて県立の呼称は付けなかったと想います。

私の高3の時の第3回強歩大会、卒業アルバムより

校庭で先生の訓示をお聴きします。当時はディパックなど無く、ナップザックも少数で大半の生徒は風呂敷の中に握り飯と水筒を背負いました。スタートの合図と共に生徒全員1200名が校門めがけて全速力で駆けだします。

主要街道の岩槻街道は未舗装な路で、路線バス以外車は来ないので、道幅いっぱいに走りました。岩槻市内に入る直前ですが、車など走っていません。最初の関門の岩槻です。ここまで10㌔を最大40分で走らないと関門は閉じられてしまいます。私は高3の時はバイクで最後尾を隋走しました。真ん中の写真に私がいます。

元荒川を渡ると旧日光御成街道を辿ります。同じような名の日光例幣使街道は、京から中山道経由で天皇の使者が東照宮参りに使用した街道ですが、上野、下野国を経由する日光街道とは別ルートを通ります。日光御成街道は徳川将軍が東照宮参りに使用した道ですが、江戸時代から遠く経った当時は未舗装の埃っぽい農道でした。和戸の関門です

久喜の手前で東北本線の踏切を渡りますが、当時はSLが幅を利かしていました。久喜の関門から4号線の鷲の宮の関門に向かいます。

ようやく栗橋の関門です。ここから国道4号線の利根川の鉄橋を渡ります。当時は特別に埼玉県警のおまわりさんも交通整理に出動していただきました。

利根川を渡ると4号線日光街道から左折し古河市内に向かいます。終点の古河市内の小学校です。小学校の体育館で休息を採り、めいめい連れ立って鉄道で帰宅します。

再開して以来64年間、途中中断することなく続いてきました。途中交通環境の変化や生徒の安全などの問題、体力のない生徒やマラソンの苦手な生徒、そして大学受験が近づいた3年生の11月に、全校生徒1200名が一斉に50㌔を賭け抜くのは容易ではありません。私たちの時代は夏休みが終わると、運動会の団体競技と強歩大会を目指して体育の授業はマラソンと飛箱、倒立などに明け暮れ体力を養成しました。多分「古河マラソン」実施のためには授業による事前の地道なトレーニングを行っているのだと想います。この60年間、脱水症で救急車が出動したとかニュースを聞いたことがありません。

東大に何人入ったとか、受験指導を徹底させるとか、偏差値をどう高めるかなど、高校生活が大学受験ゲームのような世界に変わってしまった今の時代、母校が60数年間大学受験と無関係な伝統行事を遂行している事に対して、誇りを抱くと同時に、今日眼の前を駆け抜けていった若き生徒たちに心の中で、今日の日は決して無駄じゃないぞとエールを送りました。