見沼の深まる秋

見沼の秋の光景は単調ですが、11月中旬から霜が降り秋が深まっていくと俄然風景が変わって行きます。
霜が降り始めると、今まで傍若無人に路傍を覆っていた背の高い野草が枯れ始めると、あぜ道が太くなったように、視界が広がるのです。
秋までの強い太陽の光は影をひそめ、空気中の温度が低下すると、未だ冷え切っていない土壌の熱が上昇して霧が地面を覆う機会が増え、早朝には度々幻想的な風景が現われます。


この時期は、未だ冬枯れの厳しさは感じられませんが、時々霜を受けた土壌は、地表を覆う野草を枯らせて、やがて来る冬の寒さに備えます。地表を覆う水蒸気は、野草たちが眠りの前に発する吐く息のように見えます。

私の大好きな辛夷の3兄弟の葉も黄葉の準備を始めています。

旭日が登り始め、少しずつ草紅葉の色を見せてきました。草紅葉は野草でなく整理を済ませていない木化した夏野菜の残骸です。


兼業農家が畑を維持して行くのは大変なようです。見沼田んぼを散策している時、数は少ないですが、もう10年以上に亘って完全に耕作を放置し、背の高さの倍ぐらいの雑草を伸ばせたままの畑を見かけます。
しかしそれらの畑は例外で大半は、耕作を維持しようと想っても耕地面積が広すぎて、休日だけの耕作ではとても手が回らない農地をたくさん見かけます。雑草の成長のスピードと除草回数が付いて行けず、そうかといって除草剤散布は費用がかかり、何よりも畑の場合は草が枯れてしまうので一目瞭然になってしまいます。

見沼田んぼを散策しながら、時々兼業農家だったらと自分に置き換えて想像します。その時の想像は耕運機の運搬から始まります。自宅から耕運機を車に積んで畑に持ってきて、耕運機をトラックから降ろして畑の水路の渡しを探しながら急傾斜の斜面を耕運機を運転している姿を想像します。まず耕運機が大型だったらユニックで降ろし、小型だったら軽の荷台から、板を渡して自走して降ろします。たったそれだけ想像しただけで自分には絶対に出来ない作業だなと想います。
農業は誰も助けてくれない偉大なDIY作業の連続なのです。

道端の茂みの影にカラスウリを見つけました。鳥は昆虫が活動している限りカラスウリは食べないと想います。鳥にとってはかなりまずい食物なのでしょう。周囲に食べるものが無くなり最後に手を出すかどうかは不明です。

何故か子供の頃からカラスウリが大好きでした。高校時代も晩秋になると、時折、国木田独歩の武蔵野をポケットに偲ばせ、郊外の裏山の茂みを散策してカラスウリを採集し自室の本棚に飾りました。晩秋の弱い日差しが差し込める夕暮れ時、それを横目で眺めながら熱い紅茶をすすり、山の本を紐解きながら尾崎喜八のような詩人の人生に想いを馳せた記憶がありました。

私が若い頃はそういう詩的人生を語る尾崎喜八や串田孫一、山口耀久などの登山家が大勢いてエッセイを書いていました。現在はメディアが発達して短絡的な発想の時代になり、郊外を散策しカラスウリを見つけることでなく、カフェでスイーツを食べることで散策は完了してしまい、書物が入る隙間と時間がありません。

50代の終わりに登山を再開した時、読んでない山岳書を求めて、山岳書を揃えている古書店を巡っていた時期がありました。探して訪れたある阿佐ヶ谷の著名な山岳書の古書店では店主と昔話で話が盛り上がりました。その古書店の前の道は阿佐ヶ谷主要な路に面していて、当時私は現役でしたので週末しか休めず、その日は日曜日でしたので店前には中央沿線のトレッキングコースらしく、それ風な人たちが少なからず行き交っていました。その人たちを眺めながら店主はしきりに怒っていました。休みにトレッキングを習慣にしているぐらいなら、少しは山岳書の専門古書店を覗いてみようと気がある人間がいてもおかしくはないと。最近の人は、百名山の本だけで、山の随筆も読まずただ健康維持のため歩いていると。

私たち世代で若い時から登山を始めた人間は、登山が書物と切っても切れない時代に生きてきました。当時は深田久弥の日本100名山は数ある山の本の中でも人気は下位に属し目立つことの無い本でした。しかし中高年の健康志向で100名山がバイブルになると平行して山岳書の衰退がはじまりました。しかし山岳書の衰退はまだしも、今や全国の書店が半分に減った本格的な本離れの時代になっています。

近年、縄文、弥生時代からの文字を持たない日本語の歴史の中で、文字を持たなかった代わりに、異常に話し言葉の多い日本語が、世界有数のボキャブラリーの多い複雑な言語で発達してきたことに想いを馳せています。日本語には漢字の発音で読む音読みと、漢語を古来の日本語に翻訳した訓読みの二通りあり、訓読みがいわゆる古来の大和言葉に根差した言語です。公的な書類や書簡は漢語で書かれ、和歌や俳句、私的な手紙や後の童謡、民謡、演歌、昔の歌謡曲は大和言葉で詠われてきました。原語について渡部昇一氏が詳しく述べていましたが、英語はノルマン王朝によって公用語に仏語が使用されたことによりボキャブラリーが大幅に増え英文学が発達しました。独語はボキャブラリーが少ないので、明治の日本の留学生がドイツの下宿のおばさんが哲学用語で会話していることに驚いたとの記述がありました。私はドイツでクラシック音楽が発達したのは、言語のボキャブラリーが少ないため文字より音での表現が発達したのだと想っています。

私たちは古来ボキャブラリーの豊富で複雑な日本語を漢字、片仮名、平仮名と学んで来て、江戸時代寺子屋教育ではほぼ識字率100%に達し、更に大人になっても仮名本や俳諧本、武芸書、農書や四書五経に通じ、共通の言語でコミュニケーションを行って来ました。明治になり欧米のあらゆる書物が翻訳され、いち早く学校制度によって、急速に教育が普及し欧米流の近代化が成し遂げられたのも、複雑な日本語の教育が基本にありました。思考はイメージと言語によって行われますが、私たちが教育によって世界有数の複雑な言語を駆使できたことが最大のポイントであると想います。

言葉は教育によって学びます。そしてまた言葉は書物によってより深く使い方を学びます。スゴ!デカ!ヤバ!など流行りのフレーズだけでの平易な短い話し言葉だけでは、簡単なコミュニケーションはできても、思考や微妙な文化は伝わりません。
書店の減少は言語の減少の現われであり、言語の減少は文化の崩壊や成熟社会の文明までも衰退に繋がります。
日本の漫画やアニメが世界的に隆盛なのは、作者の絵の中や行間に感情を表現する豊富なボキャブラリーが潜んでいるからだと想います。しかし思考や感情や感覚を現わす複雑な日本語が衰退したら、同じようにこのメディアもやがては衰退に向かうでしょう。

全国の書店数が半分になる哀しい時代になりましたが、見沼たんぼでもススキがほとんど見かけなくなりセイバンモロコシが猛威を振るっています。30数年前見沼田んぼを覆っていた野菊も見つけるのが容易でなくなり、ほとんど壊滅してしまったようです。

野菊かと想って近寄って見たら、同じ野菊の仲間の雑草のヒメジオンです。ヒメジオンとカタカナで書くと分かりにくいので本草学通りの和名で書くと姫紫苑となります。紫苑は菊の意味ですから小さな菊の意味で、春から初夏に咲く菊はハルジオン(春紫苑)です。

姫紫苑も野菊と言えば野菊ですが、花弁の芯が大きく花弁も細い花弁が密集して可憐さに欠けてしまいます。
日本人の感性は昔からこの辺りの相違を見抜き、野菊とは一線を画しています。伊藤佐千夫も姫紫苑を見て「野菊の墓」は書かなかったでしょう。

こちらは昨年10月四阿山登山の際、菅平高原での正真正銘の野菊です。