見沼たんぼの早春賦

私は一年の中で春まだ浅き季節が一番好きです。
大寒から立春、そして雨水へと続く、一年の中でも一番微妙に変化していく季節の移り変わりを、鈍感にならずできるだけ全身に感じて生きたいと願って来ました。

この微妙な季節の移り変わりを知ったのは、30年前愚犬を飼い始め、冬の夜明け前から約40分の愚犬との散歩を始めてからでした。それまでの夜型の習慣から極端に朝型の暮らしに変わりました。早朝の散歩の習慣によって、それまで気が付くことの無かった同じ冬の季節でも、大寒の季節が一番寒く、立春になると微妙にその寒さが和らぐことを知りました。

また夜明けのずっと前にヘッドライトを照らして行った愚犬との散歩でも、元旦から1月中はほとんど変わらなかった日の出時刻も、立春を過ぎると急速に早まることも知りました。

10年間、早朝の散歩の習慣を続けて来ましたが、愚犬が亡くなり朝の仕事はガーデニングだけが残りましたが、愚犬との早春の微妙な季節の体験は心に残り、今では早朝のウォーキングで微妙な季節を味わっています。

毎朝ウォーキングの途中、運動量の多い雄のラブラドールを、広場で遊ばせている若いビジネスマンの方と出会います。彼は東京へ通勤するために私が歩き始める頃は、帰宅の途中で、会うと犬と挨拶を交わします。彼とは2,3立ち話をしたことがありますが、彼は人生の中で毎朝犠牲を払って犬との時間を作っていることについて、全てわきまえており、彼と出会うと心の中でいつもエールを送っています。

初日の出は6:50、1月20日の大寒の日の出は6:49、立春の日の出は6:39、ここから早くなり2月19日の雨水の日の出は6:24、3月5日の啓蟄になると6:06に大幅に早まります。

一方日の出に比べると,日入りは元旦の16:38から立春の17:11分、雨水の17:26、啓蟄の17:40分と日暮れが遅くなります。一般に暮らしていく意味では日暮れの遅い方が、助かる人たちは多いと想います。

早春賦  吉丸一昌作詞、中田章作曲

春は名のみの 風の寒さや 谷の鶯 歌は思えど
時にあらずと 声も立てず 時にあらずと 声も立てず

氷解け去り  葦は角ぐむ さては時ぞと 思うあやにく
今日も昨日も 雪の空   今日も昨日も 雪の空

春と聞かねば 知らでありしを 聞けば急かれる胸の思いを
いかにせよとの この頃か いかにせよとの この頃か

この早春譜は、安曇野の早春の風景を詠った極めて格調高い歌で、私の好きな唱歌の中では、高野辰之の「おぼろ月夜」と双璧です。なぜなら早春の季節、見沼田んぼを散歩する時必ず口ずさむのが「早春賦」で、菜の花の季節になると今度は「おぼろ月夜」です。

12年8月、長野県飯山市真宗寺 高野辰之、藤井宣正の妻姉妹の生家、島崎藤村が入り浸っていました。


「おぼろ月夜」の余談ですが、高野辰之については、辰之ゆかりの飯山の真宗寺や長野の記念館に行きましたし、また母校の2代校長で校是の「昌文尚武」を定めた藤井宣正は、辰之と奥さん同士が姉妹の義兄でした。高校の恩師は藤井宣正の来歴を訪ね飯山や藤井宣生の故郷の与板に出かけ、高野辰之との関係や、本願寺の大谷光瑞の大谷探検隊を調べ、母校の80年記念誌に掲載しました。恩師からは、大谷光瑞、島崎藤村、夏目漱石などが登場する「末は博士か大臣か」の明治の壮大な物語を夜語りでお聞きしました。
後に世間では高野辰之の来歴は有名になりましたが、高野辰之と藤井宣正、そして大谷探検隊、更に母校の校是「昌文尚武」と結びつけた話は聞いたことがありません。恩師が墓場に持って行ってしまったのでしょう。

13年3月、大分県臼杵市 

早春賦の作詞者吉丸一昌の故郷の大分県臼杵市は、戦国時代島津氏と九州を2分した大友宗麟の本拠地で、大航海時代、島津氏の薩摩坊津と臼杵、平戸がスペイン船、ポルトガル船の交易港として栄えました。現在の臼杵は美しい城下町で、魚もおいしくまた水が良いので醤油の醸造が盛んです。また郊外には有名な臼杵摩崖仏があります。

吉丸一昌について残念なことがあります。吉丸一昌の故郷の記念館を訪れなかったことです。街の地図で記念館の表示がありながらどうして行かなかったのか、大分の臼杵はそう簡単に行ける地ではないため悔やんでいます。

唱歌の作詞者は、文部省の役人であったため、東京では記念館はあり得ず、地元で特別に保存しようとしなければ、記念館は存在しません。事実吉丸一昌の記念館は奥様の実家を記念館にしています。私の地元でも「山田の案山子」の作者武笠三は文部省の役人だったため、記念館はありません。

吉丸は「桃太郎」「日の丸」「かたつむり」を作詞しましたが、出色なのは翻訳唱歌の「故郷を離るる歌」の作詩でしょう。

文部省唱歌が出来る前、明治国家は西欧音楽教育を急ぐために、外国の民謡や讃美歌に文語体の翻訳の詩をつけた翻訳唱歌が作られ女学校教育などに使われました。今でも「蛍の光」「庭の千草」「故郷の空」「故郷の人々」「灯台守」「埴生の宿」「旅愁」「故郷の廃家」「ローレライ」「追憶」「峠の我が家」「冬の星座」「家路」など愛唱されています。その中でも「故郷を離るる歌」は文語体の格調高い歌で大好きです。

12年3月、大分県竹田市、岡城跡


滝廉太郎の出身地,、大分竹田は臼杵とそれほど離れていません。大分を旅する前年、阿蘇や宮崎を旅した際、竹田の岡城跡や廉太郎の家を訪れたことがありました。
廉太郎の父親は同じ大分の日出藩の生まれで東京で廉太郎が生まれ竹田の郡長として赴任しました。廉太郎は竹田の高等小学校に通い、尺八など音楽に目覚め、東京音楽学校を目指しました。この竹田において廉太郎がどんな環境でどのようにして音楽を勉強したか良く判りました。
また廉太郎が良く登っていた岡城跡に廉太郎の小学校後輩の朝倉文夫作の廉太郎像がありました。この像は朝倉文夫の最高傑作の一つと想いますが、廉太郎が我が国の近代音楽を一身に背負って遠い彼方を見つめているそのストイックな姿は涙を誘います。
竹田はまた日露戦争の英雄広瀬中佐の故郷でした。

吉丸一昌は臼杵藩の下級藩士の息子で、大分中学卒業後熊本の五高に進学しました。この頃の五高は嘉納治五郎校長のもとラフカディオ・ハーンや秋月悌次郎が教授の時代でした。五高時代は剣道に熱中し東京帝大に進むと修養塾という私塾を開き、故郷大分や地方からの苦学生と暮らしを共にし、生涯に亙り援助したと言われています。
生家や関連した住居に開設した記念館は、その人物がどのようにして生きて来たか、良く理解できるため訪問がとても貴重です。野口雨情もそうでした。吉丸一昌のような明治の1方の歴史を背負って生きた人だからこそ臼杵の記念館を訪れなかったことを悔やんでいます。

改めて想うに、明治という時代は、旧武士階級が職を失いその貧しい子弟たちが、わが身を立てるために上京し勉学に努め社会に飛躍した時代です。社会に飛躍した子弟たちも、故郷の後輩のためにさまざま援助を惜しまなかった時代でした。

明治新政府は江戸時代の遺産の上で成り立ちました。江戸時代の地方各藩の武士たちは、幕府旗本に比べると驚くほど小禄の行政官でしたが、武士の本領である武芸を磨くための剣術と、業務を円滑に遂行するために学問に身を入れてきました。
新政府軍に積極的に参加しなかった各藩からは新政府の高官は生まれませんでしたが、代わりに明治新政府は、閨閥と無関係な新しい教育制度を用意し、意欲ある人間には広く平等に人材を育てました。この新しい教育制度によって、弱小の日出藩の下級藩士の家から滝廉太郎の父親が生まれ、岡藩の下級武士の家から朝倉文雄、広瀬武夫、或いは臼杵藩の下級藩士から吉丸一昌が生まれたのです。この時代は逆に、行政、教育、軍備、司法、医療、芸術、建築、重工業、交通、輸送、などなど従来にないさまざまな新しい社会制度が作られる時代であり、これらを開発し発展させるためあらゆる有能な人材が求められた時代でした。こうした新しい社会制度の構築のために、身分を失った貧しい武士の子弟たちが新時代の教育を受けて参加して行きました。また農業に従事する膨大な数の田畑を継承しない子弟で向学の意欲に燃える子たちは、武士の子弟たちと共に教育によって社会に羽ばたいて行きました。

明治は余りにも近代化のピッチが速く社会の停滞は許されず、昭和初期の僅かな停滞でも国家や社会は停滞に不安を感じ、不安の解消を海外に求めて長い戦争の時代に突入して行きました。

唱歌の詩の大半は書かれた当時の人々の気持ちを代弁して書かれています。詩は美しい抒情詩が多く、当時の人々のほとんどが日本の美しい自然や花鳥風月を感じ、故郷の風景を両親への想いと共に自分のアイデンティティとしています。この歌の流れは戦後、故郷を想う演歌に引き継がれています。

12年3月、福岡県朝倉市秋月城址 秋月藩は新政府軍に対して秋月の乱を起こしたために城下は徹底的に破壊されました。乱は西南戦争のきっかけにもなりました。


故郷を離るる歌  吉丸一昌   ドイツ民謡

園の小百合、撫子、垣根の千草 今日は我を眺むる最終の日なり
思えば涙 膝をひたす さらば故郷 さらば故郷 さらば故郷 故郷さらば

つくし摘みし岡辺よ 社の森よ 小鮒釣りし小川よ 柳の土手よ
別るる我を憐れと見よ さらば故郷 さらば故郷 さらば故郷 故郷さらば

此処に立ちて さらばと 別れを告げん 山の陰の故郷 静かに眠れ
夕日は落ちて たそがれたり さらば故郷 さらば故郷 さらば故郷 故郷さらば

明治になり新しい教育制度で四書五経を学ばなくなってから、文語体は縁が遠くなりました。翻訳唱歌はアイルランド民謡やイギリス民謡、ドイツ民謡をただ翻訳したのでなく、詩の意を汲んで詩人たちが文語体で独自の詩を作りました。我が国にも韻を踏んで歌う、言葉を大事にする良き時代がありました。

 
まだ用水の水は本格的に流していません。枯草の間に仏の座が拡がってきました。

見沼田んぼは用水が網の目のように流れています。日本全国田や畑は同じく網の目のように水路が張り巡らせています。戦後日本全国に農業投資を行って整備された農道と灌漑水路ですが、多分必要な水路のバルブを開ければ、水が流れてくるでしょう。これは我が国の大切な農業資産です。
パレスチナのガザは、海水を真水に変えてこのように水路をつくったら聖書で言うカナンの地に変わるでしょう。アフガンでテロに倒れた中村医師は砂漠の水路づくりに命をかけていました。

まだこの灌漑水路も活きています。

ブロッコリーの取入れが終わりました。

シーズンに向けて畑を掘り起こし天地返しを行っています。こういう風景は大好きです。

見沼田んぼの見事な黒ボク土です。春はまじかです。