暑い夏の日々の中で、その2

梅雨明けの前日とは言え梅雨明け宣言を出しても良いほどの暑い日、文京区に住む川島兄と西洋美術館か国立博物館かどちらかに行こうと、上野の公園口で待ち合わせ結局リニューアルしたばかりの東京国立博物館に行きました。

この時期、屋外の公園や施設は暑いためどこも行く気になれませんが、美術館や博物館は涼しく、人気のある特別展以外は混雑しないのでゆったりと過ごせます。
盛り場のレストランやカフェはどこも込んでいて長居もできず、年寄り向きではないので博物館や美術館は格好の遊び場です。


国立科学博物館

年寄りの特権は時間に追われることが無いため、セカセカせずゆったりと時間を楽しむことにあります。しかし歳を取ると誰でも少し耳が遠くなっているため、3人以上で話すと、知らず知らずの内に声が大きくなり周囲に迷惑をかけてしまいます。
特に年寄りが集まると、食事の際昼間からビールを飲むことが多く、酔いも加わってにぎやかになりますが、本人たちは全く気付いていないことが多いのです。

このことに私が気づいたのは、最近のことで、最初は昼間の渋谷の焼き鳥屋で体験しましたが、その時は焼き鳥屋という店の性格上、賑やかな場所だと想っていましたが、先日大宮の店で男の年寄りの4人グループの隣の席で、彼らの声のでかさを体験してから、私も気をつけるようにしています。

国立科学博物館を通過します。子供たちの人気の博物館です。川島兄は小学生の時川口在住だったので、1人で何回も来たそうです。私は秋葉原の交通博物館の商船の模型が好きで、1人で何回も来た記憶があります。小学生でも大人が考えるよりずっと行動範囲が広いのです。

東京国立博物館

東京国立博物館です。日本人より外国人の方が多いです。
私は九段会館に代表される西洋式ビルの屋根に日本式の瓦屋根を乗せた帝冠様式の建築が好きです。
我が国は大東亜戦争の反省から、日本各地や満州国に建てられた帝冠様式の建築はアナクロニズムの象徴として捉えられており、226事件の戒厳司令部が置かれた九段会館も新装されて近代的ビルが背後にたち、帝冠様式が目立たなくなりました。
しかしこの国立博物館も新装した際、和風の瓦屋根の帝冠様式を残しており、どちらかと言えば軽みのある日本文化を重厚な雰囲気に変えて表現しています。


特別展では空海の神護寺展が開かれており人気があります。神護寺は京都の寺院で残しておりいずれ行こうと思っているので常設展のみにします。常設展は高齢者無料という特権まで与えられています。




館内に入りますが、高齢者無料にかかわらずほとんど高齢者は見かけません。暑くない普段の季節でも高齢者は意外に少ないです。
高齢者は既に知的芸術的な興味を失っているのでしょうか。人の事はどうでもいいことですが、少し気になります。

まさかの「渡海文殊」の出会い

仏像のコーナーで突然「渡海文殊」に出会いました。説明文には、鎌倉時代康円作とあり、興福寺勧学院のご本尊だったと記しています。多分安部文殊院の快慶作のコピーです。


初めて奈良近郊の安部文殊院で快慶作の国宝「渡海文殊」と対面した時、この奇怪な仏像群は私にとって衝撃的でした。
以来私は我が国における仏教伝来のストーリィを描いた「渡海文殊」が大好きで、薬師寺に展示されている、遠いヒマラヤを越えて伝来した仏教を描いた高名な某画家の日本画の大作より遥かに仏教伝来の物語が迫ってきます。

仏像崇拝の意味を遥かに超えた、この奇怪とも言える仏像群を形にして華厳経の物語を「渡海文殊」として表現するには、仏師の快慶だけでは無理で、プロモートした人がいるにに違いないと想いました。
帰宅して安部文殊院で求めた図録を読んだところ、東大寺再建の立役者重源が、安部文殊院に深くかかわっていたことを知りました。

重源は、東大寺別院だった安部文殊院に「渡海文殊」をつくることで、仏教伝来のストーリィを多くの人たちに見てもらおうと思ったに違いないと考えるのです。「渡海文殊」は、かって聖武天皇が我が国に華厳世界を作ろうとし、その象徴だった東大寺の大仏再建の締めくくりとなるはずでした。

当時、平重衡によって焼かれた東大寺の再建は聖武天皇が望んだ華厳世界実現への仏教者たちの夢だったのです。
隠棲を続けた西行の最後の旅は、重源の依頼に寄る旅で、鎌倉の頼朝を訪れたのも、遠く奥州の同族の藤原氏を訪ねたのも大仏勧進のためでした。また弁慶の勧進帳ももとを言えば重源の東大寺の勧進状からでした。

「渡海文殊」群像は仏教伝来の物語

「渡海文殊」は珍しいらしく外国人の観覧者たちは盛んに記録しています。人物の顔が入らないように撮影していますが、仏像コーナーは人が少ない時を見計らって撮りました。

安部文殊院 唐の高官となり唐で没した阿部仲麻呂や陰陽師阿部清明など安部家の氏寺

安部文殊院は東大寺の別院でした。重源は東大寺大仏殿の再興を締めくくる総供養の御仏として、東大寺と同じく兵火で焼かれ再建中の安部文殊院の文殊菩薩の造仏を企て快慶に制作を依頼し、東大寺総供養日に合わせて、日本最大の渡海文殊群の開眼法要を行う計画でした。

重源は栄西と同じく、三度宋に渡った国際人でした。シルクロードを意識した渡海文殊の物語性のある仏像群をプロモートしたのも重源ならではであり、東大寺の勧進職を担ったのも、聖武天皇が我が国に華厳世界を実現しようとしたその壮大な哲学を、一人の仏教者として受け止めた気宇壮大な人物だったと想います。

聖武天皇は、聖徳太子によって国教となった仏教を、華厳経の世界観で国づくりを行うために、行基や良弁が加わって東大寺に巨大な廬舎那仏を建立し、全国に国分寺、国分尼寺を建立しました。更に我が国に無かった仏教の「戒」を導入するために鑑真を招き、自ら東大寺の戒壇院で戒を受けました。

鑑真の盲目となりながらも6度の我が国への渡航は、聖武天皇の命で遣唐使で鑑真を訪ねた栄叡と普照から、我が国に華厳世界の実現を目指す遠大なビジョンを聞き、それに参加しようと強い夢と意志が働いた結果だったと考えられます。

華厳世界実現の夢は重源に引き継がれ、隠棲を続けた西行の最後の現生の仕事になり、源頼朝や後白河上皇が大布施者となりました。

今でも東大寺毎年恒例のお水取りの修二会において、過去帳読踊の中で造営の大施主として一段高く頼朝の名が読み上げられるそうです。頼朝は、鎌倉に幕府開設に当たってそれまでのインカ帝国のような祭政の古代国家から、法治主義に経った封建国家を目指し、その基本には聖武天皇の仏教国家を目指していたように想います。


「渡海文殊」は華厳経の物語で、善財童子が文殊菩薩の指導で53人の善知識者と会い仏の悟りを得たことを中心に、文殊菩薩と善財童子が主役の仏像群です。

これに華厳経の新約を完成させた西域国家のウデンの王が獅子の手綱を引き、文殊菩薩に請われてインドから中国に渡った仏陀波利三蔵、維摩経の維摩居士の5人の従者を従え、はるかシルクロードを越えて海を渡り華厳経を我が国に伝えた姿を仏像に託して語っています。


快慶作、国宝「渡海文殊」 安部文殊院図録より

多くの人たちは正倉院の御物を見てシルクロードの終点と想いますが、私は安部文殊院の日本の寺院らしからぬ大陸的な雰囲気に接し、ここが東大寺大仏殿を経て仏教のシルクロードの終点と想いました。
仏教のシルクロード伝播には、聖徳太子、聖武天皇、鑑真和尚、最澄、空海、などさまざまな人が加わりました。重源はそうした歴史を、名工快慶の腕によって渾身の仏教伝来の物語「渡海文殊」を世に残しのだと想っています。

奈良、京都の高校の修学旅行では、当時知的に幼かったため何も見ませんでした。ただ大仏の大きさだけが印象に残りましたが、なぜ大仏がここにあるかは説明は受けませんでした。
もし東大寺の大仏殿を見た後、安部文殊院でこの像を見ながら重源の大仏勧進の説明を受けていたなら、仏教伝来の意味が理解できたかもしれません。小学生の時聖徳太子の授業で法隆寺のエンタシスの柱の説明を聞いた時、あの時代ギリシャ文明が遠く飛鳥に伝わっていた歴史は今でも克明に覚えています。

数年前、修学旅行以来法隆寺に行った際、小学生たちの一団を引き連れて女性の先生がエンタシスの柱の説明を行っている光景に出会いました。半分ぐらいの小学生は、先生の話を聞いていないで後ろでがやがやとおしゃべりしているのを見て、思わず、「この柱のことは歳を取っても今でもよく覚えている大事なことだよ」と子供たちに向かって話してしまいました。女性の先生は突然の年寄りの発言にキョトンとした顔をしていました。生涯最初で最後のでしゃばった行為でしたが、私にとっては法隆寺のエンタシスの柱は、今考えると、歴史の基本となる文化の伝播、文明の伝播の生涯忘れない物語だったのです。

入場者は外国人の方が圧倒的に多い印象

館内は外国人の人たちの方が遥かに多く8割を占めています。繊細な蒔絵も人気があります。

真剣に日本文化を学ぼうとしている人たち

刀剣のコーナーです。退役軍人らしき外国人の方が、微動だにせず刀剣の流れの解説を読んでいました。刀剣は人気のコーナです。

旅に出るとどこでも、名刀のコーナーは若い女の子に大人気です。

名刀を撮影している外国人の方はその場を離れません。マニアックな人なのでしょう。

茶の湯のコーナーです。外国人の方は茶碗や茶壷の概念が良く判らないみたいです。昔メトロポリタン美術館でも茶の湯のコーナーは閑散としていました。

展示された古い写真の一部

日光の明治2,3年の古い写真が展示してありました。馬返しと言えばいろは坂のふもとの大谷川沿いの場所だと思いますが。ここを人力車で通るのですかな。

男体山をバックにした中禅寺湖畔の温泉群です。明治2,3年の画像ですから、江戸時代から日光は観光客が来ていたようです。

海外文化を高度に和風にアレンジする技術

国立博物館の回廊の中に素敵な部屋がありました。タイルの壁が優美です。窓の外には茶室が見えます。

素敵な証明と天井のモールです。

織物も染色も弥生時代からの経験の賜物

沖縄の紅型です。独特の染色方法で作られた織物で、裁縫好きな家内は紅型は宝物で見ることはできないと言っていました。

沖縄の黄紬です。家内曰く子供の時、黄八丈を着た時嬉しくてしょうがなかったと言っていました。

ここは近代のコーナーです。古いものを見た後では、新しく作った古いものにはあまり興味は抱けません。

東京国立博物館の庭園

近年、古今伝授の間がある水前寺成趣園、大名庭園の岡山後楽園、そして先日の高松栗林公園を丹念に眺めて来たので、いわゆる大庭園については目が肥えてきました。
また寺院の庭園も数多く見てきました。今が一番雑草は繁茂する季節であり、みなさん見せるために懸命に努力しています。

館内のレストランでゆっくり食事を採ってから庭園を散歩します。さきほど博物館の窓から見た池と茶室です。この茶室は第一三共の前身、三共製薬の創始者が作った茶室です。

日本庭園が終わると森の中の庭園に入ります。さすが木陰は涼しいです。

庭園を独り散策するご婦人がおられます。緑の中にカラーが入ると風景のポイントになります。

庭園の奥に茶屋がありました。茶でも飲んで寛ごうと想いましたが、縁側が一杯なのと、茶の価格が東京観光価格のため止めました。地方の名園の茶室が優れていることを改めて認識しました。いつの間にか、訳知りで困りもののうるさい爺になってしまいました。

俵慶館前の木陰の下のベンチで、しばしゆっくりと談笑します。足元に鳥が寄ってきます。東京は石原都政の時、カラスを徹底退治したためカラスが見当たりません。その結果天敵の心配が無くなった小鳥が寄ってくるのです。

四国でも瀬戸内の旅でも、なぜこんな所までと想うほど単なる物見遊山でない外国人とよく出会います。今回博物館の来店者の大半が外国の方々であり、なぜこんなに単なる物見遊山でない人々が日本に来るのだろうか、円安だからなのかと考えますが、今回博物館の中である仮説が頭によぎってきました。

日本人もそうですが、博物館には単なる物見遊山の人は決して来ません。来館する外国人の方たちは漠然とした目的を持っている筈ではないかと想いました。

現在、マスコミでもネットニュースでもGDPがドイツに抜かれ、権力の内輪もめに関心ばかり行き、円安で物価高の我が国の現状を、私たち自身が自虐的に見過ぎではないかと想い始めています。
博物館で日本文化を知ろうと家族ぐるみで展示を見ている人たちは、今後世界経済の中心となるアジア太平洋地域の中で、低成長で成熟社会で少子高齢化の我が国が、我が国が力強く世界に向けて国際ルールの順守、SDGsの推進、環境対策、多国間共同行動など、従来曖昧だった事項を態度を鮮明にして主張している姿が、経済でも政治でもアジア太平洋地域のハブ的存在となりつつある姿が信頼されてきて、その源となっている日本文化を知ろうとする外国人が増えているような気がします。

現在世界の先進国は皆、大なり小なり問題を抱えており政権や社会も不安定です。人々は高成長の超競争社会による格差社会より、低成長でも成熟化した互いの価値を認め合う未来社会を望んでいます。SDGsや環境負荷を考えたら、従来の高度成長は必ずどこかの犠牲を伴うことは知っています。

欧米の人たちは我が国の戦後が自分たちの努力だけで、他国の富を略奪して成長して来なかったのは誰でも知っています。逆に我が国と協業してやってきた国家ほど戦後高成長を遂げています。我が国の多くの人々が平等で安心な成熟社会を、どうやって実現したのか、或いは高度成長しないで格差の無い安定した成熟社会を実現するために、自然と共生してきた足るを知る我が国の古い文化に、その秘密を求めて来日する人たちも少なくはないように感じました。

私たちは欧米文化をモデルにしてやってきましたが、欧米文明のマネをして攻撃的になったり自虐的になるのではなく、自ら日本文化をかみしめながら、来し方を考えるオリジナルなスタンスに立つ必要が出て来たように想います。米国の攻撃な大統領選や、性急な改革を望むポピュリズムは我が国に合いません。



上野駅公園口は眩しい場所でした。なぜなら私が大学生になる前の年、ル・コルビュジエの弟子の前川國男設計の東京唯一の本格的コンサートホール東京文化会館が公園口前に出来たこと。現在では世界文化遺産に登録されているル・コルビュジエの国立西洋美術館があり、まだアングラ文化が存在しなかった時代、正統的な西洋文化の拠点が上野駅公園口でした。


上野駅の南側の上野の山に続く不忍口やアメ横に至る広小路口は、ゴチャゴチャとしていわゆる繁華街そのものでしたが、公園口だけは目の前に東京文化会館の明かりが周囲を照らしている限り文化の雰囲気溢れる場所でしたが、文化会館で公演の無い日は、都会の闇空間に戻りました。

国立西洋美術館では、古代エジプト展を見に行き、ミロのビーナス展では長い列で作品に近づいただけで何も見えなかった思い出が残っています。また東京文化会館には大学に入ったばかりでクラブが忙しくなる前は、コンサートに良く行きました。当時はあまり高くはなかった記憶があります。

公園口は前を横切っていた道路が行き止まりになり、文字通リ公園口が芸術の広場となりました。ここまで来る間に60年を要したのです。広場を飾るポールもハンギングが施されようやくロンドン並みになりました。

植栽を担う造園業者も皐月やツツジの植栽から、大型ハンギングバスケットが出来る体制になったようです。おそらく若いセンスの良い人たちが入社して植木屋さんの植栽も変化しています。日日草のハンギングは花柄積みが必需で無いので水やりだけでメンテ可能です。

駅前のカフェでまたまた談笑します。駅前にしては奥まった場所にあるため、やや落ち着いた雰囲気で談笑できます。
このカフェの入り口のような植栽ができなければ、都市の造園業者としては立場が無くなる時代になったのでしょうか。

池上本門寺

四国旅行の直前でしたが、川島兄と東京散策の場所をどこにするか、TELで話していた時に、直前放映されたTV番組で池上本門寺を訪ねることになりました。
私の本格的な仏教寺院への興味は10年ほど前からと浅く、この10年で畿内を中心に訪れた寺院は100を超えるまでになりました。

旅で電車を乗り継いで寺院を訪ねると、本堂のご本尊にお詣りせず、駐車場に車を置いて社務所で500円払ってご朱印張に記入して貰って帰る人が多く見られました。日本人は訪ねた証だけを求める風潮に溢れているようにかんじます。巡礼は脚でコツコツとお参りしながら回ることが巡礼と言えるもので、車でご朱印帖を集めても満足するのでしょうか。

考えてみれば、私は浅草浅草寺、西新井大師や護国寺以外、増上寺や本門寺など都内の寺院にはほとんど行ったことがありませんでした。

川島兄とは蒲田で待ち合わせをしました。池上本門寺に行くために東急池上線にのり2つ目です。昔、蒲田と目黒を結ぶ目蒲線がありましたが、今は走っているのでしょうか。
蒲田から鉄道に乗るのは生まれて初めてで、池上線に乗っては周りをキョロキョロしていました。東京南部の雰囲気はさいたまと少し異なります。

駅に降りてグーグルマップが良く作動しないため、道すがら通行す人たちの何人かに聞きましたが、地元の寺院なのに行き方を知りませんでした。

ようやく本門寺の参道に出ましたが、大寺に関わらず参拝者はほとんど見られず、西新井大師クラスを考えて私たちにとって拍子抜けでした。

本門寺への長い階段もひっそりしています。

仁王門です。

大堂です。池上本門寺は日蓮上人がこの場で亡くなり、大檀徒の池上氏が7万坪の土地を寄進して建てられた日蓮宗の寺院で、日蓮宗本山です。
日蓮宗本山のため本山業務が主で、一般信者が多数お参りする寺院でないため、規模が大きい割には森閑としています。同じような雰囲気は真言宗智山派本山の京都智積院や
真言宗豊山派の東京本山の護国寺にも言われます。

TV番組では江戸城総攻撃の交渉で勝海舟と西郷隆盛がこの本門寺で会談したと言っていましたが、調べてみると勝海舟は三田の薩摩藩邸に出向き会談した事が事実なようです。ただし池上本門寺は新政府軍の江戸城攻撃のための薩摩軍以外の藩兵の駐屯地だったことは事実です。TVもNHKだったと想いますが番組によっては質が落ちました。

勝海宗は池上池の地を好み、そこに住んだと言われています。この池上池と本門寺とごっちゃになっているような感じです。

いかにも門前町らしい茶そばと饅頭の店で、昼食を採りました。


駅に向かう通りに熱心なガーデニングのお宅を見つけました。ジキタリスが終わりにかかっています。薔薇はドロシーパーキンスでしょうか。