山と自然のエッセイ、病室の窓から想った事。
5月中旬に10日間入院した後、6月上旬から中旬にかけて再び10日間入院しました。
今年も2月の山の会の新年会で7月に八甲田山、岩木山、8月に立山黒部とそれぞれ別なメンバーで5日間の山行を計画していました。
しかし4月にさいたま市立病院で病名を知らされた時、医師に7月と8月に長期の山行は可能かと尋ねたら、それは無理かもしれないと微笑みながらおっしゃていましたが、その答えは若い医師が私をきずかってやさしい言葉でご返事されただけで、当面の山行は無理だとすぐ理解しました。
既に宿の予約も済ませている立山・黒部山行は6人のメンバーが参加者決定していたため仲間に、病気のため行けない旨、皆で行って欲しいと図ったら、全員今年は予約をキャンセルし中止にして、来年の夏に同じコースで行こうと纏まりました。皆に迷惑をかけましたが、来年の夏、再起しようという励ましを頂き、とても嬉しかったです。
登山には登り下りに使用する強靭な足の筋肉だけでなく、激しい呼吸に耐える肺の活動、それと共に全身に血を巡らして活動する心臓の活動の3つが必要と思っていたので、日々のウォーキングやストレッチを丹念に行って来て、中性脂肪を除けば身体の数値は不安な要素は何も無かったのに、80歳を過ぎると、人間の身体には健康を害する思わぬ陥穽があることに気付きました。やはりいつも言うように,82年間フルに身体を使ってくれば、どこかにガタが生じるのは当たり前の事のようにな気がします。
これを自動車にたとえれば、たまの車検で82年間タイヤもバッテリーも変えずに走って来たことと同じで、機械に比べると、人間は多少の調子悪さや不具合を、自らの自立性の高さと自己修繕能力で補って維持する偉大さに改めて感動します。ですから予期せぬ身体の陥穽でも甘んじて受けなければなりません。

浦和の市街地の外れに建つさいたま市立病院からの眺めは優れています。この病室から眺めにあかず接していると、早く回復してあの街の日々の暮らしに戻りたいと言う強い欲求が湧いてきます。病気回復の場の病院としては、さいたま市立病院は最高のシュチェーションにあるように想います。

眼下にある建物は旧埼玉師範学校の鳳翔閣を移転した浦和博物館です。鳳翔閣は旧埼玉師範学校(埼玉大学教育学部)の玄関に当たり、埼大教育学部は家の傍にあったので、この明治の木造洋風建築の鳳翔閣の建物は身近に感じていました。

左前方に見えるタワーマンション群は、JR浦和駅周辺です。浦和旧市内は工場が無かったため、他の都市に比べて大規模な高層マンション群は立ちませんでしたが、近年はニーズが高いせいか市街地にも中層階のマンションが多くなりました。それでも市街地は戸建て中心の緑豊かな住宅街が広がっています。

更に目を東に転じると、見沼田んぼが広がっているため一層緑が豊かになります。病院ではTVを見続けると飽きて来るし、本も読み続けると目が疲れます。そんな時はイヤホーンでラジルラジルの音楽を聴きながら、窓からの浦和の街を眺めていました。

さいたま市立病院が位置する場所は、見沼田んぼに面する古代、海のほとりの台地で、台地の横から小さな入り江が複雑に入り組んでいる地形です。見沼田んぼ自体は6000年前縄文海進によって日本列島周囲は海が内陸に入り込み、東京湾が埼玉の内陸奥まで広がり歴史的に奥東京湾と呼ばれました。この辺りは気候温暖で住みやすかったらしく、貝塚や古代人が生活した遺跡がたくさんあります。

さいたま市立病院が位置する三室の地は、古語で御室、御諸、三諸と言い、大和の三輪山や斑鳩の三室山、宇治の三室戸など神が鎮まる神聖な神座を意味しています。
古代奥東京湾の海の畔に神が祀られ三室の地名となりましたが、やがて氷川女体神社として大宮氷川神社を初めとして武蔵国一円に広がりました。氷川神社の名は出雲のヤマタノオロチ伝説の斐川からなずけられ、祭神はスサノオノミコトで出雲の神様です。氷川女体神社一帯は古代からのクスノキやタブノキやシイノキに覆われた典型的な常緑広葉樹林の鎮守の森を構成しており、小さいながらも社殿には武蔵国一宮の扁額が誇らしく掲げられています。

西側には奥秩父、奥多摩、丹沢の山々が広がっていますが、この季節空気が澄んでいないため、見えません。中央に奥多摩の盟主大岳山が望まれますが、丹沢の大山は見えません。
浦和からだと、相模の大山、奥多摩の御嶽、大岳山、秩父の武甲山(三峰山)の3つの山が顕著ですが、江戸時代にはこれらを参拝する多くの講が組まれ参拝が行われました。
後方のビル群は埼玉新都心のビル群です。

こうやってあかず窓の外の浦和の街並みを眺めていると、この私のふるさとである浦和の街で産まれ、やがてはふるさとの浦和にある菩提寺の墓に、父母と共に眠ることになると想ったらそんな悪い事ではないなと思えてきました。それとともに今まで無限とは想えないけれど、自分の生涯がはっきりと有限であり、これからそこに向かってゆっくりと歩んでいく時期に来たことをはっきりと悟り、妙に落ち着いてきました。
それと共に、あの簡素でしたが、皆さりげなく浦和の街を愛していた人々が暮らしていた子供の頃が思い出されてきました。そんな浦和の街の想い出をエッセイとして時々ブログに書いてみたい衝動にかられましたが、これまた頭の体操になるかも知れないと想いました。

入院が決まり、計画していた夏山山行を早く辞退しなければ皆に迷惑をかけることになってしまい焦りましたが、参加メンバーの5人は、今年の夏の山行は中止にして
来年に回そうと衆議一決してくれたことでした。皆も歳を重ねると今年より来年と段々山がきつくなりますが、通常の山とは別に、夏山は我々年寄りが唯一北アルプスの3000mの峰に上れる時期であり、そんな貴重な機会を棒に振ってしまう仲間たちに申し訳なく想っています。
でも歳をとってもこのようなお付き合いのできる早稲田の山仲間がいたからこそ、晩年の生きる喜びが湧いてくるのです。

2017年まだ若かった時の北アルプスの笠ヶ岳への縦走路です。今回のメンバーと同じです。

1昨年の夏の立山です。同じメンバーです。

入院中毎日家内は新聞と替えの下着を届けに来てくれましたが、家に届いた山の会の先輩や仲間からのハガキも持ってきてくれました。ハガキは本の栞として重宝しましたが、本を開く都度先輩や仲間の暖かい励ましが心に触れました。
