山と自然のエッセイ、浦和でランチと名刹玉蔵院
豊田兄とは7月に八甲田山と岩手山に行く予定でしたが、私が入院のため山に行けなくなりました。最後に遇ったのは4月の陣馬山以来ですが、退院後会う予定でいましたが、何時ものように私が電車に乗って東京まで行く自信が無いので、彼らが浦和まで来てくれてランチと軽い昼飲みを行いました。
6期下の豊田兄は西東京市、10期下の行方OBは千葉県の佐倉が住まいですが、今回は長躯浦和まで来てくれました。豊田兄が住む西東京市は合併前は田無と保谷で西武新宿線から湘南新宿ラインで、行方兄が住む佐倉は総武線で東京駅から上野東京ラインで来ました。
彼らと会って数時間山の話に興ずると、何よりも元気が湧いてきます。名アルピニストでクライマーだった彼らは全身生命力の塊です。
豊田兄は浦和に来るのは初めてで、行方兄は学生時代浦和の住民だった後輩の名達兄の家に泊まりに来たことがありそれ以来でそうです。逆に私は東京都下の田無は早稲田と関係が深く、保谷は車で埼玉から町田方面を目指す時は清瀬の隣に保谷街道があり馴染み深い所です。また千葉の佐倉は近くに成田山があり、国立民俗博物館には何度も行ったことがあり、更に江戸の名老中堀田氏が君臨した佐倉城があります。更に生前父が言っていたことで、旧陸軍での第1師団は赤坂歩兵第1連隊、麻布歩兵第3連隊、佐倉57連隊と甲府49連隊で編成されており、首都圏の招集兵には佐倉は千葉市より馴染み深い地名でした。
いずれにしても、さいたま市というのは首都圏でありながら、神奈川や横浜と異なり、余程の事が無い限り来る用事が無い所だと改めて感じました。また中山道の小さな宿場町から発展した浦和にはわずわざ訪ねてくるような史跡が皆無で、一部を除いて私たち浦和の住民も浦和の歴史には興味をそそる事項が無く、偉人も存在せず、学ぶ材料がないため学校でも子供の頃から郷土の歴史を学ぶ習慣は全くありませんでした。
以上のように私たち浦和の住民が自らの歴史を知らないのに、まして他県しかも首都圏の人々は、浦和の事は何も知らないでしょう。
それでも子供の頃、絵画が得意だった私は、文士の鎌倉に比し浦和は画家の鎌倉とか北の鎌倉と言われているのだと聞いたことがありますが、確かに画家が大勢いたことは知っていましたが、そうだからといって鎌倉幕府の首都だった鎌倉と対比するのはおこがましく、中学の修学旅行で初めて鎌倉に行き、格調ある五山がたたずむ鎌倉の街を散策しながら、北の鎌倉というのは古い浦和の人たちが何もない浦和の街を誇るゆえに言っていたのだと理解しました。
先日東京生まれの家内に子供の頃、浦和は北の鎌倉と言われていたことを話したら、余りの共通点の無さに驚いていました。そんな家内の驚きとは別に、子供の頃から82年間浦和の街を見つめ続けてたり、日本国中旅をして名だたる街を見た結果、やはり浦和の街は、他に比較できない稀有な街であったことに気が付きました。
前回の入院中のブログで病院の窓から浦和を街並みを眺めながら、子供の頃からの想い出をブログにしたためてみようと想いました。今回のブログはそのスタートになりました。
浦和宿のルーツ、宝珠山玉蔵院延命寺(通称玉蔵院)
浦和宿は旧中山道沿いにあり、鎌倉時代の埼玉県西部の丘陵地の裾を走る旧鎌倉街道から、室町末期の古河公方や足利家の家宰の上杉氏の家宰の太田道灌によって江戸城が築かれてから、主要街道は現在の旧中山道に変わりました。頼朝の藤原征伐は旧鎌倉街道から奥羽街道を北上しましたが、秀吉の奥州仕置きははっきりしませんが、小田原北条氏の支城を避け多分中山道を北上し奥羽街道を北上しました。余談ですが奥羽街道の入り口である白河の関も頼朝が越えた関と、秀吉が越えた関は場所も異なります。
ということで家康による五街道の設置は、律令時代の幹線に匹敵する事業で、これによって全国の城下町や宿場町が確定され今日の都市の原型が作られたものと想います。

ランチと昼飲みは中山道にある銀座アスターで行いました。この店は子供たちが揃った時、良く利用する店で、品の良い中華を提供する古い店ですが時間を気にせずゆったりと寛ぎながら過ごせます。
ランチ後に、久しぶりに直ぐ近くにある浦和の名刹玉蔵院に寄りました。
平安時代の820年弘仁11年創建の真言宗寺院で、空海が唐から真言密教を携えて帰朝した年が806年ですから、恐らく空海の真言密教の関東における最古の寺院と想います。
玉蔵院には地蔵堂があり、ご本尊は地蔵菩薩のように想えますが、調べてみたらご本尊は大日如来でした。この時は知らなかったので、大日如来を信仰している行方兄にこの時知っていたら喜んだだろうと想いました。
大日如来は宇宙の中心の太陽の事ですが、極めて哲学的なご本尊のため、観音菩薩のように分かりやすい仏様でないため、真言宗でもご本尊としている寺院は少ないです。玉蔵院は多分空海の齎した真言密教の関東布教の拠点として創建され、ご本尊も真言密教の象徴である大日如来をご本尊としたのでしょう。
現在の玉蔵院は旧中山道から少し奥まって位置していますが、創建当時は旧中山道に面していたと想われます。旧中山道は家康が五街道の1つとして整備したことから始まりましたが、平安時代初期の820年、平安京がつくられてから25年しか経っていない当時、既に中山道の原型は武蔵野の浦和を走っていたことが分かります。
浦和宿のルーツ、調宮神社

旧中山道に面している調宮神社も浦和のルーツです。
社伝では2000年前崇神天皇によって創建された施設で、関東一円から伊勢神宮に初穂を納めるための集積所として創建され故に調宮の名が付けられたと言われています。崇神天皇は神武天皇と同一と言われ、ヤマト王朝の関東進出の徴税の拠点として創建されたのでしょう。調宮神社では調の意味を入り口に掲示しています。
したがって今でも神社の象徴である鳥居はありません。
その後ヤマト朝廷の律令制で武蔵国が東山道から東海道に所属が変わった時点で、徴税の拠点は府中に移ってから調宮は神社となり、玉蔵院が別当寺として運営していました。浦和の歴史年表によれば、1337年建武4年に足利尊氏が一族の一色範行に命じ社殿を造営させ5ヶ村を寄進したとあり、この時代、初期大和朝廷の関東の拠点だったという歴史認識が、共通していたのでしょう。
江戸時代、寒村の浦和宿が何故埼玉県の県庁所在地になったのか、歴史ある北部の熊谷は戦後になってもこれに異を唱えていましたが、私は明治新政府の神祇官は初期ヤマト王朝の歴史に鑑み、上州坂本宿まで中山道きっての寒村の浦和宿が、前政権の徳川幕府のシミのついていない無垢の土地であり、しかも初期ヤマト王朝の関東における徴税の拠点だった歴史を前提に県庁所在地に選定されたと想っています。
欅は古語で槻と記し、東日本におけるヤマト王権のご神木でした。古代ヤマト王朝のヤマトタケルの遠征ルートである常陸久慈川沿いの陸奥に入った棚倉に2つの古い陸奥一宮があります。それは八槻都々古別神社と馬場都々古和気神社です。この神社には槻すなわち欅伝説があり、もちろん巨大な欅のご神木があります。調宮神社は槻宮神社と言える程、境内は欅の巨木の森です。この欅を眺めるとヤマトタケルの遠征ルートの陸奥一宮の巨大な欅のご神木を思い出します。
もう一つ、なぜ浦和が初期ヤマト王朝の拠点になった理由もあると想像しています。それは旧武蔵国はヤマト王朝が進出する前は出雲王朝の東の拠点だったと想像しています。
これは資料がないため歴史でも証明はできませんが、氷川女体神社をルーツにして氷川神社は武蔵国一円に広がっており、今でも祭神はスサノオで氷川の名は出雲の斐伊川の当て字です。
氷川女体神社は旧三室村に位置していたため、旧浦和市民は女体神社の事は良く知りません。私も30年前三室に引っ越して初めてその存在を知りました。
旧浦和市民は調宮神社の氏子で、旧市内の夏祭りは、町内毎に調宮神社の神様の神輿を担ぎます。信仰深い家は調宮神社のお札を家に掲げています。
2人の仲間と早稲田大学山の会の歴史のこと
早稲田大学山の会は70年続いてきました。体育局山岳部と異なり単なる学内公認サークルの1つに過ぎない山の会が70年も存続してきました。一時は休会状態になった会を同期が理工学部教授になり自分の研究室の学生を多く入会させ再興させましたが、大学院教授になり学部学生との接点が無くなり、一時は現役学生がいなくなった時期もありましたが、現在ではクラブを維持できる数の学生が毎年コンスタントに入会しています。しかし社会のあらゆる登山クラブがそうであるように、登山に対する考え方や登山のグレードが大幅に低下しています。
大学の国際競争力に直面している学校当局の目標も世界の中の早稲田へと世界一流を目指す大学へと舵を切っていて、昔に比べて学生たちの勉学の厳しさは遥かにレベルが上がっており、大学でクラブに専念出来づらくなっています。昔は平気で休んで山に行っていた事が今では出来づらくなっています。そう意味で登山は山に入る日数でグレードが左右されますが、それが許されない環境になっており、勉学の余暇に山に行く考えが平準化されています。
仲間と話したことはありませんが、早稲田を代表し予算や入学推薦枠のある体育局の山岳部でもない、唯の公認サークルの山の会に所属している我々が、何故会の存続に力を砕いてきたのか不思議に思うことがあります。同じ身体を張った山岳活動はそれほど相違は無いのに、山岳部は日本のアルピニズムを切り開いてきた輝かしい伝統があり、何よりも一般的に人に説明をするのに山岳部だったといえばそれで済むのに、早稲田大学山の会は学外の知らない人に若干の説明を加えないと単なるハイキングサークルに想われてしまうことです。昔の山の会のメンバーは山岳部だと親に反対されるとか、山岳部は体育局に属しているから毎日のトレーニングが義務なため、そういうのが嫌で山の会に入るとか、或いは体力に勝る山岳部に入ると山でしごかれるとか、そんな理由で我々も山の会に入会してきました。
私の動機は浦高時代のワンゲルのメンバーと大学でも登ろうと意図していたため、トレーニングとか制約の多くなさそうで、会員が多く積雪期から逍遥登山までオールラウンドな山の会を選択しました。
私の時代はまだ会員数が多く、先鋭的な登山を志すメンバーと激しい登山を回避するメンバーが混在していましたが、それが雪山合宿が高度化してくると、会報などでその活動を見て入会する新入生は減ってきます。私たちが3年生の時の春山合宿でサポート隊も入った約1か月に渡る南アルプス全山縦走を行ってから、翌年の春の新入会員は5人に減ってしまい、全会員でも20人程度と、以後同じような少数精鋭の時代に入りました。
6期下の豊田兄は4年になった時たった20人の会員の中で4人がヒマラヤの未踏峰に挑戦しに行きました。10期下の行方兄の時代には、彼が学生時代から2人で冬の前穂北尾根に挑戦したり、岩登りでは奥又Dフェース、4峰新村北条ルート、滝谷c沢右股奥壁、ドーム西壁、屏風岩大スラブを登り、山の会に入れば難しい登攀も可能となるという早稲田学内でも最右翼の先鋭的な山岳クラブに変身させました。
我々の時代と異なってこの時代は社会的に自由な時代になり、山岳部というオフィシャルな権威より自由に活動する同好会系の山岳団体が好まれたのかも知れません。
音楽、文学、スポーツ、政治、思想など早稲田のクラブやサークルはあらゆるジャンルに存在していますが、サークルはそれぞれのジャンルで学生団体の最前衛を目指して活動しています。大学4年間サークル活動をすることは時間とお金と何よりも多大なエネルギーをそこにつぎ込まないと継続できません。多くの仲間たちが途中脱落して行きますが、それに耐え多くの犠牲を払いながら活動し合うことがクラブの活力を産み切磋琢磨しながら人を育てて行きます。
早稲田人が社会に出てもあらゆるジャンルで活躍するのは、既に学生時代に激しい切磋琢磨のミニ社会を体験しているからです。こういう切磋琢磨のミニ社会を体験した者同士が、世代が離れていても共通の空気の基、人生の晩年になっても山岳活動という哲学的概念にもとずいた若き日々を語りあうことができるのです。
私は高校時代から登山を始め、自分なりのアルピニスト像を描きながら山の会で活動してきましたが、途中息切れしたこともあり、結果的に2流のアルピニストで終わってしまった私にとって、1流のアルピニストの2人と話すことは、人生の晩年において書物の中でしか知り得なかった本格的なアルピニズムについて身近に触れることができる貴重な体験です。それはあたかも良質な単行本を読む楽しみに匹敵します。
この日もブログに記するほど私にとって価値ある一日でした。
私は自分自身が凡人故に異能人については良く解ります。浦高の仲間など数々の異能人と接してきましたが、彼ら2人を見ていると異能人を数多く生んだ早稲田のスケールの大きさを感じます。早稲田にいると何事にも驚かなくなる不思議な伝統を感じるのです。それ故彼ら2人は自分たちが異能人とは想っておらず、凡人に毛が履いた程度にしか感じていないのでしょう。
豊田兄


彼は理工学部4年の時、早稲田山の会の学生4人で、未踏峰であるパキスタンのヒンズーラジ1峰6660mの遠征に行き、頂上直下で敗退しました。
もちろん順当な就職や安穏とした人生など考えず、ヒマラヤ未踏峰に挑戦しましたが、帰国後同じ山の会の南米一円自家用車で移動しアンデスの峰々を登るアンデス縦断登山隊に登攀要員として参加、遠征後も帰国せずエクアドルに留まり、8年間も現地企業に務めながらアマゾン探検など行って、経済合理主義とは無縁の山尽くし遠征尽くしの生涯を送ってきました。
理工学部数学科出身ですが、なぜ数学科なのかと尋ねたら数学は紙と鉛筆だけで、何でもできるとのこと。
彼のロマンの実現のためだったら何も厭わないという、経済合理性の対極にある思想がとても魅力的な異能人です。
行方兄


行方兄は自身の登攀記を自費出版しています。
行方兄は法学部出身で文武両道にプラスしてコミュケーション能力に富んでいます。早稲田卒業後登攀に更に磨きがかかり、当たに開拓された日本のビッグウオールの甲斐駒赤石沢や黄蓮谷、大ハングで名高い谷川の衝立岩や雪崩の巣と言われ長い間続投を阻んでいた積雪期の一ノ倉滝沢第3スラブ、積雪期北岳バットレス4尾根など、みがきがかかりました。しかし途中仲間や同ルートの登攀者たちの多くの遭難に出会い岩壁からの遺体降ろしなど何回も経験しましたが、その後登攀から遠ざかり、大手会社の執行役員になり、持ち前のコミュニーケーション能力を活かして、社会問題になっていた地元との懸案を解決して行きました。
退職後ヨーロッパアルプスの岩壁に挑戦するために最新の登攀用具を揃え、ゲレンデでの岩のトレーニング中、事故で墜落し、体内に50本近いボルトを埋め込む手術で、3年に渡る過酷なリハビリを行い復帰しました。彼が買いそろえた最新の登攀用具は全て山の会に寄付をしました。
私が入院した時、かれはいつも自分の苦しかった体験でメールや手紙で私を励ましてくれました。
再び浦和のルーツ玉蔵院について

昔から隣町大宮の寺社の象徴が氷川神社であるように、旧浦和市は調神社と玉蔵院がその象徴でした。玉蔵院は明治の廃仏毀釈まで調宮神社の別当寺でもあり、一体となって運営されてきました。
玉蔵院は、平安時代に創建された歴史の中で、幾たびかの火災で焼失してきましたが、室町時代に真言宗の学僧印融が再興してから活発になり、秀吉の時代には秀吉の醍醐の花見や庭で名高い醍醐寺三宝院の直寺となりました。
江戸期に入ると家康から寺領10石を寄進されました。浦和市史によると鴻巣宿から浦和宿まで寄進すると言われましたが、手に負えないからと近隣のみの寺領で辞退しましたが、将軍家直接お目見えの位だけは受けたそうです。玉蔵院は真言宗豊山派を開祖した学僧千譽僧正の関東における真言宗豊山派の学問の拠点として、総本山豊山長谷寺から学僧が住職として入寺したり、また玉蔵院の高名な学僧が総本山長谷寺の管長になるという歴史があります。
旧浦和市が文教都市のイメージを形作ったのは、明治以来の行政機関と言われていますが、私は平安時代に創建されこれだけの名刹でありながら信者拡大より学問を追及して来た、玉蔵院の存在によるところが大きいと想います。もし信者拡大を目指していたならば関東有数の初詣寺院となっていたかも知れません。
ちなみに埼玉県で初めての学校は明治4年玉蔵院に開設された浦和郷学校です。

さきたま出版会青木義脩著「さいたま市の歴史と文化を知る本」によれば、江戸後期には快尊、快道、無相の傑出した僧が豊山長谷寺から玉蔵院に移りました。快尊は長谷寺留学34年の後玉蔵院に赴任、その後豊山長谷寺の管長になりました。快道は長谷寺から赴任、天明の3傑と言われましたが、本山に戻ることなく60歳で亡くなりました。無相も長谷寺留学36年の後玉蔵院に赴任、浦和の俳諧に大きな影響を与えましたが道半ばで亡くなり本山管長になりませんでした。
このように玉蔵院は、真言宗豊山派を創立した学僧専誉僧正以来の学問の薫り高い学問寺院の格を守りました。
真言宗豊山派は、真言宗智山派と共に新義真言宗と言われ、信長の比叡山焼き討ち以来、戦国武将の干渉を受けたり焼き討ちされ衰えた真言宗の中から、京都智積院を本山とした智山派と、奈良長谷寺を本山とする豊山派が生まれ、やがて真言密教をリードする真言宗の2大教団となり現在に至っています。
玉蔵院名物枝垂れ桜

玉蔵院の庭はキチンと整備され見事です。
玉蔵院は家の直ぐ近くでは無かったけれど、小学校が同じ学区だったので時々玉蔵院まで仲間と遠征に行きました。鐘楼に登ったりかくれんぼしたり中々,洟垂れ小僧たちの遊びこたえのある場所でした。

玉蔵院は学問寺だったたため、檀家は持たず墓地は市内各地の玉蔵院関係の末寺にありましたので、法事で玉蔵院に行く習慣はありませんでした。
その代わり玉蔵院で実施するお施餓鬼は関東三大施餓鬼と言われ本寺の玉蔵院で、毎年8月23日に盛大に行われていました。
お施餓鬼は施餓鬼会とも言いお盆の一連の行事の最後の儀式です。お施餓鬼とは六道の1つである餓鬼道に落ちた哀れな亡者や無縁仏など、全ての精霊のために施しを行って功徳を積む儀式で、通常は墓に塔婆を建てて法要を行います。子供の時の記憶では、お施餓鬼の意味は分かりませんでしたが、法要が終わった午後、待っていた大勢の檀信徒たちが家族連れで塔婆を担いで、それぞれ末寺の菩提寺にあるお墓に向かう姿が見られ、1種の走馬灯の風物詩のようでした。

玉蔵院の大ケヤキです。長い神仏習合の時代、調宮神社の別当寺であった玉蔵院は調宮神社も維持していました。調宮神社の境内はヤマト王朝のご神木だった欅の林に覆われています。玉蔵院の大欅を見ていると歴史の流れが続いているようです。

玉蔵院の境内のど真ん中に市道が走っています。子供の頃はこの市道が無く境内でした。旧浦和市に市道を提供した報道を聴いた時、玉蔵院の欲の無さと
奉仕の精神を子供心に感じた事があります。文教都市の中心部に位置しそれなりの境内を有した玉蔵院が受験のお札でも売れば、大繁盛しただろうにと想いました。
余談ですが、以前米沢に行った時、甲府の街は信玄の風林火山の旗で溢れているのに、同じように米沢の街には謙信の毘の旗が閃いていると想ったら、ようやく上杉神社で見かけただけでした。上杉博物館の学芸員の人に、どうして毘の旗が少ないのかと尋ねたら、遠慮がちに口をもぐもぐさせていたのを見て、その気持ちを察して「そうしないのが上杉だ。」と代わりに応えたら、学芸員の方はその通りですとおっしゃっていました。
矜持は中々口にすることは難しい事項ですが、この境内を貫通している市道を見る度に、玉蔵院の学問寺としての矜持が、何百年もの間浦和宿の住民の心に浸透して来て、今日の浦和の文教都市のイメージが作られたのだと想っています。それは明治新政府の行政もありますが、それだけではありません。
城下町に行くと、街の中央に城がありそこの藩主の姿勢が、明治以降今でも市民に浸透し、市民のアイデンティティの基本を作っているように想います。宿場町の浦和にはお城がないため、住民のアイデンティティはどのように作られて来たのか?お城が無いの歴史ある城下町に匹敵する文教と自治の文化、そして成熟した生活文化が存在します。
やはり平安時代から時の権力者や為政者に靡かず、1貫として同じ学問寺の姿勢を撮り続けて来た玉蔵院の存在は大きいです。
江戸時代の浦和宿絵図

さいたま市立博物館発行の文化8年(1811)浦和宿絵図、複製版を浦和博物館で購入しました。
浦和宿の江戸時代の絵図の中央のオレンジ色の道は中山道で、左側が南で江戸方面、右側が北で京都方面です。左の広い敷地は玉蔵院、中央の敷地は本陣、右側に御殿山と接した成就院が見えます。
この浦和宿の絵図から、浦和宿での玉蔵院の存在、玉蔵院と末寺の成就院の関係が見て取れます。
玉蔵院の末寺で私の菩提寺の成就院(上寺) は浦和宿の上町にあるから上寺と呼ばれてきたことが通説ですが、改めて浦和宿の江戸時代の絵図を見ると、成就院(上寺)は本陣を挟んで玉蔵院のすぐ横にあり、玉蔵院から、直ぐ上(京)方面にある寺として(玉蔵院)の名を省いて上寺と呼ばれたのだと推測します。
絵図を見た限りでは中山道沿いには公共的な施設は調神社(左に隠れている)、玉蔵院、本陣、成就院しかありません。本陣は庶民に無関係ですから、浦和宿の住民の意識にあるのは、神様は調神社、お寺は玉蔵院、お墓は成就院だけだったので、成就院は玉蔵院の上手にあるため単なる上寺と呼ばれていたように想います。

成就院の正式名は、御殿山成就院(上寺)と言います。上寺は昔からの通称名です。
山号の御殿山は明治になって県都となり浦和地方裁判所と検察庁が置かれましたが、今は移転し常盤公園になっています。
御殿山のは、家康の江戸移封後、直ぐに鷹狩の際に屋敷が作られたことから御殿山と名づけられました。多分鷹狩は、鷹狩と称した中山道沿いの地域偵察の場だったのでしょう。多分家康は関東に影響力のある弘法大師の玉蔵院の権威を統治に使おうと想い、御殿山に屋敷を建てたのでしょう。玉蔵院は家康の申し出を断ったため、家康は興味を亡くし、やがて家康の鷹狩場は低湿地の多い越谷方面に異動し、宿は岩槻城に移転し御殿山を使用することは無くなったのだと想います。これはあくまで想像です。おそらく当時御殿山は成就院の敷地の一部だったのでしょう。成就院も火災で消失したため当時の史料は残っていないそうです。
浦和宿は北から上町、仲町、下町と呼ばれていました。浦和宿の北は東山道以来、京都に近いため、上寺は上町にある寺として上寺と呼ばれていましたが、もう一つ本寺の上に当たるため(玉蔵院)の用語を省略して上寺と呼んでいたのかも知れません。
御殿山成就院上寺
私の菩提寺で将来眠る場所です。

成就院(上寺)は真言宗豊山派の寺院で、ご本尊は地蔵菩薩です。
長い歴史を持つ成就院(上寺)は明治の排仏毀釈により廃寺になってしまいましたが、玉蔵院の境外仏堂として檀信徒の努力によって存続を続けました。関東大震災の直後から60年間ほどは、禅宗の尼僧が留守居役を務められていましたが、尼僧が亡くなる前後しばらくの期間は全く無住の状態でした。
昭和63年に成就院を再興するために、玉蔵院の次男で大正大学大学院博士課程を終えてベルギー国立ゲント大学に留学し仏教の文献学を研究していたご住職が、尼僧さんが亡くなられたため帰国し成就院を再興するため玉蔵院から派遣され。10年をかけて宗教法人の資格も獲得されました。
ご住職はこの間、大正大学や本山長谷寺で教鞭を執りながら、成就院を見事に再興されました。
ご住職は現在大正大学仏教学部長を退官し名誉教授も務めておられます。また2018年には、我が国における密教界の最高賞と呼ばれる真言宗各派総大本山会学芸賞を受賞されました。ちなみにこの賞は上山春平や梅原猛氏など我が国が産んだ最高の学問の府京都学派の哲学者たちも受賞した密教学の最高権威です。
ご住職はこのような素晴しい事績も、海外での仏教文献学研究も、仏教学部長であったことも自らは決して語りません。多分成就院にお墓参りに来られるほとんどの檀信徒の人たちは、ご住職が豊山派を開祖した専譽僧正の伝統を引き継ぐ豊山派きっての高名な学僧であられることは誰も知らないでしょう。私もご住職に直接お尋ねした結果、近年初めて知りました。
息子さんの副住職も大正大学大学院で密教を学び学僧の伝統を保持されておられます。副住職のマスター認定証には、仏教学部長である御父上の名で認定されるという珍しいできごとになったそうです。

昔関東三大施餓会と言われた盛大だった玉蔵院のお施餓鬼を成就院のご住職は継続しています。
子供の時、塔婆とは婆さんの塔と書き、変な名だなと思っていましたが、塔婆とは卒塔婆と呼びサンスクリット語でストゥーバを漢語で当て字したもので、釈迦の遺骨を納めた塔を意味します。従って五重塔もストゥーバで、法要で使用する塔婆は仏塔を簡略し板碑を建てます。
玉蔵院グループによるお施餓鬼の法要

本堂の法要の様子です。昨年の成就院のパンフから引用させていただきました。
昔からお施餓鬼の法要は本寺の玉蔵院の末寺グループのご住職が揃って行いとても壮観です。
お導師様は成就院住職が務め、ご職衆様は、成就院ご住職の長男である玉蔵院ご住職、白幡の医王寺ご住職、副住職、辻の和光院ご住職、別所の真福寺副住職、そして成就院副住職です。
玉蔵院の末寺グループはいずれも旧浦和市内の歴史ある名刹ばかりです。
無縁仏への法要

本堂でのご法要後、成就院ご住職、副住職、世話人さま方が永代供養墓、無縁仏墓、動物供養墓の供養を行います。成就院は旧浦和宿中心部の歴史ある寺院のために旧浦和宿の住民が埋葬されており江戸時代からの無縁仏が多いです。
線香の煙たなびく中、ご住職と副住職の美声の読経の声が墓地内に響き、こころが洗われるようです。お経の多くは偈(詩)の形式をとっているため、キリスト教の聖歌と同じく人間の呼吸のリズムと良く同調します。特に密教の経典は格調が高く凄いなと感じます。
成就院の墓地には江戸時代の古い無縁仏の墓がたくさんあります。かって散在していた古い無縁仏の墓を集めています。ご住職はこれら無縁仏に対するお施餓鬼の法要も熱心に行っています。
墓石に彫られた文字は薄くなって年代が判読できませんが、寛永、享保、天明、寛政など歴史上有名な事件が起きた年号の墓も見受けられます。土饅頭に木の塔婆が普通であった江戸時代、これだけ立派な石塔が集中していることに、浦和宿の人たちはハイカラだったのか、豊かだったのか判りませんが、現世利益より死者に対する仏教心が旺盛だったように想います。
埼玉会館
世界遺産になった国立西洋美術館を設計したフランスの建築家ル・コルビジェの一番弟子であった前川國男作の埼玉会館です。前川国男は日本小モダニズム建築を牽引した建築家で代表作に今でも古さを感じない東京文化会館があります。

埼玉会館は大正15年日比谷公会堂より早く建てられた公共ホールで、戦後進駐軍の軍政部が置かれましたが、その後解除され、他にホールが無かったため小学生時代は音楽会、映画会、合同学芸会、などでよく使われ懐かしいホールです。
その後昭和41年に前川国男による現在のホールができました。現在の開館は前川国男の記念碑的作品で、家族と良く音楽コンサートに行きました。
浦和市内

浦和市内はまだまだ緑を維持しています。ここは県庁のお役人たちが駅に向かうメイン道路で、伊勢丹と続く商業施設のコルソの店内を通ると目の前が駅前広場です。
浦和は喫茶店が混んでいるため、見つけながら歩いたら駅ビルの1画にパン屋さんの店があり、そこで語らい散会しました。
