奈良の古寺紀行

昨年末の記録ですが、HPで記録することなくブログを初期化したため消してしまった紀行です。
この旅は、薔薇友で古代史に明るい玉置さんの案内で、毎年年末に畿内の神社、仏閣を訪ねる旅を行っていましたが、ここ2年ほどコロナや私の入院が重なり中断していました。
氷点下の気温の震え上がるほどの寒い古都でしたが、もう一度思い出しながら、したためた紀行です。

真言律宗総本山、西大寺

一度目の紀行をUPし終わった後、まさか2度目も書くことも予想しなかったため、西大寺で頂いたパンフは処分してしまい、手元に資料は全く残っていません。

確か五木寛之の百寺巡礼10巻の内、第1巻の奈良の巻で、五木好みの当麻寺の中将姫と秋篠寺の伎芸天について、思い入れを込めて書いていたことを記憶していたので、帰宅してから本棚で探しました。しかし百寺巡礼全10巻の内、第1巻の奈良の巻だけが見当たらず、11月に本棚が溢れたため500冊ほど処分した中に入れてしまったことに気が付きました。
ただ百寺巡礼の奈良の巻には、東大寺、興福寺、薬師寺、唐招提寺を初め、平城京以外の長谷寺や室生寺、飛鳥寺まで収録されているため、新薬師寺や安部文殊院などの寺院を押しのけて西大寺が収録されていないことは明らかでした。

奈良西大寺は、東大寺建立後、平城京の西に建てられた寺院で、建立された時はその名の通り平城京を東西2分する大寺院でしたが、今は西大寺の名を知る人は少数です。

西大寺は真言律宗総本山です。

天平神護元年(765)に聖武天皇と光明皇后の子である女帝称徳天皇が、父親の聖武天皇が建立した東大寺に倣って、鎮護国家の願いを込めて創建された勅願大寺で面積は40万㎡で東京ドーム約8、4個分に当たる広大な面積を誇りました。
南北に薬師、弥勒のニ金堂を中心に、東西五重塔、東西に四天王院、十一面観音堂院などが林立する大伽藍でした。

称徳天皇は最初に即位した考謙天皇の時代、藤原仲麻呂の進言により淳天天皇に譲位し、考謙上皇になられました。しかし上皇は道鏡を寵愛したため藤原仲麻呂一派が反乱を起こし(恵美押勝の乱)ましたが、考謙上皇はこれを討伐し、この責任で淳天天皇を淡路に流し、再び称徳天皇として即位しました。
天皇は道鏡を僧の最高位の法王とすほど信任し、その道鏡の勧めで西大寺を建立しました。
道鏡は世にいう宇佐八幡の託宣と称して皇位に着こうとしましたが、和気清麻呂の託宣の否認によってその企ては失敗に終わりました。その結果称徳天皇は西大寺建立の5年後に崩御され、道鏡も下野薬師寺の別当となりましたが2年後に亡くなりました。

四王堂です。恵美押勝の乱の鎮定を願って考謙上皇が四天王像の建立を誓願したことが、そもそも西大寺創建のきっかけとなりました。四天王像は再造されたものですが、邪鬼は創建当時のものです。

都が平安京に移ると、西大寺は朝廷からもかえりみられなくなり、度々の災害にも見舞われかっての大伽藍の繁栄は見る影もなくさびれてしまいました。

荒廃した西大寺を鎌倉時代半ばに再興したのが興正菩薩叡尊上人でした。叡尊上人は西大寺を密教と戒律の根本道場の拠点として、西大寺を再生しました。

しかし室町時代、兵火により多くの伽藍を失いましたが、江戸期幕府から300石の寺領の下で再建が進み、現在の伽藍となりました。

明治28年に真言律宗の独立認可を受け真言律宗総本山として全国90数寺の末寺を総括しています。

画像は本堂です。

東棟跡地です。室町時代に消失したままです。

愛染堂です。元寇の役にて祈願を行った秘仏愛染明王が祀られています。愛染明王は弓を持っており、1説には元軍の弓より幕府軍の弓の方が大型で貫通力があり
、元軍が退却したのも弓戦で勝利を得たからだととも言われています。弓で武装した愛染明王に祈願したというのは、鎌倉武士の弓の威力を知っていたからでしょうか?

境内には格調高塔頭寺院が13院あり、さすが真言律宗の総本山の壮麗な雰囲気を感じさせてくれます。

心惹かれる秋篠寺

今まで、東大寺、興福寺、法隆寺、薬師寺、新薬師寺、唐招提寺、元興寺、長谷寺、室生寺、当麻寺、吉野金峯山寺、安部文殊院、飛鳥寺など寺院を訪ねて来ましたが、西大寺とここ秋篠寺で、一応奈良県の代表的な寺院を訪ね終わりました。

改めてこれら奈良の古寺を振り返ってみると、いずれも歴史的にその時代を代表した寺院ばかりか、これに比叡山と高野山が加われば、いずれの寺院も我が国の鎮護国家の仏教の歴史を代表する寺院ばかりでした。

奈良の古寺は、我が国の鎮護国家の仏教史に綺羅星のごとく並ぶ寺院ばかりですが、秋篠寺は当麻寺や長谷寺、室生寺、安部文殊院と同じように時の朝廷の勅願でなく、平城京の周辺にひっそりと私的に建立された印象が強い寺院ですが、実は秋篠寺は光仁、桓武天皇の勅願で、延暦24年(805)桓武天皇の護持僧だった善珠が開基した法相宗の寺院で、奈良時代最後の官立寺院です。

秋篠寺は創建当時は法相宗、平安時代に真言宗に転じ、明治初年には浄土宗となり、昭和24年にいかなる宗派にも属さない単立宗教法人になりました。

首都圏にいると畿内の地名と位置が中々頭に入りません。それは子供の時の遠足や町内旅行、或いは家族で行った事などから自然に頭に入ってくるものです。そういう体験が無いと地図を見ただけでは、理解するけれど頭に入ってきません。
東大寺とか西大寺、興福寺、薬師寺などいかにも経典や中国文化の名残で命名された寺院と異なり、長谷寺とか室生寺、秋篠寺など日本古来の名の寺院のような気がしますが、それらは地名から命名されているようです。長谷寺は初瀬かの地名から、室生寺は室生川の地名から名付けられました。

秋篠寺の図録によると、秋篠寺の名は秋篠の地名から名付けられました。平城京の西部には押熊、秋篠の里あたりを経て、北から南へ流れる秋篠川があります。付近の住民は秋篠川をサイガワと呼び、あらゆる災いを遮り防ぎ、他界と斯界、神仏と人間世界の間を遮り塞ぐ「賽の神の川」と信じて来ました。そして川を越えた都の西部は神や仏の座ます清浄な場所として菅原(清々しい原)と呼ばれてきたのです。
菅原の中央部には菅原神社と菅原寺、上流の北部には西大寺と秋篠寺、下流の地域には唐招提寺と薬師寺の天平創建の古刹が点在していて、清々しい神と仏の世界を構成しています。

ちなみに都の東は、春日の山に登る春の日に映える清浄な神や仏の世界が春日野で、そこには三笠山を中心に興福寺、元興寺、東大寺、新薬師寺と天平の古刹が展開しておりいわば平城京は東と西を聖地とした吉祥の都でした。

秋篠川の西の清涼な地、菅原((清々しい原)には古代豪族土師氏が居住していましたが、古墳時代の中期から河内から和泉に移動しましたが、奈良に残った土師氏は菅原氏と秋篠氏を名乗りました。菅原道真はこの菅原氏の出身です。

以前、秋篠寺は広々とした田園風景の中に存在していたのでしょうが、今は都市化が進んで住宅街のバスがようやく行きかうことができる狭い道に面して、こじんまりとしたています。

興福寺や薬師寺のような国家鎮護の官立寺院と異なって、かっては東西両塔を持ち金堂、講堂の大伽藍の寺院の面影はありませんが、逆に古都の静かな寺院の代表として薫り高い散策と参拝が可能な貴重な寺院です。
小さな寺門をくぐるとそこは、仏道の香りに満ちた別世界が広がります。

通路の正面に美しい白壁の塀が遮り、目線は必然的に左右の静けさに満ちた塔頭に向いてしまいます。左の塔頭は都が平安京に移った後、常曉律師が本尊に参篭した際、この塔頭の庭に湧き出る清浄香水に大元明王を感得し香水閣と名付けられました。この後常曉律師は承和元年(834)遣唐使で唐に渡り大元帥法を請来し、以後正月8日に宮中で国家鎮護の大元帥法が修される際は、この井戸の香水が運ばれました。

左の塔頭は香水閣です。
都が平安京に移った後、常曉律師が本尊に参篭した際、この塔頭の庭に湧き出る清浄香水に大元明王を感得し香水閣と名付けられました。この後常曉律師は承和元年(834)遣唐使で唐に渡り大元帥法を請来し、以後正月8日に宮中で国家鎮護の大元帥法が修される際は、この井戸の香水が運ばれました。

かってはこの道の左右に三重の東塔、西塔が聳えていました・

右は大きな金堂があった場所です。

広大な金堂の敷地が美しい苔庭に変わり、かえって秋篠寺の名物になりました。

大元帥明王を祀る大元帥堂。大元帥明王は一般にはなじみの少ない明王で、古代インドの神話に登場する鬼神アータヴァカに由来し、明王の最高尊の不動明王に匹敵する霊験を有するため、明王の総帥となり大元帥の名になりました。
古くから国土を護り敵や悪霊の降伏に絶大な功徳を発揮すると言われ、宮中では大元帥明王の秘法が盛んに営まれてきました。軍隊の元帥の呼称はこの大元帥明王から来てい要ると言われています。

国宝、本堂

国宝の本堂です。鎌倉時代の建立で講堂の跡地に建てられました。

堂内には本尊の薬師三尊像(重文)十二神将、地蔵菩薩立像(重文)、帝釈天立像(重文)、伎芸天立像(重文)が惜しげもなく並んでいます。

人気の伎芸天(重文)

秋篠寺の最大の特徴である伎芸天(重文)です。

寺院の人の話では、この伎芸天を目当てに全国から秋篠寺に来られるフアンが多いとの事です。
凍てつくような寒さの夕方、参拝者は我々だけだったので、話は芸事に及び、玉置さんは早稲田の能楽会金春流の出身で今でも能を楽しんでいるため話が弾みました。
私と玉置さんの縁は、彼がサンケイグループの会社で、コアなローズフアンに圧倒的な人気を誇る薔薇専門誌ニューローズを主宰していて、私よりかなり年下ですが20年近く前の創刊以来の知り合いです。
私は登山、彼は能楽と学生時代夢中で活動して来ましたが、お互い早稲田で4年間クラブで打ち込んだ労力と意味を知っているため、薔薇を介して意気投合しました。

今は能楽を通して古典と古代史に明るい彼の案内で、年末に神社仏閣を歩いています。ここ数年は古代史の舞台をテーマに丹後の元伊勢神社、宇陀と安部文殊院、大三輪神社と山ノ辺の道、そして今回は奈良の古寺と鴨・葛城氏の発祥の地、葛城を辿りました。

梅の木苔

梅の木苔に覆われた梅の木の老木の美しさです。

美しい秋篠寺には多くの歌人や俳人が詩を寄せています。

秋篠や外山の里や時雨らむ生駒の岳に雲のかかれる    西行

秋篠のみ寺をいでてかへりみる生駒がたけに日はおちむとす(歌碑) 会津八一

諸々のみ佛の中の伎芸天何のえにしぞわれを見たまふ(歌碑)    川田 順

贅肉なき肉置のたおやかにみもみ腰もただうつつしなし(歌碑)   吉野秀雄

秋篠はげんげの蛙の仏かな   虚子

あしび咲く金堂の扉にわが触れぬ  秋桜子

一枚の障子明かりに伎芸天   汀子