新緑の始まり陣馬山

陣馬山は高尾山の奥に位置する山で今まで数え切れないくらい高尾山や城山、景信山に登りましたが、陣馬山には今まで1回しか登ったことはありません。
陣馬山から奥高尾縦走と言って明王峠、景信山、小仏峠、城山、高尾山という長い人気コースがありますが、陣馬山に登るためには高尾駅から1時間以上かけてバスで陣馬高原下まで行き、そこから2時間の登りで陣馬山に着きます。陣馬山から縦走を始めると行くまでに時間がかかるため、トレーニングとしての奥高尾からの縦走は、陣馬山まで行かず景信山をスタートするため陣馬山は縁遠い山の存在でした。

山の会の6期下の豊田兄の仲介で4期下の小谷兄と陣馬山ハイクですが初めて山行を共にしました。4期下の小谷兄は今でも単独行で様々な山行を続けており、特に陣馬山頂の清水茶屋の主人と懇意で今まで100回以上訪れているようで、今年も4回目だというとの事でした。

彼は杉並に住んでいるので、中央線で藤野駅に来て、路線バスの本数が少ないためタクシーで和田集落まで行き、そこから1:30分かけて清水茶屋を訪れるそうです。

豊田兄は田無、私は浦和なので西国分寺停車の中央線で藤野駅10;30の待ち合わせで向かいましたが、当日人身事故で中央線が不通になり、藤野駅到着が約1時間遅れになったため、小谷兄はタクシーを和田集落でなくその奥の和田峠まで予約してくれたため、和田峠から30分で清水小屋に着くことができました。


高校は入学時何期と決まっているので、何期下と計算しますが、山の会では卒業年度で表示ます。ただ留年する人間も多いためこれも怪しい表示です。クラブ内のOB名簿があり
これで判断します。現役時代山のクラブは上下の関係が厳しいので、入学時の年度を基準にしますが2年から入会する者もいるため、3年になると春~夏の山行はリーダー、サブリーダーになるため、2年から入った会員でも3年になるとサブリーダー格になり、1年から入った代の上級生となり、そのまま4年になり以後OBとして1期上と格づけられるのです。
ですから何期という概念は私が4年生の時の3年は一期下、2年は2期下、新人は3期下で、3期下まで合宿などで山行をともにするため知り合いになりますが、卒業してOBとして同行しなかったら、4期下とは会報や名簿などで名前は分かりますが、顔は知らない事が多いのです。

6期下の豊田兄はヒマラヤ遠征計画が事務局から送られて来た時、初めて名前を知り、60歳を過ぎてOB会の役員になった時、以前から役員だった彼と初めて知り合いました。
4期下の小谷兄は2期下や5期下のOB仲間と山行を行っていたため、彼らの代と近い小谷兄の名前は、たびたび聞いており2期下の迫田兄のお葬式で初めて、出会いましたが、
彼はOB会ハイクに参加しないので会う機会がありませんでしたが、豊田兄の仲介でようやく今回の陣馬山ハイクが実現できました。

藤野から和田集落、和田峠を越える道はかなり急こう配です。この間道は江戸時代甲州街道小仏峠越えの裏街道で、産物持ち込みのため利用されたようです。和田峠を越えると高尾まで街道は続きます。この勾配でもロードバイクの人気コースらしく、多くのサイクリストが上がって来ています。

ここから陣馬山ピークまで約30分の軽い登りです。

この時間ピークから下って来たハイカーです。路を聞かれたので彼女たちは陣馬山が初めてらしく多分高尾駅から登って来たのでしょう。

陣馬山ピークの馬のミニュメントです。陣馬山の名は信玄が小田原北条氏を攻めるため八王子滝山城攻略の陣を張った場所と言われていますが、信玄本体の関東侵入ルートは碓氷峠を越えることが常道で、ここに陣を張った記録はないのではと思います。信玄の時代の街道は鎌倉街道が基本で、碓氷峠から上州に入り、高崎の箕輪城を経由して武蔵に入りそのまま鎌倉街道を南下しますが、北条氏は八王子滝山に支城を構えているため、ここを落とさないと相模に入れませんでした。
信玄の有力武将で郡内を治める小山田氏は、もともと町田の小山田の武蔵武士で、武田の領地の甲州から大菩薩で隔絶された都留、富士吉田、大月、上野原など郡内と言われた独立地域を治めていました。当時五街道の1つの甲州街道の高尾山塊の山地は未整備で小仏峠も明確に開かれていませんでした。信玄は小山田氏に命じ約1000人の兵力で未整備の高尾山塊の山道を辿り絡めてから八王子滝山城を攻め籠城させ、信玄本隊は小田原城を攻めました。この時小山田勢は小仏峠だけでなく、和田峠も越えたため陣馬山の名が産まれたのかも知れません。軍勢が進軍する場合、糧秣の大変な量になり、貧しい寒村で調達できず、多くはお金で食料が手に入る商業地域を進軍したのでしょう。

西丹沢から道志に抜ける犬越峠があり、此処は武田の軍勢が犬を先頭に進軍したとの言い伝えがありましたが、実際に行ってみると完全な山道で、せいぜい50人位がやっと越えられる道でした。言い伝えを調べてみると甲州軍史には犬越峠越えはなく恐らく小山田氏の斥候部隊が、山道の偵察程度を行ったのでしょう。

信玄の小田原包囲後、今度は北条氏が信玄を追撃し相模の国境の三増峠で激戦が行われました。この会戦の後小山田勢は道志の谷から本拠の都留に帰還し、信玄本隊は碓氷峠から小県、小海経由で甲府に戻りました。犬越峠は小山田氏が北条氏の追撃がないか斥候したのでしょう。

富士をバックにした清水茶屋です。

奥多摩の盟主大岳山で長い馬頭刈り尾根を従えています。

相模の盟主大山です。

目の下も山桜が見え美しいです。

小谷兄が岳友の古い写真をアルバムに持参してきました。
同期や上級生と比べて、下級生は余程強い印象が無いと記憶が薄れがちであり、また名前だけで同行していなかった岳友が多いですが、小谷兄のアルバムを見せてもらいながら、同じ山の背景で、装備やウエアも変わらない彼らの写真を見ていると、法律で決まっているわけでもなく、誰も強制しているわけでもない山の会が、それぞれ個人の想いを集約しながら組織的に何代も運営されていた事に、当たり前のことですが改めて感動を覚えました。
アルバムの中で小谷兄が在籍していた当時の精悍だった岳友たちの多くが世を去った今、低いけれどまだ山の頂上までたどり着ける我々生き残りが、陣馬のピークで彼らを想い語り会うことは自分を含めて仲間たちの挽歌を奏でる行為なのだと想いました。

小谷兄はこんにゃく煮を肴にワンカップ2杯、体脂肪をことごとくそぎ落としている精悍な豊田兄はケンチン汁と少量の昼食、私はたっぷりの山菜蕎麦とおいしいお汁粉で満足しました。山菜蕎麦の具もきちんと味付けした具を入れているので、出汁が効いた汁とおいしい蕎麦で、幸福な気分になりました。

小屋の中には様々な作品が展示してあり、小谷兄の素晴らしい山桜の写真も展示してありました。

そののデッキで富士を眺めながら食事ができます。

30数年前登山を再開して驚いたことは、山に来る人がコンビニ購入してきた昼飯を、コンロでコーヒーを沸かし、地元にお金を落とさなくなっていたことを知りました。
お金が無かった学生時代でも山に来たら我々でもできるだけ、お金を使おうと考えていましたし、積雪期は麓の部落の民宿に泊まり交流も生まれました。
30数年前栂池高原で食事をしようと食堂に入った時、前に入った年配の家族連れの一団が、壁のメニューをみて高いと店を出て行きました。ケーブルに乗り標高2000mまで来て何百円かの山菜蕎麦が高いと出ていくことに驚きました。
時代はモータリゼーションとコンビニによって、山を整備してくれる山小屋にはお金を使わず、それでも山小屋のイスとテーブルを利用して無料で堂々とコンビニ弁当を広げています。その弊害は瞬く間に路線バスが無くなり、途中の茶店がみな廃業してしまいました。その逆も見かけました。公共のトイレを食堂からの通路に変更し売店で何か購入しないとトイレも使えない茶店もありました。

ここが山頂でなくても価格は極めてリーズナブルです。

下りは和田集落まで約1;30の行程です。

上の方は新緑は芽吹いていませんでしたが、中腹から新緑が始まりました。

美しい新緑の芽吹きです。小谷兄お気に入りの場所です。

山吹も咲き出しました。ここの山吹は一重なので助かります。

和田集落の墓地です。一等地にありますが、墓じまいしていた箇所も幾つかあります。

この下が和田集落です。

民家の庭の枝垂れ桜です。

和田集落のバス停迄結構距離があります。

もうすぐ廃止になるかも知れない路線バスの和田バス停から藤野駅にでます。藤野駅前ので小谷兄行きつけの居酒屋で喉を潤して中央線に乗り込みました。
とても趣のある山行でした。