水辺の見沼自然公園と水の歴史あれこれ

見沼田んぼの散歩が日々の自然とのかかわりになりました。

梅雨明けに4年ぶりの北アルプスを目指しトレーニングのために、久しぶりに埃をかぶったクロスバイクを取り出し、時折見沼自然公園への周回コースを走っていますが、バイクに乗らない日々は、毎日欠かさず見沼田んぼのウォーキングを行っています。
見沼田んぼの近く家に引っ越ししてから直ぐガーデニングに夢中になり、同じころ犬を飼い始めたため、登山を中断し毎朝犬と共に見沼田んぼの散歩を始めてから既に30年以上経ちました。

それまで私の心の中で思い浮かべる自然は、いつも北アルプスに代表される高山植物が咲き乱れた美しい風景でした。山岳の風景と比べると花の美しい見沼田んぼでも、山岳の風景特有の緊張感は無くのどかそのもので、散歩の歩みを止めるとあくびが出そうな景色ばかりでした。
あくびがでそうな風景というのは、日常日々繰り返し眼に飛び込んでくる風景であって、見沼田んぼはその典型でした。

ある秋の日、家内と娘が見沼田んぼで淡いブルーの野菊を積んできて花瓶に活けていました。それを見た時、見沼たんぼでも山の匂いがする花があることに気が付き、そういう目で見れば、見沼田んぼでも山の濃厚な自然を味わうことができるかもしれないと想いました



山以外の花に全く興味が無かった私がガーデニングに興味を持ち始めた最初のきっかけは、淡い野菊を見た後、ガーデンセンターで樽一面に咲くアメリカンブルーの発見でした。それまで私が抱いていた草花のイメージは、ベゴニアとかマリーゴールドとかガーベラなどどちらかと言えば派手なビビッドなカラーだったので、草花には興味は感じませんでした。しかし初めてアメリカンブルーの小輪多花の花を見た時、このブルーの色は高山に咲く花と良く似ていることに気付き、こういう花が身近にあれば、山に行かなくても自然を楽しめるかも知れないと考えました。

それから大型コンテナで淡いカラーの小輪の花ばかりを集めてを群植し、植木屋に頼んで辛夷やナナカマド、ヒメシャラなど山の樹に植え替え、更にDIYで庭の改造を始め手間のかかるガーデニングにのめり込み、週末はほとんど庭で過ごす暮らしに変わりました。庭の空間も花で埋めようとやがて薔薇の世界に足を踏み入れて行きました。

その時既に、犬との毎日の見沼田んぼの散歩で四季折々に見沼の自然に包まれ、その延長線上に我が家の庭がありました。私が求める自然の風景は、山岳にだけあるのではなく、身近な見沼田んぼにも自然の美しさがあることに気が付きました。

愚犬は自然を意識したいため野生の性質を色濃く残した極地犬を選択しましたがそれが大正解でした。夏の暑さに弱く手間がかかりましたが、気ままな性格で決して従順ではなく、人と犬が共存し自立しながら厳しい極地の自然に耐えていた気風に触れる度に、私に改めて自然とは何かを考えるきっかけを与えてくれました。
犬とともに薔薇栽培を始めましたが、私の薔薇の興味は古いタイプの薔薇、ランブラーローズやオールドローズやシュラブローズに傾斜して行きましたが、ランブラーローズやオールドローズの概念を把握する上でも愚犬の存在が大きかったと想っています。

                見沼田んぼの空


今でもそう思っていますが、見沼田んぼの風景と山岳の風景があまり変わりがないのは、空の風景でした。
見沼田んぼの空は広く、当時は天の川も良く見えていました。今でも秋の雲の美しさは山岳と変わりありません。

非日常世界の山岳の美しさ

18年7月北海道トムラウシ岳 チングルマ トムラウシはアイヌ語で「花の多いところ」を意味します。

「草いきれ」という言葉があります。俳句の季語にもなっていますが、夏の登山でも標高2.500mの森林限界を超えるまでは「草いきれ」を感じる連続です。
「草いきれ」夏になると日本中の人々が体験する昼の湿気に満ちた異常な暑さの象徴ですが、登り始めの草まみれの山岳は高度を上げると、鬱蒼していた樹木が急に低い灌木になり、突然「草いきれ」が無くなって空が広くなり森林限界を超えると、眼前に神の風景が現れます。そこで咲き乱れる花々は仏教でいえば蓮華世界で、高山植物は様さまざまな蓮華なのです。

先に触れましたが私の高山植物の印象は特に美しいブルーの植物が多い事でした。高山植物のマツムシソウのブルーの美しさは園芸種と比較になりません。近年、我が国のガーデニングの草花は淡いカラーのシックな小花が主流になりましたが、当時我が国で販売されていた草花はシックさと程遠く、まして美しいブルーの花はほとんどありませんでした。

庭に美しい小花を群植し庭木を山の樹に植え替えて、美しい山の自然のイメージを気分の中でも再現しようとした私のガーデニングですが、犬を飼い始め犬の性質と植物を調べていく内、犬も植物もいくら品種改良されても、そのおおもとの原産地での性質や志向を免れることはできないことを知りました。
極地犬だった犬は雪道では手足の指を開き潜らないようにしていたし、エスキモーと乏しい食料を分け合っていた名残か、留守中では室内の食べ物に決して手を出しませんでした。ラベンダーやハーブは地中海原産で夏の乾燥を好むますが、暑いからと水をやり過ぎると根腐れを起こします。薔薇はユーラシア西部の乾燥地帯が原産のため、薔薇の栽培が難しいのは、我が国の高温多湿の6~8月の3か月間の雨量がロンドン、パリの3倍で、平均気温も遥かに高い環境にあることが原因だと知りました。

このように生物の基本的な性質は、生息地の自然環境に左右されることが解りました。東アジア原産種を除いて我が国植物は基本的には外来種です。万葉や古今で詠われている植物は外来種であっても、今では完全に我が国の風土に同化していますが、ノイバラ以外の近代的な薔薇は導入が100年に満たず未だ同化の途上です。こんなこともただ植物を眺めているだけでは得られず、実際体験することによって判るのです。経験から成り立つガーデニングは、登山と方法論は同じでした。


私の山の自然の憧れから始まったガーデニングですがその考えは数年で破綻しましたが、花が咲かない間、緑の美しさに気づき、緑の中の自然というテーマで薔薇を中心にガーデニングを行うようになりました。

また、我が国の気候の特徴は、アジアモンスーン地帯にあり黒潮の流れる夏期の高温多湿の環境は熱帯並で、東アジアの他の国に比べて樹々や植物の成長が旺盛で、弥生時代以来主食の生産は水稲耕作を中心に行ってきた意味が分かります。大陸諸国のように畑作中心だったら雑草の繁茂に負けて農業どころでは無かった筈です。水稲耕作中心の農業でも、田の中の除草作業は人の腰を曲げてしまうほど並大抵の事では無かった筈です。

18年7月北海道トムラウシ岳 千島桔梗


ガーデニングは自分の憧れの自然のイメージや自然観を自己の庭に凝縮する行為です。自己の自然観を庭に凝縮することは、自分自身の好みでまとめて落ち着く庭にすることです。この行為は言葉にすると大袈裟になりますが、美の世界が絡むためガーデニングは園芸作業でありながら芸術的、哲学的行為でもあるのです。


花を咲かせるガーデニングを始めてから、今まで関心が無かった多くのことに興味が出てきました。
誰もが美しい絵ハガキ的風景は好きですが、それに加えてさまざまな風景が眼に入るようになりました。たとえば盛岡から秋田への秋田小町の車窓から見た植物は、県境を越えると草丈が高くなることも気が付きました。多分降水量の違いでしょう。そして山や旅の途中で見かけた山間の水田や、河の流れ、集落など今まであまり興味が無かった自然と人々の営みに関心が移ってきました。
山間の細い沢の畔に棚田が現れ、やがて扇状地になると本格的な水田の集合となります。まとまった集落が現れるとその真ん中に消防分団の火の見やぐらが必ず見えます。火の見やぐらが見えたら付近には必ず小学校がありました。棚田は山からのミネラル豊富な水を最初に受け、寒暖の差が激しいからおいしいお米が採れるのです。狭い棚田まで作って米を栽培するなんてなんて貧しい村なのだと想ってはいけません。集落で一番おいしいお米が採れる場所なのです。消防分団の車庫と火の見櫓は惣村の自治の象徴です。村の中心地に小学校があるのは、古来村が子供を大切にしてきた表れです。
景色の中で絵葉書的景色でなく、見逃したら何も見えない景色が眼に入るようになった理由は、私が植物を栽培することによって、土壌や肥料、水の知識など身について来た結果であり、土壌を耕して暮らすことは他人事と思えなくなったためでもありました。

それと共に我が国の気候特性とか、人々が列島でどのように暮らしてきたか、歴史の分野まで興味が出てきました。歴史というと権力や制度の歴史や歴史上の人間の人物像などが気になりますが、私の興味は、自然と人々の営みに対し、どのような歴史の変遷をたどって来たか、その分野にウエイトが高まってきました。
歴史には人文科学の観点からの歴史が主流ですが、私はむしろ社会科学の観点からの歴史に興味を抱くようになりました。これももとはと言えばガーデニングのお陰です。


私の自然の風景のルーツ、水辺の風景

見沼自然公園です。こういう水辺の風景は大都市の都心産まれを除いて誰もが風景のルーツにあると想いますが、急な都市化は、歩いて1時間弱の距離から、このような水辺の風景を私たちから奪ってしまいました。

人は海や山あるいは川などさまざまな場所に心のふるさとを持っています。私の身近には美しい海や山、そして川はなかったけれど、旧浦和市の別所沼近辺の風景が心のふるさとの一部になっているような気がします。

歳を重ねてさまざまな自分の風景のルーツを想い出してみたとき、改めて旧浦和市の別所沼が私の風景のルーツだったことに気が付きました。
別所沼は小学校から1㌔付近にあり、学校で写生に出かけたり、仲間と釣りに行ったり、また大風の嵐の日に仲間2人と無人の沼でボートに乗り肝試しをしたこともありました。子供の頃の別所沼は底なし沼と言われ周りに人家が少なく不気味なイメージが漂っていました。しかし沼の周りの鮮やかな新緑や、護岸工事の行われていない不気味さが漂う淵も印象的でした。

自然と触れる散策の習慣

子供の頃教科書でドイツの哲学者カントが毎朝5時に必ず散歩し、町の人はカントに合わせて時計の時刻を修正したとありました。
子供の頃には散歩という概念はありましたが、いまでいう健康のためのウォーキングの習慣はなく、多分寿命が短かったため、ウォーキングが必要な年齢の人は、その前に亡くなっていたのでしょう。
近年シェイプアップや老人の健康維持からウォーキングが盛んです。数年前熊本人吉の球磨川の畔の老舗旅館に泊まった際、朝起きて窓の障子を開けたらすぐ目の前を見知らぬ人が何人か歩いているのに出くわし驚きました。状況を調べたら宿の庭のすぐ前に球磨川の土手があり、そこでお年寄りが毎日の日課でウォーキングをしていたことが解りました。大体ウォーキングは運動不足の都会人の習慣で、自然豊かな環境の人は行わないものと独りよがりに想っていたのです。以来旅してウォーキングの人を見かけるにつけ、今や夕方のウォーキングは全国一律の行事になっていると想っています。
旅で宿から早朝の城址公園に散歩に行くと、必ず犬の散歩かウォーキングを行っている人と出会います。見沼田んぼは広大でウォーキングのコースには事欠きませんが、周りに住宅が密集した別所沼公園などは早朝から賑わっているのではないかと想います。
その意味で今や地方自治体にとって公園の存在はますます重要になりつつあります。

私は公園が好きで、旅に出るとその街の公園の存在が気になり、なるべく主要な公園は訪れるようにしています。
城下町ですと中心に城址公園がありますが、開園時間以外は入れない公園も多いです。長い間旅で公園を訪れていると、雰囲気の良い公園はその街の雰囲気迄良いと想って来ます。それはあながち誤りではありません。雰囲気の良い公園のはハード面はともかく、そこで憩う住民の人たちの雰囲気が良いからで、従って住む人の雰囲気が良いから街の雰囲気も良いのかなと想います。今まで雰囲気が印象的だった公園では、やはり城址が多く、筆頭は函館の五稜郭公園ですが、秋田市の久保田城址公園、弘前城址公園、盛岡城址公園、二本松城址公園、熊本水前寺成趣園、それに加えて4月に行った錦帯橋公園と広島城祉公園です。

公園の理想、函館五稜郭公園

10年10月函館五稜郭公園

五稜郭公園には10年以上前と数年前の2回訪れ、そこに理想的な公園を見ました。
最初に五稜郭公園を訪れたのは11月初旬の秋の名残を告げる最後の季節、湯の川温泉に泊まり万一に備えて4駆のレンタカーを使用して函館市内や松前、江差を訪ね3日目大沼公園の帰途、五稜郭を訪れました。
その日は秋の終わりの日曜日でした。五稜郭の広く美しい堀に面した木陰の下のベンチに座って、掘の周りを家族連れでウォーキングする人や、ランニングする人たちの休日の何気ない光景を眺めていたら、突然、学生時代に見たフランス映画の「シベールの日曜日」の美しいモノクロ映像を思い出しました。

映画監督は有名じゃなかったけれど、戦争映画でいつもドイツ兵やドイツ軍パイロットを演じていたハーディクルューガーと少女が主演で、舞台がパリ郊外の公園で、映像の大半が公園の風景でした。映画の筋はインドシナ戦争で記憶喪失になったパイロットと孤児院の少女の物語ですが、パリ郊外の池のある冬の美しい公園のその水面と木々が主役であるかのごとく、美しいモノクロの映像と美しい音楽が印象的でした。その当時2度ほど見た記憶があるので、余計その印象的な映像を憶えています。。

                          2度目の五稜郭公園、20年10月

函館は美しい公園が多い街です。前回は五稜郭公園、千代台公園、トラピスチヌ修道院のある市民の森、大沼公園、元町公園に行きましたが、2度目は立待岬公園、函館公園、元町配水場に行きました。
市街地の隣にすぐ緑がある環境は最高で、そのような美しい街はたくさんありますが、函館はその筆頭と想います。五稜郭公園が雰囲気が良いのは、公園に近代日本の生みの苦しみの歴史もありますが、それに加えて散策している人たちの雰囲気も良いのです。五稜郭が家の傍に有ったらと想うと函館市民が羨ましくて仕方がありません。

函館は近代公園のルーツ

                       20年10月函館公園

函館の公園に感動し2度目に前回行かなかった公園や博物館を訪れ、なぜ五稜郭公園が素晴らしかったのか、その意味が分かりました。それには明治以来住民の人たちの公園づくりの歴史があったのです。

明治12年、明治に入っても戦いが続いた最後の戊辰戦争によって灰燼となった函館で我が国で初めてに近い近代日本を代表する公園が函館山の南東麓の景勝地が誕生しました。それが函館公園です。
 幕末の開港で欧米各国は函館に領事館を開設していましたが、復興が始まった函館で英国の函館領事のコースデンの公園の設立提言が出され、これに基づき地元の商人たちが個人の資産を投じたり多くの寄付金を集めました。
工事が始まっても、工事監督はじめ多くの市民が寄付を集め、また草花の栽培管理、土運び、など勤労奉仕など活発な住民参加が行われました。
明治12年、公園開設と同時に博物館第1号が開設、これは我が国最初の博物館と言えるものでした。次いで明治17年には博物館第2号が開設、昭和3年には市立函館図書館が開館し、公園が文化施設としての役割を見せたのです。更に道内初の動物園、こどもの国の施設など函館公園は市民のための総合文化施設としての一層の形を整えました。

函館は公園の数と質、そして目的別に多くの博物館、資料館、美術館を擁しており、その数と質が各地の県庁所在地を遥かに超える規模です。函館に比べると、さいたま市の文化施設は貧弱です。旧浦和市と同じく函館や青森市は明治に入って行政のための人工都市で発展しましたが、函館の文化施設が充実しているのは観光都市だからと想っていました。
もう一つ現在の函館が優れている点は、街の歴史の掲示板です。掲示板を読みながら史跡を巡ると近代函館の歴史が全て学ぶことができます。その掲示板の内容も事実をただ並べて掲示しているのではなく、歴史への想いが感じられます。私は教会であるいは外国人墓地で開港と同時に布教を始めたキリスト教の歴史を学びました。西の海に向いた外国人墓地で日本に布教に来てそのまま骨を埋めたキリスト者たちの想いに胸を馳せました。彼らはみな本国ではエース級となるべく人たちと見られ、東洋の歴史ある島国への布教がキリスト教にとって重大事であったことも想像が出来ました。函館や長崎に比べると首都圏の史跡のサインは極めて貧弱です。自治体の職員も流入が多く、地方に比べるとふるさと意識が低いためでしょう。

2度目の市立博物館を見るために函館公園に行き、見学を終わって公園の広場の函館公園の由来を記した掲示板を見て、函館の文化施設の歴史と伝統が解りました。
そしてその広場の横には明治天皇の函館公園の行幸記念碑があり、また広場には公園の隣の青柳町に住んでいた啄木の歌碑がありました。
啄木は渋民村を追われるようにして函館に来て、たった4か月余りですが家族を呼び寄せて、彼の生涯で最も幸せな日々を送りました。彼は友人あての手紙に「自分が死ぬときは函館で死にたい」としたためたとあります。


公園の記事は当時この紀行を記した私のHPからの転載です。

我が愛すべき別所沼公園

                       18年私のHP別所沼公園からの転載です。

先に触れましたが、生まれ育った浦和の街の子供の頃から親しんでいた別所沼公園が私の風景のルーツになっています。そこには生家の近くだったので子供の頃から中学、高校、大学生になってもしばしば訪れました。
その小さな公園に来る人々と、水と木々が醸し出す雰囲気は、大学生になって初めて訪れた井之頭公園や石神井公園には、負けないなと感じていました。先に触れた映画シベールの日曜日の公園と規模こそ異なりますが、(映画では池畔に乗馬姿も見られた)わが街の公園と雰囲気を比較しながら、規模は別として似ているのかなと想ったり、やはり公園は真冬が美しいのだと想いながら見ていました。


 余談ですが数年前、昔親しんだこの公園の畔で、高校のクラス会を開催しました。
今はその公園から遠くに住んでいるため、早めに出かけて最寄りの駅から歩いて行って、公園をゆっくり1周してクラス会に出席しました。
全く久しぶりに訪れた公園は、休日のせいか流行の休日ランナーが多く賑わって、散策には程遠い雰囲気でした。しかし年月を経て周りの木々は一層年季が入っており、休日ランナーが少ない時はそれなりの雰囲気が想像されました。
当日クラス会に出席した級友たちの多くは、私と同じように公園を1周して出席したようです。
クラス会が始まって公園の話題が出ましたが、私がこの公園に、浦和の街のエキスが凝縮されていると感想を披露したら、今は皆遠くに住んでいる多くの級友たちも、昔慣れ親しんだこの公園に私と同じ想いを持っていたことが判りました。


公園の雰囲気はハードだけでなく利用する人がつくる

公園は住む人の日常を表す場です。城址公園が歴史を表す文化施設と同じように、市中の公園は住民の日常文化の施設なのです。
私が大学を卒業してから、公園に碑ができて初めて分かったことですが、この別所沼公園は戦前から神保光太郎や立原道造など浦和ゆかりの文人たちに愛されていました。
文人たちは孤畔とか湖畔の会の詩の同人誌を主宰していました。大真面目に沼を湖畔と例えることで、浦和の文人たちは別所沼に日常の想いを詩的表現に変えて暮らしたのでしょう。まさに日常文化の場でした。

                     22年5月与野公園

昔から古そうな公園と想っていましたが、改めて与野公園の歴史を調べてみると、明治6年太政官交付により初めて我が国に公園制度が発足し、首都圏では上野、芝、飛鳥山、浅草、深川の5カ所に次ぎ、浦和調宮神社、与野公園、行田忍公園(水城公園)横浜公園が制定されたことが分りました。
 
さいたま市内の与野公園や調宮神社公園は、都内の五大公園と肩を並べる我が国最古の公園だったのです。そして明治10年には水戸偕楽園、栃木の大平山公園、群馬の富岡公園に次いで山下公園や大宮氷川公園が制定されましたが、与野公園は水戸偕楽園や山下公園、大宮氷川公園より古く制定された公園と知り驚きました。

与野公園の元は天祖神社、御岳社、大国社の境内を活用して公園にしたもので、大国社は移動していますが、天祖神社、御岳社はそのままあります。
与野公園は歴史の古い与野郷の鎮守の杜でした。

いまや与野も埼京線沿線で高層住宅が立ち並び、その人たちが日常過ごす公園としてすっかり若い世代の雰囲気が増しました。

人々は水辺の風景に憧れる

見沼自然公園は見沼田んぼの東縁に存在し、見沼大用水東縁と加田屋川に挟まれた水の豊富な瑞々しい公園です。公園の中心に大きな池があります。池の水は湧き水のように瑞々しく感じます。
昔のこの辺りの風景はどうだったか知りませんが、この辺りは野田の鷺山として有名でした。高校の生物の先生が鷺山の研究を行っていて、みなで鷺山に言った記憶があります。鷺山の鷺は見沼田んぼを生息地としていましたが、見沼田んぼに水田が少なくなったこともあり、やがてトキと同じように見沼田んぼから姿を消してしまいました。

1昨年琵琶湖の近江八幡に旅をして、舟で琵琶湖の葦原を回りましたが琵琶湖畔は環境の先進地帯で、鷺をはじめ様々な水鳥が棲息していました。

21年11月琵琶湖近江八幡 

琵琶湖近江八幡は葦の産地で、奈良時代から宮中や公家の簾の材料を供給してきました。昭和の時代住宅洗剤などで琵琶湖が汚染され、そのクリーン運動が全住民運動に発展し国の政治を動かし、我が国の環境保護活動の先進地になりました。ラムサール条約締結の地ですが、自然の豊かさでは見沼田んぼは劣っていません。



日本各地のほとんどの公園は、公園の中に池があるのではなく、池のあるところが公園になっています。そして中心となる池はよどんだ溜水でなく、湧き水のように瑞々しい水が絶えず注ぎ流れゆく状態が望まれ、そのような公園が多くの人に親しみを持たれる第1の条件です。

日本人のルーツが水辺に搔き立てる

見沼自然公園の池の優れている箇所は、あたかも山中の池のように自然な岸辺で護岸工事が行われていないように感じます。水面と岸との高さが同じで、多分大雨の直後は岸辺に池水が溢れるのだと想います。

岸辺に立つと、静かな水面と美しい緑に心が洗われるような気がします。
私たちが水辺の風景を好み、安らぐのは私たちの遠い記憶の底に、今に続く日本列島の基本的な風土と私たち日本人の民族的なルーツがあるような気がします。私たちの遠い祖先が、長い時間をかけてこの日本列島にやってきてどのような暮らしを行ってきたか触れたいと想います。
もともとの原住民の縄文人に加えて、千年から二千年かけて南方や江南地方、半島南部から少しずつ集団で移住してきた弥生人たちは、縄文人たちと混交しながら彼らの精神文化を学び、我が国の風土に馴染み共通の神を敬い水稲耕作を行って来ました。

島国日本に舟で渡って来た私たちは水の民で、大陸黄河流域や半島の乾燥地帯の人々と異なって、住むべき場所は砂漠や高原でなく、水稲耕作可能な水辺でした。

昭和40年代以降、私鉄の宅地開発は○○台、○○丘など丘陵地の開発が中心でしたが、丘陵地は雑木林や畑地で米が採れないため開発が遅れて、地主の農家が比較的土地を手放しやすい場所でした。地図を見ても江戸は丘陵地は米が作れないため発展が遅れ、関東の山地周辺も蚕を育てていました。米が貨幣の時代が戦後まで続きましたが、米が生産できない場所は価値が低い歴史が長く続きました。私たちの宅地の価値観も水田の低地は水害に合いやすいとか、水辺より台地の方が高級感があるとか、宅地の概念もすっかり変わりました。近年東京は宅地開発しつくされ、再び海抜0mにタワマンを建築し通勤距離の短さを競い始めています。

改めて私たち日本人がいかに水辺の風景に惹かれて来たか、その歴史を辿って行きます。


海辺や水辺を愛した縄文人

                            18年6月青森三内丸山遺跡

青森三内丸山遺跡は、今から5,900年~4,200年前、約1,500年間同じ場所に続いた縄文遺跡です。現在三内丸山遺跡は内陸にかなり入った場所に存在しますが、当時は海の畔に大規模集落をつくり漁労や栗を栽培し小動物を狩猟して定住した遺跡です。
この場所での大規模集落は約1,500年間続きましたが、4,200年前頃、忽然と姿を消してしまいました。その理由は謎ですが、多分温暖期が終わり青森の地で食料確保が容易でなくなったことや、温暖化によって上昇した海水が下降に転じ、集落が海から遠く離れた場所になったため、漁労や貝の採集が困難になったためだと言われています。三内丸山の人たちは海辺で暮らした典型的な縄文人だったのでしょう。

一方黒曜石の産地近くに居住した八ヶ岳周辺の縄文人や、内陸の河川の中流域に居住した縄文人など、海辺の貝塚以外の地に居住した縄文人もいますが、貝塚の量を考えると海辺で暮らした縄文人の数の方が圧倒的に多いと想われます。

たとえば鮭を考えると、秋になり産卵のために大量の鮭が自ら川を上って産卵に来る地域は、世界を見渡してもカナダ、沿海州以外日本位しかありません。

幕末蝦夷地を探検した松浦武四郎の著書で、アイヌの老婆の話がありました。老婆は犬4頭を飼っていましたが、秋になると石狩川を遡ってくる鮭を、飼い犬が1頭当り80匹、合計320匹を捕まえました。犬が捕えた鮭を老婆が、和人と米に交換すると、老婆が1年で食べる量のお米と十分交換できるとありました。それぐらい北の地の食料は豊かでした。


縄文時代と無関係ですがもう一つ北の地の話があります。幕末ペリーの来航前ロシアが北海道周辺に南下し、その経緯の中でロシア艦長ゴロヴニン少佐が根室で捕虜になり松前に移送され、脱獄してから函館で釈放交渉が行われ帰国するまでの経緯を日本幽囚記としてしたためました。ゴロヴニン少佐は当時第1級の教養人であり、帰国してから出版した日本幽囚記はヨーロッパで評判を読み、アメリカのペリー提督も日本来航前にこれを読んで日本を研究したと言われています。長い著作ですが、その中で私たちが日本歴史で、当時の蝦夷地について教えられていないことが記されています。
根室で捕虜になって松前で牢獄にいる間、3度の食事は全て米飯だったこと。器は全て漆塗りの食器だったこと。牢獄の役人たちはいつも書物を読んでいた事、松前に行けばわかりますが、海岸と丘の城の間には平地が少なく、牢獄のすぐ下は遊女が数百人もいる遊郭が幾つかあり、一晩中太鼓や遊芸の音楽でうるさくて眠れなかった事など記しています。
米が採れない蝦夷地で倭人もアイヌも3度米飯を食し漆の器を使い、海産物とともに豊かな食生活を送っていたことが解ります。江戸時代和人がアイヌを酷使し蝦夷地が貧しい地だと喧伝したのは、明治新政府以来の教育のような気がします。後にゴロヴニン少佐の著作を読んだプロイセンは本気に蝦夷地を植民地にしようと考え、戊辰戦争でプロイセンのスネル兄弟を使って奥羽列藩同盟や函館共和国に兵器を供給したのもそのためであると言われています。


海辺の貝塚近くに居住した縄文人も、入り組んだ入江の台地の澄んだ水が流れる水辺に住んでいたのでしょう。同じ場所に貝塚が集積していることから、梅原猛氏は貝塚は貝のゴミ捨て場でなく貝のお墓であり、自然からの恵みに対して旬の貝を食することによって、生気を得られた感謝の場であると論じていました。
事実国立歴史民俗博物館の研究でも縄文人は旬の食物しか食べなかったようです。
またある学者は、貝塚は一定地点に集めると、太陽に当たると光るため沖に出て漁をするための、ランドマークであるとする考えもありました。縄文時代当時、日本には40万人ぐらいしか人が住んでいないと推測されていますが(推定が少なすぎるような気がします)、貝などそこらにゴミとして散乱させても何の問題もないのに、まとまった場所で堆積しているのは何か意味があったのでしょう。

関東地方は6,000年前の縄文時代、大半が海で縄文人は海辺に暮らしていた。

左図は1926年東北帝大東木龍七氏の関東平野の貝塚分布から見た縄文時代の陸と海の分布図に手を加えて掲載せて頂きました。この分付図があらゆる縄文海進図の基本となった古典です。


約6、000年前の縄文海進期は地球温暖化によって年平均気温が1~2℃高く、海面が今より平均4,4m高かったと言われています。
浦和は字のごとく大宮台地の先端に位置する海岸で、今でも岸町などの地名も残っています。
見沼代用水が流れている地域は、6,000年前には、現在奥東京湾と言われている海でした。見沼代用水の付近には貝塚や多くの遺跡があり、海の岸であったことを表してしています。
海の岸には、武蔵一宮の古社氷川女体神社と大宮の氷川神社があります。関東の古社香取、鹿島神宮も海岸にありました。想像するに神社は社伝より遥かに古くから祀られていたように想います。

 縄文海進は12、000年前から始まり、5,500年前がピークで、その後海退期に入り、3000年前頃には海が引いた入り江の扇状地で水稲耕作が始まっていわゆる弥生時代が始まりました。

水田は川の水を引いて利用しますが、平地では灌漑設備が容易でないため、初期水稲耕作は山の沢水が豊富に流れる山間の扇状地で行われました。



平凡社刊日本の自然2、日本の風土、縄文海進最高度の想定海岸図より引用させて頂きました。

この図はより分かりやすく、当時海だった場所と江戸時代までの川の流れを良く表現されています。

弥生時代も終り、各地に国が誕生し大型古墳が作られる時代になりましたが、私は大型古墳は水田用の溜池づくりの側面もあると考えています。

水田は川から水を取り排水も行う灌漑設備がないとできません。またせっかく作った水田が洪水で流されてしまったら、また作り直さなければなりません。ですから水稲耕作と治水は切っても切れない関係があります。

治水が本格的に行われ河口の三角州に水田が作られるようになったのは江戸時代の近世に入ってからです。

縄文海退期が終わって、山あいの各地に平野が生まれました。いわゆる弥生時代の始まりです。

16年11月佐賀吉野ケ里弥生遺跡

今から約3,000年前頃には海の水が引いて、海岸を構成していた地や、内陸奥深く海が迫った跡に平野が出来ました。
縄文人だけの人口が少ない我が国は、高温多湿で樹々や植物の成長が早く、また何よりも森に覆われた山地からの豊富な水に恵まれていました。しかし少ない平野は火山が多く穀物栽培に適さない地も多く、急峻な山岳に降る熱帯モンスーン気候にる大雨や台風による洪水のリスクが多大でした。
しかし我が国の海辺の平野の奥は、急峻な尾根と谷で区切られているため、平坦な大陸国家のように水利の争いもなく、個別の谷筋で自給自足が可能でたくさんの人々の居住が可能でした。

人口も少なく植物が繁茂し水の豊富な我が国は、17~18世紀のアメリカと同じように東アジア最大のフロンティアだったのです。
そのため船を持ち東アジアの海や河を生業としていた海人族たちが、旭日を求めて東の海に乗り出し、我が国に上陸し何年もかけて定住に適した地を探りながら内陸の河を遡り、水稲耕作に適した山間の扇状地を探しました。

弥生時代初期から、南九州や東九州と比べて火山の少ない北九州は水稲耕作の先進地でした。彼らは中国の江南地方や半島南部や西部から移住してきた海人族で、山間の扇状地ごとに集落を築いていた弥生人たちは、大きくまとまり国の原型のような形になってきました。吉野ケ里は当時の国の一つで、邪馬台国のような気がします。北九州は深い谷も無く、国々が拡がると当然水の争いが生じます。そのため本州のフロンティアを求めて次々と集団で移住して行きました。

1方半島東部や大陸東部から日本海を横断して、日本海側に移住するグループもありました。彼らは日本海沿岸に定住し日本海文化圏を構成しました。
江南や半島の海人族にとっては、我が国は樹々の成長が早く、舟の原料となる良質の楠木や杉の大木が豊富で、舟造りに適した国土でもありました。一族が船を作りまた一族を呼び寄せるといった行為が行われ、多分フロンティア時代のアメリカのように、我が国には独自のルールや信仰が生まれていて、それに対して同化の儀式は行われていたように感じます。

縄文海進時、関東と同じく大阪平野も海で、海退期には巨大な河内湖が存在していました。

北九州から水田耕作の適地を求めて瀬戸内を舟で集団で移動した海人族たちは、大阪湾から河内湖を経て大和川を遡りヤマト盆地に入り定住先を探しました。ヤマト盆地は水稲耕作の理想郷で、さまざま部族が集団で大和川を遡り移住して行きました。その最後の部族が神武天皇(崇神天皇)のグループで、大阪でナガスネヒコに敗れ熊野から侵入したと記されています。そして朝廷を樹立した後は、耕作地として安定した河内方面に移動し巨大古墳を作りました。

平凡社刊日本の自然6、日本の平野、弥生時代後期から古墳時代前期、大阪平野の古地図より

ヤマト盆地に移住した海人族たち、後に政権をつくりました。

                              20年12月奈良三輪山大神神社

北九州から瀬戸内を通って吉備地方に定住したグループや、ヤマト盆地に入るグループがありました。当時大阪は奥深く海で、大阪全体が沼沢地帯で、淀川と大和川から流れる淡水湖の河内湖が生駒山麓まで覆っていました。信貴山と二上山の間を流れる大和川を遡ると奈良盆地全体も沼沢地帯でした。
ヤマト盆地に入ったグループの一つは大和川を遡り盆地の東の突き当りの三輪山麓に定住し、集団で水稲耕作を始めました。
この時、水源地の三輪山の磐座に水の神をお祀りしたのでしょう。今でも三輪山の大神神社には摂社の一つに当時の磐座をお祀りしています。

葛城・鴨族はヤマト盆地に進出した初めてのグループ

                             22年12月葛城高嶋神社

京都の初めての住人で下賀茂神社、上賀茂神社を祀った加茂族(鴨族)のルーツは、弥生時代、ヤマト盆地の西側の葛城山に居住し、南の金剛山麓には鴨族、北の葛城山には葛城族が焼き畑や陸稲耕作を行い、やがて平野に降りて大規模な灌漑技術を伴って水稲耕作を行い勢力を高めました。

恐らく鴨族の祖先は筑紫辺りの海人族だったのでしょう。縄文晩期の海退によって内陸に陸地が拡がったころ、瀬戸内から浪速経由で大和川を遡り、巨大な湖だった大和盆地を葛城山塊沿いに定住地を探しながら南下し、この地に辿り着いたのでしょう。その定住への移動は何年、或いは何十年かかりで奈良盆地の紀州との境の風の森峠の下に定住地を見つけたのでしょう。 鴨族はここ高鴨神社の地に定住し狩猟や漁労と共に段丘の斜面を利用して焼き畑農業を行い、陸稲や稗、粟など畑作を行いました。その集落の中心に阿知須岐詫彦根命を祀り、それが高鴨神社となりました。

葛城、鴨氏の末裔の大和の豪族は巨勢氏、平群氏、蘇我氏が挙げられます。尾張氏も葛城氏の流れでした。

縄文時代の関東の河の流れ。

見沼田んぼの歴史をさぐるためには、古代迄歴史を遡らないと理解できません。縄文海進時海だった場所に主要河川は流れているためです。

上の図は江戸時代初め、関東を流れる川の状態を表したパネルで、上州山系から流れる利根川と秩父山系から流れる荒川の2大河川が、それぞれ古利根川、本荒川の名で、途中吉川付近で合流し江戸湾に注いでいることを記した画像です。坂東太郎と呼ばれた関東一の大河利根川は、江戸期以前は銚子には流れず、上越山塊からの豊富な水は、全量、古利根川として埼玉東部を経由して江戸湾に流れていました。さらには秩父山系からの荒川も、元荒川の名でその豊富な水は、吉川付近で古利根川で合流し、更に入間川が名を変えた新河岸川が古利根川と合流、隅田川と名を変え、河口に大三角州を形成し江戸湾に注いでいました。

このように関東のあらゆる河川が三角州を形成した江戸湾に注ぐため、建設途中の江戸の町は絶えず洪水の危機にさらされていました。
恐らくこの川の流れは太古から続き、弥生時代、古墳時代、奈良平安時代、鎌倉室町時代にでも同じ状況だったため、室町時代足利管領家の扇谷上杉氏の家宰太田道灌が初めて江戸に城を築きましたが、戦国時代まで江戸は葦原の沼沢地だったと想います。古利根川と荒川の合流地点から下流の地は、しかし水量豊かな流域は、洪水の危険はあるものの米つくりには最適なため、多くの水田と村がつくられ、人々は豊かに暮らしていたと想います。

当時家康は関東移封後、江戸の町を6000年前の地球温暖期海面が上昇した縄文海進期には上図のクリーム色の地域は海だったと言われています。東京湾深く海だった場所で、約3000年前の海退期には沼状で、元荒川、古利根川、江戸川など自由な水路を求めて流れていました。その中でも台地の入り江の小さな平坦地を求めて人々舟で遡り、水田をつくり集団で生活するようになりました。いわゆる弥生時代の到来です。

関東に移封した家康は、入間川、元荒川、古利根川、江戸川など自由気ままに江戸湾に注ぐ三角州であった江戸を、洪水から守るために、水量が莫大に多い利根川本流を銚子に流し、支流の江戸川を江戸の東に流し、上州、下野、奥羽の物産の舟運の水路とし、暴れ川の荒川を付け替えて江戸中心部に流れる入間川を隅田川としてコントロールを行いました。
こうして大河の流れを安定させた後、暴れ川反乱の沼沢地であった見沼田んぼを開拓し、合わせて隅田川の遊水地の役割も持たせました。

江戸時代初期までの川の流れ

以下は10数年前、私のHPの舟運の歴史のページに掲載したもので、図形は下手なオリジナルです。記事は重複している部分もありましたが、そのまま転記しました。当時は資料が少なく悪戦苦闘した記憶があります。

埼玉県の東部を車で走っていると、古利根川とか元荒川などと呼ばれる川に出くわします。それが今の荒川や利根川の近くに流れていれば疑問は湧かないのですが、元荒川や古利根川は現在の観念では、遠くありえない場所に流れています。昔の利根川や荒川がどうして今と違う場所を流れていたのか、江戸期に行われた利根川と荒川の付け替え工事は複雑でした。
 

 江戸初期まで北関東では、荒川、利根川と入間川水系が江戸湾に注ぎ、更に上州から流れる渡良瀬水系は江戸川筋と合流し太日川となって江戸湾に注いでいました。

日光の水を集める鬼怒川は、小貝川と合流し沼沢地となり、常陸川と合流し霞ケ浦、北浦の湖水となり鹿島灘に流れていました。常陸川の河口の流れは水量がなく、いつのまにか砂丘で消滅しているような感じだったそうです。
 
 江戸に入府した家康の大河川改修工事の目的は、秩父と上越国境の山地から流れる2大河川の利根川と荒川の洪水から守ることと、水量の少ない鬼怒川、常陸川水系に豊富な利根川水系の水を流し、水運を活発にさせることでした。
 
 

古利根川と元荒川の付け替え

関東の河川の改修は天正18年(1590年)家康が江戸に入るとすぐ開始され、文禄3年(1593年)に関東郡代の伊那備前守忠次に命じ着工、以来3代60年の歳月の後、完成しました。
 この1593年という時代はどんな時代かというと、年号が示すように朝鮮出兵の文禄の役があった年です。更に1597年には慶長の役が始まり、1599年には秀吉が死に、そして翌年の1600年には関ヶ原の戦いがあります。

この付け替え工事は複雑で細かな図がないと判りづらいのですが、要は利根川は栗橋付近で赤堀川を開削し水量の少ない常陸川に流すことによって、豪雪の上越国境や奥利根の山岳から流れる利根川の水の大半を銚子河口まで流し江戸を洪水から安定させることにありました。
 利根川の水量を少なくし渡良瀬川と関宿で合流させそのまま江戸川として江戸湾に注げば利根川、渡良瀬川、鬼怒川を江戸までの舟運として使えます。ここうした利根川の東遷工事はは承応3年(1654年)に完成しました。

これによって東北諸藩のか廻米は、銚子から利根川を遡り、関宿で江戸川に入り、行徳から新川、小名木川、隅田川、日本橋川から日本橋付近の河岸に至るルートが築かれました。一方上州倉賀野からの舟運は信州、上州の物産が行徳経由で日本橋まで届きます。また奥州街道を陸送していた物資も鬼怒川舟運や陸送のミックスによって日本橋まで届くようになりました。
 
 天領の多い荒川流域も隅田川に流れ一層舟運が盛んになり江戸が近くなりました。また川越に向けて新河岸川も開削され、江戸近郊の野菜が舟運によって集まりました。

関東の舟運と見沼代用水の開削

江戸の物流は舟運なくして不可能だったことが判ります。たとえば米だけを考えても、江戸期当時1年で1人@1,5石の米を食べたと言われていますが、江戸人口100万人としても赤ちゃんや子供、お年寄りもいるため、1人@1石と計算しても、1石は2,5俵ですから、100万人の胃袋をまかなうためには、40万俵の米を江戸に輸送する必要があります。
この膨大な量の米を運ぶためには、馬の輸送でしたら20万頭、大八車でしたら6万7千台位必要です。川船でしたら150俵積載船で2700艘、現在の10トントラックでも2700台必要です。これも一年間で運ぶのではなく、秋の取り入れ後数か月間で輸送します。

江戸期の関東の河川の改修は天正18年(1590年)家康が江戸に入るとすぐ開始され、文禄3年(1593年)に関東郡代の伊那備前守忠次に命じ着工、以来3代60年の歳月の後、完成しました。
この1593年は朝鮮出兵の文禄の役があった年で、更に1597年には慶長の役が始まり、1599年には秀吉が死に、そして翌年の1600年には関ヶ原の戦いがありました。実際の本格的な工事は関ヶ原以後と想われます。


それまでの水量の多い関東の2大河川の古利根川と元荒川は、埼玉東部で合流し古利根川となって江戸湾に注いでおり、浅草河口を流れる隅田川の上流は入間川でした。この大河川改修工事の目的は、上越国境から流れる利根川水系と秩父山地から流れる荒川の大河川の洪水から江戸を守ること、水量の少ない鬼怒川、常陸川水系に豊富な利根川水系の水を流し舟運を活発にすることでした。

特に常陸川は銚子湊河口付近で土砂が堆積し砂丘となって消滅していたため、銚子湊は水運として使えませんでした。

この付け替え工事は複雑で細かな図がないと判りづらいのですが、要は利根川は栗橋付近で赤堀川を開削し水量の少ない常陸川に流すことによって、豪雪の上越国境や奥利根の山岳から流れる利根川の水が銚子河口まで流れ日本第3の河川になりました。
また一方利根川は渡良瀬川と関宿で合流しそのまま江戸川として江戸湾に注ぎます。こうした利根川の東遷工事はは承応3年(1654年)に完成しました。

付け替え工事が完成する前には、仙台藩や相馬藩など太平洋岸の東北諸藩は水戸藩の許可を取り、米を那珂湊で河船に積み替え河舟と陸送のミックスで、江戸への廻米を行いました。
そのルートは那珂湊から涸沼を渡り、そこから陸送で下吉影に至り、巴川から再び川船に米を積み替え、北浦を登り潮来経由で霞ケ浦に出て、常陸川(現利根川)を遡り、瀬戸から陸送で野田付近に出て、渡良瀬川の下流の大日川(現江戸川)を下り行徳から小名木川を通って日本橋まで行きました。
また幕府自体も、米沢藩減封により天領になった年貢米の江戸廻米の必要性が生じました。

利根川付け替え後の東北諸藩や幕府天領の東回り航路の水運は、銚子から利根川を遡り、関宿で江戸川に入り、行徳から新川、小名木川、隅田川、日本橋川から日本橋付近の河岸に至るルートです。

一方上州倉賀野からの舟運は、信州、上州の物産が行徳経由で日本橋まで届きました。また奥州街道を陸送していた物資も鬼怒川水運や陸送のミックスによって日本橋まで届くようになりました。この舟運の帰荷は行徳の塩や江戸の物産、或いは千葉の魚粉などでした。
河川舟運は物資ばかりでなく、人も舟で行き交いました。奥州からの帰途境河岸から夕方舟に乗ると、舟で夕食と酒が用意され夜10時頃出航し江戸川を夜中に南下し、行徳で朝を迎えます。ここで朝飯が出され、朝食後小名木川運河を通リに日本橋には午前中に到着します。逆もしかりです。明治になりこのコースは蒸気船が運行され、佐原や霞ヶ浦方面に航行しました。やがて野田にショートカットの運河が掘られ、日本橋から銚子まで短時間で行けるようになりました。



見沼代用水の開削、新田開発と運河として使用

                        見沼代用水東縁、水量が多いため運河としては東縁の方が良く使われました。

江戸期の関東の開発事業には2家の幕府役人が係わりました。1人は家康の時代、関東郡代伊奈忠治で、3代にわたって利根川の東遷と荒川の西遷を行いました。、もう1人は吉宗が紀州から連れてきた井沢弥惣兵衛です。

1725年、幕府から井沢弥惣兵衛に見沼溜井の干拓の検討が命じられ、利根川から水を引く用水路の計画が開始されました。利根川から江戸まで最短の運河となるとともに、利根川の豊富な水量で流域を満たし新田開拓をめざしました。この運河は見沼溜井の代わりという意味で見沼代用水と名付けられました。運河には途中他の川との交差するため下にくぐる伏越(ふせこし)と上で交差する懸渡井(かけとい)の技法が使われました。

見沼代用水は大宮に入って地形を上手に活かして台地の縁を西縁と東縁に分かれ流しました。見沼代用水はこのように大規模な工事に係わらず5ケ月で完成しました。工事の費用には幕府は2万両支出しましたが、周辺農家からの新田土地費用の収入は2100両でした。しかし新田開発によって5,000石の年貢米が新たに得られたのです。

見沼の通船事業は井沢弥惣兵衛の下で開発作業を行ってきて、通船事業を請願していた鈴木文平とその実兄で紀州藩郷士の高田茂右衛門に通船の権利が与えられ、通船権とともに神田花房町と通船堀のある八丁堤に通船屋敷を与えられ、船は大中38艘、小舟2艘で開始しました。航路は永代橋付近から元荒川の下をくぐる菖蒲の柴山伏越まで、荷は伏越を越えて利根川まで運ぶ場合もありました。代用水の航路は利根川から柴山伏越までは幅14mから29mと広く水量も豊富でした。
柴山伏越から上尾瓦葺までは幅20mでしたが、そこから東西2本に分かれますが、西縁に比べて東縁の方は13mと川幅が広く、こちらの方が通船は盛んでした。時間は柴山伏越から永代橋まで13時間かかったようです。下りは船頭2人で操りますが、上りは船には竿で舵をとる船頭に、用水沿いの道を船に綱で引く2人以上の人夫が必要でした。
江戸まで運ぶものは廻米の他穀物、野菜、薪炭が主で、両国柳橋に運び、帰りの上り船には肥料、塩、魚類、乾物、雑貨、工事用資材を運搬しました。
この見沼通船は明治、大正も続けられ、昭和6年に廃止になりました。

水田は代用水から給水し排水は、中心を流れる芝川へ

           芝川の流れ

川口市内を大河として流れる芝川は水源のない川で上尾付近から自然発生しますが、代用水からの排水によって幅広い川に変わります。江戸時代は東浦和に堤を作り堰き止められた東西見沼代用水は芝川としてまとめ荒川(隅田川)に合流し江戸まで舟運を行いました。現在は荒川合流点に水門があり、荒川増水の場合は荒川の水を逆流させて東京の水害を食い止めるのではと想います。何年か一度の埼玉南部が大雨の時は一時的に見沼田んぼの一部は冠水します。先日越谷市内が床下浸水に襲われた大雨では、数年ぶりに我が家の家庭菜園も数時間冠水しました。多分広大な見沼田んぼは東京の遊水地の役割をも果たしているのでしょう。

見沼の干拓、江戸時代以来の加田屋新田

                  見沼田んぼ加田屋新田

今でも加田屋新田の美田が残っています。

見沼の水の歴史の象徴、氷川女体神社

武蔵一宮氷川女体神社は大宮の氷川神社と共に延喜式の明神大社ですが、出雲の神スサノヲを祀っています。氷川は出雲の斐伊川の名を採っているといわれ、所在地は三室ですが、三室は三諸のことで神が坐す地の事です。奈良の三輪山も三諸山とも呼ばれています。
女体神社がいつから祀られたのか、それは謎ですが、女体神社の位置が縄文海進時東の海の畔にあり、初日が素晴らしいことから、旭日を信仰していた初期の海人族が黒潮に乗って、東の先端を目指し北上し奥東京湾の畔の日の出の美しい場所に神を祀ったのだと勝手に想像しています。やがて縄文の海退期に入り、海が遠ざかって行ったため、更に日本列島の真東の旭日の美しい地、香取、そして鹿島に移り、そこで神を祀ったとも荒唐無稽な空想も楽しんでいます。

                         初日前の武蔵一宮氷川女体神社

武蔵一宮氷川女体神社です。拝殿にも堂々と武蔵一宮の扁額が掲げられています。まだ初日前から多くの参拝客が訪れています。私は夜明け前ヘッドランプを点灯して辿り着きました。初日が登る前の朝日が鳥居の扁額を照らしています。

黒潮洗う熊野の浜です。

あいにく天気が悪くホテルの部屋から日の出が見られませんでした。

                        20年11月熊野灘の日の出前の風景

中世、熊野那智の浜には浄土を目指す補陀落山寺の僧による補陀落渡海が行われていました。外から密封された小船に行者が30日分の食料と水を備え、浄土への死の航海を目指し、渡海記録では20数人にのぼりました。
カークダグラスの映画ヴァイキングでは、バイキングの首長は陸に墓を作らず、火を点けた舟で海に送りました。多分この風習は我が国に定住した初期の海人族にもあったのでしょう。熊野の補陀落渡海は昔の海人族の伝説が伝わって、西の浄土でなく東の海に向かって行ったのでしょうか。

初期の海人族については陸に痕跡を残さなかったため、謎だらけです。ただ一つ痕跡を残しました。それは神津島産の黒曜石が、伊豆を始め関東各地で発見されています。縄文時代海人族が黒潮を横切って、どうやってあるいはどのような舟で神津島産の黒曜石を運んだのか謎に満ちています。おそらく女体神社の海人族も参加していたのかも知れませんし、参加というより主宰していたのかも知れないのです。荒唐無稽な空想の一例です。

女体神社付近は隠れた初日の名所

                            見沼大橋で初日を待つ人たち

氷川女体神社の近くの見沼大橋は初日の隠れた名所です。また見沼大橋だけでなく、ここから芝川の北かかっている橋は、初日にはたくさんの人が初日を待っています。見沼大橋も幾重にも人が重なります。昔は多くは無かったのですが、近年口コミで広がり特に若い人たちや中学生、高校生が目立ちます。

旭日が好きな日本人

                      見沼大橋からの初日

私は山でご来光は気にしたことがありませんが、多くの登山者はご来光を好みます。夏の富士登山はご来光が目的です。なぜ私たち日本人が旭日を好むのか、それは黒潮に乗って旭日に導かれるごとく日本列島にやってきた海人族の遠い記憶がDNAに刻まれているのかも知れません。
神社の成り立ちは弥生時代、水田耕作の水源地の山に神を祀った神社が多いですが、想像ですが、旭日を祀った神社もあると想います。その神社はルーツは弥生時代以前の古社のような気がします。
4月に岡山の備前一宮吉備津彦神社を訪れましたが、神社は奥宮の水源の山の麓に鎮座し、社は真東に向けて建てられていますが、江戸時代は朝日の宮と呼ばれていたそうです。

             初日後の氷川女体神社

初日を拝んだ人々は、その足で氷川女体神社に初詣を行いとても賑わいます。この流れは元旦いっぱい続きます。

                             見沼氷川公園の文部省唱歌「案山子」の碑

女体神社の隣の見沼氷川公園には武笠三の銅像があります。女体神社の宮司の息子で旧制浦和中学の出身で東京帝大卒業し、旧制7高(鹿児島)の教授となり、その後文部省唱歌の編纂官になりましたが、名を伏せて唱歌の作詞も行いました。代表作案山子の碑です。他に年寄り世代だったら誰でも知っている雪やコンコンの「雪」「日の丸の旗」を作詞しました。

小学生時代皆で良く歌いましたが、どこか遠い田舎の情景を詠っているとおもっていましたが、地元の歌だとは知りませんでした。